tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

「家族」は解体されない

「家族」は解体されない

 

 

■「感情体験」の集約の場としての家族

 

僕が最近思うのは、80年代/昭和フェミニズムの背景にある「家族解体主義」は、何かが決定的に欠落しているということだ。

 

それはたぶん、家族が含む人間の「信頼」の力を指す。

 

家族には「権力」(男性権力)も含まれそれを家族解体主義者は攻撃するが、同時に「感情」レベルの信頼も含む。その感情レベルのあり方を僕は以前当欄に書いた(「感情体験」の場である家族に「解体」はない〜家族のアップグレード)。

 

この、根源的な「感情体験」の場を集約するものとして、人は「家族」を形成している。この根源的な場を否定することはヒトを否定することにもつながると僕は思う。

 

この感情体験の中には、残念なことに暴力や権力が含まれる。それはたくさんある家族をめぐる小説や映画を想起すれば明瞭だ。もちろん、日常的に起こる、家族内での傷害や殺人も、感情体験の具体的実例だ。

 

 「おひとりさま」の称賛

 

家族の感情体験は同時に、「信頼」や「愛」と呼ばれる内面の動きや実際の行為も含む。

 

信頼や愛は、家族以外の関係(恋人・友人)の間でも生じ、家族解体主義者は、ヒトが持つ信頼や愛は現在の(権力を含む)家族システム以外で形成すればよいと説くのだろう。

 

現状の暴力と権力に満ちた家族をいったん解体し、現状の家族システムからそうした負の要素を抽出した人間関係を基礎にすればよい、と説くのだと思う。

 

その結果、たとえば「おひとりさま」の称賛といった行為につながっていく。また、オンナ同士の緩やかな関係の賞賛ともつながる。家族が孕む暴力と権力を否定し、緩やかで荒波のない平和な人間関係のみ残された世界で十分ではないかと。

 

家族解体主義の思春期的衝動には、(男性)暴力と権力への嫌悪を前面に出しつつ、ユートピア的社会集団(あるいは「静かに1人でいること」)への憧れ、がある。

 

それは、上野千鶴子氏がインタビューなどで時々語るユートピア社会のイメージなどを読んでいてもよく伝わってくる。それは、思春期の優等生的リーダーが描く理想社会なのだ。

 

 人間には「子ども」時代がある

 

だがおもしろいことに、人間には「子ども」時代がある。

 

子育てで最も重要だと言われる、概ね1.5才までのアタッチメント/愛着形成には、「数名の大人との安定したスモールワールドでの生活」の中での、「くっつき/アタッチメント」が欠かせない。

 

この体験がないと(つまり虐待被害を受け続けると)、いわゆる愛着障害に人はなり、生涯にわたって他人との安定したコミュニケーション形成に苦しむことになる。

 

このアタッチメント体験が、人間が持つ根源的「信頼」の力を育むと僕は思う。何もこれは最前線の発達心理学だけのテーマではなく、たとえば哲学者のデリダがいう「ウィ、ウィ」の領域(『ユリシーズ・グラモフォン』)、現象学での間主観性の領域などは、こうしたプレ・コミュニケーションの体験を軸に議論を展開している。

 

乳児時代と初期幼児時代、我々は少数の大人との濃密な「くっつき(アタッチメント)」によって、根源的「信頼」を獲得していく。

 

その少数の大人とはほぼ「両親」と同義だ(ここに祖母等が含まれる)。これはもちろん、実の親である必要はないものの、数名単位でなければ、乳児は「他者」を認識することができない。

 

そうして数名の他者を認識し、その認識をもとに日々のアタッチメントが実践され、根源的手者への「信頼」が育まれる。

 

これはたとえば、乳児院等での10数名のスタッフによる交代制育児では、乳児の認識能力の未熟さのために獲得できないものだ。

 

つまり、人の根本原理である「信頼」は、少数の大人が形成する安心できる場でしか形勢が難しく、それが現在では「家族」ということになる。

 

 家族解体主義の先にはディストピア

 

この「家族」を、まったく静かで平和な大人の関係性だけで完結する小集団へと変化させることが可能だろうか。そうした大人たちによって「子ども」を授かり、時々おとなたちは「ひとり」で静かに生活しつつも、育児も行なう、ということが可能だろうか。

 

冗談ではなく、これがおそらく家族解体主義者たちが描く「子育てのイメージ」だろう。陳腐なSF小説が描くような、出産は試験管と最新テクノロジー、育児は職業的「親」等な世界になれば可能かもしれないが、現在ではそれはディストピアとして描かれる。

 

そう、家族解体主義の先にはディストピアが待っている。

 

現実には、現状の家族システムをヒトは模索しつつも受け入れ、試験管ベビーも職業的親も例外に留まり、今の「家族」が継続すると僕は予想する。

 

その中で人は愛と信頼を模索し、同時に暴力と権力をできるだけ小さくするよう努力するだろう。その模索と努力の対象は、そう、「家族」だ。

 

つまりは、家族は解体されることなくアップグレードされたりダウングレードされたりして継続し続ける。これが僕の(僕だけではなく多くの人々が描く)「家族」だ。

 

家族解体主義は、自らのイデオロギーに忠実なあまり、「信頼」という基礎機能を育む現状の家族を丸ごと否定し、葛藤が極端に少ない夢想的な人間グループへとその信頼獲得機能を移行させようとする。

 

それはもしかすると、1万年単位で見ればありえないことではないかもしれないが、たとえば1万4千年前の縄文社会では今の家族はなかったものの、男性による支配と暴力は今よりも極端だったと思う。

 

たぶん「家族」を考えることは「ヒト」そのものを考えることで、それはフェミニズムのような社会学の一分野で担うにはあまりに広大な射程を含む。

 

いずれにしろ、この未完成で未熟な価値(家族解体主義)に支えられたイデオロギー(80年代/昭和フェミニズム)が日本社会を30年間席巻したことが、現在の多くの問題を産んだと僕は思う。