tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

『ハサウェイ』と『攻殻機動隊』の違い

『ハサウェイ』と『攻殻機動隊』の違いは、前者がハサウェイの個人史(トラウマからの回復)で、後者が世界の刷新(「広大なネット」とそれぞれの「ゴースト」)だということ。

 

ハサウェイのほうは、彼自身の記憶(アムロやクェス)との直面と、個人的リカバリー(ニュータイプ・ギギとの交流)へとどうやら収斂していきそうで、それは今までも見てきた風景だ(「アムロ/ララァ/シャア」関係の展開ほか)。

 

だからハサウェイ世界では、他のガンダム作品もそうだったが、それぞれのキャラの苦闘に結局行き着き、非常に古典的物語展開になっていく。

 

特にハサウェイは、トラウマからの回復が中心なだけにわかりやすく、絵の素晴らしさやそれぞれのキャラ立ちの鮮やかさに感心しながらも、いつかどこかで見てきた「物語」を追わざるを得ない虚しさを、僕は感じた。

 

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だが攻殻機動隊世界では、そもそも「個」が曖昧で、新作アニメラストで草薙少佐の脳幹と脊髄が別義体に組み込まれたように、いつも「個」を解体する力が働く。少佐自身は「ネットの海」を漂い、自分とAI「人形使い」の混合形の無数のコピーがネットを覆うことをポジティブに微笑う。

 

個はAIと融合しコピーされるが、実は「ゴースト」というデータだけでは把握できない「何か」がネットとリアル双方にあり、究極のテクノロジー世界でありつつも、「ゴーストへの信頼」により、世界はギリギリで安定している。

 

まさに、ゴーストというイマージュが、個と人々と世界の興隆と安定を支える。おそらく、攻殻機動隊の世界では、ゴーストは「マネー」や「神」等を超えたイマージュになっている。

 

人間は常に自分を探し他者を求め、それらを基盤としてイマージュを共有し互いにつながろうとするが、その最終形態がマネーでもゴッドでもない、ゴーストだというテーゼが、攻殻機動隊が卓越してしまった点だ。

 

トラウマ(ハサウェイ)かゴースト/イマージュ(攻殻機動隊)か。物語という紋切りに飽きてしまった僕としては、よくできたハサウェイには悪いけど、自分の顔さえあっさり捨てる草薙少佐を選びます🙏

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「中道右派」の意味

イタリアでは「中道右派」が最長政権として続く。徐々に「極右」表現が消え、「中道右派」表現に置き換わってきた。これは欧州を中心に米日でも共通する傾向。逆に従来の「左派/リベラル」勢力は、その弱さとタテマエ主義が目立ち、特に欧州に見られる移民政策の大失敗により、完全に信頼失墜状態のようだ。

 

これも欧米日の共通現象だが、信頼失墜した左派勢力が新たに掲げる理論をまだ見つけていない。その模索は同時に、既成権力化した左派たちの生活を担う、「利権」というか日々の収入が途切れる怖さと表裏一体だ。

 

既存のリベラルチックな議論を変化させて、たとえば「サバルタン」(スピヴァク)のような「潜在化する当事者」を政策の中心にすることには怖さがある。

 

サバルタンは時流により刻々と変化し、自分が当事者であると自認できないこと(それこそがサバルタン)にこそその特徴がある(たとえば日本における「ひきこもり」「愛着障害」)。

 

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そんな不安定な当事者たち(新しい当事者)が21世紀リベラルの救済対象のはずなのだが、サバルタンの潜在性により、救済政策がその都度変化する。

 

また、その当事者性の自覚の薄さから、リベラルの「票」の上積みも期待できない。だからリベラルは従来の当事者に対して話し、従来の利権にすがる。

 

リベラルから中道右派に移行したイーロンマスクが最も重要視するのは「言論の自由」で、そのためにTwitterを買収してXを確立した。今や、欧米日に共通する動きはこの「言論の自由」死守で、この明確化が支持される理由の一つでもある(それを土台として、国民生活の死守/ナショナリズムがある)。

 

一方で迷える左派勢力は上の理由から、未だ新しい柱が見つからない。サバルタン救済はあまりに不安定なため、おそらく柱にはなれない。中道右派の「言論の自由」と釣り合うような、絶対的な思想的柱をいつ左派たちは見つけることができるだろう。

 

サバルタンは語ることはできない。けれども、サバルタンも含む多様な当事者たちを「新しい弱者」としてネーミングできた時、新たな平等政策が浮かび上がると思う😀

 

 ※

 

 

 

 

エメラルドグリーンのメッセージの宛先〜ワイルドサイドDJ100回記念@青森県・恐山

僕は、16年前に脳出血で倒れ、意識障害や意識せん妄等も伴い、1ヶ月ほど「自分」を失ったことがあります。

 

その後無事「自分が自分に戻った」のですが、「自分」という意識を失っている間(歴史上の人物になって周囲に陽気に語りかけていたそうです)、なぜかある一つのイメージが脳に残っていました。

 

そのイメージは、「自分」が戻ってから意識し始め、今も鮮やかに甦ります。

 

今回、青森県・恐山に行き、恐山のいちばん奥にある動画背景のこの「宇曽利山湖(うそりやまこ)」を見た少しあと、思い出しました。

 

それは、現実の宇曽利山湖の不思議な色合いと、あの16年前から自分に取り憑いた暗いイメージがよく似ているということですね。

 

自分に取り憑いた暗いエメラルドグリーンのメッセージの宛先を、16年後にようやく見つけた気になり、なぜかすっきりした気分になったのです。

 

これは動画撮影後に思い至ったことなので、動画中では言及していません。そんな意味からも、僕にとっては有意義な恐山でした。

 

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ワイルドサイドDJ100回記念@恐山シリーズの完結編、YouTube化です😀 下北半島北端のこの恐山から帰ってきて2週間たち、僕もようやく声が出るようになり、感覚が日常に戻り始めました😀

 

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「あたらしい哲学カフェ@浜松 」 現実と現場に臨む、「あたらしい哲学カフェ」ーーー浜松で始めます  

20代の頃の編集者同僚であり、ユニークフェイス研究者/作家の石井政之さんと久しぶりに始めてみます。今回は僕の活動分野でもある「哲学カフェ」です。「あたらしい哲学カフェ」というタイトルで、これまでの哲学カフェに比べてより「現場」「リアルな現実」に寄り添ったものを目指してみます。

 

ただ、目の前の出来事の単独性と、人々に共通する一般性のふたつを意識して話す(これが「哲学」だと僕は思います)ことは変わりません。それを、難しい哲学者の理論を出さずに誰にでもわかるよう語ることも、今までの哲学カフェと同じです。話す人の語りを「聴く」という点も。

 

この「あたらしさ」の意味はたぶん、①話題が自由であること②きどらないこと③自分の感情に素直になること④静かに話すこと⑤けれども熱意をもって話すこと、等々でしょうか。つまりは「パレーシア」とともに話すカフェということですが、おっと、僕のうんちく癖が出てしまいました、スミマセン🙏

 

そんな雰囲気がつくれるよう、場所は石井さんの新拠点になった浜松の、きっと爽やかで新しいところをチョイスしてくれると思います。

 

一応、「生きること」「人生の後半」「死」「ゴースト/たましい」などを、この哲学カフェの根底に据えたいとは思っています♪

 

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【「あたらしい哲学カフェ@浜松 」
現実と現場に臨む、「あたらしい哲学カフェ」ーーー浜松で始めます 

●人生の後半をどう生きるか。
生と死、たましい

などをテーマに語り合う、オープンな場です。

◼️開催日時
9月30日 水曜
1500-1700

◼️会場 
静岡県浜松市内のカフェ(非公開。参加申し込み者だけに情報提供)

◼️参加者 4人

◼️参加費 ひとり1000円
(飲食代は参加者が、各自負担)

 

参加希望者は、メール uniqueface(@)gmail.com

または、X(旧Twitter)のDMなどで。田中のSNS (Facebookメッセンジャーほか)でも受付ます💁‍♀️

https://www.facebook.com/tanakatosihide?

office.donutstalk@gmail.com

 

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「あたらしい哲学カフェ@浜松 」
現実と現場に臨む、「あたらしい哲学カフェ」ーーー浜松で始めます  

16年前、浜松で活動していた「哲学カフェ」(主催 石井政之)を再起動します。

https://hamamatsu.keizai.biz/headline/80/

 

開催日時

9月30日 水曜
1500-1700


会場 

静岡県浜松市内のカフェ(非公開。参加申し込み者だけに情報提供)


参加者 4人

参加費 ひとり1000円
(飲食代は参加者が、各自負担)

 

参加希望者は、メール uniqueface(@)gmail.com

または、X(旧Twitter)のDMなどで。

 

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「あたらしい哲学カフェ@浜松」とは? 

人生の後半をどう生きるか。
生と死、たましい

をテーマに語り合う、オープンな場です。

 


主催者
石井政之(いしいまさゆき)

1965年名古屋出身。作家、ユニークフェイス研究所代表。
生まれつき顔にアザがあることをキッカケに
「人間にとって顔とは何か」「ふつうではない外見をした人間の生と死」
をライフワークにしている。
NPO法人ユニークフェイスの創業者(2015年に解散)。
『顔面漂流記』『肉体不平等」など著書多数。
2026年6月に浜松市に移住した。

X(旧Twitter)のアカウント https://x.com/ishiimsyk


ゲスト
田中俊英(たなかとしひで)
 特定非営利活動法人淡路プラッツ代表のあと、2013年より一般社団法人officeドーナツトーク代表。
 子ども若者支援と、NPOや行政へのスーパーバイズを行なう。
 大阪大学大学院「臨床哲学」修了。
 主な著書に、『ひきこもりから家族を考える』(岩波ブックレット)、『学校に居場所カフェをつくろう!』(明石書店、共著)ほか。
 内閣府「困難を有する子ども・若者及び家族への支援に対する支援の在り方に関する調査研究企画分析会議」委員(13年度)、大阪市福祉局スーパーバイザー、川西市子どもの人権オンブズパーソン調査相談専門員。

X(旧Twitter)のアカウント https://x.com/tanakatosihide

 

石井政之と田中俊英について

田中俊英は、大阪の出版社さいろ社の創業メンバーのひとり。
田中がさいろ社編集部を辞めて、ひきこもりの若者支援の活動に転身した。
そのあと(1997年)に、石井政之がさいろ社に参加して編集記者に。
その後、ふたりはそれぞれ別の人生を進みます。
約20年後、東京で再会。
補助金付けのNPO、実子誘拐が放置されている親権問題、などの批評活動をともにしました。
田中は、家庭がある四国と、職場のある大阪を往復する2拠点生活をしている。
石井は、名古屋、豊橋、NY、大阪、東京、浜松、川崎、京都、横浜などで暮らしてきた。
2026年夏に、石井が浜松市に移住。
「浜松でおもしろいことをやろうじゃないか」と意気投合。
浜松で、ユニークフェイス(外見差別)、ひきこもり(若者支援)という現場をみてきた
60代になったふたりが、
「あたらしい哲学カフェ@浜松」を始めることにしました。

 

 

「あたらしい哲学カフェ@浜松 」 現実と現場に臨む、あたらしい哲学カフェーーー浜松で始めます - 石井政之の作業場

「一般性と単独性」〜Google AIさんとともに

この頃、「一般性と単独性」について、いくつかの出来事を通して考える機会があり、昔その手のエッセイを書いてなかったけ? とGoogle AIさんで検索したところ、下記のようなアドバイスが。なんとなく説明できている感もあるが、結構浅いAIさん(一般性と単独性は最近ではなく昔からあるテーマ)。

 

まあそれは置いといて、あらためてこの視点で考えていこうと思わせてもらった。下↓は、AIさんまとめの一部を、再まとめしています。「AI論文」って、こうやって書くのかな。

 

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【AI による概要
田中俊英氏(大阪大学大学院で臨床哲学を修了、officeドーナツトーク代表)における「一般性」と「単独性」は、ひきこもりや不登校など、現代の生きづらさを抱える青少年支援の現場に根差した臨床哲学の概念です。

 

◼️一般性:すべてのものを包括し、ルール化・システム化しようとする枠組みです。
支援現場においては、社会の「標準」や「規範」、あるいは「こうあるべき」というマニュアル的な対応を指します。

 

◼️単独性:その人自身が持つ「かけがえのない固有の現実」です。
一般性の枠に収まらない、その人特有の痛みやトラウマ、事情そのものを意味します。

 

◼️臨床哲学における対立と実践
田中氏の臨床哲学は、「一般性(規範)」をそのまま目の前の個 人に押し付けるのではなく、「単独性(その人固有の苦悩)」に寄り添い、対話を通じて一般性と単独性の間を往還することに重きを置いています。

 

◼️一般性の限界:不登校やひきこもりといった事例に対して、「学校に行くべき」「社会復帰するべき」という一般性(社会規範)を振りかざすことは、かえって当事者を追い詰めてしまうと指摘します。

 

◼️単独性の尊重:臨床哲学の実践として、個人のペースを尊重し、ジャッジせずに「ただそこにある悩み」を傾聴する場(居場所やカフェなど)の重要性を提唱しています。

 

◼️田中氏のアプローチは、「単独性」としての個人を一般化して切り捨てるのではなく、対話によって両者の接点を見出し、その人にとって本当に意味のある「動き出すきっかけ」を創り出すことを目的としています】

 

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ちなみに、「一般性と単独性 哲学」としてさらに検索してみると、下記の部分も含んだ答えを提示してくれます。こりゃ便利。

 

【◼️一般性と単独性の対立と綜合
◯構造主義 vs 実存主義: 構造主義が人間を「言語や社会構造(一般性)」の産物として捉えたのに対し、実存主義やポスト構造主義は「既存の枠組みには収まらない生きた個人の現実(単独性)」を救い出そうとしました。

 

◯特殊性との違い: 単なる「一般的な概念に属する一つの個(特殊性)」とは異なり、単独性は「そもそも一般的な枠組み(類)に当てはめること自体が不可能な独自の存在」として区別されます(※この単独性の一例が「サバルタン」ということになります)。

 

◯現代の課題: グローバル化や情報社会における巨大なシステム(一般性)の中で、いかにして個人の尊厳やかけがえのない人生(単独性)を守るかという倫理的・政治的テーマに直結しています】

生へ「戻る」ことなく、死に「溶け込む」〜村上春樹『街とその不確かな壁』

だいぶ前にKindleで買ったが、ふだんの仕事に追われて読む気が起こらなかった『街とその不確かな壁』をようやく読み始めた。たしかに、『世界の終わりとハードボイルド〜』の別バージョンみたいな作品だ。

最近のハルキの小説の特徴である過剰なメタファー類を抑え気味なのも読んでいて楽。静かな文体の割には妙に色気というか性を感じさせる文も少なく、引っかからない。

デビューから『1Q84』や『カフカ』くらいまでは読み、結局彼の作品でいちばん好きなのは未だに『羊をめぐる冒険』。数年前に稚内を訪ねたのも実は、同作最終盤に出てくる鼠と語らった館があったであろう北見山地の山々を見たかったからだ。

ハルキのユング好きは相変わらずのようで、夢読み等は出てくるけれども、そこも抑えた筆致により気にならない。ダラダラ読んでいこうっと。

 

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村上春樹『街とその不確かな壁(上)』を引き続き読む。

本ではなくKindleで読んでいるので、全体のどのあたりまで到達しているのか実感しないまま進んでいると、壁の内側で人物たちが別れる場面で第一部が終わり、少し驚く。

いつものハルキ節ではあるものの、70代になって書かれた本作は、30代で書いたであろう姉妹作『世界の終わりとハードボイルド〜』とは似ているようで違う。

本作の登場人物の1人は、街の図書館で「夢読み」の仕事を続けることで、人々の存在も自分自身も徐々にその壁の内側に溶け込んでいく。そうして溶け込むことについてその人物は受け止めており、第一部の「別れ」も、溶け込みを選んだためだった。

30年以上前の『世界の終わり〜』のほうは、溶け込みというよりは、「個の自分」が生きていた世界に戻ることを選択する物語だったと記憶する。

正確には忘れてしまったが、30年前の登場人物たちは、「溶け込む」ことよりも「戻る」ことを選んだのだと思う。けれども作者70代半ばの今は、溶け込み(個の埋没=死、ですね)の「受容」が筆致から滲み出る。

2部は福島県の山間部が舞台のようだ。北海道北見山地(『羊』)や四国の奥深い山峡(『カフカ』)でもなく、福島・会津の先の廃線駅周辺の描写が続く。この先も楽しみだが、ハルキ作品で時々生じる「息切れ」が来ないことを祈ります。

 

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村上春樹『街とその不確かな壁』をようやく読了。1部がスリリングだっただけに、残り2部と3部は1部とはまったく違う小説に思えた。発達障害らしい設定の少年を造形しているのも、あまり作者らしくはないと感じた。

「幽霊」への直接的な言及についても、晩年になってなんとなく文学的筆力からエッセイスト的筆力へと移行した印象を抱いた。

今作は、40年前であれば頻出していたジャズや映画への言及もほとんどなく、それが読んでいて楽ではあった。たまたま最近僕はポール・デズモンドという昔のサックス奏者をよく聴いていたのだが、この下巻でそのデズモンドに触れている部分があり、若干のシンクロニシティを感じたもののその程度。

1部が傑作であることは明らか。また、本作全体が醸成した「死あるいは『別領域』との連携」みたいなものを常時読者に問いかけてくる力には魅力がある。自我が把握しているように感じるこの現実の曖昧さや儚さや楽しさは、いつでもまぼろしであっても不思議ではない。

そこへの用語的技術として、幽霊や亡霊やゴーストということばを使ってその世界を切り開くか。

あるいは、そうしたファンタジー的単独性(その例が本作)を描写することなく、いつも心の中で「恐山」のような概念とリンクさせておくか。

概念自体を扱う哲学が友達の僕としては、文学マニアではあるものの、前者の単独性/キャラ設定では物足りない。

やっぱり、街や壁で仕切られる僕/私という単独的日常よりは、たとえば「恐山」のように、そのことばのイメージそのものが青森北端にある奇妙な山という単独的意味を超え、違う平原を切り開く大きな概念をつくるありように惹かれる。幽霊という個のイメージだけは若干つまらない。

そういう意味では、この小説の第一部は、「死への溶け込み」といった大きな概念を詩的に描いていた。

何はともあれ、この作品も僕にとっては2週間後の青森県恐山旅行に向けての想像的トレーニングとなりました🏋️

現在のパラダイムシフトを隠蔽するため、マスコミは「ゴミ」になる

【これほど戦略的で国益に直結する成果がなぜ、大きく報じられないのか】

https://x.com/cait_sith_co/status/2053076479995781312?s=61

マスメディアの力の無さが最大の原因でしょうが、「戦後80年パラダイム」が終わり次のパラダイムへとシフトするいま、旧パラダイム下で構築された権力代表の一つであるマスメディアが、新パラダイムを敵視するのは当たり前だとも言えます。

 

パラダイムシフトの間、旧来の「マスコミ」は「マスゴミ」にならざるを得ない。つまり、マスメディアが新パラダイムの新戦略を報じることをしないということ自体、現在がパラダイムシフト下にあるということですね。

 

興味深いのは、その「移行」を担う現政権の方々は、「マスゴミ」を華麗にスルーし(首相の記者会見軽視+X重視はその具体例)、インターネット(SNS)を自由に操って強力で柔軟な独自配信を行なっていることです。

 

旧パラダイム下のマスメディアは、現在進行中のパラダイムシフトを隠蔽することがそのミッションでもあるため(だからゴミとして表象される)、「報じない」ことしかできないんでしょうね。逆に、現在進行中の出来事を報道するようになってくると、その時こそがパラダイムシフトの完成時ということになるでしょう😀