tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

NPOでは食えない〜「小さく自由に好き勝手に発信できる」新時代

タイトル: NPOでは食えない〜「小さく自由に好き勝手に発信できる」新時代

公開日時: 2019-04-21 09:24:38

   概要文: その「自由」のなかで語り続けることこそが、NPOのもつ本来の意味「非営利組織」を実践する意味だと思う。

 本文:

 

 

■「独身で身軽な若手スタッフは(非常勤とはいえ)食べていける」

 

昨日、東洋大学(東京・文京区)にて、NPOと「企業化」について考えるイベントがあり、僕も講師と司会で参加した。東洋大の小川祐喜子先生のご厚意により現実化できた企画だ。そのイベントの冒頭、「企業化ということは、NPOで食べていけるのか」という質問が出た。

 

長らくNPO業界では、「NPOの仕事だけで食べていく」ということがテーマになっており、ここ15年、行政からの委託事業を受託することがNPOの主だった収益となったことから(収益にはほかに「寄付」と自主事業があるが不安定)、一応「食べていける」といことになっている。

 

が、現実は、各労働者との契約は年間契約社員かアルバイトの非正規雇用であることが多いと思う。その理由は、主材源である行政委託事業は、特に青少年支援分野では単年度契約であることが多いということと結びつく。継続の一応の見通しはあるとしても、毎年1年で一旦終了せざるを得ないそれらの事業の労働者たちは、おのずと年間契約社員に収まる。NPO経営側も仕方なくそう判断する。

 

けれども、ゼロ年代初期と比べて見ると、年間契約社員の非常勤雇用で年収200〜250万円程度とはいえ、「食べて」いけることはいける。翌年の雇用は不安定でも、温情主義のNPO代表たちは自らのミッションが多少ブレようが「次の事業」を見つけてくることも珍しくはない。

 

温情主義の代表たちはシンプルな思想の方々なので、それらの事業の裏に、前回当欄で触れたような「新自由主義」か背景としてあるかどうか(https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20190420-00123035/ 「素朴」で「残酷」な新自由主義者たち)までは思考していないかもしれない。とにかく、今年契約社員で雇用したスタッフを、どんな事業でもいいので行政から「取ってきて」、若いそれらのスタッフたちを来年も「食べさせて」あげたい。

 

その結果、若いスタッフたち、つまりは独身で身軽な若者たちは贅沢はできないものの「食べて」はいける。そう、15年前に業界内でさかんに言われた「NP0で食べていけるかどうか」という問いに対して、

「独身で身軽な若手スタッフは(非常勤とはいえ)食べていける」

ということに落ち着いた。

 

■一生を通して「NPOでは食えない」

 

だが、人生は長い。30代になりパートナーと結びつき、それまでの賃貸マンション生活ではない、持ち家購入という決断が迫られる。また、異性愛同士のマジョリティカップルで出産という幸運に恵まれた者たちは、それ以降、多くの教育費がのしかかる。これらを乗り切るには、カップルの2人ともが非常勤雇用・年間契約社員ではとても乗り切れない。そもそも家の購入ローンが組めない。

 

そうして、30代前半で社会福祉法人や医療法人など、安定した収入が見込める職場へと転職していく。

 

つまりは、若いうちは「NPOではなんとか食える」が、一生を通して「NPOでは食えない」。これが現実だ。NPO経営者たちは、この現実を若手スタッフたちに伝える義務がある(が、わずかだが一部は正社員化して法人に居残ることができるため、経営側からすると法人内での競争原理を残しておく必要があるから〜30代でも食える確率はわずかたが残るため〜、なかなか伝えられない)。

 

だから、どうせ一生NPOで食えないのであれば、それはサブワークか趣味の範囲に留め、好き勝手やることが自由で気楽だ。

という具合に僕が進行していくと、なぜか会場の雰囲気は重くなっていったように(僕には)感じた。つまりは、「NPOで食べていきたい」という理想に燃える人々はまだこの社会にはたくさんおり、昨日の東洋大イベントにもそうした方々が参加されていたようなのだ。

 

昨日は地方統一選挙の最終日だったということもあり、東洋大のある文京区でもさかんに選挙カーが走っていた。文京区地方選にはNPO関係者は出馬していたかどうか知らないのだが、他の区ではそうした方々が熱心に選挙を戦っているということは、僕も大阪にいながらもネットを通して知っていた。

 

そうした、選挙にも出ることができるというNPOや「ソーシャル」業界関係の人は、ある種の「勝ち組」だろう。

そう、一般的にはNPOでは生涯を通しては食えないが、創業者(と周辺のわずかな「仲間たち」)は食べていくことができる。中には選挙にも出馬できる。

 

■「夢」を捨てて

 

より華やかな勝ち組の活躍が若者を呼び込み、期待を抱かせる。が、現実はNPOで食べていくことは難しい。不安定な非正規雇用で一生賃貸でオッケー、子どももつくらないし持ち家など不要、という方も当然いらっしゃるだろう。そんな方々は、現状のNPOスタッフの一員としてピラミッド組織内のなかで自分に与えられた「現場」の仕事を懸命にこなす。

 

こなしながら、いつかやってくるであろう「NPOで食べていく」時代をひたすら待つ。そのために、組織内でおとなしく経営側の言うことに従い、自由な発言がなぜかできなくなっている。

 

いま、NPO業界では、このような「窮屈な現象」がひそかに進行しているように僕には思える。若手職員たちは比較的身軽な立場なのにもかかわらず、なぜか、自由がない。なぜか好き勝手に発信できない。

好き勝手ということはスキャンダルをばらまくという意味ではなく、発言や文章で自分の考えをどんどん「発信」していくことだ。

 

創業者と周辺数名に限れば、事業が運良く起動に乗り創業者たちに経営センスがあれば、NPOでも一生食べていくことは可能だ。

 

けれどもむしろ、「食べていける/食べていけない」の次元はいったん置き、NPOが対象とする不安定な分野において自分のNPO(スタッフ化か起業化はさておき)で食べていくという「夢」を捨ててみたらどうだろう。

昨日のイベントでも、NPOと「夢(おそらく『人生の夢』という意味だと思う)」を自然につなげて語る方もおり、そこがピンとこない人にはピンとこなかったようだ。

 

不安定である意味「あやしい」NPOに、なぜ自分の人生の「夢」を託せるんだろう。

ピンとこなかった人は、このように考えていたのかもしれない。

 

■自由のなかで好き勝手に発信するブラウン運動

 

僕としては、せっかく「NPOでは食えない」のだから、ここはその状況を楽しんで、窮屈で大きなNPOから離れることをお勧めする。

そこで新しいNPOを起業するか業界から離れて趣味の範囲でNPOと付き合っていくかを選ぶかは、本人が好きなようにすればいい。

 

そうして身軽になった上で、

 

「小さく自由に好き勝手に発信する」

 

ことを楽しんでみたらどうだろう。しがらみからも自由になり、気楽に小回りよく、また同時に「真理の探求」的な発信をしてみる。

小さくなると、探求や真理が身近になる。これは、その小ささのなかで食べていくか行かないかとは関係なく、小さくなれば降臨してくる「自由」だ。

 

その「自由」のなかで語り続けることこそが、NPOのもつ本来の意味「非営利組織」を実践する意味だと思う。せっかくのNPOなんだから、起業化とかビジネスマインドとかソーシャルインパクトとか捨て去り、自由のなかで好き勝手に発信すればいい。その発信たちの「ブラウン運動(小さな発信たちのぶつかりと飛び散り)」が、トータルとしてみると新しい次の社会運動になっていくと思う。

ソーシャルの紋切り〜理想がリアルを隠す

タイトル: ソーシャルの紋切り〜理想がリアルを隠す

公開日時: 2019-03-14 18:21:47

   概要文: ポリティカル・コレクトネス的に、虐待はダメ、だから警察と児相の完全な情報共有をと連呼し、行政や政治に関わったとしても、そのかかわりは「アドボカシー=当事者の代弁」とは言えない。

 本文:

 

 

■当事者は語れない

 

僕は数年前に「ポリティカル・コレクトネス(政治的正当性)」に関する論考を何本か書き、当欄のこの記事(https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20170407-00069630/ 情熱のポリティカルコレクトネス、その弱点)をもって同テーマでの執筆を終了させた。

 

だが、ポリティカル・コレクトネス=ポリコレ的態度が、数年前よりさらに複雑な様相を今は呈し始めている。

それは、NPOの日常活動とも関連する。「アドボカシー」という、NPOが支援対象とするマイノリティの「代弁」をめぐる行為をめぐっての出来事との関連だ。

 

NPOが支援対象とする対象は、いわゆるマイノリティ分野でもある(ひきこもり、不登校、虐待サバイバー等)。それに関するさまざまな事象に関して、当事者たちは基本的に「語れない」。

 

それは、当欄でも度々指摘してきた(https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20140812-00038191/ 誰が高校生や若者を「代表」するんだろう?)。問題の当事者であればあるほど、語れない。また、自分が「不登校」「ひきこもり」「虐待サバイバー」であることを受け入れることができない。

 

語るためには、問題の性質を知る必要がある。が、当事者には強力なトラウマが棲み続けているから、その問題系の言葉たちにふれることでPTSDが発動しかかる。

パニック障害や乖離等には至らないかもしれないが、軽い抑鬱状態には導くそうした言葉たちには、できるだけ接触しないほうがいい。

 

自己の防衛のためであろう、だから、当事者は語れない。「サバルタン」は語ることができない。

 

■「リアルさ」に思いが及ばない

 

深刻な社会問題に多少かかわるNPOの代表や広報担当は、多少関わるがゆえに、一生懸命発言しようとする。

たとえば、児童虐待の問題であれば、警察と児童相談所の「縦割り行政」を防ぐために、最初から警察と児相の完全な情報共有を求めようとする。

 

虐待加害者である親は、警察のチェックを恐れる。

また、虐待被害者である子は、一時保護を嫌悪する。無視されたり怒鳴られたり殴られたりする(これが虐待)のもいやだけど、自由な生活を奪われるほうがいやだ。親もいやだけど、不自由なこと(学校に行けない、携帯もとられる等)だらけの一時保護所はもっといやだ。

 

もちろん一時保護になると「いのち」の危険性は守ることができる。だから、児童虐待支援を教科書的に語るとすると、一時保護はなによりも重要な方策であり、出発点だ。

が、親も子もそれは避ける。そこから逃れたい。

 

NPO代表たちは、こうした「リアルさ」に思いが及ばない。

とにかく、虐待を減らしたいと思う。自分が大学で学んだ児童虐待が、スタッフたちが上げてくるケースの中にいきいきと含まれる。

 

そして、「理屈」で考えたとき、諸々の問題が起きる前に、児童虐待であれば、とにかく警察と児相が最初から情報を完全共有し、迅速に一時保護できる体制を築きたいと思う。

 

■その偽善性に無自覚

 

だが、現実は子どもは自分のスマホを守りたい。加害者の親は、面倒なことに巻き込まれる前に「引っ越し」たいと思う。

 

だから、児童虐待の支援の最前線では、熱意をもったワーカーたちが、自分たちが紋切り的に動いては逆に支援の質が下がる(信頼関係を失う、引っ越しする等)ことを怖れ、日々悩む。

 

ポリティカル・コレクトネス的に、虐待はダメ、だから警察と児相の完全な情報共有をと連呼し、行政や政治に関わったとしても、そのかかわりは「アドボカシー=当事者の代弁」とは言えない。

 

アドボカシーの本来の意味である「当事者(の悩み)の代弁」にはなっておらず、権力サイド(悪い意味ではなく、文字通り)の利益(保護ほか)に寄り添うものとなる。

 

皮肉なのは、こうした偽アドボカシーを行なうNPO代表たちが、その偽善性に無自覚なことだ。

 

そのため、当事者たちの心はさらに離れていく。

「支援の素人」が支援システムをつくる謎

タイトル: 「支援の素人」が支援システムをつくる謎

公開日時: 2019-01-31 17:10:40

   概要文: NPOリーダーたちは、缶詰を貧困支援だとしても疑問を抱かない。が、缶詰はどちらかというと個人の尊厳を傷つける。

NPOリーダーたちは、警察から引っ越ししていく心性を理解できない。

本文:

 

 

 

■「再公営化」と「しょぼい起業」

 

この10年、いや15年、行政はその「支援システム」の内実を民間(主としてNPO)に投げている。

 

ここ40年ほど世界を席巻する新自由主義ネオリベラリズムではあるが、民営化を声高に叫び行動化した前世紀と比べて今世紀に入ってからは、だいぶソフトになってきた。

 

そのソフト化は、ときに「第3の道/3rd way」とも呼ばれ、イギリスのブレア時代初期にみられたように、ある種の「救い」だとも捉えられたようだ。

が、ブレアは失敗し、第3の道は、いまや21世紀型新自由主義ネオリベラリズムともみなされ始めている。

 

欧州を中心に、この頃は「再公営化」が唱えられているようだ(https://www.tni.org/en/RPS_JP?fbclid=IwAR0fO-9m2H3bb1azxp0SwFwbWjAxnuj218L5gTN1g0KKMjGQId5hU34Dlao 再公営化という選択  世界の民営化の失敗から学ぶ)。

 

あるいは、この日本では、「しょぼい企業」が唱えられ、その書籍が話題になっている(https://www.amazon.co.jp/dp/B07KP9M58F/ref=cm_sw_r_fa_dp_U_46stCbTXGCNYD?fbclid=IwAR3M1MpYne-_E-kYkgJrlcuqI8Zy7gAWRG9--Kb2rn8RG1XtMM58uHNIEqY しょぼい起業で生きていくKindle版)。

 

いずれにしろ、日本では慶応大T教授とその「弟子」たちを中心にまだまだ隆盛を極めるネオリベラリズム新自由主義ではあるが、欧州ではそろそろ陰りが見えている。

 

■「ゆるやかでやさしいネオリベラリズム

 

欧州では陰っているものの、日本では変な感じでネオリベラリズム新自由主義は生き残っている。

 

それは、「ソーシャルセクター」として生き残ってる。

それは、PPP/Public Private Partnership/官民連携として生き残ってる。

それは、なによりもNPOとして生き残っている。

 

つまりは、NPOが担う「社会正義」や「社会貢献」として、ひねくれたかたちのなかで、その正義のなかに潜み隠れている。

 

本来は弱者切り捨てである新自由主義ネオリベラリズムが、PPPとして生き残り、それは行政システムのスリム化(財政と人事のスリム化)に直結することから重宝がられる。

NPOの若手スタッフたちは夢をいだき、社会的弱者を支援する活動に邁進する。その邁進行為そのものが、行政システムのスリム化を前進させ、21世紀型新自由主義ネオリベラリズムを完成化させる。

 

この「ゆるやかでやさしいネオリベラリズム」は、ここ40年のネオリベ潮流に乗る行政からすると、非常に重宝な存在だ。

そして、そのネオリベNPOのトップたちの大半は、さして意識しないまま自分たちの社会貢献を信じてPPPに走る。

 

そうして、NPO組織は維持・拡大を図っていく。

 

■それだけ「素人」なのだ

 

現在、従来「社会貢献」を担うと位置づけられてきたNPOたちは、その規模をゆっくり拡大させながら、ネオリベラリズムの波の中に浸る。

 

そして、そのリーダーたちのほとんどは、ネオリベラリズムの最先端に位置づけられていることを意識しないまま日常を送り、その組織の新しい事業をデザインする。

同時に、そのリーダーたちは、支援については「素人」だったりもする。

 

その新しい事業は、たとえば子ども若者支援であれば、支援の素人らしく、微細な「襞(ひだ)」を観察・分析しないまま、あらっぽい提言へとつながっていく。

 

たとえば、

1.児童相談所と警察の情報の全件共有

たとえば、

2.貧困支援における脆弱な食料提供

 

などがある。

1.は、児童虐待発現の最大の原因は「引っ越し」だとも言われ、それは、自分たちの情報を警察にすべて握られることを恐れる加害親たちのメンタルにあるともいわれる。

2.は、とにかく食べ物を、という、若干差別めいた価値が底にあるのかもしれない。当然、食糧支援とは、缶詰やお菓子ではなく、あたたかいお弁当を指すのだが、このへんの心的襞に対して想像性が働かないようだ。

 

が、リーダーたちは、缶詰が食糧支援だとしてもそこに疑問を抱かない。

それだけ「素人」なのだ。

 

NPOリーダーたちは、缶詰を貧困支援だとしても疑問を抱かない。が、缶詰はどちらかというと個人の尊厳を傷つける。

NPOリーダーたちは、警察を恐れて引っ越ししていく心性を理解できない。

 

■リーダーの「暴力」が当事者をしらけさせる

 

当然、現場ソーシャルワーカーたちは、このへんの微細さに寄り添う。そして、NPOリーダーたちの無頓着ぶり、言い換えると「暴力」にさらされて、いかに当事者たちが傷ついているか、毎日聞かされている。

 

その傷つきが、どうやらリーダーたちには上がらないようだ。

そして、今日もまた素人リーダーたちは、素人的教条システムをつくり、現場支援者や当事者をしらけさせている。

カネ以前の場所〜休眠預金は何処に

タイトル: カネ以前の場所〜休眠預金は何処に

公開日時: 2019-01-17 21:15:18

   概要文: 休眠預金を選定する組織が決定したようだが、年間700億円析出される休眠預金中、30億円ほどが民間の青少年支援等を行なう団体に提供されるようだ。

 本文:

 

 

インパクト評価は遠い

 

休眠預金を選定する組織が決定したようだが(http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/2357   「休眠預金」の分配団体に「経団連」系団体が決定)、年間700億円析出される休眠預金中、30億円ほどが民間の青少年支援等を行なう団体に提供されるようだ。

 

その30億円を分配するための判断基準として、ソーシャルインパクト評価が重視されるという(https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20180911-00096497/ 数が「ソーシャルインパクト」か?~支援なんて、結局は「偶然の他者との出会い」)。

 

この引用記事でも解説したように、インパクト評価の根拠となる「成果指標(若者支援であれば就労に関するわかりやすい支援サービス〜面談や実習等〜)」と、支援対象者が陥っているひきこもり等の状態とはあまりに遠い。

ひきこもりや虐待サバイバーといった「当事者性」を強く持つものであればあるほど、インパクト評価が重視するわかりやすい支援指標には遠い。

 

面談にも実習にも、当事者はいつかはたどりつけはするが、それは何年も先だったりする。

だから若者支援でいうと、その代表的機関である「若者サポートステーション」には、当事者性が濃い若者ほど数回の面談で利用を中断してしまう。

 

成果と数字は、本当の当事者とは相性が悪い。

 

■哲学的に考察すると

 

この相性の悪さを哲学的に考察すると、「就労」以前の場所にある人々(ひきこもりや虐待サバイバー)が直面する根源的なコミュニケーションの場所に、「数字」や「カネ」が遠いという問題がある。

 

長くひきこもっていたり、幼少期に虐待されて他人とのコミュニケーションに難を抱えた当事者たちは、そもそも「コミュニケーションとは何か」という場所に立っている。

言い換えると、他人と交流するための「条件」について、はっきりわからず戸惑っている。

 

ちなみに、こうした困難さにぶつかることのない多くの人々は、この「他人と交流するための条件」について深く考察することはない。

それは難しく考えずとも自然に体験でき、いつのまにかクリアできてしまうジャンルである。

 

けれども、ひきこもりや虐待という体験が、その自然なクリアや移行にストップをかける。慎重になる。

 

他人とはそれほど簡単に出会えるものではない。友達、信頼関係、一生のつきあい、これらにつながる決定的な他人との出会いは、その理由を考え始めると、案外、論理的なものではない。

 

また、自分を支えてくれる他人(それはペットでもいい)との出会いは必然的なものではなく、すべては偶然からやってくる。かわいい飼い猫、理解のあるきょうだい、常に支えてくれるパートナー、それらの存在たちは、自分が意図して招いたものではない。

 

それらは気づけばそこにいる。計画的に招いたものでもないし、キャラ選定して自分の人生ゲームに配置したものでもない。いつのまにか自分の周囲に存在し、ある意味消去法的に残っていった存在たちがそれらである。

 

その消去法も、それらがなぜ残ったのか、それらをなぜ残したのか、多くの場合は明言できないだろう。

明言できず、残ったその理由もよくわからない。つまり、そこには残ることのできた理由、あえていうと「倫理」的必然(ある目的から導き出された理由)がない。

 

それらが残ったのは、結局は「偶然」なのだ。我々のまわりに配置されたペット、友達、恋人、きょうだい、親(これも消えていく場合もある)は、我々のもつなにかの基準で選別され残っている。

 

■なぜかペットたちは配置されている

 

この居残りの理由には基準がない。が、なぜかペットたちは配置されている。

ここに配置基準の倫理はないが、なぜか配置されてしまった(自分のまわりにいる)という倫理はある。「非倫理に基づく倫理」がここにはある。

 

この、非倫理に基づく倫理は、ある意味「偶然の暴力(選ばれる理由がないがそこに選択の決断が働く)」を伴っている。

選ぶ基準もないのに、それらは選ばれる(ペット、恋人、きょうだい・親)。そこに基準はないが、選ぶという「力」はある。

 

この「決断の力」は、残酷だ。残酷は、非倫理的ということでもある。この非倫理性、残酷さを受け止め、目の前の飼い猫に臨むことができるか。

目の前の猫を選択したある種の「暴力」を受け止めたうえで、その非倫理性の運命を受け止めたうえで、猫を愛し、野良猫のことも同時に考えることが我々にはできるのだろうか。

 

我々のコミュニケーションの根源には、このような残酷さが前提とされている。倫理的基準もないのに、我々は他者を選ぶ。この他者の選択が「倫理」ということでもある。

 

他者選択の根源性の場には、残酷はあるが、基準はない。この身もふたもない事実を、ひきこもりや虐待サバイバー当事者は直感的にわかっている。

だから、「コミュニケーション」に踏み出せない。残酷さへの気づきが、他人との触れ合いに関してためらう。

 

■倫理的基準もないのに、我々は他者を選ぶ

 

こうした残酷とためらいの動きへの考察を、「企業化」の動きは蓋をする。蓋をして金銭のやりとりに光を与える。

この蓋をすることと金銭化のとなりに、あの「夜の暴力(デリダレヴィナス)」、ほんとうの暴力が位置する。

 

偶然の残酷さはいつでもどこでも待ち構えており、これを隠蔽する「企業化」は、NPOが主ジャンルとする人間関係のやりとりのフェーズには馴染まない。

 

企業化NPOのなかから、特に若い人のなかから、そうした金銭化と企業化の暴力に疲れる人々が生まれるのかもしれない。

この「手数料」とは?〜企業化NPOの人々がみる「夢」こそが、社会を分断させるのではないか

タイトル(原題): 「企業化NPO」はネオリベラリズムの夢をみるか

公開日時: 2019-01-07 14:05:33

概要文: ネオリベラリズムの「夢」は、かなり無意識的なものである。そこにいるNPOリーダーやスタッフたちはネオリペを意識せず、「いいこと」をしている気になっている本文:

 

■医師の「告発」

 

今年僕は55才になるので、本稿のタイトルがいかにも80年代っぽい(映画「ブレードランナー」の原作タイトルのパロディ)になることはお許しくださいね。

 

さてみなさま、今年も本欄をよろしくお願いします。

昨年末は有意義な「提言」にたどり着けたものの(https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20181220-00108316/ であうことをつづけること~「高校生サバイバー」最終回、高校内居場所カフェの真髄https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20181212-00107377/ ローカリティとは「つながることをつづけること」~ひらの青春ローカリティ3とアンチソーシャルインパクト)、超バタバタと時間が流れたことは否めない。

 

だから年頭くらいはゆっくりすごそうと思ったのだが、そうもいかなかった。

それは、有名医師によるこの「問い」が大きな原因だ。

 

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/npo-423e.html 年の瀬に怒っていること・NPOフローレンスの寄付集め1

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/npo-e9fa.html 年の瀬に怒っていること・NPOフローレンスの寄付集め2

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/npo-203c.html 年の瀬に怒っていること・NPOフローレンスの寄付集め3

 

長年、特別養子縁組に取り組んできた河野医師が、某有力NPOの「手数料」の法外さについて、ある意味告発したもので、3には、河野医師と有力NPOの「価格」の差が示されている。

また1では、その有力NPOについて実名をあげることについて、ずいぶん苦悩してきたことも率直に述べている。

 

河野医師(産婦人医)は本を何冊も書いていたり選挙に出馬したりと著名な方ではあるが、一方では国内で賛否のある某ワクチンについて明確に賛成するなど、実に医師らしい規範の持ち主(保守的な価値も有する)である。

その方が、特別養子縁組に関する有力NPOの手数料の高さについて、ある意味「告発」している。

 

■ボランティア価格では、運動を継続させることは難しい

 

その有力NPOは誰もが知っている組織ではあるが、ここではその組織を糾弾するつもりはない。

上の、河野医師エッセイ3にある、河野医師料金とその有力NPO料金の「価格差」について、河野医師価格が良心的だと擁護するつもりもない。

 

河野医師は河野医師の信念に従って、有力NPOは法人内価格基準に従って値段設定しているだけだ。

河野医師はきつめの問題提起としてその料金(3ケタ)を取り上げるが、有力NPOにはそのNPOなりの単価があり、別にあくどいことをしようとしてその価格を設定しているわけではないだろう。

 

単にその「単価」が、その有力NPOが信奉する経済的価値に従って設定されただけだと僕は思う。

むしろ河野医師が示すような価格基準は、一般的にいって「持ち出し」が多く、とても採算がとれるものではないという判断をしていると予想する。

 

河野医師的価格は、経済的に困ることが稀な医師には許されるものの、組織として動く民間NPO的基準からするとありえない。そんなボランティア価格では、むしろこうした運動を継続させることは難しく、養親になれるほどの覚悟(経済的なそれも含)を持っている方々からであればいただいても差し支えない。

そんなふうに、有力NPOは考えているだろうと想像する。

 

ネオリベラリズムの「夢」は無意識的なもの

 

少し前に僕は、現在のNPOは、「新自由主義型」と「ローカリティ型」の2種類があるとした(https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20181205-00106582/ いまのNPOのかたち~新自由主義型とローカリティ型)。

 

98年のNPO法設立に尽力した松原明氏は、昨年9月の講演レジュメで、このテーマに関して、「企業化するNPO」と「公共的空間志向のNPO」に分け、前者を批判的に捉え、後者を望ましい市民セクターの姿として提示する(http://www.jnpoc.ne.jp/wp-content/uploads/2018/07/163899d105baca87d84650407d3c7dc8.pdf?fbclid=IwAR2rDnams4C8Ym6NrA-ldUvbjox7ZFCVVCyd3dHbxRmxg6W802Kfoio9qeY 岐路に立つ日本の『市民社会』 ~『公共』はどこへ行く?~)。

 

松原氏のいう企業化するNPOが、僕が当欄で名付けた新自由主義NPOだと思う。そして、氏の公共的空間志向のNPOが、僕のローカリティ型に近いと思う。

 

繰り返すが、僕は新自由主義NPOを否定しているわけではない。それはそれなりの「単価基準」をもち、若いスタッフたちに夢を与えるミッションをもっている。

 

ポイントは、その単価基準と夢は、戦後の世界経済の大きな流れの中では、80年代以降のネオリベラリズムの中に収斂されるものであると、ネオリべNPOリーダーたちが自覚しているかどうかだ。

 

僕の観察と分析では、若手スタッフはもちろん、リーダーたちでさえ、自分たちがネオリベラリズム新自由主義の中で夢見ていることを自覚していない。

 

新自由主義ネオリベラリズムとは第一に、行政の組織と財政のスリム化が目的であり、そのために民間が利用される。この、行政と民間の「ウィンウィン」こそがネオリベラリズムのキモとなり、たとえば青少年支援におけるクライエント第一主義は二番目三番目に成り下がる。

 

それを踏まえた上での、特別養子縁組の手数料3ケタなのだ。

だから、河野医師的「公共空間志向」などは後回しにされる。

 

繰り返すが、ネオリベラリズムの「夢」は、かなり無意識的なものである。そこにいるNPOリーダーやスタッフたちはネオリペを意識せず、「いいこと」をしている気になっている。

その「いいことの偽善性」(たとえば特別養子縁組での法外な料金)に気づけないという行為そのものが「残酷」であり、格差社会や階層社会における断絶の根源なのだと僕は思う。

 

企業化NPOの人々がみる「夢」こそが、社会を分断させるのではないか

学習への「絶望」~貧困支援のリアル

タイトル: 学習への「絶望」~貧困支援のリアル

公開日時: 2018-10-28 12:41:31
概要文: NPO が貧困コア層を排除し、コア層は主体的にその圏外から離脱。下流上部層が成功者として止ま

る。このように、下流層内での分断が進行するのが階層社会であり、NPO はその階層社会化の主体となってい る。

本文:

 

■ニッチなジャンル

 

下流層への学習支援」は、そもそもニッチなジャンルだったはずだ。下流層(特に子ども)支援の主な担い手 は児童相談所であり、その中身は大雑把ではあるが「ソーシャルワーク」だ。子どもにとって必要な「社会資源」 をリストアップし、関係者と地道に検討を重ねながら当事者に伝えていく。さまざまな行政や法の「壁」(対象年 齢等)と向き合いながら、ベストは無理としてもできるだけベターな解を探し出し、子どもや親に提供していく。

 

複数の担当者が「バトン」を何年にもわたって受け渡しながら、児童虐待であれば「アフターケア」という法整 備もされていない領域に子どもが到達しようが、なんとか方法を模索する。ひきこもりであれば、当事者が 40 才になりようやく安定しはじめたとしても、そこまで付き合いが続けばもはやそれは「友だち」でもある。

 

学習支援は、そうしたソーシャルワークの一環で発見できた一部の学習意欲のある子ども(数としては少ない) へのニッチなサービスとして始まったと記憶する。

 

そもそも、貧困コア層(生活保護世帯や生活困窮世帯~500 万人以上存在する)の高校生たちの多くが「学習」 に絶望していると僕は捉えている。


この 5~6 年、貧困支援のいろいろな局面で多くの高校生たちと出会ってきたが、主体的に「勉強」に取り組む 高校生たちをほとんど僕は知らない。

 

中退する生徒はもちろん、なんとかがんばって進級できたとしても、学習や勉強をそもそも諦めている。

 

学習能力はあるが勉強の環境が自宅にないために(自室がない、義理の親による面前 DV や心理的虐待〈怒鳴り 声〉が吹き荒れる等)学習から遠い生徒、おそらく児童虐待を起因とする「第 4 の発達障害」からそもそも学習 能力が低い生徒とさまざまな原因はあるが、いずれも共通するのは、学習への「絶望」だ。

 

能力があるないに関わらず、自分と「勉強」は遠い。能力が低い人はコンプレックスや自尊感情の低さと直結す る。能力はあるが環境が劣悪な人は周囲の大人を恨み、結果として学習できていないことにコンプレックスを抱 く。

 

そして、「絶望」とも言っていい諦めがだんだん形成されていく。 そうした諦めをもつ若者に対して無邪気に「学習」を進めることは、ある意味暴力なのだ。その無邪気な言葉か けにより、自尊感情が傷つき、そうした言葉かけをしてくる NPO 若手スタッフたちからひっそりと離れていく。

 

■学習支援が貧困コア層を隠蔽

 

そもそも学習支援もそうなのだが、NPO のサービスは「傍流」に位置してきた。 「下流層への学習支援」は、そもそもニッチなジャンルだった。NPO のサービスはいつもそうで、ホームレスの 人への自転車提供などもそうした「傍流」サービスだろう。が、宣伝上手でイギリス的海外仕込みの理論を持っ た NPO たちは、学習や自転車サービスの重要性を熱く説く。それは悪くはない。

 

残念なのは、特に下流層への学習支援がそうなのだが、ニッチがニッチでなくなりメインのサービスとして「転 倒」したあとだ。学習支援での成功例(下流上部層でそれは可能だ)が過剰に注目され、それにより、上に書い たような貧困コア層の子どもが持つ「学習への絶望」が隠されてしまう。

 

そもそも、自らのニッチ性に自覚的であることが必要なのだが、NPO 側の人々は「学習」によって今の地位を獲 得した(大学での成功体験)方がほとんどなので、そのニッチ性を忘れてしまう。

 

そうした意味では、自分の体験をことさらに強調する代表を持つ NPO は危ない(大学時代に誰と出会ったとかはどうでもいい)。それに反して、貧困コア層の言葉は、多くの場合、中流層出身(あるいは下流層上部出身)成 功者には届かず、その成功体験からは排除され、下流上部層の成功例/学習支援成功者のみ焦点化される。

 

NPO が貧困コア層を無意識的に排除し、コア層は主体的にその圏外から離脱し、下流上部層が成功者として止 まる。


このように、下流層内での分断が進行するのが階層社会であり、NPO はその階層社会化を主体となって推し進 めている。

 

つまり、学習支援が貧困コア層を隠蔽し、階層社会を固定化する装置となっている。

 

■コアな 2 段階

 

何が今の階層社会を固定しているか、多くの若者が潜在層になっているのはどこから始まっているのか。学習支 援(あるいは「語り合い」授業)という名のもとに、下流層上部をターゲティングし成功しつつ(ニッチサービ スとしてそれはあってもいい)、同時に貧困コア層を生み出して遠ざけているは何なのか。

 

今のところの僕の結論は、上に書いたように「NPO の存在そのもの」がそうした隠蔽化を生じさせているとい うものだが、ここでは、貧困コア層の若者支援において、いまの僕が到達した結論を述べておくことに止めよう。

 

それは、当欄でもたびたび触れているような、「高校内居場所カフェで当事者と出会う」ということがコアにあ る(https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20170915-00075804/ 朝の高校に「サードプレイ ス」はある~西成高校「モーニングとなりカフェ」スタート!)。

 

1.高校内居場所カフェという高校内サードプレイス(安全安心・ソーシャルワーク・文化提供の三本柱が理念) でコア層と出会う

 

2. 個 別 ソ ー シ ャ ル ワ ー ク ( た と え ば 「 ひ ら の 青 春 生 活 応 援 事 業 」 https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20171202-00078825/ 高校生「出口戦略」は、個別ソ ーシャルワークだった~「ひらの青春ローカリティ 2」報告)を通して潜在化を防ぐ

 

というものだ。 だからこれは、新自由主義的「ソーシャルインパクト評価」価値には馴染まない。

「涙」と「物語」で評価しよう~アンチ・ソーシャルインパクト評価

タイトル: 「涙」と「物語」で評価しよう~アンチ・ソーシャルインパクト評価

公開日時: 2018-10-13 13:02:56

概要文: 乳幼児だけではなく、我々は 90 年の人生のなかで、いくらでも泣く機会がある。 赤ちゃんや幼児の時期はすぐにすぎる。が、思わず涙が出てしまう人生のシーンはいくらでもある。

その時、あなたは泣けるか?
本文:

 

■ひきこもりと別の人間になれるわけではなく

 

ソーシャルインパクト評価とは、成果指標主義であり、当欄でも真の当事者が覆い隠されるとして批評的に論評 した(https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20180911-00096497/ 数が「ソーシャルインパ クト」か?~支援なんて、結局は「偶然の他者との出会い」)。

 

そこでも書いたとおり、支援なんて結局は偶然の人間たちの出会いで成り立ち、10 数年単位で変容していく当 事者のあり方を見つめ寄り添うものだ。


僕も何人ものひきこもり当事者の 10 年を見つめており、彼ら彼女らはそれぞれのペースで、徐々にではあるが 変容していく。

 

ソーシャルインパクト評価が求めるような短期間の変容は、長い人生の中ではたいしたことではない。また、ア ウトカムやアウトプットとして表現されるそれなりの数字であったり変容も、10 数年単位の変容と比較するとたいした変容ではない。

 

変容というか、長い期間ひきこもってきた人間が突然ひきこもりとは別の人間になれるわけではなく、また、虐 待サバイバーとしてサバイブしてきた人間が突然 PTSD の襲来をかわせるようになるわけではなく、彼女ら彼 らは、相変わらず「高齢こひきこもり」や「虐待サバイバー」として過ごす。

 

それは、40 代になっても同じだ。

 

■ジギー・スターダストからベルリンの壁の人へ

 

1~2 年単位では、人の変容は評価できない。

 

評価というか、クリティークできない。人の寿命 90 年を通して、人の変容は語ることができる。 あの、変容することがウリだったロックミュージャンのデビッド・ボウイだって、スペースオデッティ~ジギー・ スターダストからロウ、そしてレッツダンスからその次への変容を、いまだに全体的には把握できない。

 

ボウイが、ジギー・スターダストからベルリンの壁の人(ロウやヒーローズ)へと変容したことのポジティビテ ィは、これからも何十年かけて語られることだろう。

 

まあボウイのことはさておき、人の変容なんて、つまりは「就労」や「就学」ではない。

 

就労数や就労に向けての面談数、また、それらを通して「働くことにポジティブになること」や「就労モチベー ションを形成すること」、また学校に行った子どもたちの数や、学校に行くことで教育の意味を知ること、など は本当にたいしたことではない。

 

■乳幼児が流す「なみだ」は、また、異常に「球体」でもある

 

今の人間がだいたい 90 才で死ぬとして、働くことができるのは、せいぜいその間の 40 年間ほどだ。


その 40 年にしても、フルで働くひとは、病気等の原因からそれほど多くはないだろう。「仕事」は実は、人生の 断片にすぎない。だからそれを「評価」の中心にもってくる人々やシステムは、それなりの理由がある。

 

その理由とは、新自由主義だったり、行革だったり(あ、同じか)、経費削減だったり(あ、これも同じか)、現 役世代の中心たちがここ数十年の経済学的流行(新自由主義)を用いて応用する理由だ。

 

人がそれなりに社会に適応してそれなりに立派に生きることは、たぶん就労するとか就学することではない。そ して、それらの数を競うことでもないし、就労・就学にともなって変容した意識のあり方を披露することでもな い。

 

もっと重要なことが、我々の人生にはある。 そしてそれらは、すでに日常的に人々は共有していたりする。

 

それはたとえば、ヒトがもっている「感情」の具体的表象である「なみだ」だったりする。 泣くこと、涙を流すこと。その重要性を我々はすぐに忘れてしまうが、ヒトがこの世に生まれてきてまずやるこ とは「泣くこと」、産声を発することでもある。

 

自分はこの世に現れた、そして、へその緒を通してではなく、こうして泣くことで自分の肺で息をする。そのこ とを知ってほしい。

 

乳幼児が流す「なみだ」は、また、異常に「球体」でもある。ポロッポロッとそれはこぼれ出てくる。その球体 に、周囲の景色が丸く映し出され、小さくて丸い立体的な「透明球」が我々の汚れた社会を映し出す。

 

■こんなこと(なみだと物語)、我々は日常的に行なっている

 

乳幼児だけではなく、我々は 90 年の人生のなかで、いくらでも泣く機会がある。 赤ちゃんや幼児の時期はすぐにすぎる。が、思わず涙が出てしまう人生のシーンはいくらでもある。

 

その時、あなたは泣けるか? その時、泣けることはスゴイ。「評価」はそこに標的を合わせる。

 

また、人生の苦闘を「物語」で語ってしまうことは、我々の生活の中では普通だ。飲み屋のオヤジのトークだけ ではなく、たくさんの苦労話を、「ストーリー」として語ってしまう。

 

そのストーリーに入り込むこと、物語の一人物に収まってしまうこと、そうすることで、我々は我々の人生を「ラ イフストーリー」としてまとめていく。


そのまとまり方が、我々の 90 年の人生の意味となる。

 

こんなこと(なみだと物語)、我々は日常的に行なっている。なみだ=感情のほとばしり、人生の物語=生きる意 味の問いなおしを。我々は常に行なっている。 そこに「評価」があるとすれば、そうした問い直しの言葉を聴いてみたい。それらの言葉は、ソーシャルインパ クト評価をはるかに上回るだろう。

 

そう考えると、様々な数値や短期的変容を評価基準とするソーシャルインパクト評価が中心になることはありえ ない。