tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

エグザイルは貧困の怒りを代弁しない

タイトル: エグザイルは貧困の怒りを代弁しない~NHK 女子高校生「相対的貧困」番組問題

公開日時: 2016-09-03 11:44:03
概要文: その結果、無難なエグザイルのことばは、アンダークラス若者の「気持ち」を無難な世界として閉じ 込める。現実の貧困アンダークラス若者はもっとセンシティブだったり暴力的だ。

本文:

 

■湯浅氏と藤田氏の解説


NHK の貧困女子高校生番組は反響を呼び、バッシングも擁護も含め、結局は「相対的貧困」について理解が進 んだと僕は解釈している。

擁護しつつ冷静に解説したのはやはり湯浅誠氏で (http://bylines.news.yahoo.co.jp/yuasamakoto/20160831-00061633/ NHK 貧困報道”炎上” 改めて 考える貧困と格差)、氏は大学の先生になってしまい微妙に心配していたものの、最近はやっと「前線」に戻っ てきたようだ。


また、藤田孝典氏の解説も明晰であり (http://mainichi.jp/premier/business/articles/20160830/biz/00m/010/005000c 「1000円ランチ」 女子高生をたたく日本人の貧困観)、湯浅氏と藤田氏の擁護解説を読めば、この問題のポイントは理解できる。 念のため、湯浅氏の末文を引用しておこう。



今回の NHK 貧困報道“炎上”は、
登場した高校生と番組を制作した NHK が「まとまった進学費用を用意できない程度の低所得、相対的貧困状態 にある」ことを提示したのに対して、
受け取る視聴者の側は「1000 円のキーボードしか買えないなんて、衣食住にも事欠くような絶対的貧困状態な んだ」と受け止めた。
そのため、後で出てきた彼女の消費行動が、 一方からは「相対的貧困状態でのやりくりの範囲内」だから「問題なし」とされ、 他方からは「衣食住にも事欠くような状態ではない」から「問題あり」とされた。 いずれにも悪意はなく(高校生の容姿を云々するような誹謗中傷は論外)、
行き違いが求めているのは、 衣食住にも事欠くような貧困ではない相対的貧困は、許容されるべき格差なのか、対処されるべき格差なのか、 という点に関する冷静な議論だ。 そしてその議論は、どうすればより多くの子どもたちが夢と希望を持てて、より日本の発展に資する状態に持っ ていけるか、という観点でなされるのが望ましい。 その際には、高度経済成長を経験した日本の経緯からくる特殊性や、格差に対する個人の感じ方の違いを十分に 踏まえた、丁寧な議論が不可欠だ。


 

■文化のシャワーを小さい頃に浴びないことには、発信できない

 

この結論を読めば今回の騒動の大筋は理解できるが、そのことと、「相対的貧困」当事者の声をどう伝えるか、どう「代弁」するかは別問題である。


相対的貧困者は 6 人に 1 人になっているが、その 2,000 万人の人々は、残念ながらほとんどが自らの気持ちや 状態を発信できない。


これは、貧困に伴う学習不足や、貧困の結果生じる児童虐待から陥った発達の遅れ等の原因が考えられるが(た とえば杉山登志郎医師の「第四の発達障がい」や、ライター鈴木大介氏の「脳障害と貧困記事」 http://toyokeizai.net/articles/-/127404 貧困の多くは「脳のトラブル」に起因している 「見えない苦しみ」ほ ど過酷なものはない等参照)、そうした原因論はまさに最前線の議論だからまだ一般化はされていない。


これらはひとことで言うと、「文化」不足からくる発信能力の低さだ。

貧困家庭や養育環境が原因の低さなので、思春期以降に出会った第三者による「文化シャワー」があったとして もなかなか発信能力は獲得できない(ちなみに僕の本業はこうした「文化シャワー」をハイティーンに伝えるこ と だ → た と え ば こ の 記 事 参 照 http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakatoshihide/20160821-00061345/ 「カルチュラル・シャワー」高校生カフェは 2.0 に~横浜、川崎、大阪のチャレンジ)。


人間の「世界」とは、イコール「ことば」の世界の豊穣さとつながる。

また、ことば(記号)を土台としたさま ざまな「文化」を子ども時代にどれだけ浴びたか、その浴びた文化「量」がそのまま、その人の「世界」の広さ とつながる。


その文化内容に「善悪」はあるとしても、まずは「量」を浴びる必要がある。

ことばと文化をたくさんたくさん 浴び、それらのシャワーから自分に適した価値を選択していく。 その価値に基づいた自分なりの「ことば」が、その人の世界観を構成し、その世界観から自分なりのことば(つ まりはその人の世界観)が発信できる。


まずは、ことばや文化のシャワーを小さい頃に浴びないことには、発信もできない。 その点で、一般的に、紋切りの文化や狭い語彙しかもたない貧困層の世界観は不利だ。


■エグザイルは貧困の怒りを代弁しない


だからこそ、貧困層が愛する「文化」が、そうした多様なことばや価値をもつ必要があるのだが、コロンブスの 卵的にどちらが先かはわからないものの、貧困層やその代表的生活様式のひとつである「ヤンキー」層が愛する 文化は、徹底的に細く紋切り的なことばや価値しかもたない。


それはたとえば、エグザイルの作品に現れている。

ちなみに僕はエグザイルのアツシが結構好きで、アツシが無謀にもアメリカ進出というかアメリカ修行に行くこ と(http://www.huffingtonpost.jp/2016/08/31/exileatsushi_n_11792006.html EXILE の ATSUSHI が 2018 年まで海外へ 決断した思いを語る)にはガッカリ感はあるものの、数で勝負するヤンキー/アンダーク

ラス文化のトップにいるアツシが人員キャパを超えるエグザイルから「押し出される」ことは仕方がない(ヤン キー文化と「数」はこれ参照→http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakatoshihide/20160830-00061643/ ヤンキーは「海賊王」がすき~階層社会の『ワンピース』)。


ちなみに元祖ヤンキー代表といえば矢沢永吉だが、ミドルクラスばかりの当時の日本社会ではエーちゃんはマイ ナーであり、またエーちゃんは『成り上がり』というベストセラー本も書いた。エーちゃん自ら、自分のナマの ことばで、「自分」を語る人だったのだ。


が、エグザイルは徹底的に紋切り型だ。典型的な愛のことば、若者のことばが詞にはあふれるが、それは無難な 若者世界観を表象しており、ロック的エゴイズムもない(マーケティング的にロック的うっとおしさを排除して いる)。

エグザイルははじめから貧困層を狙っているわけでもなく、実際、中間ミドルクラス層にも好きな人はいるのだ ろうが、多くのアンダークラス若者にも結果としてて支持されている。


その結果、無難なエグザイルのことばは、アンダークラス若者の「気持ち」を無難な世界として閉じ込める。現 実の貧困アンダークラス若者はもっとセンシティブだったり暴力的だったりするだろうが、そうした微細さは紋 切りな愛の言葉が発現を抑止する。


結果として、エグザイルは貧困の怒りを代弁しない。

 

■彼女ら彼らと毎日関わる、支援者や教師


では誰が「代弁」するか。

それは湯浅氏や藤田氏ではない。彼らはあくまでも「良質な外部」なのだ。もちろん片山さつき氏でもない。


では、雨宮処凛氏だろうか。雨宮氏のこのエッセイを読むと一見代弁者のように勘違いしてしまうが (http://blogos.com/article/188788/ すべての貧困バッシングは、通訳すると「黙れ」ということ~「犠牲 の累進性」という言葉で対抗しよう~の巻 - 雨宮処凛)、ここには「ロマンティック・ヒューマニズム・イデオ ロギー」(ロマンティック・ラブ・イデオロギーのパロディです)といってもいい、過剰な人権主義ロマンのよう なものがある。


この過剰な人権主義ロマンは、一人ひとりの貧困者の単独性(世界でただ1人のその人のあり方)を隠し、ヒュ ーマニズムを主張したいための道具として使われるという皮肉な結果になる(いずれ別に詳述します)。


アンダークラスの人々を誰が代弁するか。


僕は今のところ、それは、「現場」で彼女ら彼らと毎日関わる、支援者や教師だと思っている。

現場の支援者や教 師は、日々の忙しさも大事ではあるが、ある意味、貧困若者を「どう代弁するか」という最重要な仕事を担うと僕は考える。

有名人が解説する段階は終わっているのだ。★

マイルドヤンキーとワンピースにはついていけない

タイトル: マイルドヤンキーとワンピースにはついていけない
公開日時: 2016-07-24 10:14:29
概要文: 峰不二子ちゃんやルパン、カジくんとミサトさん、彼女ら彼らの関係性は、単純な「仲間」や「恋人」 などでは決してない。
本文:

 

■マイルドヤンキー的な価値観についていけない


昨 日 ポ ケ モ ン GO ネ タ で 当 欄 を 更 新 し た ば か り な の で あ る が (http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakatoshihide/20160723-00060286/ ポケモン GO!で、ひきこもり はスマホ購入へ GO!)、昨日今日と横浜出張で、新幹線マニアな僕はあえてこだまやひかりに乗って楽しむため 車内でやることもなく、以前から考えていた『ワンピース』とマイルドヤンキーについて綴ってみることにした。


ちなみに今は横浜からの帰りの新幹線こだま内、ガラガラの 1 号車先頭の座席で、先頭座席のみ使用が許される コンセントに MacBook を突っ込んで当記事を書いている(大阪まで 4 時間以上かかるがこれがまた楽しい)。


それはさておき、人気マンガ『ワンピース』とマイルドヤンキーは親和性があると、ホリエモンが指摘している ([http://blogos.com/article/184076/ 記事 キャリコネニュース2016年07月19日 17:47「ワンピース」

の話は飲み屋ではタブー? 面白くないと口にすると「テメェは人間の心が無ぇ!」とファン激怒])。

上の記事内に、以下のようなホリエモンのツィートが引用されている。


「仲間さえ無事なら大丈夫的なマイルドヤンキー的な価値観についていけない」


さすが世の動きに敏感なホリエモン、友情・努力・勝利の権化といってもいい『ワンピース』と、仲間内での信 頼感を最重要価値にするマイルドヤンキーとの共通価値を指摘している。


これに加えて少し前の僕の記事でも触れたのだが (http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakatoshihide/20160720-00060176/ 甲子園があるかぎりマイル ドヤンキーは滅亡しない)、マイルドヤンキーは以下のような「貧困文化」の一部でもある。


EXILE が好き、
地元(家から半径 5km)から出たくない、

「絆」「家族」「仲間」という言葉が好き、

生まれ育った地元指向が非常に強い、

内向的で、上昇指向が低い(非常に保守的)

低学歴で低収入、

できちゃった結婚比率も高く、

子供にキラキラネームをつける傾向、

喫煙率や飲酒率が高い、

(以上はウィキペディアのマイルドヤンキー項より引用・抜粋)


エグザイルやイオンに加えて、重要な文化資本的な要素として『ワンピース』がどうやらあり、マイルドヤンキ ーが先かワンピースが先かはわからないが、それぞれが「仲間・友情」価値を補強し合い、彼ら彼女らの最重要 価値になっている。


■人間は裏切る


ところで、人間は裏切る。

ルパン三世』の峰不二子や『エヴァンゲリオン』のカジくんのようなアニメ世界のキャラだけではなく、実社 会の人間たちは普通に嘘をつき、周囲を騙し、裏切っていく。

裏切りと嘘は、ドストエフスキーの登場人物たちやアメリカ映画『スティング』にだけに出てくる現象ではなく、 世の中でゴロゴロ毎日生産されている。


それは当然ヤクザ社会だけの現象でもなく、普通の会社や普通の学校(クラス)や普通のバイト仲間や古くから の友情関係のになかでも日常的に繰り広げられる光景だ。


当然、僕もよく嘘をつく。また、人々を裏切ることも時々ある。

 

その裏切りは、別の面から見るとライフステージの新段階だったり、あえて裏切り摩擦を起こすことで停滞した 局面を切り開く戦術だったりする。

峰不二子ちゃんもカジくんも、ピョートル・ヴェルホーベンスキー(『悪霊』)もポール・ニューマン(『スティン グ』)も、あえて嘘をつき騙し、一時的に周囲の信頼をあえてなくす行動をとり、仲間たちから見放される。


当然僕も(そしてあなたも)、このような裏切りと嘘によって他者を巻き込み、時には他者から嘘をつかれ裏切 られ、ぐちゃぐちゃの人間関係へと巻き込まれていく。

イギリス映画の名作『秘密と嘘』にも描かれたように、秘密と嘘を前提とするから人間は深く暗く時には明るく 陽気で、それらすべてがからまりあってこその「C'est la vie.(これが人生、ラビー)」なのだ。


峰不二子ちゃんやルパン、カジくんとミサトさん


マイルドヤンキーや『ワンピース』は、いや、友情・努力・勝利の(貧困も含めた)若者文化は、このような「裏 切りの豊穣さ」を悪いもの、倫理的に間違ったものとして否定する。


これは窮屈だ。 なぜなら、現実のマイルドヤンキーたち、あるいは貧困若者たち、いや若者たち全般の日々の人生には、普通に 嘘と裏切りが存在するからだ。


実際に横行する嘘と裏切りを「悪いもの」として否定し、友情と仲間との信頼を絶対善として理想化する。 これは実は、現実の自分たちの生(la vie)を否定する行為でもある。


裏切りや嘘を含む日々の豊穣な生活を肯定せずありえない理想(友情の絶対善化)を善として根拠化するこうし た心理操作は、ニーチェも指摘する「ルサンチマン」の一部である。

まあそんな哲学議論はさておき、以上のような理由でマイルドヤンキーと『ワンピース』は、僕にとってはかな り窮屈なんですね。


峰不二子ちゃんやルパン、カジくんとミサトさん、彼女ら彼らの関係性は、単純な「仲間」や「恋人」などでは 決してない。

裏切られながらも信頼し、時には騙しながらも時々頼る。これが人間関係というものであり、僕が 若者たちに知ってほしい「人間のおもしろさ」だ。


マイルドヤンキーや『ワンピース』は、その人間の深さを伝えることを微妙に邪魔する。★

 「モデル」の意味~内閣府「子供と家族・若者応援団表彰」受賞


公開日時: 2017-12-27 08:14:44
概要文: 今回のような「国からの受賞」は、これからの日本の子ども若者支援現場にどういう意味をもつか。それは「イノベーションの提案」につながる。
本文:

 

■「平成 29 年度 子供と家族・若者応援団表彰~内閣府特命担当大臣表彰」


昨日(12/26)僕は、大阪発始発の新幹線で東京・霞が関に移動し、内閣府で「平成 29 年度 子供と家族・若 者応援団表彰~内閣府特命担当大臣表彰」というものを受賞した。


僕の法人(office ドーナツトーク)がここ 5 年間こつこつ続けてきた活動に、国からお墨付きをいただいた格好 だ(大阪市代表でもある)。


僕は当欄の Yahoo!オーサーでもあるが、社会貢献事業を行なう法人の代表であり現場プレーヤーでもある。当 欄ではある意味ジャーナリスティックに社会を語りながら、大阪の子ども若者支援の前線で新しい事業を提案し 日常的に当事者(保護者や子ども若者)への面談支援や居場所支援を行なっている。


オーサー兼プレーヤーというのが、当欄で僕が求められているものなんだろうと解釈し、今回のような「国から の受賞」が、これからの日本の子ども若者支援現場にどういう意味をもつか、確認しておきたい。


それはつまりは、「イノベーション」の提案を支える土台、だということだ。


■高校内居場所カフェの拡大


当欄で度々触れている「高校内居場所カフェ」 (https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20170729-00073878/ 「モーニング」を出す高校内 居場所カフェ~西成高校モーニングとなりカフェの試み)は全国で静かに広がりつつあり、僕が把握している限 りでも大阪に 10 校程度、神奈川でも 10 校程度、宮城に 2 校程度、静岡に 2 校程度、北海道に 1 校で「居場 所カフェ」が実施されている。


予算的背景はさまざまだが、各 NPO(特定非営利活動法人・一般社団法人・社会福祉法人等々)が創意工夫してそれぞれの高校で居場所を開催していることは力強く頼もしい。


その高校内居場所カフェの「元祖」が、上に引用した西成高校の「となりカフェ」で、今回の受賞の団体紹介を 見ても、この事業が賞に大きなインパクトを与えたことが伺える(ちなみに TBS 系で 1 時間のドキュメンタリ ーにもなっているhttps://tv.rakuten.co.jp/content/102793/ 映像【TBS オンデマンド】 映像’14「ここに おいでよ~居場所を見失った十代のために~」)。


この高校内居場所カフェの拡大が、高校中退予防につながることを我々は願っている。その実証も https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20171003-00076488/ 「居場所を測る~そのインパ クトの意味」で書いたとおり現在進めており、来年は大阪と神奈川でもう少し効果測定の調査を広げていくつも りだ。


■一連の流れが形成する一種のイノベーション


だが、居場所カフェだけでは、多くの人々にはインパクトが弱い。

居場所を設置し高校で楽しく生活できるのは わかった、ではその先は? それら高校生たちは本当に「潜在化」する(ひきこもりやニート)ことなく、市民と して、または税や社会保険の担い手として社会に貢献してくれるのか?


という、「社会設計」の好きなおじさんたちからよく反論を受けるのだ。 これに対して、地味ではあるが一つの回答を示しているのが、 https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20171202-00078825/ 高校生「出口戦略」は、個別ソ ーシャルワークだったにも書いた、ひらの青春生活応援事業、言い換えると、高校生への個別ソーシャルワーク 事業だ。


居場所カフェで中退を予防したあと、個別に細やかにソーシャルワークしていくことでニート・ひきこもり化を 防ぐ。

平野区では昨年からの積み上げで 30 名ほどをソーシャルワーク支援してきている。 その一つひとつはたいへん地味な取り組みではあるが、全体としてみると 30 名の潜在化が実質 1 年(高校内の 環境設置等準備に半年はかかったため)で防げている。


これは大きい。 ここでは詳述できないものの、もう一つ「住吉区子ども若者育成支援事業」という事業も僕は行なっており、ひ きこもり支援のほか、子ども若者に関する諸機関(児童相談所から若者ハローワークまで)が毎月集まって検討 会議を開催している。


それは、「不登校・ひきこもり」「貧困・虐待」「障害(主として発達障害)」の 3 ワークンググループに分かれて、 毎月濃密な議論を展開している。


もはや、日本の「子ども若者」は0~50 才まで拡大している(虐待から高齢ひきこもり)。その保護者も 10 代 後半から 80 才までとなっている。もはや国民全員が「子ども若者」関係者であり、この問題はそれぞれの専門性の中だけで議論できない。

専門性というタコツボに風穴をあける仕組みが必要で、それが住吉区の事業だと僕は考えている。


■ストーンローゼズ


これら一連の流れが形成する一種のイノベーションは、ただ現場で行なうだけではダメで、それがモデルとなり 広く発信し、ある意味「模倣」してもらう必要がある。 モデルというよりは、そっくりそのままパクってほしい。


もちろん予算や担当部署(教育・就労・福祉等)によってカラーは違ってもいい。それぞれのカラーで色づけな がら、あからさまにパクってほしい。コピーライトみたいなせこいことは言わないので、あっさり「真似してほ しい」。


90 年代前半、イギリスで一大ムーブメントを巻き起こしたロックバンドのストーンローゼズのデビューアルバ ム 1 曲目は「憧れられたい I want to be adored」だった。最初、ローゼズは単なるへなちょこバンドの1つだ ったが、そのリズムと歌声はやがてイギリスと世界を覆っていき、現在のクラブミュージックの源泉の1つにな っている。


イアンブラウン(ローゼズのボーカル)のように僕は露骨に憧れられたくはないが、露骨に「真似してほしい」。 今回の受賞は、その真似したいモチベーションが生まれるような、みなさんの動機の1つになればいいと思って いる。


image:image01|left|微妙に私服、けどジャケットはコムデギャルソンというさらに微妙さ image:image02|left|意外と読まない表彰状の中身。あらためて読むと権威付けとしては重い。

9 月 1 日に、ビルの屋上で下を見る子ども~教育の制度疲労

タイトル: 9 月 1 日に、ビルの屋上で下を見る子ども~教育の制度疲労

公開日時: 2019-08-01 17:58:39


概要文: が、まずはこの「教育システムの制度疲労」知ってほしい。9 月 1 日に、ビルの屋上で下を見る子ども、縄を両手で持って見つめる子ども。 なんとかしよう、我々の社会の教育システムの制度疲労を。
本文:

 

■9月1日に131人が死ぬ


教育基本法が全面改正されたのが 1947 年というから、そこからすでに 72 年がたっている。 だから現在の教育システムはとっくに「制度疲労」になっているはずなのだが、この前子どもに関する統計的な 記事を見ていて、その思いを強くした。


そ れ は 、 子 ど も の 自 殺 数 を 伝 え る BBC ニ ュ ー ス ジ ャ パ ン の 記 事 (https://www.bbc.com/japanese/46106033 日本の児童・生徒の自殺、過去 30 年で最多に)だった。 記事によると、2017 年度の 18 才までの子どもの自殺数は 250 人、ここ 30 年でも最悪の数字だという。


注目すべきは「自殺の日」ではよくいわれる「9 月 1 日」に集中していることだ。

 

驚くべきことにそれは 131 人、なんと 250 人の半数以上が「2 学期の始まり」として象徴的な日である(というのも 8 月後半から 2 学期 が開始されけることも珍しくなくなったため)9 月 1 日に死ぬ。


自殺は極端な抑うつ状態の結果導かれる現象だ。誰もが超鬱になると、死の誘惑に囚われてしまう。 そんな極端な超鬱が 18 才までの子どもたち(思春期の前期後期等いろいろな説明はできるものの、「子ども」期 であることは確か)を襲う。


20 代 30 代も含めた若い世代の自殺でみても、死因が自殺 1 位なのは先進国のなかでは日本だけになっている (https://resemom.jp/article/2018/06/20/45209.html 若い世代の自殺、死因 1 位は先進国で日本だけ ...H30 年版自殺対策白書)。

 

これは就労環境の劣悪さも入り込むため「学校」問題のみに絞り切れはしないもの の、日本の子ども若者が死にたいほどの環境に置かれていることは確かなようだ。

 

不登校数 14 万人


もうひとつ、「不登校」に関しても、統計的には最悪の数字が上がっている。


それは、不登校数 14 万人というもので、長く続いてきた 13 万人を超えてついに 14 万人台に達したというこ とだ(https://www.sankei.com/life/news/190105/lif1901050034-n1.html 不登校の小中生、過去最多の 14万4千人)。


子どもの数自体は、ついに一学年 100 万人を切り、この 20 年で学年あたり 20 万人以上減少している。 不登校は増え、子どもの数は急減少している。つまり、不登校は年度あたり統計以上に増えている。


ここで僕が指摘しておきたいのは、「不登校の支援そのものはおそらく成功している」ということだ。

 

それは統計数値には現れにくいかもしれないが、不登校現象に対して丁寧に接していくと(親への定期的面談を 通して子どもへの「説教」をやめさせる、子どもの発達障害等の状態を見抜き親と関係機関で共有する、教師からの過度なプレッシャーを抑えてもらう、子どもとゲーム等で遊びリラックスしてもらう等)、だいたいは翌年 度に再登校できたり「高校デビュー」ができる。


僕はそんな感じでこれまで丁寧に支援してきて、いろいろなかたちではあるものの、多くは再び社会に戻ること ができる。


親が説教をやめるだけで、本当に子どもはリラックスできる。


そのように親の変化を促すのも不登校支援の一つ。また、子どもたちに「居場所」を提供するのも不登校支援の ひとつだろう。

 

このように丁寧に支援していれば、多様な「社会復帰」のかたちではあるものの、多くはひきこもり状態から脱 出することはできる。


■9 月 1 日に、ビルの屋上で下を見る子ども


が、不登校は相対的に増え続けている。 現場での支援は成功し、不登校=ひきこもりの状態からは脱出できている。

 

だが、不登校は増え続けている。


7 才から 15 才まで仮に 900 万人いるとすると(各学年 100 万人として実数はもう少し多い)、だいたい 100 人に 1 人強が不登校ということになる。


これが減ることなく維持され続けている。


連続の不登校ではなく「さみだれ登校」などもあるから、実態はもう少し不登校は多いと思う。そうすると、だ いたい「1 クラスに 1 名以上」の教師や支援者が抱く実感に近づくはずだ。


また、9 月 1 日に自殺する子どもたちが 131 人ということは、各都道府県で 2 人以上は 9 月 1 日に死んでいる ということだ。都道府県の人口のバラツキを考慮するとそれほど広く分布しないだろうが、この狭い国土で、131 人の子どもたちが同じ日に自死を選ぶ事態を想像してほしい。


この事態を説明するとすればただひとこと、 教育システムの制度疲労といっても僕は構わないのではないかと思う。

 

現場の教師はがんばっている。親もそこそこ子どもを応援する。 が、それら現場の努力ではどうしようもない圧力が、子どもたち一人ひとりに襲いかかる。


そのための対策として、学校の中に「居場所カフェ」を (https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20190311-00117803/ この「カフェ機能」こそが、「サードプレイス効果」)、という取り組みを僕や他の NPO は呼びかけている。


が、まずはこの「教育システムの制度疲労」を知ってほしい。9 月 1 日に、ビルの屋上で下を見る子ども、縄を 両手で持って見つめる子ども、線路を凝視する子どもが 131 人いることを。


なんとかしよう、我々の社会の教育システムの制度疲労を。

高校生たちへの声かけ、「7 つのルール」

タイトル: 高校生たちへの声かけ、「7 つのルール」

公開日時: 2017-08-18 14:07:28


概要文: この、首尾一貫した態度こそが、ハイティーンの信頼を得る。中途半端はダメで、このアティチュー ドを貫けるか、それが支援者としての魅力につながる。


本文:

 

 

■7 つのルール


僕は大阪市平野区で「ひらの青春生活応援事業」という委託事業を運営しており (https://officedonutstalk.jimdo.com/ひらの青春生活応援事業/ ひらの青春生活応援事業)、これは巨大自 治体の大阪市でも珍しい、区の単独の高校生支援事業なのだが、そこで、高校生たちにかかわる大人たちに対し て(たとえば就労支援等)「声掛け」のルールみたいなものをつくってほしいと依頼されたので、以下のものを即興でつくってみた。


「高校生たちへの声かけ 7 つのルール」 
1. 否定しない
2. 生徒の利益の最優先(親側に立たない)
3. 雑談(芸能界・スポーツ等)中心の会話
4. 相談された時は、部屋の隅で小さな声で
5. 秘密を守る
6. それなりに「自己決定」を尊重する(いっしょに決めてもいい)
7. 楽しく解散する



即興のわりにこれはよくできていると思ったので、この記事を読んでいただいてる方たちの何らかの参考になれ ば、と思って紹介してみる。


元ネタはソーシャルワークの理念ではあるが、英語直訳調の 2 以外は、僕なりにアレンジしている。

何も平野区だけのルールではなく、これはたとえば「高校内居場所カフェ」 (https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20170729-00073878/ 「モーニング」を出す高校内 居場所カフェ~西成高校モーニングとなりカフェの試み)での高校生対応にも当然使えるし、よくわからないが 魅力的なハイティーン対応全般に使えると思う。


■中途半端はダメ


解説すると、1 は、今どきの若者と接する時の必須対応だ。

 

「否定」は、団塊世代や哲学好きからすれば必須のコ ミュニケーションだったりするが(ヘーゲル主義等から)、現代のニホンに住む若者たちからすると、「否定」は おそろしく否定的な概念だ。


おそろしく否定的な概念のため、それはリスクマネジメント的に回避するほうが望ましい。がんがん否定してそ の後に新しい発見があるという団塊の世代マルクス主義的「弁証法」はものすごく過去のものである。 この流れで、現代の若者は「議論」を回避する。


2 の「生徒の利益の最優先」はソーシャルワークの理念そのもので、どういった事態になろうが、目の前のクラ イエント(生徒)の立場に立ち続けるという、言うのは簡単だが行動は非常に難しいルールだ。

 

親の希望と、生徒の希望は違うことのほうが多い。その場合、保護者が言うことは「正論」であり、常識だ。残 念ながらハイティーンが言うことは非常識だったり非現実的だったりする(高校中退希望や海外留学等)。


それでも、現実的な落とし所を見据えつつ、高校生の側に立つ。学校や保護者が反対しようが、生徒側に立ち続 ける。

これがなかなか難しい。高校中退や海外留学の非現実さを、普通の大人は排除する。が、そこを選んでしまうハ イティーンたちの立場を想像し、その立場に立ち続け、そして大人たちも納得するような落とし所を話し合いの 末に見つける。


この、首尾一貫した態度こそが、ハイティーンの信頼を得る。中途半端はダメで、このアティチュードを貫ける か、それが支援者としての魅力につながる。


■その「偽善性」を直感的に見破っている


3~6 は文字通りで、これらは 2 に比べると簡単だ。

当事者と出会った時、普通の大人は雑談を避けるが、雑談のテクニックこそが最上のコミュニケーションにつな がっていく。

雑談は何も高校生支援だけではなく、どんなコミュニケーションにも応用でき、その達人はどんな 世界でもモテモテなはずだ。


雑談はコミュニケーションのオイルなのだ。


高校生たちは案外密室での相談(カウンセリング)を嫌がる。

密室での大人との会話を「説教」と思わされてい る悲しさがここにはあり、また、ハイティーンの大人への不信感を如実に表している。

その不信は基本的に正しく、ほとんどの大人は子どもを説教し、子どもを大人側のタテマエワールドに導こうと する。


が、子どもは、特にハイティーンは、その「偽善性」を直感的に見破っており、説教する大人自身がそのタテマ エとは裏腹に欲望そのものの人生を送っており、そこを素直に白状しない「汚さ」にハイティーンは怒っている。


僕がハイティーンの時も怒っていたが、いまや 53 才になりその怒りもだいぶ薄れてしまった。 が、現役ハイティーンと会話していると、そのストレートさはカッコいいと思う。


自己決定についてはたとえばこの過去記事(https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20130521- 00025100/ 「ゴーストの囁き」あるいは「脱構築」という自己決定)あたりを参照してほしい。デリダも『法 の力』で断言するように、純粋な「自己決定」はない。


■7 番目がいちばん大事かも

 

最後の「楽しく解散」が最も重要かもしれない。


常に揺れ動くハイティーンにとって、一度重い気持ちになると、それをしばらく引きずってしまう。引きずり自 体は悪くはないものの、揺れ動く心が、身体の動きまで支配していき、流れによっては悲惨な行為につながるこ とがある。


それを避けるためにも、また単純に楽しく解散したほうが「気持ちいい」という点からも、最後は陽気にグッバ イすることを心がけよう。


この 7 番目がいちばん大事かもしれません。(^^)★

高校生マザーズ~その声に耳をかたむける

タイトル: 高校生マザーズ~その声に耳をかたむける

公開日時: 2019-02-22 17:14:03
概要文: そう、赤ちゃんたちは、苦闘する自分の母たちにおそらくエールを送っている。ひそかな「声」は、 格差社会に潜在化してしまう高校生マザーズだけではなく、そのマザーズたちが日々抱きしめる赤ちゃんたちに も潜む。
本文:

 

■ハイティーンで母になる人は珍しくはない


だいぶ先の 5 月の話であるが、僕は「高校生マザーズ」という独自イベントを行なうことにした。

 

昨年まで「高校生サバイバー」というイベントを 5 年連続で行なってきたが (https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20181220-00108316/ であうことをつづけること ~「高校生サバイバー」最終回、高校内居場所カフェの真髄)、その続編がこの「高校生マザーズ」ということ になる。

 

ハイティーンで母になる人は珍しくはない。ただ、その困難さと希望について語る議論を僕はあまり知らない。

 

多くは、経済的下流層、アンダークラスのハイティーンの女性たちが母になっていく。その予期せぬ妊娠につい て、当事者(妊娠するハイティーン女性)はもちろん、その恋人や家族は、その妊娠の事実をなかなか冷静には 語れない。


多くは、その妊娠について否定的に語る。


なぜ「できて」しまったのか。 そもそもお前に育てることができるのか。 出産と子育てはお前が思っているほど甘いものではない。


等々、近親者は厳しく語る。 なぜなら、その妊娠したハイティーン当事者の母(やがては祖母になる人)自身、そうした厳しい言葉に晒され てきたからだ。


貧困と虐待は基本的に連鎖し、その祖母も今もまだ 40 代であり、我が子を産んだのがハイティーンだったりす る。そんな我が子がいつのまにか高校生になり、自分と同じように妊娠し、自分と同じようにハイティーン出産 しようとしている。

 

そんな、母になる我が子(現在ハイティーン女子)に対して、なぜかその 40 代の祖母予備軍は厳しい言葉を投 げかけてしまう。


■自分が受けてこなかった「愛」を、この機会に捧げてみたい


それでも、ハイティーン女子は産む。もちろん近親者たちの厳しい言葉を受けてはいる。 また、その厳しい目は、自分の幼い頃は児童虐待(心理的虐待等)だったかもしれないことも薄々感づいてもい る。


けれども、自分は受けることができなかった「愛」を、やがて生まれてくるこの子に注ぐことができるかもしれ ないという、ささやかな希望を抱いている。


社会福祉やジャーナリズム本によく出てくる「虐待の連鎖」どころか、その出産以降の「希望」は、その希望そ のもので虐待の連鎖を断ち切ろうとする、健気でありながらも力強いインセンティブだ。


それが、ハイティーンで妊娠したという事実をもとに否定される。だが出産と子育ては当然簡単なものではない。 けれども、自分が受けてこなかった「愛」を、この機会に捧げてみたい。 こうした根源的欲望に対して、我々は耳をかたむける価値がある。


■タブーだった出来事も含めて、「高校生マザーズ」の声は鳴り響く


高校生マザーズは、そんな潜在的な声を集積したいと考えている。 産むことのつらさ、困難さに加え、産んで新しい生命と共にいる喜びと感激に関して、彼女たちマザーズはどん な言葉を放っているのか。


あるいは、その生まれた新しい命は、やがてどんな言葉を発するのか。 言葉を獲得するまでには数年を要するが、その新しい命は、苦闘する自分のマザーズたちにどんなエールを送っ ているのか。


そう、赤ちゃんたちは、苦闘する自分の母たちにおそらくエールを送っている。ひそかな「声」は、格差社会に 潜在化してしまう高校生マザーズだけではなく、そのマザーズたちが日々抱きしめる赤ちゃんたちにも潜む。


もっと言うと、その高校生マザーズではないにしろ、ちまたありふれて行なわれている人工妊娠中絶された魂た ちも、若い母親たちになんらかのかたちで語りかけている。


僕も支援の仕事の中で、そのような人工妊娠中絶を現実に知っているが、消え去った魂は、ここで格闘するハイ ティーン女性たちをどこからか見守っているような気がしてならない。

 

そんな、これまでタブーだった出来事も含めて、「高校生マザーズ」の声は鳴り響く。

おかあさん、目標は「95 才」ですよ!~ひきこもり高齢化とは「支援」ではなく「親の長寿」

タイトル: おかあさん、目標は「95 才」ですよ!~ひきこもり高齢化とは「支援」ではなく「親の長寿」

公開日時: 2016-03-01 19:13:52
概要文: 僕はそれでいいと思う。何よりも、70 代半ばの母親たちとの面談はミョーに楽しい。 これこそ、「ハピネス」を純粋に探求する領域であり、僕が最も得意とする「哲学」の領域だからだ。
本文:

 

■90 才ではなく 95 才

あれからそんなに目新しいことを発見したわけではないが、100 万アクセスのダブルスコアとなったこの記事 (http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakatoshihide/20150627-00047020/ おかあさん、90 才まで生き ましょう!!~思春期は 40 才で終わる)から半年がたち、ここで書いたことを日々面談支援で実践して好感触を 得ているこの頃、あらためてこのテーゼの肯定性について確信を持ち始めた。


新しい知見をしいて書くとすれば、前回「90 才」とした母の生命の目標年齢はやや甘く、95 才程度が現実的の ようだ。


つまり、30 才手前で出産した人のほうが現在の 60 代にはやはり多いようで(あるいは高齢ひきこもりをもつ 親には多い)、子どもが 65 才(年金支給年齢)になる時に母が 90 才ということは 25 才出産ということなので、 そうした早めの出産はなかなかいないということだ。


だから、この頃の僕は高齢ひきこもりをもつ保護者(主として母)面談において、95 才(まで生きてほしい)設 定で語っている。


こんなことを書くと、ひきこもり高齢化の問題に直接関係ない人たちはとたんに暗くなる。

 

が、当事者の親御さんは、実はかなり明るくなる。僕が 90 才や 95 才という親の人生の目標年齢を語り、親が 後期高齢者になった時は、子どもが 65 才の年金支給年齢までいかに親がサバイブするかが第一目標になると語 った時は、実はかなり盛り上がる。


もっと言うと、親が 75 才になった頃は、子どもの「自立」は第一目標ではなくなり、第一目標は、子どもが年 金支給年齢の 65 才になるまでどちらかの親がとにかく「生きる」ことだと語ると、目の前の 75 才あたりのお 母さんたちの目が爛々としてくる(残念ながら父は母より早く亡くなる)。


宮崎駿の「もののけ姫」ではないが、とにかく


「生きろ!!」

 

と言うと、高齢ひきこもりの(母)親たちは元気になるみたいなのだ。

 

■当然、生きてやる


現実は、「高齢化ひきこもり」の子の年金支給年齢は上がり、年金額も減るだろう。

ちなみに僕は、この頃は親御さんたちに「これから年金財政が厳しくなっていくと、額の減少か、支給年齢のア ップか、どちらが先に行なわれると思います?」と講演では聞くようにしている。


親御さんの大半は、希望的予測もあるだろうが、支給年齢よりは支給額の減少を予想する。支給額のダウンのほ うが、支給年齢の先送りよりは、国民の反発を呼ばないだろうと親御さんたちは予測している。

 

ここで言う「親御さん」たちとは当然「後期高齢者」突入前後(75 才あたり)の人々を指し、この年齢の人たち の希望は、「年金財政の厳しさはわかるものの、支給年齢の先送り(65 才よりさらに上)よりは額の減少に対応 できる」と思っているということだ。


言い換えると、「(子が 65 才になり自分が)95 才になるあたりであれば、当然生きてやる」という、親御さんた ちの気概を意味している。


■「ハピネス」

となると、意外なことに、「ひきこもり高齢化」問題は一挙にポジティブなものになる。


つまりは、高齢化する子どもたちが「いかに自立するか」は、どうでもいいことになってしまうということだ。

子が 40 才頃までは、本人も親も支援者も焦っていた「自立」の問題が、子と親が「高齢化」していくとどうで もよくなってくる。


本人が 40 才をすぎ、親が 70 才半ば頃になると、両者の目標が「自立」ではなく「生命の充実」になるため、 職業や自立等がどうでもいいものになってしまうのだ。


それよりも、日々の「ハピネス」が重要になる。 毎日どう楽しく生きるか、どう「そこそこ満足して」死ぬか。


それらを考えた時、そうした「最後のハピネス」を条件づけしてくれる基準がやはり「オカネ」なだけに、カネ の現実的表象である「年金」に関係者の関心は集中する(今回は触れていないが、現実は生活保護費の拡充とい う議論にも向かうだろうが)。


僕はそれでいいと思う。何よりも、75 才あたりの保護者との面談、具体的には 70 代半ばの母親たちとの面談 はミョーに楽しい。 これこそ、「ハピネス」を純粋に探求する領域であり、僕が最も得意とする「哲学」の領域だからだ。★