tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

NPOリーダーは、それを支持する人々の鈍感な欲望の象徴

NPOリーダーは、それを支持す人々の鈍感な欲望の象徴

http://toroo4ever.blogspot.com/2017/12/npo_28.html

■「中流階層NPOスタッフ+支持者の無難な欲望の集約」

昨日「劣化する支援2@静岡」を熱気満々のうちに終えて考えたことは、「劣化」でいつも話題に登るNPOリーダーたちはある種「中流階層NPOスタッフ+支持者の無難な欲望の集約」ということだった。

それはまずは某新聞の旧知の記者さんと話しているうちに気づき始めたことで、その新聞の読者たちは基本的に下流階層の「真の当事者」たちと出会っておらず、NPOリーダーが東京の裕福な区で貧困支援しようがその矛盾にはなかなか気づけないということだ。

NPOリーダーも真の当事者(サバルタン)とトークしたことがないかもしれないが、それを支持する多くの中流階層の人々=某新聞のメイン読者たちも、当事者と出会ったことがない。

新聞やテレビを通して当事者と呼ばれる人々を目撃しているかもしれないが、それは当事者を代表する人々(スピヴァクいうところのインドにおける地方有力者)であり、たとえば「自分たちの貧困のあり方」をことばで表現できたりする。

この、自分の状況を語れる人々は、下流層を代表する(ルプレザンタシオン/表象)人々ではあるが、真の当事者=サバルタンではない。

サバルタンは自分が何者かを「客観的に」語ることが難しい。不登校当事者が自分のことを不登校と名乗ったりラベリングされたりすることを極端に嫌がるように、真の貧困当事者あるいは虐待被害者は、自分が貧困であり虐待被害者だと認識しづらい。

それができるようになるには、自らに刻印された心的外傷をそれなりに突き放して見つめることができるまで時間がかかる。人によっては死ぬまで自分を客観視できない。

■そこがスピヴァクにはもどかしい

こうしたこと(当事者は語れない)は僕はずいぶん長いこと考えてきた。
これに加えて昨日「発見」したのは、サバルタンを代表する元当事者(ひきこもりであれば当事者ではなく「ひきこもり経験者」)の声を集約したり、そうした元当事者/経験者を同情的に支持する周縁の人々の「思い」を上手にまとめるリーダーが発生するということだ。

このリーダーは、元当事者/経験者でもなく支持者でもない。そうした多くの「声」をまとめ、象徴的にそれらの声が集約される人だ。

こうしたあり方(象徴としての運動リーダー)としてスピヴァクが『サパルタンは語ることができるか』の冒頭で例にあげるのが、哲学者のフーコードゥルーズである(あるいはナポレオン3世)。

フーコードゥルーズも悪人ではなくあくまでもマイノリティの側に立って発言しようとする。
けれども彼らがとりあげるマイノリティは、サバルタン的真の当事者ではなく、インドの地域名士的な人々であり、そこがスピヴァクにはもどかしい。

ルプレザンタシオンには「表現/表象」という意味とは別に、「代表/代弁」という意味も含まれ、フーコードゥルーズがマイノリティを代弁する役割を演じつつ、また彼らが見ている対象が真のマイノリティではない、マイノリティを代表する人々であることがスピヴァクの怒りを買う。

ひきこもりであれば、ディーブにひきこもっている人とは基本的にアウトリーチできないが、「経験者」になると出会うことができる。そうした一種の「ひきこもりエリート」だけを見てひきこもり問題全般を語る論者たちに、スピヴァクが再び日本に来日することがあれば大怒りするだろう。

■それを支持する人々の鈍感な欲望の象徴

誰もが知る有力NPONPOリーダーたちには悪意はない。団体の規模を拡大したいという素朴な資本家欲望がある程度だ。

彼らがうっとおしい存在になっているのは、彼ら彼女らという存在を置いて安定する、経験者や支持者の欲望の結果だと僕は気づいた。真の当事者を見ずに問題を語るリーダーの姿は、真の当事者に出会えない(あるいはそこから抜け出した)支持者や経験者にとってとても都合がいい。

そして、規模としては小さな病児保育や総合学習内での自分語りという「無難な事業」も、支持者にとっては都合がいい。また、裕福な区で貧困支援したりするその中途半端さも、スモールパッケージなわかりやすさがある。

決してNPOリーダーたちが鈍感なのではなく、そのある種の鈍感性は、それを支持する人々の鈍感な欲望の象徴なのだと僕は気づいた。

そうした意味で、昨日の「劣化する支援2@静岡」は大収穫だった。(^^)