tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

リモートでは「涙」は流れない——我々が 特別な「涙」の場所が必要な生物である限り

 ■リモートとリアル

 

コロナ騒ぎを契機として、インターネット技術を使った「リモート」コミュニケーションが一般的になってきた。

 

そのコミュニケーションは、仕事の会議や学校の授業などだろう。僕も普通に使用している。

 

現在のリモート技術はまだ黎明期で、3人以上のコミュニケーション体になると、①1対1の会話が終了するまで待つ、②会話の割り込みは混乱を生む、③笑い等に微細なズレが生まれる、④画面分割の限界は8人くらいまで、等々の「限界」がある。

 

これらの限界により、日常のリアル会話とリモート会話は、異なる会話技術が求められる。

 

リアル会話のほうが「言葉の意味」の比重は低く、声の質や表情、割り込み(ツッコミ)のセンス、その際の笑いや皮肉等、本来の会話の目的(会議や授業)から逸脱したコミュニケーション全般のセンスが入り込んでくる。

 

対してリモート会話は、言葉の意味を正確に伝えることが求められる、そのためには割り込みは秩序を乱す、笑いや皮肉はコミュニケーションの潤滑剤にはなりにくい、かといって「エクリチュール」としてのチャットがその代わりになるかといえばそうではなく現在進行形では会話に介入しにくい、等々の不自由さがある。

 

 ■トラウマ

 

だからリモートはコミュニケーションとしては大きく劣っている、とまでは言い切れない。リモートの多くの難点は技術の進歩で補えるように僕には思える。それが5Gか6Gか20Gかはわからないものの、近い未来には現在の不自由さ/技術の未熟さは補われると予想する。

 

現在のリモート技術でも、たとえば「トラウマ」は容易に刻印することができると思う。

 

主として視覚に訴えることを目的としてショッキングな画像を流せば、現在の技術でも容易に人を傷つけることはできる。「閲覧注意」という用語は一般的に流通している。

 

この、「傷つきの基準のズレ」が人によって異なり、ある人にはこれくらいなら大丈夫だろうと思ってアップする画像が、別のある人には大きな傷つきとなることは日常的に起こっている。

 

静止画や動画により、言い換えると視覚情報だけで、人は容易に傷ついてしまう。ここに、リモートとリアルという2つのコミュニケーションの違いはあまり関係ない。とにかく、激しい画像をシェアすれば、その画像を目にしただけで傷つく人は傷つく。

 

 ■涙とは、互いの「記憶」の重なりが響きあって溢れ出てくる生命現象

 

画像だけで人は傷つく。これとは対称的に、人間が流す「涙」のうち、ある種の涙は画像だけでは流れ落ちることはない。

 

涙にもいくつか種類があり、映画を見て泣く、誰かに怒鳴られて泣く、誰かに叩かれて泣く等、どちらかというとトラウマ(強烈な出来事とそれへの反応)に近い体験から生じる涙はリモートでも可能だと思う。ショッキングな画像が心に刻印されることとそれは同じ地平で起こっている。

 

だが、ある人とある人が深く語りあっているうちに、何かのきっかけでどちらかの目あるいは2人の目に涙が浮かび時には慟哭する、といった場面は、リモートでは不可能だ。

 

僕の仕事はソーシャルワーカーであり、ひきこもりや発達障害を持つ親御さんへの面談支援が中心なのだが、そうした「涙」の場面は珍しくはない。

 

それらの涙は、上に書いたようなトラウマ的衝撃から流れ出る涙ではなく、言葉と言葉の積み重ねから溢れ出る涙だったりする。いや、言葉の積み重ねを通じた、その先にあるであろう、互いの「記憶」の重なりや連なりのようなものが響きあって溢れ出てくる生命現象のようなものだ。

 

もちろん、僕とクライエントの方は面談以外のリアルでの共通体験はない。けれども、面談支援の中で生じる言葉たち、その言葉によって描かれる諸体験から想起される画像が、我々の心の奥の琴線に触れる。

 

僕は自分の言葉を紡ぎながら、「互いの共通体験は持っていないが、共通する心の響き」みたいなものを感じ始める。クライエントさんのお話を聞く。僕はそれを聴きながら、自分の体験を話したりこれまでの支援経験を一般化して話す。

 

そうした言葉たちが積み重なっていくと、互い(クライエントと僕)の心が「補完」しあっているような感覚がやってくる。

 

 ■「大聖堂」と「涙」の場所

 

レイモンド・カーヴァーの短編「大聖堂」のラストで、語り手と盲目の登場人物が手を重ねて想像だけで大聖堂をスケッチする場面が描かれる。

 

それまでさんざその盲人に対して文句を言う語り手だが、その最後の場面で2人で大聖堂を描く際、何か通じ合う感情が現れる。それは盲目の登場人物もそうだ。

 

そこでは「涙」は生じないものの、暖かい感情の交流のようなものが描かれる。

 

僕は、たまたま支援現場での不思議な「涙」の瞬間を書いてみた。この涙が現れる地平は、カーヴァーの「大聖堂」のスケッチの場面と同じレベルで起こっている出来事だ。

 

この出来事のレベルはある意味普遍的であり、単独的であり、再現不可能の場面だと思う。僕はそれを「涙」で感じ、カーヴァーは「大聖堂」の絵で感じた。

 

この、大聖堂と涙の地平は、おそらくリモートでは感じることはできない。この地平こそが「コミュニケーションの深淵」の場所であり、実は人と人が分かり合える唯一の場だと思う。

 

リアルコミュニケーションは、その涙の場所と直接つながる可能性を持っている。

 

対して、リモートコミュニケーションには、いくら技術が発達してもそこへの到達は不可能だと思う。

 

そうした意味で、我々が「人間」でいる限り(特別な「涙」の場所が必要な生物である限り)、リモートとコンピューターには限界がある。