tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

「既存マイノリティ運動に支えられた欲望と権力」の、新たな分析手法を探して

 

 

正解は明日(今日?)らしいので待ち遠しいですが、2つの問題とも、「女性」や「自然」を錦の御旗化(偏向した概念化)した、古典的な左翼運動の手段だということです。

 

偏向した概念化は現在、別名ポリティカルコレクトネスとして世界を席巻しています。それはインターナショナルな左翼運動と結びつき、未だ社会主義を名乗る巨大国家とも結びつきます。

 

それが前世紀のインターナショナル運動と異なる点は、いわゆるグローバル主義(哲学的には「帝国」byネグリ+ハート←あの帝国主義ではない)と結びついていることですね。

 

グローバル企業や国際組織等の連合体(帝国)と、国際的左翼運動(政党や政治組織含む)が、冷戦崩壊後に時間をかけて結びついてきたのが、今日の人間社会の一つのあり方でしょう。

 

 ※

 

日本ではそこに「フェミニズム」がどうやら加わっているようです。

 

この、従来のマイノリティ運動は形骸化しているものの、加害者の中心である50代以上の男性が存命のため、そしてそれは被害者の女性たちも被害者マイノリティとして発信できることを示すため、一定の発言力を獲得しています。

 

戦後はそこに予算(利権)も絡み、フェミニズムで食べていくことが可能になりました(女性センター職員等)。

 

「声をあげる当事者」は同時に「サバルタン」を産みます(ex.子ども)。「声をあげるマイノリティ代表者」が、「語ることのできないサバルタン」をつくるんですね(その子どもたちに権利を与えるために「共同親権」が必要)。

 

 ※

 

このようにして、国際左翼運動とグローバリズムと女性や人種等の既存マイノリティ運動が合体して強力なムーブメントを形成したのが21世紀の地球の姿です。

 

この強力なムーブメントには巨大なオカネ(予算や利益)も併発するため、なんというか、某国際食品企業の代表的な宣伝コピーである、「やめられないとまらない」状態になっています。

 

だから日本のネットメディアを賑わせる著名な活動家たち(一般化された現象のため、あえてこの2人の女性とは僕は言いませんね)に共通する言葉は、「やめられないとまらない、(国際的でおいしい)マイノリティ運動」になるのかなあ。

 

ここでは言及する余裕がないため別に譲りますが、この国際的暴走状態(やめられないとまらない)を支えるものは、もちろん「欲望」です。この欲望は、

 

「権力」

 

と表裏でしょうね。

 

つまり、規律権力や監視権力等のフーコー的権力分析ではない、「既存マイノリティ運動に支えられた欲望と権力」の、新たな分析手法も求められていると僕は思います。

パッションと、 パレーシアと、 怨霊と、 愛〜『光る君へ』第12回

僕は、Amazon CMと、映画『火口のふたり』の瀧内公美が大好きだ。その憂い、その正直さ、その自然体の身体。『火口』では共演の柄本佑とがっぷりよつで演じていた。

 

今日の瀧内も、出演時間の短さのわりに、光っていた。けれどもいつもの微笑ましい存在感というよりは、源明子という役柄どおり、どちらかというと情念と復讐のくらやみから言葉を投げかける人だった。

 

ますます平安トレンディドラマ化し毎週見逃せない『光る君へ』、これだけまひろと道長の情熱が潜在化し長期化の様相を見せると、まひろと将来の夫である佐々木蔵之介の間の子どもの本当の父親が、巷で噂されるように、佐々木ではない気もする。

 

 ※

 

ところで瀧内の源明子も、藤原道長柄本佑との間に何人もの子を産む。だがいずれも、黒木華の源倫子が産む子たちよりは光が当たらない。

 

前述のように、まひろ/紫式部吉高由里子のほうは、年の離れた夫の藤原宣孝佐々木蔵之介が結婚後数年で死に、寡婦となる(子は1人)。

 

今回の道長との破局後、紫式部のパッションは潜在化するだろう(やがて佐々木蔵之介演じる藤原宣孝と結婚)。

 

前述のように、佐々木蔵之介は結婚後すぐに死ぬ。そして紫式部のパッションはやがて『源氏物語』へと向かう(藤原道長柄本佑の依頼)。

 

このように、人々の想いと歴史と連なりが、何層にも積み重なる。

 

今年のこの珍しい平安トレンディドラマは、外国の侵略のない比較的平和な1,000年前の日本を舞台にしながら、長い長い時間に渡って当時の人々や「怨霊」たちが抱き続けた(没落高級貴族の瀧内の一族も恨みを抱く)、

 

パッション(情熱)と、
パレーシア(まごころ)と、
怨霊a ghost of revengeと、
愛love 、

 

の話なのだとわかってきた😀

 

Amazon CMより、滝内久美のほほえみ

 

「日本の10代」を支援する際の順番と連携、そして必要ポイントが5つある

◾️5つの関連性

 

今年度ドーナツトークが主催/協力した(する)5つのイベントには強い関連性があります。

 

それを示すため、5イベントを一つのJPEGにまとめてみました(一枚いちまいのチラシの細かい文字は、僕のfacebookタイムラインを遡ってご参照くださいね)。

 

これら5つのイベントの関連性には意味があります。

 

それは、「日本の10代」を支援する際の順番と連携、そして必要ポイントが5つあるということを示しています。

 

時系列に並べると、

 

①中学生支援に求められるもの(中学生サードプレイス)


②中学生支援と高校生支援をつなぐもの(自立アシスト事業)


③中高生支援のキモ〜「居場所(と発達障害愛着障害)」


④高校生支援(ex.居場所カフェ)と10代支援の低流に流れる最大ポイント〜トラウマインフォームドケア


⑤アフター高校生支援〜「スモールノット」

 

となります。

 

ちなみに3/21に開催する「中学生サードプレイス4」は、この5段階のうちのいちばん最初のステップに相当します。

 

そして、このファーストステップを延々探し求めているのが、日本の10代支援の悲劇ですね(義務教育の不登校30万人へ肥大)。

 

その答えは、それぞれの中学校が、それぞれの校長と教員ににできる範囲で「サードプレイス」を模索することでは(NPOへの依頼含)ないかと僕は思っています。

 

◾️現場の個別的問題を「職人技として」変化させる

 

実はこれまで、5つのイベントをそれほどつないで意識したことがなかったのですが、こうしてつないでみると、これらを丁寧に構築していけば、結果として10代の教育支援システムの構築につながるんじゃないかと思った次第です。

 

また本来であれば、こうした大きな視点は国の教育権力が持つはずだと思いますが、我が国の場合、これがなぜか分断されています。

 

大きなシステムを一から構築することは日本人の最も苦手なジャンルですが、現場の個別的問題を「職人技として」変化させるのは国民性に合致していると思います。

 

その意味で、こうした5つのステージ(厳密には④の高校生支援はさらなる細分化が必要でしょうが)をブラッシュアップさせることが、日本の10代への強いサポートになるのだと、最近の僕は考えるようになりました😀

写真上左より、中学生サードプレイス、中高連携支援、「居場所」、トラウマインフォームドケア、アフター高校生(スモールノット)

 

 

「光る君たち」で成り立つ国の、民主主義

このポストに見られるように、まさにいま求められるのは「古い政治」からの脱却なのだが、ややこしいのは、大河ドラマ『光る君へ』にも見られるような宮廷政治というか談合政治が我が国の「まつりごと」の中核にあるということだ。

 

このまつりごとエッセンスはあらゆる時代と組織(現代の株式会社やNPOにも)に見られるもので、それは近代ヨーロッパがこの200年でつくりあげたシステムではなかなか崩壊しない。

 

けれども幕末明治以降の非植民地化の末たどり着いたのが世界平均基準の近代法規なのだから、いまさら平安エートスは通用しない。

 

近代法規の洗練化を模索しつつ、我が国は「光る君たち」で成り立つ国家だということを、近代システムの中にいる人たちが自覚する必要がある。

 

それで初めて、「戦後」政治的なものから少しずつ抜けていけるんでしょうね。

 

 

水底にある「人権」

歌詞は冒頭の2行だけGoogle検索からのスクショ。これだけでもルーリードが描く世界が浮かび上がる。この50年以上前の歌にはもちろんうわっぺらのポリコレはなく、キャンディの側に立ち続けるルーリードの代弁の覚悟のみが伝わる。

 

当時もキャンディやルーは生きづらかっただろうが、今のようなポリコレ的タテマエのない、生きづらさと孤独だった。ある意味、魂の孤独。

 

このルーとキャンディの孤独は現代にも流れていて、ポリコレ的な分厚い上澄みをすくいとって水底の言葉を探すと、そこには50年前も現代も同じ、当事者たちの言葉が沈む。

 

その言葉たちを見つけてすくい出すのであれば、それを紋切り的に「人権」と呼んでもいいと、この頃の僕は思う。

 

いやむしろ、その時にこそ、人権/human rights /Droits de l'hommeを使い、ポリコレが覆い隠すキャンディセッズを見つめたい。

 

youtu.be

明治維新(被植民地化脱却)と敗戦(独立放棄)に続く、最新の難局〜少子化による「地方」の消滅

◾️1億人到達!」と世間が騒いでいたあの頃

 

最新の出生数は72万6000人、当たり前だけど過去最少。

去年の「出生数」全国72万6000人で過去最少か 日本総研 | NHK | 少子化

 

その前年度が75万人。最新出生数は3万人減って72万人。記事ではこの急減をコロナ禍による婚姻数の減少に関連づけるが、コロナ前からこの勢いで減ってはいた。来年はもしかして70万人を切るかもしれない。

 

いま後期高齢者団塊世代が260万人、団塊ジュニアが200万人強、僕が属する「新人類/バブル」世代が180万人程度。団塊ジュニアの1/3、団塊の1/4にまで減った。

 

厚労省総務省予想では、この減少トレンドが継続すると、出生数は25年後の2050年過ぎには50万人強となり、人口は9,000万人台へと突入するのだそうだ。

 

思い起こすと、僕が小学生の頃(70年代前半)、「1億人到達!」と世間が騒いでいたから、あれから50年たって元に戻ることになるなる。

 

けれどもあの頃はどこに行っても子どもばかりで、街がうるさかった。逆に老人は少なく、ひっそりと生きていた。

 

◾️明治維新から150年、原爆投下+敗戦(独立放棄)+再独立から70年、次の難局

 

予想では現状を維持できるのは東京だけだという。地方都市は一学年50〜70万人の若者/現役世代では維持できないだろう。僕が将来の若者だとしたら、18才になり四国を出て選ぶ大学は、京都/大阪ではなく(とにかく僕は京都と大阪が好きだった)、東京を選ぶと思う。

 

フランスやイギリスは日本より人口が少ない割に豊かだとよく言われるが、あれら植民地主義列強国は繁栄後の時間が長く「人口維持慣れ」している(現実は100年で1,000万人増加)。そして意外にヨーロッパは農業国が多く、日本よりは「自前で」食べる割合が高い。

 

明治維新から150年、原爆投下+敗戦(独立放棄)+再独立から70年、明らかにいま日本は新たな局面に入っている。敗戦(1945)や被植民地化脱却(1868)といった明確な難局ではなく、現代の難局の核心がなかなか見えなかったが、どうやら「少子化による人口の分散と地方の消滅」がそれのようだ。

 

政権は未だに少子化対策云々と言うが、この30年トライし続けていてこの現状だから、明らかに失敗している。不登校30万人と同じで、権力は自らの政策の失敗を認めることはできない(それが「権力」の定義)。

 

◾️ビジョンを示す責任responsabilité

 

80年後の2,100年代には人口は4,000万人程度になり、今のイギリスよりもはるかに「小さい」国になる。その頃は今生まれている赤ちゃんたちが老人になっている。

 

人生の先達である現在の老人たち(含僕)は、この大難局に対して、せめて戦略めいたビジョンを示す責任responsabilitéがある。だが僕も60才が見えて思うことは、身体が徐々に弱り(メンタルは逆にイライラしたり)、ついつい責任放棄してしまいそうになることだ。

 

そんな衝動は我慢して、せめて自分がずっと関わってきた「教育」や「思春期の乗り越え」等の問題群に明確に答えを出していきたい。

 

「残された時間」が見えないというのも、また人生の醍醐味✌️

 

去年の「出生数」全国72万6000人で過去最少か 日本総研 | NHK | 少子化

 

今日降る雪の、いやしけ吉事〜万葉集のラスト短歌

【新しき、年の初めの、初春の、今日降る雪の、いやしけ吉事】

 

万葉集のラスト(4516首目!)は、編者である大友家持によるお正月の平和なうた。意味は、「新しい年の初めの初春の、今日降る雪のように、良いことがもっとありますように」とされている。

 

ちなみにタイトルにもしたこの短歌の下の句の原文(万葉仮名)は、

 

「家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰」

 

になります。この強引さがたまらない。

 

万葉集のあと、日本の上代文学は終わり、(現在見られる)かなと短歌(長歌は激減)で構成される古今和歌集の時代が始まる(この下の句に見られるように、万葉集は「当て漢字」の万葉仮名)。

 

万葉集のこのラスト和歌は、原文は万葉仮名だが、すでにノリはかな文学。万葉集の130年をかけて日本の五七調は完成され、紋切り調の短歌が我々の思考と文学と生活の基盤をつくった😀

 

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