tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事が中心です😀

NPO と高校生支援〜源泉、アウトリーチ、個別ソーシャルワーク、 学校内ソーシャルワーク、卒業後支援

NPO と高校生支援〜源泉、アウトリーチ、個別ソーシャルワーク、 学校内ソーシャルワーク、卒業後支援


一般社団法人 office ドーナツトーク 代表 田中俊英

 

 

■「支援」は成功する


僕は 30 年近く子ども若者支援をしている。その支援対象は、不登校・ひ きこもり・発達障害・虐待サバイバー/愛着障害PTSD 等々幅広いが、 そのキャリアの半分は主として不登校・ひきこもり支援だった。


特に、20 才を越えたひきこもり支援には注力した。


その親への面談支援にも力を入れ、いわゆる「地雷(タブーワード)」に 触れないよう、定期的な面談支援の中で伝えてきた。


そのタブーワードは主として 3 種類あり、


1 学校や仕事の話題に触れないこと
2 親の老後・引退・死亡に触れないこと

3 同級生の現在に触れないこと


である。


これらの地雷の話題を極力減らし、また親が子をできるだけ「否定しな い」ことに務めると、家庭内の緊張感が減退し、家庭内に「安全・安心」 が訪れ、不思議なことに子どもは自然と「外」に目を向けていく。


 この支援の方針に僕は絶対の自信を持っている。だから、僕が面談支援する不登校・ひきこもりの子どもとその親たちの多くが、なんらかの社会参加につながっていく。

■ひきこもり問題の源泉


ただ、10 年以上そうした不登校・ひきこもり支援をしてきて気づいたの は、個々の支援はそのような方針で社会参加に誘うことはできるものの、 その大元である不登校やひきこもりは一向に減らないということだ。


そのような問題意識を抱えつつ、日々の当事者・保護者面談支援をするうちにいつの頃から気づいたのが、彼ら彼女らには「ひきこもりの源泉」があるということだった。


「源泉」の時期は厳密にさかのぼっていくと、保育園や幼稚園時代に行 き着くのだが、「現象」としてそれが現れる、つまりは子どもたちが「我慢」 できなくなる時期は小学校高学年頃くらいからになる。


そして、個別にはそれぞれたどる道は異なるものの、多くは中学時代に 不登校になり、高校に進学するものの再び不登校になり徐々にひきこもる。


高校は通信制高校に転学するが幽霊高校生として時間が流れ、実態はひ きこもり当事者として長くて 10 年程度の月日があっという間に流れてし まう。


そして、僕が代表だった NPO のような、ひきこもり支援機関を親が訪 れることになる。


こうした経緯をたどる若者たちが本当に多かった。上に書いたように、 現象としての不登校・ひきこもりはまったく減る気配はなかったけれども、 支援の経験として僕は十分実績を積んでいた。


そして思ったのだ、 「ひきこもり問題の源泉である、高校中退の問題をなんとかしよう」と。 そんなわけで僕は代表を努めていた NPO を退職し、新たに小さな NPOをつくって、10 代後半の人たちを中心とした支援に切り替えた。

アウトリーチとしての高校内居場所カフェ


そうした経緯で高校生支援を始めたのだが、具体的には「高校内居場所 カフェ」と上記のような面談支援をここ 10 年は行なってきた。特に、大阪 府立西成高校で「となりカフェ」と名付けて始めた高校内居場所カフェは、 メディア的にも反響を呼んだ。


となりカフェは 2012 年スタートだから、2022 年現在で 11 年目になる。 予算的には大阪府の委託事業(青少年課と教育委員会)で行なってきたが、 この間 2 年ほどは自主運営していた時期もある。


詳細は『学校に居場所カフェをつくろう』(明石書店)を参考いただきた いが、となりカフェも含んだ西成高校全体で高校生の支援に取り組んでき た結果、その中退数は 10 年で激減している。


この校内居場所カフェは主として 3 つの視点から支援を構築する。 それは、


1 安全・安心な居場所
2 ソーシャルワークの起点
3 「文化」を伝えることで「虐待の連鎖」を防ぐ


の 3 点だが、完全ではないにしろ、となりカフェをはじめに、他の居場 所カフェでも(現在僕の法人である office ドーナツトークでは、西成高校 以外に、府立長吉高校と府立大阪わかば高校で居場所カフェを展開してい る)、ある程度の成果をあげてきた。

■個別ソーシャルワークとしての「ひらの青春生活応援事業」


 そうした経緯のなかで始まったのが、平野区独自の委託事業である「ひらの青春生活応援事業」だった。


本誌冒頭の論文『高校生の青春を応援する』(奥田・小橋執筆)にもある ように、この 6 年間で同事業は 105 名の高校生を支援してきた。そのなか には、小規模な「居場所カフェ」を通して支援してきた生徒も含まれる。


上論文で詳細に分析したように、ひらの青春生活応援事業の支援には十分なインパクトがある。


高校内居場所カフェは「アウトリーチ」として十分なインパクトがあっ たが、ひらの青春生活応援事業には、「個別のソーシャルワーク」として十 分すぎるほどのインパクトがあった。


また、スクールソーシャルワーカー個人として高校で働くのではなく、 NPO という「組織」として高校内に配置されることが、幅広い視点・つな がりと継続性を高校がもつことができる。


「組織」で支援することは、高校生たちが卒業したあとも OGOB 支援す るための土台にもなる。それらは、個人ではとてもできない。


この事業をできれば 10 年 15 年と続け、平野区以外にもこの個別ソーシ ャルワーク事業が拡大することを僕は望んでいる。


そのためには、理解ある行政と(特に首長と事業担当者の存在と理解が 重要)、この個別ソーシャルワークをこなす支援団体の両輪が必要になる。

■源泉、アウトリーチ、個別ソーシャルワーク、学校内ソーシャルワーク、卒業 後支援


 このような経緯と意味をまとめると、以下のようになる。


1 ひきこもり予防の「源泉」としての高校生支援
2 「高校内居場所カフェ」でアウトリーチしたあと、「ひらの青春生活応援事業」で個別ソーシャルワークする
3 NPO という「組織」が高校に入ることで、高校自体がソーシャルワーク機能を複数年単位で有することができる
4 NPO という組織が参画することで、OGOB となり「社会」に入ったあとも悩み続ける若者たちをフォローできる


 これをキーワードとしてまとめると、


a. ひきこもり予防としての高校生支援
b. アウトリーチとしての校内居場所カフェ

c. 個別ソーシャルワークの有効性
d. 学校内ソーシャルワークの有効性
e. 卒業後支援


等になるだろう。


この、予防、アウトリーチ、個別ソーシャルワーク、校内ソーシャルワ ーク、卒業後支援の 5 点こそが、日本の高校生支援と、広い点から考えれ ば「日本の子ども若者支援」のコアになるはずだ。

この 5 点を日本中の高 校が少しでももてば、現在の日本の子ども若者と親が抱える苦悩が軽減さ れると僕は確信する。

 

※『ひらの青春ガイドブック2』(平野区役所保健福祉課)より転載

グラドル保育士が日本のモラルを破壊する

タイトル: グラドル保育士が日本のモラルを破壊する
公開日時: 2019-10-15 10:45:54

概要文: (笑い)でまとめられていることが僕は不気味だ。社会の価値の崩壊は、前世紀前半のような恐怖政 治から来るのではなく、今世紀においては「(笑い)」とともに来るのだと提示されているような気がして。

本文:

 

■生き残っていたグラドル保育士

 

この 6 月に僕は、「https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20190609-00129412/ グラドル保 育士の、園児への破壊的暴力」と題して、現役保育士が子どもたちに及ぼす害毒について書いてみた。

それから 4 ヶ月、続報も聞かなかったのでさすがにグラドル保育士は消え去ったかと安心していたのだが、昨日 Twitter ではこんな記事が拡散していた。
https://www.excite.co.jp/news/article/Mdpr_news1881712/ “保育士でレースクイーン”江藤菜摘、素肌あ らわに

なんとあのメジャー誌である『週刊プレイボーイ』に、「保育士+レースクィーン」として登場するのだそうだ。 グラドルではなく、レースクィーンとして紹介されている。
本人の Twitter では、もっと際どいショットも掲載されている(https://twitter.com/natchaaaan06?s=17 https://twitter.com/natchaaaan06?s=17)。

ネット媒体である「NEWS ポストセブン」では同じグラドル保育士による短いコメントも掲載されており、保育 士業界がまだ「副業」を認めていないところが多いと嘆き、自分の「グラドル仕事=副業」が浸透することによ り、保守的な保育業界に風穴を空けたい的なそれらしいことを言っている。

{{{ 保育士の世界では副業をすることはまだまだ難しいです。だから私がグラビアと保育士を両立させることで、全 国で働く保育士さんにも、自由な働き方を提案できたらいいなと思います。だからこれからもいっぱいグラビア の仕事を頑張ります。 :https://news.livedoor.com/article/detail/16049020/|保育士グラドル・江藤菜摘「自由な働き方を提案でき たら...」
}}}

これを本当に彼女は思っているのだろうか、また、彼女を雇用する NPO 側もこうした意図を応援しているので あろうか。上記「グラドル保育士の破壊的暴力」で僕が触れたような、子どもたちへの破壊的で非倫理的影響よ りも、一業界の副業拡大のほうが重要だと認識しているのだとしたら、これまた常識が破壊されていることを嘆 く必要がある。

 

■ 「それはマズイ」と直感できるような出来事

 

常識とは、子どもから商業的エロスを遠ざけるという、最低限の「道徳=モラル」を指している。 このモラルは社会規範ではなく、もっと人間社会の深い部分に潜む、人間を人間として成り立たせる基準を指す。

社会規範はたとえば「学校に行かなければいけない」があると思うが、こうした登校規範は時代状況の中では当 たり前ではなくなる。たとえば、戦後の混乱期では、子どもたちに求められる行動としては、「登校」よりも「親 の仕事の手伝い」が優先される場合がある。

対して道徳=モラルは、時代状況がいくら変わろうとも普遍的にそのモラルを順守しろと人々に迫る。盗み、殺 人、近親相姦等々、我々が本能的に「それはマズイ」と直感できるような出来事を指し、それらが発動しないよ う我々の内面でブレーキをかける。

そうしたモラルの一つとして、 「子どもたちに性的表現を見せない」

が含まれると僕は思う。映画などで R~として表現への年齢制限がかけられ、社会がそれを受け入れることに同 意するのは、こうした深い部分でのモラルの発動があるはずだ。

 

■ 「R=restricted(制限された)」

 

はじめにいくつか引用したこれらのグラビア写真は、日常生活とは離れた不自然な姿態と衣装と撮影技術により、 ある種の「R=restricted(制限された)」表現であることは確かだ。

こうした不自然な表現の消費者はヘテロ男性であろうが、グラドルが「副業」として販促に使われる過程で(ネ ットやテレビなどに掲載されるなかで)、当然「R」する必要のある子どもたちの目に触れることだろう。

製作者やモデルたちが想像する以上に、表現の拡散のスピードは速いと僕は想像している。いま現在にでも、こ の「グラドル先生」の姿態と画像は、園児たちの目に飛び込んできているかもしれない。

上にあげた「NEWS ポストセブン」記事では、このグラドル保育士は以下のようなコメントをする。

{{{ 子供たちと一緒にやる「手遊び」をオーディションで披露すると、すごく受けがいいんです。大人でも子供でも 無邪気に喜んでいる顔を見ると、こっちも嬉しくなります。ただ、大人の男性も根は子供たちと一緒なのかな、 とも思います(笑い)。 :https://news.livedoor.com/article/detail/16049020/|保育士グラドル・江藤菜摘「自由な働き方を提案でき

たら...」 }}}

何かがおかしくないか? 一方で過激なグラビアを披露するモデルが、一方で保育士として子どもと大人(その なかには「父」も含まれるだろう)を批評する。その父たちへの批評は「ヘテロ男性」全般への批評や見方が含 まれており、さらに言うと、自分のグラビアを消費する男たちと、手遊びに興じる子どもたちを同じ地平で評し てる。別の次元にある人々(子どもとヘテロ男性)について、その2つの次元を無邪気に突き抜けて混同させる。

この境界の突き抜けこそが、道徳破りの行為を許してしまうモラルの破壊だ。あるいは道徳の根源的ゆらぎがこ こにあると思う。こうしたモラルの根源的ゆらぎが、

(笑い)

でまとめられていることが僕は不気味だ。 社会の価値の崩壊は、前世紀前半のような恐怖政治から来るのではなく、今世紀においては「(笑い)」とともに 来るのだと提示されているようだ。

勝ち組だけが育休をとる~高齢ひきこもりの「専業主フ化」を邪魔するもの

タイトル: 勝ち組だけが育休をとる~高齢ひきこもりの「専業主フ化」を邪魔するもの
公開日時: 2019-09-12 18:27:20

概要文: そもそも、オトコの育休は勝ち組がとる。そこには、下流層からのルサンチマンが浴びせかけられ、 その階級対立は残念ながらさらに固定化してしまう。その固定化が、高齢ひきこもりの専業主フ化を阻止する。

本文:

 

■「育休」議論に乗ることができるのは「勝ち組」

 

小泉進次郎氏がやっと大臣になったが、それと同時に彼が主張していた「大臣になっても育休を」がずいぶん話 題になっている。それは、賛成にしろ反対にしろ、かなり否定的に論じられているようだ

(https://news.nicovideo.jp/watch/nw5905399 小泉進次郎の育休「待った」意見に国民から総バッシン グ!)。

ここは小泉氏を論じる場ではないのでその議論の中身はスルーするが、やはりポイントは、「育休」議論に乗る ことができるのは、ある種の「勝ち組」だということだろう。

それは、政治家だろうが大企業サラリーマンだろうが NPO 代表だろうが変わりない。育休をとるかとらないか という選択ができる立場は、そもそも育休が標準的にそのシステムに備わっていることが条件になる。
NPO などは未整備かもしれないが、代表が育休をとることで組織全体に波及していくという効果もある。

いずれにしろ育休が選択の一つとしてありそれを受け入れるとか受け入れないとかで悩むことができるのは、あ る種「選ばれた人たち」だということだ。

育休などそもそも選択外にある人々は、非正規雇用、小企業や小規模事業者等、非常に不安定な立場にいる方々 だ。それらの人々は、大雑把ではあるが、労働人口 6700 万の 4~6 割だと推定できる(非正規雇用 4 割ブラス アルファ)。

 

アンダークラスの男たちは育休男たちを密かにバカにする

 

そんな人達は育休云々の外にいる。そんな議論に加わる余裕はなく、従来の性的役割分担にあまり疑問を感じな い。それはそうだろう、従来の古典的男性ジェンダー(男は仕事)を少しはみ出る男性の育休取得的可能性を考 え始めると、日常生活が混乱する。

だから、そうした古典的男性ジェンダーの人々は、小泉大臣が提唱して微妙に「フルボッコ」された育休議論に ピンときていないと思う。大臣になったのだから、単純に男らしく仕事しなよという感じだ。

このように、半分程度の男性ジェンダーたちが従来の「オトコ」を標榜し、育休的可能性を封じる。 一方で、育休的男性ジェンダーを少しだけ揺るがす男たちは、大多数が社会的には「勝ち組」だ。

勝ち組のオトコたちには悪いけれども、彼らの語り方や見方はどうしても上から目線になる。そんな上から目線 の男たちが、当たり前のように育休を語っても、それは下流社会/アンダークラスにいる古典的男性ジェンダー たちにはまったく伝わらない。

余裕があるから育休なんて言えるんだろ、汗も流さず上からカッコいいことばかり言うなよな、まあ言っても仕 方ないから遮断しよう、という感じでアンダークラスの男たちは育休男たちを密かにバカにする。

 

■勝ち組の暴力性

 

前回や前々回で述べたように(https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20190904-00141271/ も う 「 就 労 」 は や め て 、「 専 業 主 フ 」 か ボ ラ ン テ イ ア で い い だ ろ う ?https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20190910-00142039/ 働かないことを「悪」とするの は、就労支援者だ)、高齢ひきこもり脱出の一つの解は「専業主フ」化だと僕は思う。

専業主婦が 550 万人いるとして(https://chikirin.hatenablog.com/entry/20160402 日本の人口、1 億 2730 万人の内訳)、その何割かには就労圧力がかかっている。中流家庭で夫の稼ぎがある程度あったとしても、 毎月のキャッシュが足りないものは足りない。だからなくなくパートに出ようという現在専業主婦の方は多くは ないが少なくもないだろう。

だから、550 万人の専業主婦は減っていくはずだ。 何十万人減るかはわからないものの、日本の階級社会化がさらに加速すると、「働かなくていい妻」の存在は非 現実的になる。専業主婦の割合が減るのは目に見えている。

その減った分を、高齢ひきこもりたちが専業主フとして穴埋めするというのが僕の提案だ。労働の新しい配置と してなんら問題はなく、現在は夫の収入により専業主婦化できている一定数が、親の年金によって専業主フ化す る層に入れ替わるのは、社会全体としてはあり得ることだと僕は思う。

そうした社会構造の転換を邪魔するものとしては、旧来の世代的役割規範(若者は働かなければいけない)に加 えて、性別役割規範(オトコは働かなければいけない)や社会階級的断絶(「勝ち組」だけが性的役割を乗り越え ることができる)などが存在する。

そもそも、オトコの育休は勝ち組がとる。そこには、下流層からのルサンチマンが浴びせかけられ、その階級対 立は残念ながらさらに固定化してしまう。その固定化が、高齢ひきこもりの専業主フ化を阻止する。現在の男性 ジェンダー優位社会が専業主婦以外の専業主フを否定し、その「勝ち組の象徴」である育休議論により、性的役 割分担社会を固定している。

育休をとれる勝ち組は、その存在により、高齢ひきこもりの専業主フ化を阻止してしまう。勝ち組が意図せずと も、社会の役割分担を彼らはその存在により固定する。

そこが勝ち組の暴力性であり、高齢ひきこもりの専業主フ化を阻む要素の一つでもある。 ここでも勝ち組は邪魔なのだ。

「素朴」で「残酷」な新自由主義者たち~現代の子ども若者支援

タイトル: 「素朴」で「残酷」な新自由主義者たち~現代の子ども若者支援 公開日時: 2019-04-20 05:23:40

概要文: 単純な人情主義やルサンチマンも含んだありようを、ここでは「素朴」と表現している。行政予算を 削減し、社会システムの根本をいじらない事業を構築・提案し、「サバルタン/真の当事者」を生み出す。

本文:

 

■困ることは、サバルタンが生み出されること

 

新自由主義が支援業界に混入することで僕が困ることは、「サバルタン(G.C.スピヴァク)」が生み出されること だ。

サバルタン/真の当事者は、貧困問題の中にもひきこもり問題のなかにも必ず混入している。現代日本風にいう と「声なき声」の人々といってもいいのだが、これは古くなった左翼言説に辟易する中道~保守的価値観の「普 通の人々」も表す言葉であり、サバルタンといっしょにするのはマズイ。

虐待サバイバーにしろ高齢引きこもりにしろ、いまある支援サービスの網ではなかなか救えない人々がいる。し かも、数十万~200 万人単位でおそらくそれらは存在する。

スピヴァクが 100 年以上前のインドを分析するなかで析出したサバルタンの女たちは、夫の死後、固有名を剥 奪されたまま代わりに花の名等を与えられ、亡き夫とともに無理心中させられる。 また、おそらく反体制運動の結果自死した 10 代の女性の死因を、反体制運動の挫折ではなく「恋愛関係のもつ れからの自死」というように(若い女性の自死のイメージとして伝播しやすいものに)読み替え、10 代のその 自死した女性の生前のナマの声を隠蔽する。

名や声を剥奪した社会は、インドの男たちのものであり地方の名士のような上流階層のものであり、何よりも植 民者であるイギリス男性のものである。サバルタンを創設し維持することが、自分たちの社会を維持することに もつながる。

 

■「素朴に」生み出す

 

現代の日本では、100 年以上前のインドのように「戦略的に」サバルタンを生んでいるというよりは、ある意味 「無意識的に」「無邪気に」、そして「素朴に」サバルタン/真の当事者を生み出している。

その「素朴さ」は結果として「新自由主義」を選ぶ。 新自由主義といっても難しく考える必要はなく、たえばこのサイト https://www.jri.co.jp/column/medium/shimbo/globalism/ 日本総研のサイトの説明にあるように、

{{{
新自由主義(しんじゆうしゅぎ、英:neoliberalism、ネオリベラリズム)とは、 国家による福祉・公共サービ スの縮小(小さな政府、民営化)と、大幅な規制緩和市場原理主義の重 視を特徴とする経済思想。 資本移動を自由化するグローバル資本主義新自由主義を一国のみならず世界まで広げた ものと言ってよい。 :https://www.jri.co.jp/column/medium/shimbo/globalism/|日本総研 経営コラム「新自由主義
}}}

と、単純に捉えるだけでいいと思う。つまりは「小さな政府」であり緊縮財政であり、その結果としての民営化 と行政の人員削減程度のゆるい意味合いだ。

これを背景として、たとえば日本の子ども若者への支援現場では、決してシステムそのものを変えないが、新自 由主義的な発想(緊縮財政と民営化)に基づき、主として NPO への各事業の丸投げが目立っている。

一つひとつの事業をここでは細かくあげはしないものの、たとえば 100 万~200 万人単位いるひきこもりの 人々のほんの数%しか結果として支援できない支援サービス、各会社の有給休暇システムそのものには手を付け ず各社員の自己負担を強いる「病児保育」、学校内に「居場所」を設置したことはいいのだが虐待支援等の知識が ない「校内居場所カフェ」、貧困層の多くにニーズがないにもかかわらず学習クーポンをまいたり勉強を教える サービスを展開する「学習支援」。

これらの事業は、行政の委託事業もあれば大きな財団からの支援金で運営する事業もある。いずれにも共通する のは、若者を中心とした「素人」的組織に委託することで、現代のサバルタンを見落としてしまうことだ。

 

■「素朴な新自由主義者

 

 そして、見落としてもそれに気づけない。

「素朴な新自由主義者」たちは、現場とマネジメントサイド関係なく、幅広く存在する。彼女ら彼らは真面目で 熱心であり、いずれも「社会を変えたい」「弱者を救いたい」という情熱は持っている。

だが残念ながらサバルタンに届かない。あるいは、サバルタンたちが彼女ら彼ら新自由主義者が醸し出す雰囲気 にうんざりして、素朴な新自由主義者たちが気づかないうちに離れていく。 せっかく「アウトリーチ」できたのに、「なにか違う」と当事者たちは直感し、1 回~数回の「面接」で離れてい く。あるいは、ホームペーや Facebook からあふれるその中流イメージ的なものにげんなりして近づかない。

現場の若い支援者たちは、虐待サバイバーやひきこもりの実態を知らないし想像もできない。知識は当然持って いるが、その知識が、目の前にいる若者とすぐに結びつかない。その結果、ピント外れな「上から」トークとな ってしまう。また、虐待の実態を発見できない。

これは若者支援者だけではなく、スクールソーシャルワーカースクールカウンセラー、キャリアカウンセラー 等、最近になって急増する「専門家」たちにも言えることだ(特に「上からトーク」)。正直言って、僕も辟易す る。

マネジメント層では、特に 40 才前後の団塊ジュニアリーダーたちにこの「素朴な新自由主義者たち」は多く存 在する。彼らは自分たちの事業が創設された社会問題自体には精通している。 が、現場自体はあまり知らないことから、どうしても紋切り的な提案や理想優先の事業を行なってしまう。

たとえば、警察と児童相談所の完全情報共有や、食糧費は全事業の数%しかない貧困家庭への食料宅配など。そ

の理想はわかる。が、そのまま実践化してしまうと、たとえば「完全情報共有」することで虐待加害親は「引っ 越し」を検討して児相サービスの網の目から消える、温かい食事ではなく大手菓子メーカーのお菓子等の保存食 が多数占められたりする。

ほかにも、理想が先走り現実のサービスが薄くなる実例はたくさんあるが、個別の事業事例は僕はあまり関心が ない。 結果としてこうした残念さが浮き上がる諸事業の根本に、「素朴さ」と「新自由主義」がくっついている点が僕に は興味深い。

 

■単純な人情主義やルサンチマン

 

素朴さをさらに追っていくと、リーダーたちの中には自分はネオリベラリズム(新自由主義)ではなく、富の再 分配である旧来の「リベラル」だと自認する人も少なくはない。 わりと人情主義、単純な弱者救済主義者だと自覚する人も少なくはない。

またそこをさらに深く潜っていくと、団塊ジュニアリーダーたちが抱く「上の世代への反発」、あるいは「親世代 である団塊世代への反発」なども透けて見える。
ここにも単純な上世代への「ルサンチマン」があるようだ。

これら、単純な人情主義やルサンチマンも含んだありようを、ここでは「素朴」と表現している。こうした素朴 さが、21 世紀型新自由主義(20 世紀型新自由主義は大掛かりな民営化やリストラだった)とくっついている。 結果として行政予算を削減し、社会システムの根本をいじらずキャッチーなコピーで彩られたわかりやすい事業 を構築・提案し、そこに「素朴な」支援者を配置し、結果として一部は支援できるものの、決して少なくはない 「サバルタン/真の当事者」を生み出す。

素朴な新自由主義者たちを研究すればするほど、そこには悪意や競争主義はないと実感できる。その素朴さが同 時にサバルタンを生み出し続けているだけに、「残酷」ではある。

いまの NPO のかたち~新自由主義型とローカリティ型

タイトル: いまの NPO のかたち~新自由主義型とローカリティ型 公開日時: 2018-12-05 07:34:05

概要文: 現代のソーシャルセクターは、1.新自由主義型と、2.ローカリティ型の2つに分かれ始めている。 本文:

 

新自由主義NPO の「春」

 

現代のソーシャルセクターは、1.新自由主義型と、2.ローカリティ型の2つに分かれ始めている。

前者はソーシャルインパクト評価に根付く有力 NPO を指す。ソーシャルインパクト評価の欠点については、当 欄でも何回かとりあげている(https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20180911-00096497/ 数が「ソーシャルインパクト」か?~支援なんて、結局は「偶然の他者との出会い」

つまりそれは、目に見える「数」を短期間で要求し、たとえばひきこもりや虐待サバイバー等の 10 年単位で支 援が成功する人々は対象外となる。

短期間で支援が成功する人々を対象とするため、たとえば若者支援の分野では、大多数のひきこもり的人々が対 象外になる。 これは致命的欠点だと僕は思っている。ひきこもり支援や虐待サバイバー支援/アフターケアには、ソーシャル インパクト評価=新自由主義は馴染まない(財政と組織のスリム化がソーシャルインパクト評価の第一の目的で あり、まさにそれが新自由主義)。

来年から本格的に導入される「休眠預金」(700 億円とも言われる)を活用する事業もこのソーシャルインパク ト 評 価 を 根 拠 に す る と い う ( https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20180516-00085298/ 「休眠預金」開始!~わかりやすい問題に「カネ」は集まり、真のマイノリティ問題が捨てられる

新自由主義NPO の「春」がいままさにやってきている。

 

■ローカリティ型の「発見」

 

後者は地域密着型であり、具体例としては「静岡方式」(https://diamond.jp/articles/-/14799 働けない若者 の約 8 割を働く若者に変えた!? 少年院の元教官が教えるウワサの「静岡方式」とは)や、「山科醍醐」 (http://www.kodohiro.com 山科醍醐こどものひろば)の取り組みがある。 「田奈高校」や「西成高校」も含むかもしれない ([https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20170915-00075804/ 朝の高校に「サードプレイ

ス」はある~西成高校「モーニングとなりカフェ」スタート!])。

ここに、3 年前から展開している「ひらの青春生活応援事業」も含んでもいいと僕は思い始めた。 同事業は、高校内居場所カフェの「出口」として、当欄でも以前とりあげた (https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20171202-00078825/ 高校生「出口戦略」は、個別 ソーシャルワークだった~「ひらの青春ローカリティ 2」報告)。

ひらの青春ローカリティの「ローカリティ」は、グローバリティの対抗軸として僕が持ってきたものだが、よく 考えると、グローバリティ/グローバリゼーションとは新自由主義の具体化のことだ。グローバリティは一面で は、ドゥルーズのいう 「群れ」やネグリらのいう「マルチチュード」も含む広範囲な概念のため僕は否定しきれ ないが、それがソーシャルインパクト評価等で顕在化する時、「サバルタン/潜在的当事者」を生み出してしま うという決定的欠点を持つ。

サバルタンを発見したスピヴァク派でも僕はあり、支援者の時はこのスピヴァク派/ポストコロニアル派として 僕はある(https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20151012-00050395/ 「当事者」は語れず、 「経験者」が代表する~不登校から虐待まで~)。 「潜在性」はドゥルーズの重要概念でもあり、僕としては矛盾はないつもりだ。ひきこもりの潜在性、虐待サバ イバーの潜在性等、僕の支援者人生はこの潜在性とともにある。

僕は、新自由主義型を忌避して自分の NPO 人生を歩んできたが、気づいてみると、上にあげた地域密着型/ロ ーカリティ型 NPO たちとともに常に仕事をしているようだ。

自分と親和性のある地域密着型 NPO が、つまりはアンチ・グローバリティでありローカリティ型であると気づ いたのはつい最近でもある。

 

サバルタンは今日も潜在化する

 

このように、どうやらいまの NPO には、上にあげた2つのかたちがあるみたいだ。
前者、新自由主義NPO/NGO はグローバリティ組織らしく、どんどん規模を拡大してる。有力 NPO/NGO では、売り上げ規模が 40 億円だったり 20 億円だったりする。

それと同時に、荒っぽいグローバリティらしく、細かな配慮が足りないようでもある。具体的にはあまり書けな いのだが、行政への報告を手抜きしていたり、貧困支援と言いつつ内実が伴っていなかったり、いくつかの民主 主義的手続きをすっ飛ばしたりしているようだ。

まあグローバリティとはそんなもの。また、売り上げ 40 億円になってしまば、慣れていない社長(代表理事) であれば、細部を手抜きするかもしれない(熟練の中小企業社長たちであれば手抜きはしないだろうが)。

現代の悲劇は、新自由主義NPO におカネが集中するため(寄付金も宣伝上手なこちらに集まりがち)、真の当 事者/サバルタンが今日も潜在化しているという点だ。

このことに、新自由主義NPO リーダーたちは薄々気づいているかもしれない。 だが、億単位に膨れ上がった自分の組織維持が優先になるため、今日もサバルタンは捨象される。新自由主義な リーダーは実はやさしかったりするので、いったん雇用した自分の部下たちを切ることができない(故にサバル タンを生み出し続ける新自由主義事業を続ける)からだ。

グラドル保育士の、園児への破壊的暴力

タイトル: グラドル保育士の、園児への破壊的暴力

公開日時: 2019-06-09 12:59:01

   概要文: 性的イメージを子どもの世界に持ち込む時、以上のような激しい危険性を伴なう。子どもは自らの生存戦略のため身近な大人を守る。大人がどれほど倫理観を欠如した行ないをしたとしても、子どもは大人を擁護する。

  本文:

 

 

■アルバイトで「グラドル 」

 

自分が通う保育園の保育士さんがアルバイトで「グラドル 」をやっており、しかもその写真やビデオはグラビアというよりはほぼポルノな表象だった時、子どもたちにとってその作品群はどんな意味合いがあるだろう。

 

大人にとっては当然、好奇の目だったり批判の対象だったりする。

大人ではなく、「ポルノ」の意味がわからない子にとって、これはどういう意味になっているのだろうか。

 

これは、幼児への性的虐待にも通じる話だと思う。

性的虐待を行なう側にとっては、そこでは倫理的規制はまったく働いておらず、自分の欲望に忠実なのであろう。加害者が10代だろうが(きょうだいやいとこ)成人だろうが、幼児や子どもへの性的暴力という衝動を素直に受け入れ、欲望そのもので動く。

 

一般の倫理観からすれば醜悪極まりない行ないである。

が、性的暴力・虐待の加害者は、その暴力の最中には倫理観が吹っ飛んでいる。児童虐待の種別割合では、性的虐待は2%程度を占め、厚労省発表では1540件にのぼる(http://www.orangeribbon.jp/info/npo/2018/09/29-3.php 厚生労働省 平成29年度の児童虐待対応件数等を公表)。

 

冷たく数字で示され突き放され、それが2%程度の少なさであるものの、あらためてその冷たい数字を凝視してみると、年に1540人もの性的虐待の被害を受けた子どもたちがいる。

 

性的虐待は、虐待の中でも倫理観の著しい欠如という側面を帯び、暴力そのものがもつ暗さに加え、人間は2%程度はそうした徹底的な「暗さ」を抱えているという意味で、二重の暗黒さを帯びる。

 

■子どもは大人に合わせる

 

また、1540人の被害者全員がどうかはもちろんわからないものの、性的虐待も他の虐待と同じように、「親しい人々(父親・義父・兄・いとこ等)にそうした行ないをさせてしまった自分が悪い」という徹底した子ども自身の自己否定を呼び起こすともいわれる。

 

その行ないそのものは、被害者の子どもにとっては意味不明だろう。が、その意味不明であるものの多くは身体的痛みを伴う行為が生じてしまったのは、悲しいことに、被害者である子ども自身が誘発したと子どもは考えてしまうようだ。

 

大人はいつも忘れているのだが、基本的に、子どもは大人に合わせる。

それは、大人の行為や発言に合わせることが、子どもにとっての「生存戦略」だからだ。自らが生き残る=サバイブするためには、弱い自分の力だけではどうしようもなく、強い大人たちや年上の人間たちに「合わせて」いくことを無意識的に選択する。

 

だから、大人に求められれば、子どもは基本的にはその求めに従う。

従った結果、行為者の大人が社会から責められることになった場合、その「合わせ方」のやり方がまずかったんじゃないかと、子どもは自分自身を責める。

 

私が信頼する◯◯さん/ちゃん(多くは身近な大人)が捕まったのは、私の「合わせ方」が下手だったからだ、というような絶望的思考回路がそこでは働いている。

 

■「妖艶」で「エロい」姿態

 

そのような思考を取りがちの幼児の心理状態を考えた時、身近な保育士の「せんせい」が、一般的価値からすると「妖艶」で「エロい」姿態でくねくねし、その妖艶なくねくねを何らかのかたち(たとえば親がうっかり閉じていなかったスマホの画面から)で接した時、どういう気持ちになるだろう。

 

また、そうした姿態がなぜか社会から咎められ、その「せんせい」が自分たちの通う保育園からいなくなった場合、子どもたちはどんなふうに感じるだろう。

 

想像に過ぎないものの、自分たちのせいで「せんせい」は保育園に来れなくなったと思うかもしれない。あの、小さな小さな水着を着て、よくわからず変わったポーズをとり、それがなぜかまわりの大人たちから批判されいつのまにかこの保育園に来なくなったあの「せんせい」を、守ることができなかったのは自分たちだ、と思うのかもしれない。

 

また、あんな寒そうな姿でこっちを見て笑っている「せんせい」がなぜいじめられるかわからない、と思うかもしれない。

 

その姿を「性的イメージ」としてまとめることができるのは、大人たちだ。それにまつわるさまざまな議論も大人たちが行なっている。

子どもにはその女性の姿態は、強烈なインパクトはあるものの意味不明なポーズとして訴えるだろう。そして子どもたちは、そのポーズをとっているのが自分たちの「せんせい」で、その「せんせい」が好きな場合、なんとかしてその「せんせい」を守ろうとする。

 

性的イメージを子どもの世界に持ち込む時、以上のような激しい危険性を伴なう。子どもは自らの生存戦略のため身近な大人を守る。大人がどれほど倫理観を欠如した行ないをしたとしても、子どもは大人を擁護する。

 

だから大人は、子どもに甘えてはいけない。それがたとえ諸事情で「水着」にならなければいけなかったとしても、この場合も、「最も弱い存在」は子どもだからだ。

 

最も弱い存在の利益を優先することがソーシャルワークの第1原則であるとともに、まあ「ヒトの倫理」でもあるでしょう。

保育士が際どいグラドルのアルバイトをすることは、以上のような意味で破壊的な暴力であり、園児への混乱と、園児の大人への依存の利用と、その依存に乗った犯罪者たち(性的虐待の加害者)の欲望への手助け、という側面をもつ。

 

 

※なお、当欄は個別の法人や個人を批判する場ではなく、「出来事」をできるだけ一般化して問題提起することが使命だと思うので、以上の問題の固有名(グラドル保育士の雇用先NPO名)は避けている。

「ロスジェネ勝ち組」には引退してほしい

タイトル: 「ロスジェネ勝ち組」には引退してほしい

公開日時: 2019-05-07 11:54:58

   概要文: 不思議なことに、勝ち組までロスジェネとしてメディアは美しく括る。その結果、それら勝ち組に対して複雑な思いを抱く人々(高齢ひきこもりやニートたち)は、潜在化していく。

 本文:

 

 

■フォークナーではない

 

僕は今年55才なので、不本意ながら(あの時代が嫌いだったから)バブル世代に属しており、ながらくその上の世代、つまりは全共闘世代を含む団塊世代たちがうっとおしくて仕方がなかった。

 

それがやっと、団塊世代が70 代となりおとなしくなってきたなあと安心していたのだが、意外や意外、その子どもたちである団塊ジュニアたちの存在がこの頃は父親世代(残念ながら母たちは影が薄い)以上に暑っ苦しくなってきた。

 

団塊ジュニアは狭義では70年代前半、広義では70年代全般に生まれた人々を指す。この世代は、就職氷河期に20代前半を送った「ロストジェネレーション」と呼ばれる「元若者たち」と重なることから、この頃は団塊ジュニアというよりは「ロスジェネ世代」とも呼ばれるようだ。

 

文学オタクの僕などは、ロスジェネと言われると、本家本元のアメリカのロストジェネレーションを想起し、ヘミングウェイというよりはフィッツジェラルドやフォークナーを思い出す。特にフォークナーの『響きと怒り』はマイフェイバリットの一冊なのだが、日本のロスジェネにはそうした芸術的モニュメントも見られない。

 

ただし、日本のロスジェネにはひとつ特徴がある。それは、勝ち組と負け組に極端に分かれることだ。

負け組は、ニートとかひきこもりとして表象されており、特に近年は「高齢ひきこもり」として少なくとも60万人、僕の実感では40代以上でも100万人以上は存在すると確信している。

 

勝ち組のほうは、ご存知、あの方やあの方、あの方にあの方等、ネットだけに止まらずテレビや新聞等のオールドメディアにも頻出する方々が含まれる。それらは「勝ち組」にもかかわらず世間的に物議を買う発言を繰り返し、炎上商法も厭わない。

 

そこにはある種の「くらやみ」があるように僕には思える。

 

■ある種の「くらやみ」

 

その父世代が派手だったので今のところ目立ってはいないが、彼らは独特の価値観を持っている。以下のような価値観をざっと思い浮かべることができる。

 

■「代表」していない

 

これは価値観というよりは立ち位置なのだが、高齢ひきこもり支援も行なう僕からすると、案外重要だ。

 

それは、日本版ロスジェネというのは90年代後半からゼロ年代前半にピークを迎え、その結果として「ニート」という言葉が生み出されたあの就職氷河期の時代、その「被害者」が、70年代〜80年代前半生まれの人々を指しており、それらが当時「ニート」と呼ばれて要支援者として位置づけられた、ということだ。

 

ひきこもりという言葉がありながら、ほぼ同じ人たちをニートと呼ぶ奇妙さに当時の僕は違和感を抱いたものだが、日本の経済的事情から同じ人々を呼び直したという点では、まあ悪くはなかったかな、と思う。

 

日本版ロストジェネレーションという現象の「ロスト」の意味は、まずは「働くこと」がロストされた人々を指す。それを当時の経済学者はNEET(就労も教育も職業訓練にもついていない人々)と呼び、それまで同じ人を「ひきこもり」として支援していた精神科医やカウンセラーは渋々受け入れた。

 

つまりは、日本版ロスジェネとは、ニートあるいはひきこもりの方々を指し、同世代で「勝ち残った人々」を指すわけではない。いまも非正規雇用4割社会の我々の社会の中核にいる「負け組たち」をロスジェネは指し、同世代とはいえ激動の時代に勝ち残った人々を決して指さない。

 

そんなことはいま40代の高齢ひきこもりや元ひきこもりの人々に聞けば当たり前のことなのだが、不思議なことに、勝ち組までロスジェネとしてメディアは美しく括る。その結果、それら勝ち組に対して複雑な思いを抱く人々(高齢ひきこもりやニートたち)は、潜在化していく。

 

新自由主義的なイノベーション

 

ロスジェネ勝ち組たちは、それぞれのジャンルで「イノベーション」を構築している。

 

だが、制度の根幹に対して疑問符を投げかけることはあまりしない。

おもしろいことに、彼ら彼女らの父たちは、制度や社会そのものに対する疑問を投げかけた。それらの投げかけはすべて不発に終わったものの、態度としては根源的だった。言い換えると、「革命的」だった。

 

その息子娘世代であるロスジェネ勝ち組は、父たちが投げかけたような革命的呼びかけはしない。

それは僕にもわかる。革命はマッチョであり非現実的であり暴力的であり失敗する。失敗が確実なものにチャレンジするよりは、より現実的な変革に賭けたい。

 

その現実的変革が、結局は「新自由主義」的なものになっている。

それらの皮肉は当欄でも度々指摘している(https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20190420-00123035/ 「素朴」で「残酷」な新自由主義者たち~現代の子ども若者支援)。

 

父が失敗した革命を嫌った結果、現代的資本主義の先端である新自由主義的立場に陥っている。ロスジェネ勝ち組からすると「究極のイノベーション」のはずが、単なる新自由主義的体制順応変革の一部となって具現化している。

 

皮肉といえば皮肉だが、感性が鈍いといえば鈍い。

 

ルサンチマン

 

このようにみると、ロスジェネ勝ち組のトライは、その父世代である団塊世代へのルサンチマンであることがよくわかる。

 

本当は「革命」(社会制度の根源的改革)を志向しているはずなのに、それは「そこまでは無理なこと」とし、目の前の体制順応型提案を根源的改革として提示する。

それは、イソップ物語のあのキツネが、頭上のブドウにはジャンプしても届かないため「あのブドウはマズイ」と価値転倒されることと同じだ。

 

哲学者ニーチェによると、ルサンチマンはネガティブである。ロスジェネ勝ち組はネガティブなのだ。子どもを抱っこして笑顔を浮かべる彼らは、どこかで屈折している。

 

■社会の断絶の根源

 

そうした屈折が、彼らの発信の隅々に見られる。特に、団塊世代やバブル世代への無条件の反発、自分たちの事業を邪魔する言説や立場へのあからさまな攻撃にそれは見られる。

 

この反発が、結果として社会の「断絶」を生んでいる、と僕は思う。

攻撃される団塊世代やバブル世代との亀裂はもちろん、彼ら勝ち組が同世代と頼っているはずのロスジェネ世代間でも、「負け組」たちは冷めた目で突き放す(実際、元ひきこもりの人々からそうしたトークを僕はよく聞く)。

 

つまり、彼ら「ロスジェネ勝ち組」こそが、この社会の断絶を生んでいるようにこの頃僕は思えてきた。

 

個性ある彼らと議論してもあまり進展はないと思うので、手っ取り早いのは彼らが早めに引退して、ありあまる資産を元にヨットで世界クルーズの旅に出るか、寄付長者となってビルゲイツ2になれば、この社会の断絶(階層化)は少しマシなものになるかもしれない。