tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

日本の「自虐性」が「子どもの連れ去り」をつくったのか

 

■相変わらずの上野千鶴子

 

相変わらず売れっ子言論人の上野千鶴子氏がこんな対談を行なっている。

 

ここで上野氏はこのように述べる。

 

上野:私は“許せない”なんて恐ろしいことは言えませんが、子供を持つことに“耐えられない”と表現した方がよいかもしれません(笑い)。

 

 記事内容はいつもの上野節で、両親への嫌悪他がいつも通り述べられる。それは僕が以前「昭和フェミニズム/私怨フェミニズム」と称した、この40年続いてきた思春期と怨恨に包まれた語りそのものだ。

 

■オンナの味方ではなく異星人

 

その「私怨」そのものには僕は興味がなくなったのでどうでもいいが、問題は、いまだに上野氏がメディアに持て囃されているという点である。

 

上野氏の語りは一部に熱烈な支持層を持つが、その「思春期性」「ルサンチマン性」により、広がりを持たない。

 

「女」のつらさは、上野氏的「紋切り・思春期ルサンチマン」では括れない複雑さを持つ。

 

そもそも、「子どもを持つことに耐えられない」と語る70代の老いた女性フェミニストの語りは、子どもを持つことに憧れながら不妊等で持てなかった女性、子どもを持つことはできたものの児童虐待を繰り返した女性、「離婚後強制単独親権」の現状のシステム下において子どもを「拉致」された女性等、現代日本社会に生活するさまざまな「オンナ」たちの苦しみをまったく包摂しない。

 

言い換えると、そうした苦しみの中(子どもを持てなかった/虐待してしまった/子どもを拉致された)オンナたちからすると、70代になり自分は都心のタワマンに優雅に過ごしメディアにも度々登場するくせに自分たちの苦しみを理解せず思春期の女子的語りを延々繰り返す上野氏は、オンナの味方どころか、M78星雲級に遠いところに住む異星人だ。

 

■オトコたちの自死

 

けれども日本社会(メディア)は上野氏を支持し続ける。40年間、その昭和フェミニズム/私怨フェミニズムを拡散し続ける。

 

言い換えると、上野氏が中学生の女子のようにピュアに訴え続ける「オトコ社会のダメさ」を愚直に受け止め、その指摘に対して反省し続ける。

 

そう、その「反省」は、事実を大きく超えて過剰なのだ。

 

もちろん日本社会はいまだにオジサン社会であり、オトコ社会ではある。だがその一方で、オトコたちは自死も選んでいる。

https://www.npa.go.jp/safetylife/seianki/jisatsu/R03/R02_jisatuno_joukyou.pdf

 

○令和2年の自殺者数は21,081人となり、対前年比912人(約4.5%)増。
○男女別にみると、男性は11年連続の減少、女性は2年ぶりの増加となっている。また、男性の自殺者数は、女性の約2.0倍となっ ている。

 

男性の自死数は減少しているものの、いまだに女性の2倍自殺している。上野氏の昭和/思春期/ルサンチマン/私怨フェミニズムが単純に指摘するような権力構造でもない。

 

事実として、日本のオトコたちの日常はつらく、女たちの倍、自死を選択している。

 

■最大の当事者である「子ども」が潜在化させられる

 

令和の社会は、昭和フェミニズムが指弾するような「男性=加害、女性=被害」のような単純な構図ではなくなった。

 

そうした複雑な構図を指摘してこそのアカデミズムなのだが、昭和フェミニズムは上野氏のように事態を簡略化する。

 

その結果、夫婦関係のトラブルはDVに簡略化され、夫婦間の複雑なコミュニケーションの悪化から始まる不仲は看過される。最近の法務省調査でもそれは明らかになっいる(下ツイートのリンク先を参照)。

 

 

事実としては、夫婦間のトラブルは複雑であり、その結果、最大の当事者である「子ども」が潜在化させられている。

 

そうした事実に反して、上野氏的簡略された指弾/糾弾がいまだにメインストリームにある。

 

■弱い生真面目さは「自虐性」

 

この原因を僕は、我々日本社会に潜む生真面目さ、言い換えると指弾を受けて単純に自己反省してしまうメンタリティにあると思い始めた。

 

そのメンタリティは、生真面目で神経質な社会にしか生じないのかもしれないが、「罪を指摘されるととにかく真面目に反省する」我が国民性に起因すると思う。

 

罪を指摘されると、とにかく生真面目に受け止める。そのメンタリティは、弱い。

 

その弱い生真面目さは、いわゆる、

 

「自虐性」

 

と言い換えてもいいのかもしれない。

 

近代史でよく指摘される日本の「自虐性」は、何も戦後75年の歴史観だけにとどまらず、当たり前だが社会全般に蔓延している。その蔓延さこそが、その社会の特徴だとも言える。

 

オトコがとにかく悪い。その、悪いオトコはオトコ全員がオンナを差別しているという昭和ルサンチマンの指摘に対して、従順になる。

 

社会がもつ自虐性(自身の加害性に対する指摘に従順)が、社会そのものの複雑性(不妊児童虐待・実子拉致等の理不尽さ)を看過する。

 

また、上野氏的思春期フェミニズムの思春期らしい理不尽な指摘も生真面目に受け止める。その昭和フェミニズムの指摘に従順になるあまり、昭和フェミニズムが支持する「単独親権」「実子拉致」「(虚偽)DV支援措置」などの実態を許してしまった。

 

たぶん我々の社会は生真面目すぎて、単純な批判や糾弾にあまりに弱いのだ。

 

 

 

 

 

 

 

迷彩と月光のオーバーオール  (短編小説4)

 

 

 

 

 

 

弱いものが弱いものを互いに助け合う〜「劣化する支援」を超えて

■突然訪れるそれ


「誰かと誰かが出会いコミュニケーションすることで、何か化学反応が起こる」的な瞬間は、不意に訪れる。
 
これは単なる「支援者がクライエントを支援する」「ピアサポートする」といった紋切り的コミュニケーションではない、何か違う次元の話だ。
 
その瞬間は、受け入れる側の雰囲気、受け入れてもらう側の態度と気分が重ね合い、いつの間にか深く語り合うことになる。

■弱さを受け入れないことが「劣化」

人間は当たり前だが弱い。

ブルーハーツの歌を聞くまでもなく(「人にやさしく」)、もろく弱くけれども実はどこか強く、もろくてそれでも少し強い、全体としては「弱い」としか言えない存在が人間である。

この弱さを受け入れてない人々は「劣化」している。

我々にとって有効な「支援」とは何か、いまある以上の「コミュニケーション」とは何だろう。

その、「次の時代のコミュニケーション」のキーワードこそが「弱さ」なのではないかと、僕はよく思う。

弱さが弱さのそばにいる、弱さ同士で話をする、弱さ同士で楽器を奏で歌をうたう。

その「弱さ」たちは、患者やクライエントといった、支援・被支援関係に見られる権力関係ではない。

人そのものがもつ性質の根幹である「弱さ」を引き受けた人々のコミュニケーションだ。

■「劣化する支援」を超えて

つまり、「劣化する支援」の次の次元とは、
 
「弱さ」の受け入れ
 
なのかもしれない。

それは、専門家がクライエントを権力関係のなかで「支援」するのでもなく、人工的に形成されたグループの中で「当事者語り」をするのでもなく、すべての弱い者たちが集まりその弱さについてユーモアも絡めながら同じ時をすごす、そんなコミュニケーションの時間。

「劣化する支援」を突き詰めたところには、「弱さによる支え合い」という新しいコミュニケーションが現れた。僕の人生の中でも、最大の収穫のひとつ。
 

「おとなNPO」〜劣化を越える強度

 

■その前に、「おしゃれNPO」とは


「劣化したNPO」という概念の対極として「おとなNPO」があるのでは、と先日僕は思いついた。
 
何気なくそれをFacebookタイムラインにメモってみたのだが、予想外にその日中に何人かの方から質問があった。

劣化した「おしゃれNPO」を超えるものとして「おとなNPO」があるのなら、それはどういうものなんですか? と。

僕の仕事は具体像を構築することではなく(NPO代表としては一応それらしいことはするが)、どちらかというとコンセプト、つまり「概念」を提案することだと自覚しているので、この「おとなNPO」という概念の強度をあげていくことが重要だと思っている。

おとなNPOは、まずは「おしゃれNPO」の対極にある。
 
「おしゃれNPO」とは、
 
1.ミッションが紋切り型、
2.リーダーに基礎知識が少ない、が、プライドは高い、
3.リーダーは社会正義を意識する大学生を主な労働者予備軍としてイメージしている、
4.大学生や若手スタッフはそんなリーダーに憧れている、
5.リーダーも大学生もジェンダーバイアスをもつあるいは利用する(若手女性スタッフを法人イメージとして積極登用する)
6.リーダーは紋切り主義アメリカ的経営論に浸かり、経営規模も小規模事業所の最大規模あるいは中小企業の小さめの規模である(50〜100人)、
7.そのため、論者によっては「ソーシャルベンチャー」と括るほうがわかりやすいと指摘する、
8.アドボカシーを権力に擦り寄ることだと認識している(弱者の代弁とは認識していない)、
9.リーダーもスタッフも主として中流階層出身である、あるいは下流層の「上部」出身である、
10.リーダーは下流層上部あるいは中流層での努力体験が考え方の根拠となっているため、下流層下部(貧困コア層)への想像力が欠けがちになる、
11.貧困支援をその他支援(たとえば災害支援)と混同してしまい、富裕エリアで貧困支援することに戸惑いがない、
12.リーダーもスタッフも基本的に「善意の人々」である、上の考えは無意識的レベルでの行いだ、
13.これは特定のNPOを指さず、21世紀前半の日本でのソーシャルセクター業界での「一般問題」となっている、
 
等々で表すことができるだろう。細かい論拠は当ブログのアーカイブを辿っていただければ、項目によっては詳述している。
 
■「おとなNPO」の強度を上げる〜ブラウン運動のように
 
そのようなおしゃれNPOこそがまさに「劣化する支援」のコアなのであるが、同時にここを乗り越えることがNPO2.0にもつながっていくだろう。
 
それを集約したコンセプトが「おとなNPO」だというわけだが、今のところは、概念といっても、下のような個人的ふるまいとしてしか僕には表現できない。
 
組織規模としては小さい(常勤スタッフ3名以内)ものをイメージするので、個人的ふるまいはスタッフ全員に共通することが望ましいが、少なくともリーダーは下のようであってほしい。

1.自分の弱さと快楽を知っている、
2.社会の最も潜在的な位置にいる人々に配慮しようとしている、
3. 社会が残酷なことを知っている、
4.それらを裏付ける理論と教養は幅広くもつ、
5.孤独を好みつつ他者に囲まれているものの、他者に甘えない、
6.プライドが低い、
7.チャラチャラしつつも笑いに包まれている、
8.ポリティカル・コレクトネスが教条的にならないよう、自分を常に監視する、
9.ミッションが具体的で明確、
10.マイノリティ当事者もスタッフに含まれる(マイノリティとマジョリティの境界が曖昧)、
11.差別したくない、しない、
 
これらはまだ、個人のふるまいや組織としての最低条件内にあるものばかりだ。ここから強度を上げていくことがポイントとなる。
 
組織規模としては上述の通り常勤3名まで、非常勤入れても10名までのサイズとなる。当然売上規模も小規模事業体コア(1〜2,000万円)レベルだ。
 
が、事業によっては積極的に他組織と連携していく。
 
それは従来のNPOたちがいう「協働」的な甘くはありながらもどこか排他的(おしゃれNPOを選別する)ものではなく、気体のブラウン運動のように衝突したり離れたりしながら、外から見るとまるで「群れ」のような動きをしつつ、結果としてそれぞれのミッションが数年単位で前に進む動きだ。
 
組織間も「頭部」はつくらず、「根」が絡まるようにしてそれぞれの要素が出たり隠れたりする。
 
組織内にリーダーは存在してしまうものの、リーダーは上の1〜11を貫徹しようとしているため、求心力は低い。が、根が絡むようにして組織自体はいつの間にか強くなる。
 
組織内の意志のすり合わせは、会議はほぼ行なわず、Facebookメッセンジャー的ツールを細かく組み合わせて細かいズレは捨象する。人の弱さと快楽が時間の流れの中でそのズレを埋め合わせると信じる。
 
意外に、別の文脈で思考してきた、あの「変なおとな」もここに入れ込んでもいいのかもしれない。変なおとなの集合体が、おとなNPOになると言ってもいいのかもしれない。
 
 
※2018.3月Google記事より修正、改題

 

若者支援には「複合的専門性Complex expertise」が必要〜サポステの刷新か、新しい社会資源を

■最初の頃のサポステは魅力的だった

 

いまから10年以上前、できたばかりの地域若者サポートステーションは魅力的な社会資源だった。

 

そのサービスは、僕が代表を努めていた「ひきこもり支援NPO」のサービス内容とも重なり、ゆっくりと丁寧に若者たちに寄り添い支援してくれるそのあり方は、我々「アウトリーチひきこもり支援NPO(長いひきこもり生活から抜け若者がまずやってくる場所)」の次のステップとして十分機能していた。

 

次のステップとは、なんとか外出できるようになった若者(発達障害精神障害ももつ)が安心して通え、時間をかけてスタッフ(若者にとっては最も苦手な「他人」代表でもある)と交流し、「社会参加」のイメージをゆっくりと形成していく場、だ。

 

■一生の付き合い

 

時間をかけて人と交流するなかで、発達障害支援や精神障害支援の始まりが現れる。

 

発達障害支援が必要だと判断された場合、いきなり医療機関を訪ねるのではなく、「示唆 サジェッション」の段階が必要である。

 

それは簡単ではなく、まずは親へのゆるやかな説明の段階があるが、ここで多くの親は衝撃を受け、嘆く(泣く)。その感情を共感的カウンセリングを行なう中で受け止め、ゆっくりと受容していただく。

 

そのなかで、親自身の発達凸凹に気づくときも多い。その後、子どもへの時間をかけたサジェッションがつづき、ようやく発達障害支援センター等の専門機関への紹介となる。このサジェッションの期間は半年かかることも普通だ。

 

また精神障害についても、慎重に見極め、寄り添ったあと、心療内科に紹介していく(精神障害の場合はすでに医療機関につながっている当事者も多い)。

 

統合失調症の見極めと医療機関への誘導には数年かかることも珍しくはない。双極性感情障害についても、その当人にとっての深刻さ(しんどさ・苦しさ)について親に理解してもらうことも時間がかかる。単なる鬱との違いについても説明が難しい。

 

PTSD支援では、数年単位の寄り添いが必要であり、理解ある専門医との出会いが不可欠になる。BPD(境界性人格障害)は発達障害と重なることが多いが、長く地道に支えてくれる支援者(これはNPOスタッフに適任)との出会いも不可欠になる。

 

虐待サバイバーの場合は、発達障害愛着障害精神障害と知的障害と境界性人格障害等が複雑に絡み合っていることが多い。これらの結果、「人を信じることができない」当事者たちに対して、時間をかけて心を許してもらう。

 

僕はそうした若者の何人かは、一生の付き合いだと思っていつもその若者たちのことをひっそり思っている(かといってディープな支援は行なわない。「ずっと田中さんが見守ってくれている」と本人たちが思うのが重要)。

 

そんなつきあいが、生活保護とは別の意味で、結局「最後のセーフティネット」になっていく(そういえば貧困支援にふれるのを忘れていた。生活保護へとつなげる場合、僕のような熟年男性支援者が付き添っていくと、受付窓口が優しくなる傾向がある)。

 

■他人への信頼は、反復と、成功体験と、プチ失敗体験などから

 

「田中さん」だけではなく、「ドーナツトークのスタッフ」あるいは「ドーナツのまわりの優しい専門家の先生たち」というふうに、当事者にとって支援者の輪が広がってくれたら嬉しい。フロイトではないが「終わりなき」支援を行なう際は、皮肉なことに、これを検討したフロイトのように一人で行なうほうが危険だ。

 

アウトリーチの段階は上のような「障害の示唆」は一部であり、そのメインは「他人との信頼関係の復活」でもある。

 

それを、カウンセラーとの柔らかい会話や、NPO内での緩やかだが緻密に計画されたイベント(調理等)のなかで、「プチトラブル」も体験していく中で獲得する。

 

他人への信頼は、時間をかけた反復と、そのなかでの成功体験と、またプチ失敗体験などが複合的に重なって形成される。そうした体験を通じて「障害の受容」もなされていく。

 

■「就労」は社会参加の一部

 

次のステップに「社会参加」があり、「就労」はその体験の一部に過ぎない。

 

ほかに、「一人暮らし(親との別居)」や「恋愛」などがある(8050問題になると「親の看取り」が入る)。「働くこと」は、いくつかの社会参加のひとつに過ぎないし、働くことは普通はそれほど長くは続かず試行錯誤の反復となる。

 

就労も、スモールステップを踏む(短期バイトや単純労働から始まり、より複雑な仕事へとステップアップする)。また障害がある場合は、障害者枠の中での就労を目指す。その場合は専門の福祉機関へとつないでいく。そのなかで、障害者手帳の取得をアドバイスしていく。

 

人によっては、障害年金のゲットを親や本人と話し合う場合も多い。それら、手帳や年金の具体的手続きになると、これまで培ったネットワークが役に立ち、福祉の専門家のみなさんが大いに助けてくれる。

 

■サポステの位置づけの再考か、複合的専門性にふさわしい新しい社会資源の創設を

 

このように、「若者支援」といってもそこには様々な問題が横たわり、それらが複雑に絡み合う。まさに、「複合的 Complex」に問題は重なっている。

 

その複合性にはそれぞれの問題に関する専門性 expertiseが不可欠である。

 

たとえば現在のサポステが想定しているような「普通の就労支援」だけではむしろ危険だ。

 

そして、そうした「複合的専門性Complex expertise」にはカネがかかる。現在のサポステの入札で行なわれている「安売り合戦」ではサービスが劣化し事故も起こるだろう。

 

あるいは、そのあたりを鋭く読む多くの当事者若者が現在行なっているように、サポステの支援を受け続けることを当事者たちが諦める。その結果、問題が隠蔽され潜在化される(サバルタン化)。

 

フリーター予備軍だけでも10万人は存在するので、サポステと厚労省としては表面的にはそれなりの「結果」は出る。

 

だが、以上書いたように、現代の「若者支援」とは、すこぶる専門的だ。

 

それは、「複合的専門性Complex expertise」と言ってもいいと思う。サポステの位置づけの再考か、複合的専門性にふさわしい新しい社会資源の創設を願う。

 

オデッセイ (短編小説Ⅲ)

 

母のアキラと違って走るのが苦手だったカナタだが、50メートル走のスタートは好きだった。体育の先生は火薬臭い鉄砲を耳にくっつけて持ち上げ、片目を閉じていつも引き金をひいた。

カナタは両方の手と指を地面につけ、左足を前に、右足を後ろにして構えた。音楽も聴いていないのに、周辺はイヤホンで音が閉ざされたような空間になり、カナタは目を瞑りそうになる。

先生の指の先まで想像できる、その1秒の間に、その折れ曲がり力の入った指が動き、人差し指の腹に汗がにじみ、すべりおちそうな感じで引き金を押すその1秒をカナタは全身で受け止めた。

不思議なことにその指の感触と連動するように、足から腰にかけてエネルギーがみなぎりはじめる。両腕の筋肉にも何かが流れ始めるように感じる。ピストルの音と右足が前に出るのには自分だけがわかるズレはあるものの、その、パーンという音の軽さがカナタは好きだった。

あとは走るだけだが、本当に音がイヤホンから聞こえてくるような閉ざされた爆音だった。50メートルは直線なので、爆音は地面からと、目の前の空気から届いた。カナタ自身の呼吸音も爆音だったが、それは記憶に残らない。靴の音も爆音だが、それよりも上空で漂うトンビの翼の音のほうが耳に入ってくるような気がした。

走ってゴールし、少し地面にしゃがみ込み、クラスのみんなが座っている中に入り込むのだが、あの頃から5年たって思い出す今、走り、しゃがみ、息を整える間、わたしは誰かのことを思っていた。

それはたぶん友だちだったと思うが、今になってみると誰のことを思い出していのかはわからない。たぶん、体育座りしているクラスメートの中の誰かだった。その頃はいつもそうした人物たちの映像が紛れ込んでくることが多く、それらがカナタの世界の80%を占めていた。

5年前の私は50メートル走り、手を腰にあて、息を整えている。いまの私は、大学の大教室でぼんやりと講義を聞いている。そのふたつの光景をつなぐものは、

息、

かもしれない。1回の息は1秒もかからない。

 ※※※

私はこの夏、パリに行ってきた。そこに到達するまでの飛行機は、いま考えると50メートル走の超ロングバージョンだった。たしか12時間くらい飛行機に乗っていた。座席の目の前にある画面には、ずっとシベリアの景色が映し出されていた。隣に座っていた中学生のような男子は目を瞑ってイヤホンで音楽を聞いていた。

バイカル湖が見えた。たぶん、あのかたちはバイカル湖だと思う。カナタは、自分がバイカル湖に浮かぶことをイメージした。そのイメージはまたもや膨らんでいき、BGMがかかり始めた。それはスミスのミート・イズ・マーダーで、バイカル湖とミート・イズ・マーダーのあまりにもイメージの直結ぶりに、カナタはくすっと笑った。

いま思い出すと不思議なのだが、そのバイカル湖が8時間くらい見えていたような錯覚を抱いた。ということは、スミスのミート・イズ・マーダーも8時間リピートされていたということで、それは悪夢だった。隣の中学生はずっと目を閉じてイヤホンで音楽を聴いていた。

だからカナタは、そのバリへの飛行機が、長い長い50メートル走のように感じられたのだった。飛行機の音は大きい。映像はずっとバイカル湖。スミスとモリッシージョニー・マーはいつもの感じ。それがエンドレスで8時間続いた。

そんな時、母のアキラと違って、カナタはいつも湖に浮いていた。浮いているので、湖底に映像は移行せず、湖底の底に穴も空かず、もちろん空いた穴から次の世界にはつながらず、ということは、新しい言葉を見つけることができなかった。

そのかわりカナタは湖面にいつも浮き、青空や雨雲を見つめた。そこには暗くて太くて不気味な表象はなかったものの、トンビや雲やその背景の青い空や宇宙のような気配を感じることができた。

成層圏と宇宙の隙間をいつもカナタは想像し、目を閉じ湖に浮かんだ。成層圏では音があるようでなく、膨大な光の線が飛び散っており、湖に浮かぶカナタは危険な感じがした。たいへん短いギリシャ神話みたいなものがそこにあると、カナタはいつも思い込むことにしていた。

 ※※※

そんなことを、中学の時に父に言ってみた。父に言っても仕方ないのだけど、母のアキラにはなぜか言いにくかった。父は、

成層圏か、ふーむ」

と、シャーロック・ホームズのように顎に手をやってオウム返しをした。その姿を見るだけでカナタは笑ってしまい、いつものように始まる父のウンチクを適当に聞き流しながら、私はこんなお父さんが好きなんだと自覚した。

お父さんは、私が宇宙の話をするといつもしてしまうキューブリックの映画の冒頭シーンをまたもや延々と話し始めていた。お父さんとしゃべるということはそういうことだから、カナタもすっかりそのペースを楽しみ、冒頭の原始人の咆哮の意味についてお父さんが次に何を言うのかもわかった。ヨハン・シュトラウスだ。

美しく青きドナウに場面がいきなり変わって」

と父は語り、原始人が投げた骨とボーマン船長が乗る宇宙船の対比に浸る父は、まあ悪くないとカナタは思った。その、骨から宇宙船に変化する時間は、たぶん1秒もないのだと思う。それは息より短い。

骨がぐるぐるまわってカナタが見つめる湖面の上を遠く螺旋を描き、背景の雲は遠ざかり青空がだんだん白っぽくなって成層圏に近づくその瞬間、音楽がシュトラウスに変わる。映画の時間ではそれはトータル5秒ほどで、骨から宇宙船に変わるその瞬間は1秒を切っている。人間の呼吸で言うと、吐くのを止めるあの一瞬のような感じだ。

バイカル湖の湖面から戻ってきたその時のカナタは、思い出の中の中2ではなく、お父さんの語りもそこにはなく、大学の大教室の隅っこに座る一人の女性だった。

カナタは先輩のことを思い出してはいたが、彼も含む大きな雲に包まれている感じがした。私は14才の頃よりは少しはマシになっている。

そこでカナタは授業の途中だが席を立ち、教室を出た。そこから生協まで走る気満々になったが、やはり彼女はランナーキャラではなく、浮き輪キャラだった。浮き輪を抱えて湖に浮かび、先輩や父の話を聞いていたかった。父が指差すトンビを見て、そのBGMにミート・イズ・マーダーではなく、スミスの心に茨を持つ少年を聴いていたかった。

深く湖の底の穴に潜るのではなく、湖面に浮かんで青空を見上げるキャラ、その青空に話しかける女にカナタはなりたかった。

 ※※※

そういえばこの夏休みの旅行でパリのド・ゴール空港に飛行機が着地した時、隣の男子中学生がいきなりビニール袋に嘔吐したのだった。

12時間トイレにもいかず、音楽を聞き続けたそれは現実からの痛い贈与なのかもしれなかった。見知らぬ少年の背中をカナタはさすり、周辺の客や乗務員とともに少年を介抱した。少年は申し訳無さそうに何度も謝っていたが、カナタの気分は爽快だった。

すべては秒速で過ぎていく感じがして、長時間のバイカル湖の湖面も、やがて目にするエッフェル塔の夜間照明も、成層圏と宇宙をつなぐ神秘的な誘いも、カナタにとっては結局は1秒程度に感じられるのだった。

やっぱり私は、と彼女はパリに移動する電車の中でつぶやいた。やっぱり私は、

「湖面キャラでいいかな」

だが、パリまでの郊外列車の車内は微妙に緊張感がただよっており、残念ながらクスッと笑うことはできずに、小さな旅行カバンをカナタは抱きしめ、トランクを両膝で挟んでいた。

「感情体験」の場である家族に「解体」はない〜家族のアップグレード

■家族は居場所ではない

 

実は、「家族」は「居場所」ではない。

 

居場所とは、「サードプレイス」のことであり、それは「ファーストプレイス」である家族でもないし、「セカンドプレイス」である仕事(10代であれば「学校」)でもない。

 

居場所は、ファーストでもなくセカンドでもない、「サードプレイス」にある。サードプレイスとは居場所そのものでもある(オルデンバーグ『サードプレイス』みすず書房参照)。

 

具体的には、現在全国で60校ほど展開されている「校内居場所カフェ」がある。僕の法人でも2校ほど運営するそれは、高校というセカンドプレイスの中にあるサードプレイスであり、その気軽なアクセスのしやすさが生徒には格好の息抜きとなる。

 

■ファースト、セカンド、サードプレイス

 

仕事/学校というセカンドプレイスでは、若者や生徒は息抜きができない。かといってファーストプレイスという家庭でもそれは難しい。

 

普通は、家庭/家族こそが人々にとっての格好の息抜きの場であると想像するだろう。

 

現実は違う。家族とは、人間にとって最もトラブルが噴出する場であり、対立が起こる場であったりする。現実の殺人事件も、家庭が舞台になることは珍しくはない。

 

家族は決して息抜きができる場所でもなく、「ひとりになってゆったりできる場」でもない。

 

そうした息抜きの場は、サードプレイスなのだ。

 

高校内居場所カフェはそれに当たるが、ヨーロッパではカフェやバールなどがそれに当たる。日本では「街のお風呂屋さん=銭湯」が伝統的な居場所としてこれまで機能してきた。

 

ヨーロッパのカフェはまだまだ生き残っているだろうが、日本の銭湯はもはや絶滅寸前だ(車に乗って気合を入れて行く必要のあるスーパー銭湯はサードプレイスとしては弱すぎる)。サードプレイスが消滅寸前の日本の人間関係はギスギスし、人々は疲れている。

 

フェミニストの言う「家族の解体」はルサンチマン

 

校内居場所カフェを設置したり街の銭湯を復活させることは、人々のコミュニケーションを楽にさせることでもある。その意味で、高校に居場所カフェは増えてほしいし、街のお風呂屋さんにはなんとか生き残っていってほしい。

 

では、ファーストプレイスである「家族/家庭」の役割はトラブルの源泉だけに留まるのだろうか。

 

それは過激なフェミニストたちがいうように、「解体」することを求められているのだろうか。

 

そこには古い男権社会が残存し、女性たちは圧迫されているだろう。いっそのことそれを否定し解体するほうがスッキリするのかもしれない。

 

マルクス主義フェミニストやラディカルフェミニストたちはそう主張しているのだろう。女性差別の温床である「家族」は、いっそのこと「解体」したほうがスッキリする。それ(家族)を否定し、なかったものにする。

 

■感情が交差する場

 

だが、多くの人々はそうした「否定の行為(=解体)」は非現実的なものとして却下するだろう。

 

哲学的にはそうした解体は「否定」であり、まさにニーチェの忌み嫌ったルサンチマンだ。

 

自分が受け入れられないシステム(家族)を解体することでなかったものにする。そして、家族のない世界こそが「善」であると、価値を転覆する。こうした価値の転覆行為こそがルサンチマンである。

 

価値を転覆しそれをなかったものにし「解体」してしまう。それは最低の否定の行為だ。言葉では解体して勢いを得ているようでも、その価値操作こそが暗い暗い否定行為そのものである。

 

では、現在のトラブルの源泉である家族を、我々はどう捉えればいいのだろうか。

 

それは居場所=サードプレイスではない。それはまた経済的源泉=仕事=セカンドプレイスでもない。

 

それはあえていうと、

 

感情

 

が吹き荒ぶ場だ。あるいは、感情が凪いでいる場、感情がうねり立っている場、感情が殴り合っている場。

 

そう、家族とは何よりも、「感情」が交差する場だと僕は思う。そこで人は、人にとって大切な一つのあり方である感情を体験し学習する。

 

その感情の体験と学習の中で、時にぶつかり時に鬱となるだろうが、時に優しくなったり笑ったり泣いたりする。

 

■家族のアップグレード

 

そう、ひとが人に「なる」時、知識や技術(これらはセカンドプレイスで獲得)だけでは足りず、息抜きや休息(これらはサードプレイスで獲得)だけでも足りない。それだけでは、大人になれない。

 

ひとは、感情を知る・体験する・管理することによって成長し、大人になっていく。

 

その重要な体験を獲得する場が、家族である。

 

「感情体験」の場である家族には、フェミニストが言うような「解体」は現実には存在しない。解体ではなく、家族の変化をあえて言えば、

 

アップグレード

 

がそこにあるだろう。

解体するのではなく、家族成員それぞれの交差の経験により、その家族システムとシステムの成員たちが変化していき、質に変化が現れる。

 

その変化を言い換えるとアップグレードということであり、我々は家族をそのようにポジティブに捉えることで、それぞれの成員がさらに変化できると僕は思う。