■寅さんと梅爺
アメリカ大統領選はマスコミでは一件落着のようだが、アメリカや日本のネットニュースを見ているとまだどう動くかわからないようだ。
その実態は別の論考に譲るとして、ここでは、昨年からの同大統領選やコロナ騒ぎにおいて見られる「表現」の制限について書いてみる。
それらの出来事では、テレビや新聞といったマスコミで報じられることと、インターネット内での人々の伝達の内容には大きな食い違いが見られる。
その内容の違いにはここでは触れない。ここで触れたいのは、ネット内でそれらの出来事をとりあげる発信において、数々の「隠語」が用いられていることだ。
それらを並べてみると、
寅さん
梅爺
狩人
ペンヌ(ややこしいが「ス」が本当)
P弁護士
DS
流行り病
等々、ふだんネットから情報を取得している人以外(普通に地上波テレビでニュースを見る大半の人々)からすると、ほぼ意味不明だ。
■ ユーチューバーたちは苦笑する
ネットといってもYouTubeがその中心になるが(TwitterもFacebookも規制は厳しい)、そこでは上の隠語の元名を連呼するだけで「BAN」するのだという。
だから、ユーチューバーたちは苦肉の策として、元名ではなく上のような隠語を開発し、それを元に状況分析をしている。
分析する時、ユーチューバーたちは現在の表現のし難さを「BANが恐いので申し訳ないです」等、謝りながら語る。多くの方々は誠実にその謝罪と分析を行なっている。
その不具合というかめんどくささを説明する時、多くのユーチューバーたちは思わず苦笑している。「まいったなあ」という感じで、その不便さについて嘆く。
■ ソビエト時代の作家たちのように
僕はこの苦笑と嘆きを見て、ああそうか、「表現の自由」が現実に奪われる時、人はこのように嘆き苦笑しながらそれでも表現に向かうのか、と思った。
それは、ソビエト時代の作家や記者たちのように、黒い「笑い」に包まれている。ソ連の官僚たちの日常生活を褒め称えつつ実態は揶揄しながら、ピリッと批評を込める。それはギリギリの表現ではあるが、その「笑い」表現の技術を市民たちは楽しんだという。
僕は去年からのYouTubeを見ていて、そうした言葉の言い換えがまどろしくって仕方がなかった。
また、「ああそうか、表現の自由の規制とはこういうかたちで日常に忍び寄るのか」と嘆いてもいた。
だが、それでも我々は表現しようとする。センスのない変な単語を連発しようが、伝達者には言いたいことがある。そして、その変な単語を咀嚼しつつ聞く者には「現状を知りたい」という欲望がある。
そういう意味で、「隠語」の意味を考えることができてよかった。
だが現在の状況は、そうした隠語が求められるくらい切迫した状況ではある。これは、昭和期の紋切り的規制(たとえば天皇制タブー)をはるかに超えて、「え、寅さん?」と驚くほど、少し前まで普通に使うことができた言葉がタブー化する状況だ。
■「新しい戦前」
「いま」はとっくに「新しい戦前」になってしまっている。ただ、その渦中にいる人々(つまり我々)は、その不自由さを実感し言語化するのを避ける。
数年前に比べて、明らかに公の場で使える言葉が絞り込まれ、「隠語」が求められ、その隠語の発語と同時に苦笑し嘆く。
そしてマスコミのニュースは基本「フェイク」である。
つまりはこの状況こそが、「新しい戦前」だ。
※Googleブログ(2021.1.8)より転載