tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

「感情体験」の場である家族に「解体」はない〜家族のアップグレード

■家族は居場所ではない

 

実は、「家族」は「居場所」ではない。

 

居場所とは、「サードプレイス」のことであり、それは「ファーストプレイス」である家族でもないし、「セカンドプレイス」である仕事(10代であれば「学校」)でもない。

 

居場所は、ファーストでもなくセカンドでもない、「サードプレイス」にある。サードプレイスとは居場所そのものでもある(オルデンバーグ『サードプレイス』みすず書房参照)。

 

具体的には、現在全国で60校ほど展開されている「校内居場所カフェ」がある。僕の法人でも2校ほど運営するそれは、高校というセカンドプレイスの中にあるサードプレイスであり、その気軽なアクセスのしやすさが生徒には格好の息抜きとなる。

 

■ファースト、セカンド、サードプレイス

 

仕事/学校というセカンドプレイスでは、若者や生徒は息抜きができない。かといってファーストプレイスという家庭でもそれは難しい。

 

普通は、家庭/家族こそが人々にとっての格好の息抜きの場であると想像するだろう。

 

現実は違う。家族とは、人間にとって最もトラブルが噴出する場であり、対立が起こる場であったりする。現実の殺人事件も、家庭が舞台になることは珍しくはない。

 

家族は決して息抜きができる場所でもなく、「ひとりになってゆったりできる場」でもない。

 

そうした息抜きの場は、サードプレイスなのだ。

 

高校内居場所カフェはそれに当たるが、ヨーロッパではカフェやバールなどがそれに当たる。日本では「街のお風呂屋さん=銭湯」が伝統的な居場所としてこれまで機能してきた。

 

ヨーロッパのカフェはまだまだ生き残っているだろうが、日本の銭湯はもはや絶滅寸前だ(車に乗って気合を入れて行く必要のあるスーパー銭湯はサードプレイスとしては弱すぎる)。サードプレイスが消滅寸前の日本の人間関係はギスギスし、人々は疲れている。

 

フェミニストの言う「家族の解体」はルサンチマン

 

校内居場所カフェを設置したり街の銭湯を復活させることは、人々のコミュニケーションを楽にさせることでもある。その意味で、高校に居場所カフェは増えてほしいし、街のお風呂屋さんにはなんとか生き残っていってほしい。

 

では、ファーストプレイスである「家族/家庭」の役割はトラブルの源泉だけに留まるのだろうか。

 

それは過激なフェミニストたちがいうように、「解体」することを求められているのだろうか。

 

そこには古い男権社会が残存し、女性たちは圧迫されているだろう。いっそのことそれを否定し解体するほうがスッキリするのかもしれない。

 

マルクス主義フェミニストやラディカルフェミニストたちはそう主張しているのだろう。女性差別の温床である「家族」は、いっそのこと「解体」したほうがスッキリする。それ(家族)を否定し、なかったものにする。

 

■感情が交差する場

 

だが、多くの人々はそうした「否定の行為(=解体)」は非現実的なものとして却下するだろう。

 

哲学的にはそうした解体は「否定」であり、まさにニーチェの忌み嫌ったルサンチマンだ。

 

自分が受け入れられないシステム(家族)を解体することでなかったものにする。そして、家族のない世界こそが「善」であると、価値を転覆する。こうした価値の転覆行為こそがルサンチマンである。

 

価値を転覆しそれをなかったものにし「解体」してしまう。それは最低の否定の行為だ。言葉では解体して勢いを得ているようでも、その価値操作こそが暗い暗い否定行為そのものである。

 

では、現在のトラブルの源泉である家族を、我々はどう捉えればいいのだろうか。

 

それは居場所=サードプレイスではない。それはまた経済的源泉=仕事=セカンドプレイスでもない。

 

それはあえていうと、

 

感情

 

が吹き荒ぶ場だ。あるいは、感情が凪いでいる場、感情がうねり立っている場、感情が殴り合っている場。

 

そう、家族とは何よりも、「感情」が交差する場だと僕は思う。そこで人は、人にとって大切な一つのあり方である感情を体験し学習する。

 

その感情の体験と学習の中で、時にぶつかり時に鬱となるだろうが、時に優しくなったり笑ったり泣いたりする。

 

■家族のアップグレード

 

そう、ひとが人に「なる」時、知識や技術(これらはセカンドプレイスで獲得)だけでは足りず、息抜きや休息(これらはサードプレイスで獲得)だけでも足りない。それだけでは、大人になれない。

 

ひとは、感情を知る・体験する・管理することによって成長し、大人になっていく。

 

その重要な体験を獲得する場が、家族である。

 

「感情体験」の場である家族には、フェミニストが言うような「解体」は現実には存在しない。解体ではなく、家族の変化をあえて言えば、

 

アップグレード

 

がそこにあるだろう。

解体するのではなく、家族成員それぞれの交差の経験により、その家族システムとシステムの成員たちが変化していき、質に変化が現れる。

 

その変化を言い換えるとアップグレードということであり、我々は家族をそのようにポジティブに捉えることで、それぞれの成員がさらに変化できると僕は思う。