tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

ポリティカルコレクトネスはなぜ腐敗しているのか〜ポリコレ原稿5本を並べてみた

長らく僕は「ポリティルコレクトネス」を考えてきた。

その功罪はまだ答えは出ていない。

 

主としてNPOやジャーナリストが陥ってしまう「ポリコレの腐敗」について、僕なりに論考している。

 

そのタテマエがポリコレとして前面に出る時、なぜか「サバルタン(真の当事者)」が潜在化させられる。

その辺の雰囲気や不思議を感じ取っていただければ幸い。

 

はてなブログでの発表順に並べていますが、それ以前にYahoo!オーサー時に書いたものも含まれます。

 

 

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ポリコレ(タテマエ/正義)か、不倫(欲望/悪)か〜乙武洋匡氏出馬〜

【速報】茂木氏は衆院東京15区補選について、作家の乙武洋匡氏を推薦する方向だと明らかにした:時事ドットコム

 

乙武氏は、五体不満足と、不倫+家庭崩壊の2つのイメージを持つ。前者は日本社会のポリティカルコレクトネス、後者は日本社会の倫理低下の2つのイメージを代表する。

 

東京15区に限らず、日本の選挙民は割とシンプルで、ポリコレ(善)を支持し倫理低下(悪)を嘆く。僕などは、ポリコレが窮屈と感じ、倫理そのものを哲学的に問うが、このようなタイプは超少数派。

 

乙武氏は実は、日本の庶民が抱くこの典型的善悪(ポリコレと不倫)を体現している。この「矛盾」した人物を、15区の普通の庶民たちがどう判断するんだろう。

 

日本人らしく10年近く前の大不倫騒動を忘れていればポリコレ的善が有利だろうが、これから3週間以上展開されるであろうネガキャンによって、あの不倫=悪イメージが再び思い起こされれば、巷言われるほど優位にはなれない。

 

それほどポリコレにパワーはあるのか。タテマエ(ポリコレ)と欲望(不倫)が正面からぶつかる、日本における平均的「倫理(善悪の)基準」が判明する、ある意味社会実験的選挙。

「既存マイノリティ運動に支えられた欲望と権力」の、新たな分析手法を探して

 

 

正解は明日(今日?)らしいので待ち遠しいですが、2つの問題とも、「女性」や「自然」を錦の御旗化(偏向した概念化)した、古典的な左翼運動の手段だということです。

 

偏向した概念化は現在、別名ポリティカルコレクトネスとして世界を席巻しています。それはインターナショナルな左翼運動と結びつき、未だ社会主義を名乗る巨大国家とも結びつきます。

 

それが前世紀のインターナショナル運動と異なる点は、いわゆるグローバル主義(哲学的には「帝国」byネグリ+ハート←あの帝国主義ではない)と結びついていることですね。

 

グローバル企業や国際組織等の連合体(帝国)と、国際的左翼運動(政党や政治組織含む)が、冷戦崩壊後に時間をかけて結びついてきたのが、今日の人間社会の一つのあり方でしょう。

 

 ※

 

日本ではそこに「フェミニズム」がどうやら加わっているようです。

 

この、従来のマイノリティ運動は形骸化しているものの、加害者の中心である50代以上の男性が存命のため、そしてそれは被害者の女性たちも被害者マイノリティとして発信できることを示すため、一定の発言力を獲得しています。

 

戦後はそこに予算(利権)も絡み、フェミニズムで食べていくことが可能になりました(女性センター職員等)。

 

「声をあげる当事者」は同時に「サバルタン」を産みます(ex.子ども)。「声をあげるマイノリティ代表者」が、「語ることのできないサバルタン」をつくるんですね(その子どもたちに権利を与えるために「共同親権」が必要)。

 

 ※

 

このようにして、国際左翼運動とグローバリズムと女性や人種等の既存マイノリティ運動が合体して強力なムーブメントを形成したのが21世紀の地球の姿です。

 

この強力なムーブメントには巨大なオカネ(予算や利益)も併発するため、なんというか、某国際食品企業の代表的な宣伝コピーである、「やめられないとまらない」状態になっています。

 

だから日本のネットメディアを賑わせる著名な活動家たち(一般化された現象のため、あえてこの2人の女性とは僕は言いませんね)に共通する言葉は、「やめられないとまらない、(国際的でおいしい)マイノリティ運動」になるのかなあ。

 

ここでは言及する余裕がないため別に譲りますが、この国際的暴走状態(やめられないとまらない)を支えるものは、もちろん「欲望」です。この欲望は、

 

「権力」

 

と表裏でしょうね。

 

つまり、規律権力や監視権力等のフーコー的権力分析ではない、「既存マイノリティ運動に支えられた欲望と権力」の、新たな分析手法も求められていると僕は思います。

パッションと、 パレーシアと、 怨霊と、 愛〜『光る君へ』第12回

僕は、Amazon CMと、映画『火口のふたり』の瀧内公美が大好きだ。その憂い、その正直さ、その自然体の身体。『火口』では共演の柄本佑とがっぷりよつで演じていた。

 

今日の瀧内も、出演時間の短さのわりに、光っていた。けれどもいつもの微笑ましい存在感というよりは、源明子という役柄どおり、どちらかというと情念と復讐のくらやみから言葉を投げかける人だった。

 

ますます平安トレンディドラマ化し毎週見逃せない『光る君へ』、これだけまひろと道長の情熱が潜在化し長期化の様相を見せると、まひろと将来の夫である佐々木蔵之介の間の子どもの本当の父親が、巷で噂されるように、佐々木ではない気もする。

 

 ※

 

ところで瀧内の源明子も、藤原道長柄本佑との間に何人もの子を産む。だがいずれも、黒木華の源倫子が産む子たちよりは光が当たらない。

 

前述のように、まひろ/紫式部吉高由里子のほうは、年の離れた夫の藤原宣孝佐々木蔵之介が結婚後数年で死に、寡婦となる(子は1人)。

 

今回の道長との破局後、紫式部のパッションは潜在化するだろう(やがて佐々木蔵之介演じる藤原宣孝と結婚)。

 

前述のように、佐々木蔵之介は結婚後すぐに死ぬ。そして紫式部のパッションはやがて『源氏物語』へと向かう(藤原道長柄本佑の依頼)。

 

このように、人々の想いと歴史と連なりが、何層にも積み重なる。

 

今年のこの珍しい平安トレンディドラマは、外国の侵略のない比較的平和な1,000年前の日本を舞台にしながら、長い長い時間に渡って当時の人々や「怨霊」たちが抱き続けた(没落高級貴族の瀧内の一族も恨みを抱く)、

 

パッション(情熱)と、
パレーシア(まごころ)と、
怨霊a ghost of revengeと、
愛love 、

 

の話なのだとわかってきた😀

 

Amazon CMより、滝内久美のほほえみ

 

「日本の10代」を支援する際の順番と連携、そして必要ポイントが5つある

◾️5つの関連性

 

今年度ドーナツトークが主催/協力した(する)5つのイベントには強い関連性があります。

 

それを示すため、5イベントを一つのJPEGにまとめてみました(一枚いちまいのチラシの細かい文字は、僕のfacebookタイムラインを遡ってご参照くださいね)。

 

これら5つのイベントの関連性には意味があります。

 

それは、「日本の10代」を支援する際の順番と連携、そして必要ポイントが5つあるということを示しています。

 

時系列に並べると、

 

①中学生支援に求められるもの(中学生サードプレイス)


②中学生支援と高校生支援をつなぐもの(自立アシスト事業)


③中高生支援のキモ〜「居場所(と発達障害愛着障害)」


④高校生支援(ex.居場所カフェ)と10代支援の低流に流れる最大ポイント〜トラウマインフォームドケア


⑤アフター高校生支援〜「スモールノット」

 

となります。

 

ちなみに3/21に開催する「中学生サードプレイス4」は、この5段階のうちのいちばん最初のステップに相当します。

 

そして、このファーストステップを延々探し求めているのが、日本の10代支援の悲劇ですね(義務教育の不登校30万人へ肥大)。

 

その答えは、それぞれの中学校が、それぞれの校長と教員ににできる範囲で「サードプレイス」を模索することでは(NPOへの依頼含)ないかと僕は思っています。

 

◾️現場の個別的問題を「職人技として」変化させる

 

実はこれまで、5つのイベントをそれほどつないで意識したことがなかったのですが、こうしてつないでみると、これらを丁寧に構築していけば、結果として10代の教育支援システムの構築につながるんじゃないかと思った次第です。

 

また本来であれば、こうした大きな視点は国の教育権力が持つはずだと思いますが、我が国の場合、これがなぜか分断されています。

 

大きなシステムを一から構築することは日本人の最も苦手なジャンルですが、現場の個別的問題を「職人技として」変化させるのは国民性に合致していると思います。

 

その意味で、こうした5つのステージ(厳密には④の高校生支援はさらなる細分化が必要でしょうが)をブラッシュアップさせることが、日本の10代への強いサポートになるのだと、最近の僕は考えるようになりました😀

写真上左より、中学生サードプレイス、中高連携支援、「居場所」、トラウマインフォームドケア、アフター高校生(スモールノット)

 

 

「光る君たち」で成り立つ国の、民主主義

このポストに見られるように、まさにいま求められるのは「古い政治」からの脱却なのだが、ややこしいのは、大河ドラマ『光る君へ』にも見られるような宮廷政治というか談合政治が我が国の「まつりごと」の中核にあるということだ。

 

このまつりごとエッセンスはあらゆる時代と組織(現代の株式会社やNPOにも)に見られるもので、それは近代ヨーロッパがこの200年でつくりあげたシステムではなかなか崩壊しない。

 

けれども幕末明治以降の非植民地化の末たどり着いたのが世界平均基準の近代法規なのだから、いまさら平安エートスは通用しない。

 

近代法規の洗練化を模索しつつ、我が国は「光る君たち」で成り立つ国家だということを、近代システムの中にいる人たちが自覚する必要がある。

 

それで初めて、「戦後」政治的なものから少しずつ抜けていけるんでしょうね。

 

 

水底にある「人権」

歌詞は冒頭の2行だけGoogle検索からのスクショ。これだけでもルーリードが描く世界が浮かび上がる。この50年以上前の歌にはもちろんうわっぺらのポリコレはなく、キャンディの側に立ち続けるルーリードの代弁の覚悟のみが伝わる。

 

当時もキャンディやルーは生きづらかっただろうが、今のようなポリコレ的タテマエのない、生きづらさと孤独だった。ある意味、魂の孤独。

 

このルーとキャンディの孤独は現代にも流れていて、ポリコレ的な分厚い上澄みをすくいとって水底の言葉を探すと、そこには50年前も現代も同じ、当事者たちの言葉が沈む。

 

その言葉たちを見つけてすくい出すのであれば、それを紋切り的に「人権」と呼んでもいいと、この頃の僕は思う。

 

いやむしろ、その時にこそ、人権/human rights /Droits de l'hommeを使い、ポリコレが覆い隠すキャンディセッズを見つめたい。

 

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