tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のもう一つのブログです。時々短編小説も掲載します✌️

チルドレンファーストの地点にみんなが立って——共同親権vs.単独親権の、恩讐の彼方に

ついに、上川法務大臣により、離婚後の「養育費」と「共同親権」に関して、2月より法制審議会にかけられることになった。これにより、20年来の課題である民法改正が大きく進むことになる。

 

www3.nhk.or.jp

 

従来、離婚後の子どもとの「面会交流」を望む「共同親権」を支持する親たちと、DV被害を恐れる「単独親権」を支持する親たちが鋭く対立してきた(それは当コラムでも度々取り上げている)。

 

そこに、思想的対立(フェミニズム等)も絡み、同問題は長らく停滞してきている。

 

その最大の被害者は、「子ども」である。

 

小さな子どもはなかなか声をあげることは難しい。

 

そうした子どもが「自分の言葉」を完全に獲得するのは思春期以後だからだ。それまで、子どもという存在は、自分に近い大人たちの言葉や価値に「合わせて」生きる。そうすることで、子ども自身が、自分の存在の維持を無意識的に確保しようとする。

 

それはいわば、子どもによる究極の自己防衛だとも言える。近しい大人の考えに「合わせる」ことで子どもは自分の命を守る。

 

そうした事情から、「子どもの言葉」はずっと封印されてきた。離婚による最大の被害者であり「当事者」は子どもであるにもかかわらず、その「沈黙する当事者」の声が封印されてきた。

 

 **

 

そうした現状に対して、上川法相はこのように語る。

 

上川法務大臣は、記者会見で「父母の離婚で子どもは心身に大きな影響を生じ、親子の交流の断絶など深刻な影響も指摘されている。女性の社会進出や父親の育児への関与の高まりなど、養育の在り方も多様化している」と述べました。

そのうえで「チルドレンファーストの観点で具体的な検討を行っていただきたい」と述べ、民法などの必要な法律を改正するため、来月にも、法制審議会に諮問することを明らかにしました。

離婚後の養育課題解消へ “法律改正へ来月にも諮問” 法相 | NHKニュース

 

ありふれた言葉ではあるが、この「チルドレンファースト」という言葉が、この、共同親権と養育費をめぐる問題のキーワードとなるだろう。

 

この問題に長年取り組んできた串田誠一議員も、以下のようにツイートしている。

 

 

対立の議論、すなわち「共同親権vs.単独親権」「自由な面会交流vs.当たり前の養育費」等々の、長らく対立してきた諸観点を乗り越え、「チルドレンファースト」の一点で関係者がまとまることが求められている。

 

もうこれ以上、子どもたちに我慢させてはいけない。涙も流させてもいけない。小さな子どもに沈黙させてはいけない。

 

それが、「大人」の最大の倫理と責任だと僕は思う。

 

そう、恩讐の彼方にみんなが立って。

パーフェクト・デイ   (短編小説)

大学に入ることができたカナタは高校の知り合いたち全員と離れることができ、大学で先輩とも出会うことができ、ずいぶん毎日がおだやかになってきた。大学ではほかにも話し相手ができたものの、高校の頃のことは友だちにも先輩にも話していなかった。

その日の朝、高3のカナタは、旅行鞄に3泊分の着替えを詰め込み、最寄りの駅まで自転車でなんとかたどり着いた。鞄を抱え、それとは別にリュックを背負い、自転車置き場から改札へカナタは歩いていった。

気分は重かった。いつもの改札口がいつもより狭くなっているように感じた。いつもの定期券も少し重くなったように感じた。

自動改札の手前で、大きな猫柄の鞄を持つ中年女性がいた。その鞄には猫の絵が描かれているだけではなく、鞄の中から本当に猫の鳴き声がした。

女性は、「黙って、お願い」と鞄に向かって語りかけていた。だが鞄からはか細い猫の鳴き声が響いていた。

女性はそのまま改札に入るかどうか迷っていた。このままではすぐに電車には乗れない。女性は猫柄鞄を持ったままベンチに座り、鞄の外から話しかけている。「このままだったらお家に帰らなくちゃいけないよ」

カナタはその女性と猫柄鞄をずっと見ていた。それだけ改札の手前で猫の声が響いていて気になったというのもあったが、その猫の声がカナタに「改札に入らなくてもいいんだよ」と語りかけている気がしたのだ。

「お腹空いてるのかも」とカナタは女性に話しかけた。

「朝早かったけど、しっかり食べてたのよねえ」と女性は答える。不思議と、動物や赤ちゃんが間に入ると、知らない人同士でも話し合えるものだ、とカナタは思った。

「わたし、スルメを持ってた」とカナタはおやつが入った袋からスルメを取り出した。「こんなの食べるのかしら」

「まだスルメを食べるのは見たことないけど」と女性は笑って答え、「どれ、試しに食べさせようか?」

女性が鞄を開けると、トラ猫が首だけ出した。「あ、それ以上はだめよ、トロオちゃん!」

「トロ?」とカナタは聞いた。

「トロオなの。変わっているでしょ?」と女性は笑いながらカナタからもらったスルメを猫のトロオに差し出した。

トロオは目を細めてスルメの匂いをかぎ、慎重にそれをくわえてみた。

可もなく不可もなく、まあまあの味だな、という感じで、トロオは飼い主の女性を見上げた。

「偉そうだけどかわいいですね」とカナタは言った。

「そうなのよ、トロオちゃん、もう15才なのよ」と女性。

「なぜ改札に入りたくなかったのかな」とカナタは聞いてみた。

「そうねえ、たぶん」女性はトロオが鞄から飛び出ないよう、再びファスナーを閉めた。「電車に乗りたくなかったんじゃないかな。そんな子なんです」

カナタは、もう猫柄の鞄に収まってしまった猫のトロオの表情を想像した。トロオは偉そうに爪の間を舐めているのではないかと想像した。さっきまであれほど鳴いていたトロオは鞄の中では静かになっていた。

「あら、スルメが効いた!」と女性は笑った。「そういうことなのね、今日は電車に乗る日じゃなかったのよ」

女性はベンチから立ち、駅とは別の方向に歩き始めた。

「どこへ行くんですか?」とカナタは聞いた。

「イオンにでも行って、上等の缶詰を買ってあげようかなあ」と女性は答えた。「スルメ、ありがとう」

そのあと、カナタも、駅のコインロッカーに大きな旅行鞄を詰め込んで自転車置き場に戻り、再びその古びた自転車を発車させた。

その日からの修学旅行を、こうしてカナタはやめることにした。

 ※※※

旅行鞄がなくなったので、自転車は少し軽くなった。カナタは、高校とは反対側の方向へ、国道の端を自転車で進んだ。高校方面から逆に行くと、その国道はすぐに海岸にぶつかり、左に海を見ながら延々ワインディングロードが続いていた。

車は少なかったものの、風が強かった。こんな「逃避キャラ」は自分ではなく母のアキラだったのだが、カナタは修学旅行に行くよりはマシだと思っていた。

なぜわたしはこんなに修学旅行がいやなんだろう。

カナタは独り言を漏らした。自転車を漕ぎながら考えたものの、はっきりとした答えは見つからなかった。確かに先生も友だちも嫌いだけど。

高校の一大行事である修学旅行を休むほどの理由にはならない。管理されたスケジュールは心底いやだったし、友だちとのワンパターンの会話にも吐き気はした。だが、客観的には優等生のカナタが、2年以上に渡って耐えることのできたそれらの腐敗したシステムと人物たちを、たった3泊4日くらい我慢できなくなるとは自分でも信じられなかった。

そんなふうに修学旅行をパスしてしまうと、たぶん今日の午前には家か母の携帯に学校から連絡が入る。すると、母や父は心配するだろう。

とは思いつつ、自転車をカナタは止めることができなかった。

「あのトロオちゃんという猫も」とカナタはクスリと笑いながら言った。「いやなことには自己主張した」

わたしも。

カナタは自転車を漕ぎながら声に出してみた。「わたしも」

その声は少し自信がなさそうな細いものだったが、落ち着き始めていた。大型トラックがカナタの横を猛スピードで追い抜いた時も、

「なんだよ!」

と叫びながら、彼女はペダルに力をこめた。その力は、猫のトロオちゃんからのプレゼントのような気もした。

 ※※※

海沿いに大きな食堂があり、そこは観光名所らしく、何台も車が行列になっていた。カナタはその駐車場に自転車を停めて、少し休むことにした。

おやつ袋から朝のスルメを取り出して、口に入れてみた。塩っ気が絶妙で、これはトロオちゃんの機嫌もなおるわけだ。

人間に慣れている白い鳥たちがカナタのそばに5〜6羽近寄ってきた。スルメを鳥に差し出す気分にもなれず、カナタはそれらのトリが鳴きわめくのを傍観していた。

すると、観光客らしい家族が何組かその鳥たちに近づいてきた。鳥は自分たちに近づく人間を見ると大喜びで、だみ声で鳴き続けた。

家族の中の、幼稚園児らしき女の子が、鳥に話しかけている。

「カモメさんだよね?」白い鳥たちは子どもから2メートル程度離れた防波堤の上に並んでいた。「カモメさんだよね?」

横にいた母親らしき女性が、「カモメはね」と言った。「カモメはね、ゆっくり話しかけると人間が何を言ってるのかわかるんだよ」

「知ってるよ」と女の子は答えた。だが、そこから続かず、困った表情を浮かべ、母親を見返した。

「カモメさん、どこに行くの?」と聞いてごらんよ。母親らしき若い女は子どもに向かって答えた。「カモメさん、どこ行くの?」

「ああ、わたしが言うから!」女の子は母を制し、母と同じように聞いてみた。

「カモメさん、どこ行くの?」

母と娘は白い鳥たちからの返答をしばらく待っていた。最初にしゃべったのは母のほうだった。

「聞こえた?」母親らしい女性は笑っている。すると、その子どもは、

「聞こえたよ!」と大きな声で答えた。

母親はクスクス笑いながら、「なんて答えた、カモメさんは?」と聞いた。

女の子は、「ディズニーランドへ帰るんだって」と答えた。

そうしたやりとりをすぐ近くで聞いていた17才のカナタは、吐き気がした。

そして、目に涙が浮かんできた。口に含んだスルメのしょっぱさが痛いような気がした。

彼女は、「だからわたしは逃げてるんだな」と漏らし、大急ぎで自転車に再び乗ってその場所を離れた。

 ※※※

それからまた1時間自転車を漕ぐと、巨大な橋がカナタの目の前に現れた。カナタは自転車を停め、遅めのランチをとった。母のアキラが修学旅行のバスの中でとつくってくれた弁当だった。

先ほどの気分の落ち込みも、その弁当の味と目の前の巨大な橋の光景によって救われていた。

白い鳥と少女と若い母のやりとりのどこに吐き気がしてどこに泣きそうな気がしたのか、カナタにはわからなかった。だが、あの時あの場所をすぐに離れたのは正解だった。

ああした光景は今のわたしには毒だとすると、当然のことながら学校はもっと猛毒なので、じゃあわたしはどこに行ったらいいんだろう? とカナタは思った。一般的な居場所はわたしにとっては毒や猛毒だったりする。じゃあわたしはこの先、どこに安住することができるんだろう?

カナタはその場所で、考えたりコーヒーを飲んだり残りのスルメをかじったりしながら(携帯にも文字を打ち込んだりしながら)夕方近くまで過ごした。結局、帰る場所は家しかなく、再び2時間自転車を漕いで帰ると、もう暗くなっていた。家に近づくと、いつもより人が集まっており、カナタを発見したとたん歓声が沸き起こった。母にはずいぶん叱られ、父は泣いていた。

それから3日間、カナタはいつものように高校に通い、図書館でひとり自習をした。その自習した長い長い時間よりも、カモメと少女と若い母親から一生懸命逃げた1時間のほうが何十倍も長く感じた、と19才のカナタは、いま思う。本当に変な1日だったな。

明日、その変な1日について、先輩にがんばって話してみよう。人に話すのは初めてだけど。

 

 

リモートでは「涙」は流れない——我々が 特別な「涙」の場所が必要な生物である限り

 ■リモートとリアル

 

コロナ騒ぎを契機として、インターネット技術を使った「リモート」コミュニケーションが一般的になってきた。

 

そのコミュニケーションは、仕事の会議や学校の授業などだろう。僕も普通に使用している。

 

現在のリモート技術はまだ黎明期で、3人以上のコミュニケーション体になると、①1対1の会話が終了するまで待つ、②会話の割り込みは混乱を生む、③笑い等に微細なズレが生まれる、④画面分割の限界は8人くらいまで、等々の「限界」がある。

 

これらの限界により、日常のリアル会話とリモート会話は、異なる会話技術が求められる。

 

リアル会話のほうが「言葉の意味」の比重は低く、声の質や表情、割り込み(ツッコミ)のセンス、その際の笑いや皮肉等、本来の会話の目的(会議や授業)から逸脱したコミュニケーション全般のセンスが入り込んでくる。

 

対してリモート会話は、言葉の意味を正確に伝えることが求められる、そのためには割り込みは秩序を乱す、笑いや皮肉はコミュニケーションの潤滑剤にはなりにくい、かといって「エクリチュール」としてのチャットがその代わりになるかといえばそうではなく現在進行形では会話に介入しにくい、等々の不自由さがある。

 

 ■トラウマ

 

だからリモートはコミュニケーションとしては大きく劣っている、とまでは言い切れない。リモートの多くの難点は技術の進歩で補えるように僕には思える。それが5Gか6Gか20Gかはわからないものの、近い未来には現在の不自由さ/技術の未熟さは補われると予想する。

 

現在のリモート技術でも、たとえば「トラウマ」は容易に刻印することができると思う。

 

主として視覚に訴えることを目的としてショッキングな画像を流せば、現在の技術でも容易に人を傷つけることはできる。「閲覧注意」という用語は一般的に流通している。

 

この、「傷つきの基準のズレ」が人によって異なり、ある人にはこれくらいなら大丈夫だろうと思ってアップする画像が、別のある人には大きな傷つきとなることは日常的に起こっている。

 

静止画や動画により、言い換えると視覚情報だけで、人は容易に傷ついてしまう。ここに、リモートとリアルという2つのコミュニケーションの違いはあまり関係ない。とにかく、激しい画像をシェアすれば、その画像を目にしただけで傷つく人は傷つく。

 

 ■涙とは、互いの「記憶」の重なりが響きあって溢れ出てくる生命現象

 

画像だけで人は傷つく。これとは対称的に、人間が流す「涙」のうち、ある種の涙は画像だけでは流れ落ちることはない。

 

涙にもいくつか種類があり、映画を見て泣く、誰かに怒鳴られて泣く、誰かに叩かれて泣く等、どちらかというとトラウマ(強烈な出来事とそれへの反応)に近い体験から生じる涙はリモートでも可能だと思う。ショッキングな画像が心に刻印されることとそれは同じ地平で起こっている。

 

だが、ある人とある人が深く語りあっているうちに、何かのきっかけでどちらかの目あるいは2人の目に涙が浮かび時には慟哭する、といった場面は、リモートでは不可能だ。

 

僕の仕事はソーシャルワーカーであり、ひきこもりや発達障害を持つ親御さんへの面談支援が中心なのだが、そうした「涙」の場面は珍しくはない。

 

それらの涙は、上に書いたようなトラウマ的衝撃から流れ出る涙ではなく、言葉と言葉の積み重ねから溢れ出る涙だったりする。いや、言葉の積み重ねを通じた、その先にあるであろう、互いの「記憶」の重なりや連なりのようなものが響きあって溢れ出てくる生命現象のようなものだ。

 

もちろん、僕とクライエントの方は面談以外のリアルでの共通体験はない。けれども、面談支援の中で生じる言葉たち、その言葉によって描かれる諸体験から想起される画像が、我々の心の奥の琴線に触れる。

 

僕は自分の言葉を紡ぎながら、「互いの共通体験は持っていないが、共通する心の響き」みたいなものを感じ始める。クライエントさんのお話を聞く。僕はそれを聴きながら、自分の体験を話したりこれまでの支援経験を一般化して話す。

 

そうした言葉たちが積み重なっていくと、互い(クライエントと僕)の心が「補完」しあっているような感覚がやってくる。

 

 ■「大聖堂」と「涙」の場所

 

レイモンド・カーヴァーの短編「大聖堂」のラストで、語り手と盲目の登場人物が手を重ねて想像だけで大聖堂をスケッチする場面が描かれる。

 

それまでさんざその盲人に対して文句を言う語り手だが、その最後の場面で2人で大聖堂を描く際、何か通じ合う感情が現れる。それは盲目の登場人物もそうだ。

 

そこでは「涙」は生じないものの、暖かい感情の交流のようなものが描かれる。

 

僕は、たまたま支援現場での不思議な「涙」の瞬間を書いてみた。この涙が現れる地平は、カーヴァーの「大聖堂」のスケッチの場面と同じレベルで起こっている出来事だ。

 

この出来事のレベルはある意味普遍的であり、単独的であり、再現不可能の場面だと思う。僕はそれを「涙」で感じ、カーヴァーは「大聖堂」の絵で感じた。

 

この、大聖堂と涙の地平は、おそらくリモートでは感じることはできない。この地平こそが「コミュニケーションの深淵」の場所であり、実は人と人が分かり合える唯一の場だと思う。

 

リアルコミュニケーションは、その涙の場所と直接つながる可能性を持っている。

 

対して、リモートコミュニケーションには、いくら技術が発達してもそこへの到達は不可能だと思う。

 

そうした意味で、我々が「人間」でいる限り(特別な「涙」の場所が必要な生物である限り)、リモートとコンピューターには限界がある。

 

 

「新しい戦前」——表現の自由を奪われた時、我々は笑う

■寅さんと梅爺

 

アメリカ大統領選はマスコミでは一件落着のようだが、アメリカや日本のネットニュースを見ているとまだどう動くかわからないようだ。

 

その実態は別の論考に譲るとして、ここでは、昨年からの同大統領選やコロナ騒ぎにおいて見られる「表現」の制限について書いてみる。

 

それらの出来事では、テレビや新聞といったマスコミで報じられることと、インターネット内での人々の伝達の内容には大きな食い違いが見られる。

 

その内容の違いにはここでは触れない。ここで触れたいのは、ネット内でそれらの出来事をとりあげる発信において、数々の「隠語」が用いられていることだ。

それらを並べてみると、

 

寅さん

梅爺

狩人

ペンヌ(ややこしいが「ス」が本当)

P弁護士

DS

流行り病

 

等々、ふだんネットから情報を取得している人以外(普通に地上波テレビでニュースを見る大半の人々)からすると、ほぼ意味不明だ。

 

 ユーチューバーたちは苦笑する

 

ネットといってもYouTubeがその中心になるが(TwitterFacebookも規制は厳しい)、そこでは上の隠語の元名を連呼するだけで「BAN」するのだという。

 

だから、ユーチューバーたちは苦肉の策として、元名ではなく上のような隠語を開発し、それを元に状況分析をしている。

 

分析する時、ユーチューバーたちは現在の表現のし難さを「BANが恐いので申し訳ないです」等、謝りながら語る。多くの方々は誠実にその謝罪と分析を行なっている。

 

その不具合というかめんどくささを説明する時、多くのユーチューバーたちは思わず苦笑している。「まいったなあ」という感じで、その不便さについて嘆く。

 

 ソビエト時代の作家たちのように

 

僕はこの苦笑と嘆きを見て、ああそうか、「表現の自由」が現実に奪われる時、人はこのように嘆き苦笑しながらそれでも表現に向かうのか、と思った。

 

それは、ソビエト時代の作家や記者たちのように、黒い「笑い」に包まれている。ソ連の官僚たちの日常生活を褒め称えつつ実態は揶揄しながら、ピリッと批評を込める。それはギリギリの表現ではあるが、その「笑い」表現の技術を市民たちは楽しんだという。

 

僕は去年からのYouTubeを見ていて、そうした言葉の言い換えがまどろしくって仕方がなかった。

 

また、「ああそうか、表現の自由の規制とはこういうかたちで日常に忍び寄るのか」と嘆いてもいた。

 

だが、それでも我々は表現しようとする。センスのない変な単語を連発しようが、伝達者には言いたいことがある。そして、その変な単語を咀嚼しつつ聞く者には「現状を知りたい」という欲望がある。

 

そういう意味で、「隠語」の意味を考えることができてよかった。

 

だが現在の状況は、そうした隠語が求められるくらい切迫した状況ではある。これは、昭和期の紋切り的規制(たとえば天皇制タブー)をはるかに超えて、「え、寅さん?」と驚くほど、少し前まで普通に使うことができた言葉がタブー化する状況だ。

 

■「新しい戦前」

 

「いま」はとっくに「新しい戦前」になってしまっている。ただ、その渦中にいる人々(つまり我々)は、その不自由さを実感し言語化するのを避ける。

 

数年前に比べて、明らかに公の場で使える言葉が絞り込まれ、「隠語」が求められ、その隠語の発語と同時に苦笑し嘆く。

 

そしてマスコミのニュースは基本「フェイク」である。

 

つまりはこの状況こそが、「新しい戦前」だ。

 

 

Googleブログ(2021.1.8)より転載

「私怨フェミニズム」の呪縛にかかった普通の女たち

■私怨/昭和フェミニズム

 

共同親権運動を推し進めている人たちから時々聞くのだが、単独親権の思想的背景であるフェミニズムを「敵」に回すことは運動としては得策ではないらしい。

 

僕は自称フェミニストで、マイフェイバリット論文はスピヴァクの「サバルタンは語ることができるか」(みすず書房)なのだが、この1年ばかりは「私怨/昭和フェミニズム」を批判してきた。

 

それはこのエッセイ(「私怨フェミニズム」の罪)でも表現した。ここでのこんな一文は、従来の「私怨/昭和フェミニズム」がいかに真の当事者(サバルタン)である子どもの声を隠蔽し、その思想自体が新たなマイノリティ問題(子どもの連れ去りや虚偽DV)を産み出すかを訴えようとしている。

 

 

「女性」に焦点化するあまり、家族内の真の当事者である「子ども」が潜在化されている(「離婚技術」としての虚偽DVと、子どものアブダクション/拉致の蔓延。その結果、子どもと「別居親」との関係が疎遠になる)
(略)

 このように、軽口で「私怨」を語り、その恨みを「男」や「男社会」に縮約する「私怨フェミニズム/昭和フェミニズム」には、令和2年現在、大きな「責任」が生じている。

 

それは、カネを握り、メディアを制し、行政施策に大きな影響を与えているからだ。

つまり、「女性」は未だに性暴力被害を受けながらも、同時に「権力」にもなっている。男性はもちろん今も権力ではあるが、女性は「第2権力」になっている。

 

私怨/昭和フェミニズム(これに関してはこの記事も参照〈母権優先-昭和フェミニズム-単独親権司法〉権力)は、令和の時代、さまざまな悪影響を多方面に及ぼしていると僕は感じる。

 

だが、ある意味こうした「正論」を展開することは、たとえば共同親権という具体的なムーブメントを継続していく時、まったく得策ではないらしい。

 

■普通の女たち

 

それは、どんな理由であれ(たとえば共同親権の法制化運動)、その運動の「敵」として(私怨/昭和)フェミニズムを対立させてしまうと、なんといえばいいのだろう、その私怨/昭和フェミニズムの呪縛にかかった多くの女たちからその運動が排斥されてしまうのだ。

 

排斥までいかなくても、「無言の警戒」のような壁を、その運動(たとえば共同親権の法制化運動)につくられてしまう。

 

そうした動きは僕もよくわかる。僕もここ1年以上共同親権運動に深く関わってきたが、この「無言の警戒」のような壁に何度か当たってきた。

 

僕としては、長らく勉強してきた「臨床哲学」あるいは哲学の方法論に従い、既存の価値を「カッコに入れた」だけなのだが、そこには私怨/昭和フェミニズムの大きく高い壁があった(具体的には単独親権派が持つ権力による反発)。

 

だがその古くてリジッドな私怨/昭和フェミニズムだけならまだマシだった。

 

そこには、その古くてリジッドな思想に囚われた普通の女たちの存在があった。

 

■「私は生きづらい」

 

社会保障費など含め大きく見積もって8兆円、小さく見ても数兆円は硬い女性関連の予算の思想的背景として、私怨/昭和フェミニズムは存在する。上の引用にもあるように、それは立派な「権力」だ。

 

だが、その「権力になった」という事実よりも、身の回りに散見される女性差別に、普通の女たちは苦しんでいる。

 

相変わらず女性差別はある。うっとおしい男たちもオジサンから若者までそこらじゅうに存在する。そうした身の回りの男たちの振る舞いと同時に、社会制度(給与や昇進、産休・育休を含むM字カーヴ問題諸々)や社会規範(ありすぎて書けない)、まさにありすぎて言えないほど女性差別はそこらじゅうにある。

 

だから、8兆円か数兆円か知らないし、上野千鶴子氏のうっとおしさもよくわかってはいるのだが、

 

「私は生きづらい」

 

という事実は変わらない。

 

その生きづらさのために、フェミニズムを批判する議論に対して無意識的に警戒してしまう。

 

その批判されているフェミニズムは私怨であり昭和だとは十分認識している。けれども、自分が日々晒されている差別と天秤にかけると、私怨/昭和フェミニズムがどんなに自己中でも支持せざるをえない。

 

私怨/昭和フェミニズムの欠点は十分知っている。が、それがない世界よりはまだマシだ。

 

という結論により、普通の女たちは「無言の警戒」を行なう。具体的には、私怨/昭和フェミニズム(たとえば上野千鶴子氏)のナンセンスさを理解しながらも、フェミニズムへの批判には敏感になる。

 

現代の日本社会は、この敏感さが一つの世論になっている社会だ。

 

僕としては、一線の共同親権運動家が嘆くように、フェミニズムアンタッチャブルなものとしたくはない。

 

その欠点(私怨と昭和)、その影響力(既存の女性差別を利用した社会的呪縛)を十分言語化し、現代の女たちの不自由さについて言及していきたい。

 

 ※googleブログ(「私怨フェミニズム」の呪縛にかかった普通の女たち)より転載

なぜ「虚偽DV」を信じることができないのか——「DVにウソはない」という社会規範

ホンモノのDVの怖さは、毎回の打撲や流血、あるいは激しい怒鳴り声やカネの奪取という瞬間的暴力よりも、

 

「このオトコ/オンナ(30代夫婦のDV加害者は妻のほうが多い)に一生つきまとわれるかもしれない」

 

という心理構造の背景にある関係性のようだ。

 

その関係性は多くは「共依存」と呼ばれ、激しい暴力や怒鳴り声の数時間後や翌朝に現れる加害者の「謝罪」現象で判断することができる。

 

もう2度としない、ごめんなさい、と涙を流し謝罪する加害者を見て、被害者の妻や夫は、

 

「今回は許してあげよう」

 

と思ってしまうようだ。そして、

 

「わたしが殴られるからこの人は外で事件を起こさない、この人を守っているのはわたしなのだ」

 

という、独特の心理構造に陥る。

 

 **

 

こうしたホンモノのDVの背景にはアルコールやギャンブルといったアディクション(依存)の問題もあり、そうした「アディクション〜DV/暴力〜共依存」のリンクが、密室的で閉鎖的なカップルたち(つまりは現代的夫婦関係)をギリギリの場所に追い詰めていく。

 

このギリギリのドメスティックな関係性には、前回当欄で書いたような「加害者と被害者の彼岸」のような微妙な領域での暴力的コミュニケーションも日常的に発動している。

 

その暴力的コミュニケーションは、心理学的には上に書いたような共依存と呼んでもいいだろう。だが実際は、一方的に物理的暴力の被害に遭いながらも、精神的関係においては加害者を支配することも珍しくない。

 

「わたしがこの人に殴られているから、この人は外で犯罪をしない」

 

という思考法はその典型例で、殴られながらその人は常に「上」にいる。

 

**

 

こうした歪んだ暴力性に対し、旧来の「昭和/私怨フェミニズム」は、加害者を男性と断定し(繰り返すが30代夫婦は加害者は妻が多い)、そのナイーブな暴力構造には決して言及しない。

 

言及せず、DV相談=DV現象と断定し、「被害者の女性」を救う形式を採用する。

 

現実には、たとえばこの記事(夫が語るリアルDV被害「お前が追い込んだ! 一生後悔しろ!」と殴り書きの遺書 | 週刊女性PRIME)で取り上げられるような、加害者はアルコール依存の妻であるが、たまたま夫が反抗したその場面を切り取って、DV加害者=夫のような昭和/私怨フェミニズムにはわかりやすい構図に被害者を引き摺り込む。

 

けれども、「DV加害者は男性」だという紋切り価値に導かれ、実際にDVがある時でも、そのDV現象の複雑さは省みられず、私怨/昭和フェミニズムが提唱する「夫/オトコ=加害者」という構図に引き摺り込む。

 

その引き摺り込みを、司法(裁判所や弁護士)や警察や行政は深く分析せず信じてしまう。

 

ここには、私怨/昭和フェミニズムが常に言及する男社会の旧弊さという理論に、その男社会の中で出世してきた弁護士・裁判官・警察官・行政パーソンが反論できないという構図も潜む。

 

 **

 

「虚偽DV」とそれに伴う「子どもの拉致」は、毎年20万組が離婚する日本社会では大きな社会問題になっている。これはEU社会にも被害を与え、今年2020年にはEU議会で批難決議される事態にもなった。

 

だがその虚偽DV(DVのでっち上げ)を理由に離婚に持ち込み、世界で超少数派の単独親権システム下で子どもと「別居親」が会えなくなるという日本社会での人権侵害(子と別居親いずれに対しても)は、毎日、数十〜数百件起こっていると言われる。

 

その悲劇を再発させないために虚偽DVの事実を被害者は懸命に伝える。

 

けれども、その虚偽DVは法曹・メディア・支援者・アカデミズム等、「関係者」にはあまり伝わらない。

 

虚偽DVは、そのひどい実態を被害者(別居親)が訴えたとしても、司法・メディア・支援者・アカデミズム等の関係者にはあまりつ伝わらないのだ。

 

それどころか、DVを実はしているんじゃないかという疑いの目で見られてしまうということも事実だ。

 

 **

 

それは、上に書いたような、

 

共依存を中心とした現実のDVのエグさ

 

②そのエグさが、私怨/昭和フェミニズムによって「オトコ=加害者」という紋切り的図式にあてはめられる

 

③いったんこの構造に現実の暴力が「縮減」された時、司法・メディア・支援者・アカデミズム等は反論できなくなってしまう。それだけ、私怨/昭和フェミニズムの言論の力は強く、同時に、①の事実から炙り出されるエグさ(それは主として「オンナが殴られる」という紋切り的場面で描かれる)とインパクトにより、それらDVとして訴えられる現象の多くに「虚偽」が混じっている事実を思考することをためらわさせる

 

④その「(虚偽DVを思考できない)ためらい」は、まさにDV業界が産んだ「規範」である

 

等の絡み合いから導き出された傾向だ。

 

つまり、私怨/昭和フェミニズムが単純に縮減したDV構図の中から「虚偽DV」は弾き出され、司法や支援といった関係者はDV紋切り思考に捉えられてしまう。そうした積み重ねの結果、

 

「DVにウソはない」

 

という社会規範が形成されたということだ。

 

 

 

 

 

 

DV支援者は「DV」を理解しているのだろうか

■暴力とは「主体」による刻印

 

共同親権に社会が向かうとき、DV加害者にとってそれ(共同親権)はDVターゲット(被害者)を加害者が発見しやすいとDV支援者はいう。

 

そのため、それを理由にして、DV支援者は共同親権に反対し、現在の単独親権に執着する。

 

動機はDV加害者へのそうした警戒であるが、その単独親権への執着がエスカレートし、離婚支援の「技術」として「子どものabduction アブダクション/拉致」が定式化された。

 

アブダクションの理由とてして「虚偽DV」が確立され、それを助けるように女性支援センター等での「相談記録」のみでDVという事実が確立される。

 

その、「虚偽DV→子どものアブダクション」の被害にあった別居親たちが、現在は徐々に名乗りをあげて訴えている段階だ。

 

こうした理不尽のもとには、「DV/ドメスティックバイエレンス」の捉え方がある。

 

現在、DVは児童虐待と同じように、「心理的」「経済的」「無視(ネグレクト)」のようにその「暴力」のあり方が拡大されて捉えられている。

 

その拡大方針には僕は賛成だ。これまでの社会は「暴力」や「傷つき/トラウマ」に対してあまりにも寛容で、現実の肉体と肉体が衝突するそれ(性暴力含む)を、主として暴力と捉えてきた。

 

だが、哲学の分野では、たとえばデリダなどは、「名付けの始まり(何かに対して名前をつける)」ことが根源的暴力だとする哲学者もいる。

 

哲学的には、「主体」や「自我」が強引に何か(「他者」)をカテゴライズすることが暴力だとされる。

 

暴力とはそれほどナイーブなものであり、主体が強引に行なう事象(怒鳴る、無視する、懲罰としてカネを与えない)はすべて暴力になる。

 

■包丁を構える「被害者」も

 

そんな、「主体による刻印」としての暴力のあり方と同時に、

 

「その暴力はいつも一方通行なのか」

 

という問いを僕はこれまでずっと考えてきた。

 

たとえば誰がが誰かを殴る場面を想定してみると、2人が対峙している時に、いきなり一方が一方を殴ることはほぼない(見知らぬ他人への衝動殺人くらいか)。

 

多くは、口論(心理的暴力)がその身体的暴力の前に続いていたはずだ。

 

そして、何かのきっかけで「手が出る」。その「手が出る」手前の時点で、心理的暴力(怒鳴り合い)が多くの場合は発生している。また、その心理的暴力が発生する前の段階では、何日にもわたる無視/ネグレクトもあるだろう。

 

そのネグレクトに追い討ちをかけるために経済的DVも、「水責め」のようにして発生することがあると思う。

 

経済的暴力を黙って受ける人もいれば、心理的暴力(怒声)で逆襲する場合もある。

 

そのような、いくつもの「暴力」が重なって身体的暴力に到達するが、その身体的暴力の場面においても、殴られっぱなしでありながらも怒鳴り返す人もいると思う。また、一方的に怒鳴られながらも、殴られている間「黙ってにらみ続ける(ある種のネグレクト)」人もいると思う。

 

あるいは、殴られた後、衝動的にキッチンに走っていき、包丁を構える「被害者」もいる。

 

■暴力の複雑性を「縮減」してDVは成り立つ

 

このように、ドメスティック・バイオレンスという一事象には、各種の暴力が含まれている。

 

では、こうした何通りもの複雑な暴力が発生するDVの場において、なぜ「加害者」と「被害者」を特定することができるのだろうか。

 

それは簡単で、被害者が自分は被害者だとして名乗りをあげるからだ。

 

仮にそこに身体的暴力があったとして、その被害者が身体的被害を受け骨折などを被った場合、その2人の暴力的やりとりの中での被害者と加害者は特定できる。

 

また、骨折や痣などの身体的暴力がなかったとしても、「私は怒鳴られた」としてDV支援センターに相談に行くと、その名乗り行為自体がDVの事実として認められる。

 

多くは一方的に怒鳴られることは少なく、ネグレクトも含めると非常に緊張感の高いコミュニケーションが展開されているはずだが、名乗りや相談という二次的出来事を一次的出来事(暴力)に含まれるものとして認定される。

 

つまり、我々の社会では、「暴力の複雑性」の分析をそもそも諦めており、物理的事象(骨折等)や被害者を自認する者の名乗りにより、犯罪行為としての暴力が成り立つ。

 

犯罪行為としての暴力とは司法が認める暴力のことで、暴力行為の複雑性を「縮減」する社会システムが「法」ということだ。

 

デリダが『法の力』でいうように、何かを法的に定立する際、そこには不思議な力(デリダは衒学的言葉ではぐらかすが)が働き、どこからが暴力でどこまでは暴力ではないか、誰がどの時点で加害者であり被害者なのかは、実は「科学的」には証明できない。

 

初めに書いたように、「暴力のコミュニケーション」であるDVの複雑な実態を細かく追っていくと、その複雑性に眩暈がする。

 

その複雑性を「縮減」して初めて、実はドメスティック・バイオレンスは成り立つ。

 

■DV支援者の倫理は、暴力の複雑性を伝えること

 

その縮減もある種の暴力であるが、「起こっている事態をこのように括りまとめる(縮減する)ことをしないと、その暴力的事象を社会は捌けないんですよ」

 

と、まずは、DV支援NPOや弁護士はそのDVに関係する被害者と加害者に伝える倫理があると僕は思う。

 

その倫理に支援者は自覚的になって初めて、被害者と加害者をそれこそ「暴力的に」位置付けるDV支援の複雑さを社会に提示できる。

 

その複雑さを意識せず、表面的訴えのみにしか耳を貸さない(そんな紋切り的捉え方しかできない)多くのDV支援者は、それこそ暴力的だとも言える。