tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

ATフィールドよ、さようなら

 

■それは、「新潮文庫をひとりで読む」程度のテーマ系

 

エヴァンゲリオンの最後の映画が3月に公開され、エヴァの諸記録を塗り替えて一般公開が終了しようとしている。

 

8月末にはDVDが販売される予定だそうで、それもものすごく売れるはずだろうから、まだしばらくこのブームは続くと思う。

 

僕は、エヴァテレビ版の最初の放映を95年にリアルタイムで毎週見ていた頃からのディープなファンだ。あのテレビ版衝撃の結末から、すでに25年以上がたってしまった。

 

また今回僕は、どうしても「シンエヴァ」を見に行く気になれず、今日に至っている。その割には、インターネットでの「ネタバレ動画」は100本以上は見ているだろう。だからたぶん、ストーリーの把握に関しては、映画館で1回見ただけの普通のファンとあまり変わらないと思う。

 

一般上映も終了に近づいたこの頃は、さらに「ネタバレ動画」が増えているようで、作り手側も許されるだろうと認識しているのか、以前よりもさらにコアなネタが暴露されている。

 

そうした暴露動画を繰り返し見ることで僕は、エヴァンゲリオンという作品が25年以上にわたって社会に刻印した「自分というATフィールドを打ち破ることのたいへんさ」が、あまりにも過大に表現されたのではないかと、頭を抱えてしまった。

 

ATフィールドなんてたいしたことない。

 

それは庵野監督にとっては生涯のテーマで、鬱も発症させる「自他の境界を抜ける」という大問題なんだろうが、それは多大なる予算をかけて25年にもわたって取り組み、「セカイ系」という大袈裟な一大テーマに拡大し、さらに諸外国にまでそのテーマを拡大・売り込む必要があるほどのものではなかったと僕は思う。

 

それは、思春期の中高生が、ひっそりと、「新潮文庫を買ってひとり読む」程度の、超ミニマムなテーマ系ではないだろうか。

 

■それはあくまでも私的領域で

 

碇ゲンドウは死んだ妻に会いたかった、アスカは中学時代の同級生が結局は帰る「港」だった、ミサトさんは父の研究の落とし前をつけた、等々、それぞれの結末が映画の終盤で描かれるそうだが、25年かけて世界を何回も破滅のループに陥れ、すべての「魂」をまとめたり解き放ったりするその世界観そのものが、結局はこの「死んだ妻に会いたい」という個人的欲望とシンクロする。

 

これが「セカイ系」(個人の物語と世界の破滅がパラレル)の醍醐味で、エヴァはその代表作品だが、今回「シンエヴァ」がすべて謎を解いた(たぶん)ことで、多くの人は感動した。

 

が、映画を見ずにネタバレ動画だけを見た僕は脱力した。多くてせいぜい15人ぐいの人物の自己実現欲求を叶えるために、アディショナルインパクトやロンギヌス/カシウスの槍やATフィールドという大層な設定が用意されている。

 

誰もが、「死んだ妻に会いたいのなら、目を瞑ってお墓に語りかければ?」とどこかで思っているはずだ。

 

僕は、死んだ父に会いたくはないものの、少し話しかけたい時は、彼の墓に立ち寄り、独り言を言う。「悪かったね、父ちゃん」とか。

 

セカイ系自体の脆弱さは、その無意味な大仰さに尽きる。

 

その大仰さの根源は、持て余す自意識の巨大さ、だ。それはこれまで、文学作品や漫画をひとりで読みながら、僕を含むそれぞれの思春期たちが乗り越えてきたテーマだった。

 

それらの作品は、サリンジャー大島弓子などメジャーな作家なものも含まれるが、両作家も持続的に売れ続けてはいるものの、「ひっそりと」読み継がれるタイプのものだ。

 

決してエヴァのように、世界規模で受け入れられるものではない。

 

自我と知者との領域とその越境は、あくまでもパーソナルな感覚のものであり、「ATフィールド決壊!」的軍事用語の中でフォーマルに叫ばれるものではない。

 

それはあくまでも私的領域にある感覚だ。

 

だが、その私的フィールドだけでは人が生きていけなくなる思春期において、人は、自分と「他」の間に生じた「裂け目」をゆっくりと開け、ゆっくりと「自他の交流」を行ない始める。

 

その私的フィールドと「他」の間で繰り広げられる交流は、大っぴらに語られるものでもないし25年続くものでもない。

 

それは、自分と他者たちとの狭い空間の中で、ひっそりと行われる通過儀礼なのだ。世界で100億円以上の売り上げと世界規模での公開と25年にわたるテーマの共有、といった、そんな大袈裟なものでは決してない。

 

セカイ系もATフィールドにも頼らず、「自分の力と偶然の出会いで」乗り越えていく、それが「自分とセカイ(他者)」というものだと思う。

 

だが、「ATフィールドの世界観」は25年も引っ張られ過ぎた。庵野監督のテーマを、我々は「商売」に仕立て上げ過ぎたのだと思う。

 

ATフィールドにさようならし、庵野監督に「あまりに長く引っ張り、世界市場化させてしまってスミマセン」と謝る時だと思う。