tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のもう一つのブログです。時々短編小説も掲載します✌️

ATフィールドよ、さようなら

ATフィールドよ、さようなら

 

 

新しく公開された「シンエヴァンゲリオン」映像

 

 

 

 

 

 

■それは、「新潮文庫をひとりで読む」程度のテーマ系

 

エヴァンゲリオンの最後の映画が3月に公開され、エヴァの諸記録を塗り替えて一般公開が終了しようとしている。

 

8月末にはDVDが販売される予定だそうで、それもものすごく売れるはずだろうから、まだしばらくこのブームは続くと思う。

 

僕は、エヴァテレビ版の最初の放映を95年にリアルタイムで毎週見ていた頃からのディープなファンだ。あのテレビ版衝撃の結末から、すでに25年以上がたってしまった。

 

また今回僕は、どうしても「シンエヴァ」を見に行く気になれず、今日に至っている。その割には、インターネットでの「ネタバレ動画」は100本以上は見ているだろう。だからたぶん、ストーリーの把握に関しては、映画館で1回見ただけの普通のファンとあまり変わらないと思う。

 

一般上映も終了に近づいたこの頃は、さらに「ネタバレ動画」が増えているようで、作り手側も許されるだろうと認識しているのか、以前よりもさらにコアなネタが暴露されている。

 

そうした暴露動画を繰り返し見ることで僕は、エヴァンゲリオンという作品が25年以上にわたって社会に刻印した「自分というATフィールドを打ち破ることのたいへんさ」が、あまりにも過大に表現されたのではないかと、頭を抱えてしまった。

 

ATフィールドなんてたいしたことない。

 

それは庵野監督にとっては生涯のテーマで、鬱も発症させる「自他の境界を抜ける」という大問題なんだろうが、それは多大なる予算をかけて25年にもわたって取り組み、「セカイ系」という大袈裟な一大テーマに拡大し、さらに諸外国にまでそのテーマを拡大・売り込む必要があるほどのものではなかったと僕は思う。

 

それは、思春期の中高生が、ひっそりと、「新潮文庫を買ってひとり読む」程度の、超ミニマムなテーマ系ではないだろうか。

 

■それはあくまでも私的領域で

 

碇ゲンドウは死んだ妻に会いたかった、アスカは中学時代の同級生が結局は帰る「港」だった、ミサトさんは父の研究の落とし前をつけた、等々、それぞれの結末が映画の終盤で描かれるそうだが、25年かけて世界を何回も破滅のループに陥れ、すべての「魂」をまとめたり解き放ったりするその世界観そのものが、結局はこの「死んだ妻に会いたい」という個人的欲望とシンクロする。

 

これが「セカイ系」(個人の物語と世界の破滅がパラレル)の醍醐味で、エヴァはその代表作品だが、今回「シンエヴァ」がすべて謎を解いた(たぶん)ことで、多くの人は感動した。

 

が、映画を見ずにネタバレ動画だけを見た僕は脱力した。多くてせいぜい15人ぐいの人物の自己実現欲求を叶えるために、アディショナルインパクトやロンギヌス/カシウスの槍やATフィールドという大層な設定が用意されている。

 

誰もが、「死んだ妻に会いたいのなら、目を瞑ってお墓に語りかければ?」とどこかで思っているはずだ。

 

僕は、死んだ父に会いたくはないものの、少し話しかけたい時は、彼の墓に立ち寄り、独り言を言う。「悪かったね、父ちゃん」とか。

 

セカイ系自体の脆弱さは、その無意味な大仰さに尽きる。

 

その大仰さの根源は、持て余す自意識の巨大さ、だ。それはこれまで、文学作品や漫画をひとりで読みながら、僕を含むそれぞれの思春期たちが乗り越えてきたテーマだった。

 

それらの作品は、サリンジャー大島弓子などメジャーな作家なものも含まれるが、両作家も持続的に売れ続けてはいるものの、「ひっそりと」読み継がれるタイプのものだ。

 

決してエヴァのように、世界規模で受け入れられるものではない。

 

自我と知者との領域とその越境は、あくまでもパーソナルな感覚のものであり、「ATフィールド決壊!」的軍事用語の中でフォーマルに叫ばれるものではない。

 

それはあくまでも私的領域にある感覚だ。

 

だが、その私的フィールドだけでは人が生きていけなくなる思春期において、人は、自分と「他」の間に生じた「裂け目」をゆっくりと開け、ゆっくりと「自他の交流」を行ない始める。

 

その私的フィールドと「他」の間で繰り広げられる交流は、大っぴらに語られるものでもないし25年続くものでもない。

 

それは、自分と他者たちとの狭い空間の中で、ひっそりと行われる通過儀礼なのだ。世界で100億円以上の売り上げと世界規模での公開と25年にわたるテーマの共有、といった、そんな大袈裟なものでは決してない。

 

セカイ系もATフィールドにも頼らず、「自分の力と偶然の出会いで」乗り越えていく、それが「自分とセカイ(他者)」というものだと思う。

 

だが、「ATフィールドの世界観」は25年も引っ張られ過ぎた。庵野監督のテーマを、我々は「商売」に仕立て上げ過ぎたのだと思う。

 

ATフィールドにさようならし、庵野監督に「あまりに長く引っ張り、世界市場化させてしまってスミマセン」と謝る時だと思う。

男もなぐられる〜なぐられ、虚偽DVされ、支援措置され、実子誘拐され、実子と会えず、自死に追い込まれる

 
 ■男もなぐられる

 

当欄でも度々指摘するように、ドメスティックバイオレンス=DVの局面においては、男性もたびたびなぐられる。

 

DVは児童虐待と同様、身体的暴力の他に心理的(言葉)なものや経済的なものも含まれる。これらの被害に、もちろん男性/夫もあっている。

 

労働組合「連合」の調査では、30代の夫婦の場合、被害者は夫側が多い(ハラスメントと暴力に関する実態調査(2017年)

 

また、「夫婦間の殺人」においても、近年になり、男女の被害数が拮抗している(殺人事件の2割が夫婦間で起きている背景事情 全体は減少傾向にあるが親族間は増えている)。

 

要は、女/妻も相変わらず暴力の被害に遭っているものの、同じくらい、男/夫もその被害に遭っている。年齢によっては男のほうがその被害に遭っている。

 

要は、80年代以降のフェミニズムの定着化が招いた、「男=加害者=悪」というイメージは、最近の調査によって、男性加害の拡大解釈であることがわかってきた。

 

 「男は黙って耐え忍ぶ」

 

事実は男性加害ばかりではなく男性被害も多い。つまり、現代社会の夫婦等の「カップリング」においては常に暴力が起こり、そこにジェンダーの差異はない。

 

ここに「虚偽DV」や「DV支援措置(被害者の住所を秘匿できる)」「子どものアブダクション=誘拐=連れ去り」などが絡み、シンプルな「暴力の悪」に加えて、その「悪」を根拠にしたさまざまな「DV被害者が有利になる技術」が開発されている。

 

そうした事実があるものの、この30年間の(80年代/昭和フェミニズム)の蔓延により、新しいエビデンスがアップデートされておらず、支援機関にも女性が利用しやすいものがほとんど(DV支援センターや女性相談センター等の窓口)なため、男性被害者が孤立している。

 

また、これまで固定化された「男性ジェンダー規範」が男性自身を縛っているため、仮に相談機関ができたとしても、なかなか当事者はそこを訪れない。

 

男性ジェンダー特有の、

 

「男は黙って耐え忍ぶ」

 

的美学の罠に陥っている。それを、離婚弁護士を筆頭にした、「80年代/昭和フェミニズムシステム」が両手をあげて歓迎する。

 

 新しい治安維持法

 

DVで生じる暴力は「傷害罪」や「暴行罪」に適合するのだが、DVという概念下においては、刑事事件化しない「ドメスティックバイオレンス」として捉えられる場合がある。

 

それは、上に示した「DV支援措置」の範囲内で捉えられるもので、「暴力の『事実』は問わず『相談』の事実のみでDV判定する」という奇妙な基準のことだ。

 

被害者を自認する者が、暴力の事実とは別に、DVの不安を各相談センターに申告するだけで、そしてその申告・相談の記録が各センターに残っただけで、「事実としてのDV」が確立される。

 

これは非常に恐ろしいことで、「あの人ヤバそうだから捕まえて」と相談しただけで、そのやばそうな人には完全に情報が絶たれるということだ。これは、DV相談という衣を被った、

 

「新しい治安維持法

 

のような意味合いを持っている。そして、その「相談という密告」により、密告された者の社会的立場を一瞬にして奪い、その者に流れる情報を遮断する。

 

■光を当てよう

 

まず、「男もなぐられる」。

 

そして、この新しい現代のありようは、「なぐられる男」を、①虚偽DVや②DV支援措置や③実施誘拐といった被害に合わせ、男をさらに追い込んでいく。

 

その結果、④実子と「面会交流」できないかもしれない(できても月数時間)、そして⑤鬱状態に追い込み、多数(統計には出ていないが1,000人は超えると僕は読んでいる)の自死者を生み出している。

 

日本社会は、こうした悲劇の事態を、平成から令和へと流れる数十年の時間の中で生み出してしまった。そろそろそこに光を当て、変化させるときだ。

 

※妻/女性側の被害も承知していますが、今回は男性被害者の顕在化に光を当てました。ご理解いただければ幸いです。

サバルタン=オンナは、フェミニストのせいで語れない

  **

 

僕は日々、このオトコ社会で苦闘する10代女性のカウンセリングを行なっている。

 

オトコ社会の暴力性は21世紀になってもなんら変化しておらず、特にそのターゲットとされる10代から20代前半の女性は、その被害(心理から身体まで幅広くターゲット化)に日々あっている。

 

ここで具体的なことは書けないが、その悔しさで、女性達は毎日泣いている。

 

加害側の男性ジェンダーのほうは、意識的な暴力(心理的・経済・ネグレクト・身体+性等、被害項目は児童虐待と同じ)から、無意識的な暴力(これは主として心理的と経済)まで、80年代と変わらず反復されている。

 

無意識的な(心理的/言葉の)暴力には、紋切り的な「からかう・皮肉を言う」のほか、男性ジェンダー自身の女性との関係局面での苦労話のかたちをとりつつ女性を侮蔑する、自分(男性)にはとても太刀打ちできないなどと自分を「下」に置きつつ女性をからかう等、高等技術というかひねくれまくったものもある。

 

また、30代の夫婦のDV被害者には男性のほうが多いという事実(逆DV “アウトレイジ”な妻に泣く30代夫)もある。

 

自分(男性側)を女性の「下」において皮肉を言いつつ相手を目下すという無意識的な暴力の根拠には、現実に男性が暴力を受けているという事実もある。決して、ルサンチマン的心情だけで男性は皮肉を言っていない場合もある。

 

 **

 

このように、現代の女性差別をめぐる事態は錯綜している。

 

けれども、冒頭に書いたように、若い女性たちは80年代と同じようにオトコ社会から差別される屈辱を日々味わっている。

 

だが、そのように差別される女性達は、人類史開始から延々と続く、

 

①既存の男性権力

 

に加えて、もう一つの窮屈さに縛られなかなかモノを言えない状況に追いやられている。

 

それは、

 

②「プチ権力化したフェミニスト」への世間からの反発

 

という事態だ。

 

男女共同参画センターやDV支援など、「女性」関連の予算は8兆円規模ともいわれる(少し古いが→平成30年度における第4次男女共同参画基本計画関係予算について 内閣府男女共同参画局調査課)。

 

また、上野千鶴子氏をはじめとして物言うフェミニストは国立大学教授等、それなりの社会的ポジションに座り、行政システムの中でも中核に位置する方も多い(その反対に、「政治」は女性議員が圧倒的に少ないが)。

 

年間8兆円の予算がつき、アカデミズムや行政にはそれなりのポジョンを占める人々が多数存在する「女性」の現状は、

 

プチ権力

 

といっても言い過ぎではないと思う。

 

 **

 

この状況(「女性」がプチ権力化している)のおかげで、「現場」で日々差別される主として若い女性達の立場が窮屈になっている。

 

「オンナのしんどさ」をどれだけ訴えても、権力を有するオンナの現状に敏感な「現場の」オトコたちはそこを突いてくる。

 

なんやかや言っても、お前たち(オンナたち)は権力とカネを持っているじゃないか、と。

 

そう言われると、個別に現場で苦闘するオンナたちは沈黙してしまう。

 

一般論として、「権力とカネを持つオンナ」という様態は事実だからだ。その事実に圧倒され、差別される現場の若いオンナたちは沈黙する。サバルタン=オンナは語れない。

 

つまり、プチ権力化したフェミニストは、その存在によって、自らサバルタン(語れない現場のオンナたち)を創出している。自らの存在によりサバルタンを生む、典型的権力と暴力がそこにある。

法制審議会「監視付き親子交流」を問う ユニークトーク6/16(水)19:00

田中俊英Facebookタイムライン

6/16(水)19:00 いつでも再視聴可 無料

田中俊英(officeドーナツトーク

石井政之ユニークフェイス研究所)

 

法制審議会に「監視付き親子交流」という人権侵害の動きがあるという疑いも出てきたりして、法制化に向けてさまざまな動きが出ています。それをユニークフェイス石井さんと検証します。オンライン無料♪

 

 

【今回のユニークトークでは、以下の3つの話題について語り合います。

山尾志桜里(国民民主党所属の政治家)・倉持麟太郎(弁護士)事件

https://bunshun.jp/articles/-/45105

https://news.yahoo.co.jp/articles/64475aeeb76b43dfec36be18b7df79276ef07f42

・書籍 「共同親権が日本を救う」(高橋和孝著 幻冬舎

  市民ジャーナリズムが、批判する力をもちはじめた

https://ishiimasa.hateblo.jp/entry/2021/05/17/090759

・「監視付き面会交流」が議論されている、という情報 

  法制審議会ウオッチング 

https://www.sankeibiz.jp/econome/news/210513/ecc2105131321001-n1.htm

 

いずれもホットな話題で、重要な問題です。しかし、めまぐるしい状況の変化のなか、注意しないと半年後には忘れてしまうかもしれません。このユニークトークによって、リスナーと共に記憶にとどめていたいと考えています。

お気軽にご参加下さい】

「夢」に似たオンラインコミュニケーションでは、我々は「孤独」に追い込まれる

 

■オンライン会議では変になる

 

以前から僕は、zoomなどを用いてオンライン会議等をするとき、何か変な感覚に陥っていた。

 

その感覚の「哲学的」理由がこの頃わかった気になったので、簡潔に書いてみる。

 

哲学者のデリダは『ユリシーズグラモフォン』という小さな書物の中で、「ウィ、ウィ」という不思議な概念を提案している。

 

「ウィ」とは英語の「イエス」のことだが、デリダのいうウィは普通言われるところのイエスではなく、メタレベルでのウィだ。

 

相手の言葉に対して「イエス/はい」と返事するのが普通のウィだが、メタレベルのウィとは、

 

「はい、あなたはここにいてもオッケーですよ」

 

という、これから始まる2人のコミュニケーションを承認する意味での「イエス」のことを指す。

 

「あなたと私のコミュニケーションがこれから始まりますね、こう思うこと自体がすでにふたりのコミュニケーションが始まっていることの印ですよね。

私は、そのコミュニケーションが存在してしまっている、そのこと自体を承認します」

 

この、コミュニケーションが成り立つための「土台」がすでにあることを認めること、これがデリダの言う「ウィ」のレベルだ。

 

 「前提と継続と相互干渉のウィ」

 

ただし、このウィは、もう一つウィを伴い、「ウィ、ウィ」としてあるとデリダは語る。

 

このあたりを哲学者の高橋哲哉氏は以下のように説明する。ちょっと難解だが引用してみる。

 

この根源的なウィ、根源的な約束は、それ自身すでに他者の呼びかけへの応答である限り、じつは根源的とはいえず、他者に先立たれている。私が実際の発話以前に、またあらゆる発話とともに、無意識のうちにウィを発しているとき、私はつねにすでに他者からウィを発するよう求められているのであり、その呼びかけを無意識のうちに聞いてしまっているのである。私のウィはつねに第二のウィで、他者のウィに先立たれている『デリダ』高橋哲哉/講談社より、p313

 

いかにも哲学者らしく難解だが、僕は単純に、

 

①コミュニケーションの前提としてのウィ

 

がまずはあり、それを維持するものとして、

 

②それを維持するウィ

 

があると単純に考えることにしている。加えて、

 

③常にすでに相互干渉している、それらのウィ

 

という3つ目のオーダー(水準)も隠されていると思う。

 

いわば、①は「前提のウィ」であり、②は「つづけるウィ」であり、③は「相互干渉するウィ」とも言い換えることができる。

 

この、「前提と継続と相互干渉のウィ」が、我々のコミュニケーションにはあらかじめ含まれている。

 

高橋氏の言葉で言うと、

 

「この根源的なウィ、根源的な約束は、それ自身すでに他者の呼びかけへの応答である」

 

そしてこれは、

 

「他者に先立たれて」おり、「私のウィはつねに第二のウィ」

 

ということになる。

 

■「線」ではフォローできない

 

この、「前提と継続と相互干渉のウィ」は、オンラインという、まさにその電子的なか細い「線」ではフォローしきれない。

 

その線の細さでは、「前提と継続と相互干渉」の水準を捉えきれないのだ。

 

これはおそらく、身近な人とのオンラインコミュニケーションでも同じだと思う。

 

従来の電話で長時間しゃべる、FacebookやLINE等のSNSの「テレビ電話」サービスを用いて交流する、zoomを用いてテキストやパワポ資料なども活用する等、あらゆるくふうをしても、何かが物足りない。

 

それは、そうしたオンラインコミュニケーションには、「前提と継続と相互干渉のウィ」が少ししか存在しないからだ。

 

いわば我々のコミュニケーションは、メタレベルの「前提と継続と相互干渉のウィ」がなければいけない。

 

前提と継続と相互干渉のウィがなければ、それらのない「夢」に似たオンラインコミュニケーションだけでは、我々は、人は、「孤独」に追い込まれてしまう

「2ちゃんねる」が終わり、「革命」が始まっている

■「搾取」には説得力がない

 

Twitterだけではないが、ここのところ、既成リベラル/サヨク勢力による、SNSの炎上を利用した、「革命」運動が目立つようになってきた。

 

その趣旨は、以前当欄でも言及したように、19世紀以来の革命の原動力である「搾取」への対抗では説得力を持たなくなってしまった今、サヨク勢力が革命への起点とするのは、「差別」になったということだ。

 

それを僕は、下のように表現した。

 

 

皮肉なことに、革命が成就するためには、差別は解消されてはいけない。それは絶対的モチベーションの起点だからだ。

 

マルクスが科学的に解析した「搾取」が資本主義から理論的に生まれていたように、現代コミュニズムを続けるためには、「差別」も理論的科学的に存在し、永久に続く必要がある。

 

BLMの活動家はもちろん、日本のフェミニズム団体であるたとえばWAN(NPOウィメンズ アクション ネットワーク 上野千鶴子代表理事)の理事等もそれをよく知っているはずだ(黒人解放運動もフェミニズムも、60年代誕生時から大幅に変節した)。

「差別」は永久に続く必要がある〜21世紀の「革命」のために - tanakatosihide’s blog

 

もちろん、労働者はマルクスが分析した19世紀以来、変わらず「搾取」されている。

 

けれども21世紀の今、その理不尽な被搾構造は、なぜか労働者の団結には至らない。なぜか、「資本家」による搾取は労働者(非正規労働者は日本でも2,000万人もいるというのに!)の怒りを呼ばないのだ。

 

その代わり、過酷な非正規労働によって疲労する労働者の怒りにフィットするのが「差別」である。

 

アメリカでは「人種」、日本では「女性」がその具体例になる。

 

労働者という大雑把なマイノリティではなく、黒人や女性といった、被差別カテゴリーの代表格が、代表的両先進国の権力構造を覆す運動(革命)のシンボルとなっている。「搾取」は全く説得力を欠くコンセプトに成り下がってしまったのだ。

 

■虐待サバイバー、離婚時の子ども、DV被害を受ける夫たち

 

そこで利用されているのが、SNSである。

 

日本の某野党においては、2013年頃に「SNSを利用せよ」という指令が全党員30万人に飛ばされたという。

 

このネット時代の中で、先進的技術を利用して自らの「運動」を利用しているのはサヨク/リベラルだというのは注目される。

 

あの「2チャンネル」はとっくに40才前半ネトウヨたちのマニアックな媒体に成り下がってしまった。

 

今や社会を劇的に揺り動かす(それは「差別」言説などを利用して保守政治家や権力層を攻撃する)のは、SNSを「革命」運動の媒体と意識する既成サヨク/リベラルな人々だということだ。

 

こうして、SNSが「革命の技術」として利用されると、皮肉なことに、そうした革命主体たちが最も擁護したいであろう「真の当事者」たちが隠蔽・潜在化されていく。

 

真の当事者たちとは、

 

虐待サバイバー、

離婚時の子ども、

DV被害を受ける夫たち、

 

等々の、社会問題の構造の中で「サバルタン」化している人々のことだ。

 

■子どもたち他を新たな被差別者として規定している

 

SNS時代の革命主体たち(アメリカでは黒人、日本では女性)は、その潜在化されたマイナーのことを意識しているのかどうかはわからないか、自らの反差別運動に熱狂する。

 

その熱狂は、それぞれの革命主体たちの数百年に及ぶ怨恨のことを想像すると仕方がないのかもしれない。

 

19世紀から20世紀にかけて中心だった「搾取と労働者」というマイナーカテゴリーは古臭くなり、ついに自分たちの時代がやってきた。

 

その、被差別を起点にして社会変革/革命を求める熱狂は、皮肉なことに、20世紀後半から新たに出現した「完ぺきに潜在化するマイナー」、言い換えると「サバルタン」であるところの、子どもたち他を新たな被差別者として規定している。

 

 

ふたりは、こころの湖で手をつないで ③午前3時の、星と吊橋

翌朝、ヒカリと先輩は旅館の幽霊の手から無事逃れ、JRに乗り、上野、品川、横浜と来て、伊豆へと到達した。

チェックインは16:00頃、伊豆なのに夕食にはやはりトンカツが出てきて、けれどもふたりはそれを不思議に思わず淡々と食べた。

そのあと、それぞれ風呂に入り、それぞれの部屋でのんびりしたあと、先輩の部屋に集まった。

ヒカリも先輩も、その宿の近くに、2時間ドラマなどによく出てくる崖と橋があることはよく知っていた。けれども、ふたりは、その橋に行くかどうかはまだ決めていなかった。そしてふたりは、そんな崖と橋にはあまり興味はなかった。

テレビを流しながら、ふたりはぐずぐずしていた。このままでは、それぞれの部屋に戻って寝るしかなかった。ヒカリも先輩も、今夜はそれでもいいかと思っていた。

時間はすでに夜の9時を過ぎていて、テレビからは変な映画が流れてきた。

それは、地球からはるか遠い惑星にたどりついた宇宙船と船長の映画だった。

ヒカリには、その惑星の奇妙な映像が印象的だった。映画好きの先輩はその映画のことはよく知っていたけれども見るのは初めてだった。ふたりは同時に、

「変な星」

と言った。

モノクロではないのだが、シンプルな色がうごめくその惑星は木星のような鮮やかさはない。けれどもふたりには、星がしゃべっているように見えた。

その星の表面は、木星のような巨大なガスの帯でもなく、かといって月のようなガチガチしたものでもなく、あえていえば、木星の蠢きに月の表面の色が乗ったような感触だった。

ヒカリは、そのモノクロの蠢きを見ながら、

「星がしゃべっているみたい」

と繰り返し言った。先輩は、

「しゃべるというよりは、何かを僕にこの星は手渡したいようだ」

とつぶやいた。ヒカリはそれを聞いて、確かに星自身が私たちに何かを渡そうとしているみたいと感じた。

「星には手はないのに」とヒカリは漏らし、「何を私たちに渡そうとしてるんだろ」と続けた。

 **

その映画を見たあと、自然とふたりは旅館の近くの吊橋を見に行こうということになった。

ゆかたを着替え、ふたりは静かに玄関で靴をはき、旅館の外に出た。

今夜も大きい月がふたりを照らした。月の光は暗いようで明るく、吊橋に向かう小道をスポットで照らしているようだった。

途中、松の木の影が何本もふたりを覆った。松の木は不気味で、それら低い松たちもふたりに語りかけているようにヒカリは感じた。

そのように先輩に言ってみると、

「松はどちらかという無口なんだよ」と真面目に答えた。

それを聞いて、松を不気味に感じて申し訳ないとヒカリは思った。そう、無口な植物もたくさんいるのだ。

そこは地図には「海岸」と表記されていたが、実際に行ってみると、絶壁の崖だった。

確かに、2時間ドラマで何度も見た光景ではあったが、足元から届く恐ろしい波音は、ふたりを縮み上がらせた。

ヒカリは先輩の手を握り、先輩も強く握り返した。

はるか下の足元は湖ではなく岸壁と海だったので、絶えず大きな波の音がふたりを襲った。

そこは観光地なので、そうした足元の波しぶきを、何本ものスポットライトが照らした。

強くお互いの手を握ったふたりは、そのライトに照らし出された波を観察し続けた。吊橋は常時揺れたが怖くはなかった。それよりも、さっき旅館で見た遠い星の表面に足元の海は似ているとふたりは思った。

「あの海に」とヒカリは言った。「私たちの考えは読まれているのかしら」

「読まれそうだ」と先輩は返した。「読まれるというか、吸収されそう」

おそらく午前3時前だというのに、波音はふたりの身体をさらっていくほど低く荒かった。そこにライトが照らされ、昼間であれば白く見えるはずの波が何かを語っているようだった。

その時先輩は、

「聞こえた?」

とつぶやいた。

「はい」とヒカリは答えた。

ふたりには、はるか下の足元の波が何かを語りかけたように感じたのだった。

「波がしゃべるというよりは、何かを僕らに手渡したいんだろうか」と先輩。

ヒカリは、さっき旅館で見た惑星の映画を思い出した。

惑星は、いつもわたしたちに何かをしゃべりかけ、何かを手渡そうとしている。それはいったいなんなんだろう。

 **

ヒカリは声に出していないはずだった。けれども先輩はこんなことを言った。

「星が僕らに手渡したいモノはわからないけど」先輩は静かにつづけた。

「君と出会えてよかったよ」

その言葉を聞いて、ヒカリはなぜか一瞬にして80才のおばあちゃんになっていた。

80才のヒカリは、自分が18才の頃、センパイと呼ぶ男と伊豆の午前3時の海岸で語りあったことを思い出していたのだった。

「わたしがおばあちゃんになった時も」とヒカリは言った。明確な自分の80才のイメージが彼女にはあった。「いまの先輩のその言葉を覚えているかもしれない」

そのあと、先輩は、吊橋の上で、ヒカリを抱きしめた。

その時、足元の波と、その波を抱合する海と惑星は再び何かをふたりに語りかけたようだった。

「波はしゃべっているようだけれどもその意味がわからない」と先輩は小さく漏らした。彼は、ヒカリが自分の腕の中に収まっていることに満足していた。その満足感は、生まれてきて初めて感じるものだた。

ヒカリは、足元の波音を聞きながらこう答えた。

「星冥利に尽きる、らしいですよ」

先輩はヒカリを離し、スポットライトの中で彼女を見た。そして、

「星冥利ってなんだろう?」と笑った。

当然、ヒカリも笑い、真夜中の岸壁をあとにした。