tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

少子社会の地域維持の一つとして、「中学生サードプレイス」は機能できる

「中学生サードプレイス」は、不登校や学校での生きづらさを支援すると同時に、これからの75年で人口が半分以下(5,000万人以下)になる日本社会の「地域維持」にとって重要な役割を果たせるのではないか、と僕は期待します。

 

それは、「高校」ではなく、「中学校」が担うんですね。

 

つまり、高校と中学では「地域への根ざし方」が決定的に異なるということです。

 

広域対象の高校では、「地域コミュニティの中心化」は成し遂げにくく、かえって居場所カフェ機能が後回しになる可能性があります。せっかく日本に根付き始めた高校内居場所カフェなので、これは現在のコンセプト(①安心安全②ソーシャルワーク③文化シェア)を純粋に維持していく。

 

地域社会の中心を担えるのは、あくまで中学校なんですね。

 

これは、中学校を支える地域の大人たちも意識していることで、それら大人たちのほとんどがその中学出身でもあることから、地元愛と地元中学愛は結びついていると想像します。

 

そこで、さまざまな制約から「カフェ化」が困難な中学というシステムを逆手に取り、「カフェは無理だけど、地元に根ざすサードプレイスはOK」という点を強調していきます。

 

 *

 

要するに、多くの高校内居場所カフェが行なう「ボランティアの導入」をより地域限定化し、

 

地元自営業者や、
地元教育/保健機関(小学校・保育園等職員や保護者)や、
地元高齢者や、
当該中学PTA、

 

等の「居場所兼交流場所」として機能させるということです。

ここでの「交流場所」がすなわち、地域コミュニティの中心という意味です。「交流」の過程で、それら地域の大人たちが担うさまざまな「文化」(地域の祭りや地場産業の紹介等)を、中学生たちや教員たちが知っていきます。

 

 *

 

当然、そこには「説教する大人たち」の参入も予想されることから、子どもへの接し方研修は必須となります。

 

そうした研修も通して、コミュニティ化が図られると僕は期待します。

 

75年後の日本は人口が今の半数以下(5,000万人以下)となり、大都会周辺の地方やより人口の少ない田舎はほぼ壊滅すると予想できます(僕が生まれ育った四国の田舎などは、確実にそうなるでしょう)。

 

ただしこれは、日本全体が「スカスカ」になるという意味ではなくて、東京や大阪は逆に強化され、同時にその周辺の町々がスカスカガラガラになるということです。

 

その周辺の町々の中心にあるのが「中学校」というわけです。

 

地域はスカスカになっても、そのコミュニティの中心で活動が残っていけば、地域社会は維持できると僕は期待します。

 

そう考えると、広域対象の高校と、地域社会に根付く中学校ではその性格がまったく異なり、

 

「地域社会の維持の中心としての中学校/中学生サードプレイス」

 

は大いに使えると思うんですね。

垂直統合と水平展開

 
 

今年度はドーナツトークをつくって12年目で、受託する各事業(高校内居場所カフェ・平野区青春・住吉区子ども若者・大阪市中学生自立アシスト)をさらにパワーアップさせるべく会議ほかを重ねたため、例年の年度はじめよりも忙しくなってしまいました。

けれども7月になり、それも一段落。やっと時間がゆっくり流れています。7/23に予定する「中学生サードプレイス5」を比較的落ち着いた時間の中で行なうことができて嬉しい限りです。

中学生自立アシスト事業(大阪市福祉局)も含め、ドーナツトーク(特に田中担当)は中学生支援に少しずつですが関わっています。

これに上記の事業群(高校内カフェほか)を加え、去年行ない今年は審査待ち中の高卒後の支援事業も含めると、その「垂直統合(vertical integration一般のビジネスモデルとはちょっと意味合いが異なりますが)」が完成されようとしています。

この垂直統合モデルをあらためて時系列に並べると、

乳幼児から高齢ひきこもりまで対象の住吉区事業
  ↓
中学生への個別ソーシャルワーク大阪市福祉局自立アシスト)
  ↓
中学生サードプレイス
  ↓
高校内居場所カフェ(大阪府教育庁
  ↓
高校生への個別ソーシャルワーク平野区青春生活応援事業)
  ↓
高校後のアフターケア/個別ソーシャルワーク(某民間助成金事業)

という図式になります。

なお、中学生サードプレイスイベントは、中学生支援分野の「水平展開horizontal deployment」の具体化の検討であり、現在、主として大阪と兵庫でどう展開しているかを「5」では確認することになると思います。

 *

そういえば、淡路プラッツやドーナツ初期の頃は、こうした水平展開型のイベント(関係者が広く集まるイベント〜ex.「高校生サバイバー」)を定期的に開催していました。

けれどもいつの頃からか、一つのテーマを法人内で深めていくシンポジウム/フォーラムへと変化していたのでした。

中学生サードプレイスや高校内居場所カフェにおいては、大きなコンセプトを共有することがまずは必要です(ex.「高校内居場所カフェには①安心安全②ソーシャルワーク③文化シェアが必要」)。

そのコンセプトの共有を受けて、現実展開では、それぞれ異なるNPOやグループが実践していく。

その実践の具体的報告の一例が今回のようなシンポジウム/フォーラムであり、「水平展開」の実例となります。

上の垂直統合の図式にこの水平展開を加えると以下のようになります。

乳幼児から高齢ひきこもりまで対象の住吉区事業↔︎児童相談所や障害児支援NPO、民間のひきこもり支援NPOとの水平展開
  ↓
中学生への個別ソーシャルワーク大阪市自立アシスト)↔︎NPO志塾とドーナツの協働体以外に自立アシストを受託する2NPOとの水平展開
  ↓
中学生サードプレイス↔︎NPOフェアロードほかとの水平展開
  ↓
高校内居場所カフェ(大阪府教育庁)↔︎大阪や全国で同カフェを行なう諸NPOとの水平展開
  ↓
高校生への個別ソーシャルワーク平野区青春生活応援事業)↔︎同種事業を行なうNPOの出現待ち
  ↓
高校後のアフターケア/個別ソーシャルワーク(某民間助成金事業))↔︎同種事業を行なうNPOの出現待ち

となります。わかりやすいですが、下2つが淋しい。「出現」を促すイベントや広報活動がさらに必要ですね。

繰り返しますが、水平展開の際のポイントは、「コンセプトの共有」でしょう。

たとえば高校内居場所カフェでは、これが現在揺らいでいる可能性があります(③文化シェアへの偏り)。そうした点もこれから提示していき、水平展開のブラッシュアップにつながればと、僕は思っています♪

 

第3インター、『帝国』、多国籍企業、行き過ぎたポリコレ、「マルチチュード」からの転換

ヨーロッパを中心に一国/単独主義に回帰するなか、これから国際主義(移民政策)を目指す日本。

 

フランスやイタリア他に見られる21世紀型保守政党(「極右」は誤り)の台頭という現象は、ヨーロッパがリベラル/国際主義に疲れたということを示します。

 

国際主義はおそらく、

 

コミンテルン的な第3インターナショナルの流れを汲んでいる

 

と僕は解釈しています。それに加えて、

 

②『帝国』でネグリらが暗示した湾岸戦争やユーゴ戦争等で現実化した国家連合、

 

③21世紀型多国籍企業の覇権化、

 

④左翼主導の行き過ぎたポリティカルコレクトネス、

 

さらには、

 

⑤同書で示された「マルチチュード」(現代的プロレタリアート

概念も含むと推察しています。

 

 *

 

特に④⑤は、いわば左翼/リベラルにとってのある種の到達点だっただけに、①〜③も含んで複雑に権力化したことは皮肉です。

 

ここには既成マイノリティ利権も含まれます(人種や女性)。実際それを前提に既成マイノリティの人々の生活が成り立っていることから、こうした①〜⑤のリベラル/国際主義はここ20年で大きな覇権を握りました。

 

けれども、たとえばスペインのバルセロナ市民が行動化する観光客拒否の姿などから、覇権化した国際主義は、国際主義の結果から生じた移民/外国人の増加への疲れと否定という点から綻び始めました。

 

投票行動に於いては、21世紀型保守政党(「極右」ではありません)の台頭という現象を生んでいます。

 

発展した資本主義国のなかでは唯一日本のみが、時代遅れの国際主義にしがみついています。

 

ただし、少し角度は異なるものの、先日法改正化した「共同親権」導入の動きなどは、いわば「既成マイノリティ権力」化したフェミニストの立場を等身大化させ、潜在化し続ける子どもや別居親(多くが男性)の声を顕在化させました。

 

その意味で日本は、「家族のかたち」はようやく時代のトレンドに乗ることができましたね。

 

秋の自民党の総裁選では、現代日本の政治を担う人たち(自民党員のみなさん)のセンスが問われます。これまで通りの国際主義か、新トレンドの単独主義か、次期政権(総裁/総理)はどちらを目指すんでしょうね。

蝶番の外れた、運命の時間〜『光る君へ』第25回第26回

◾️上弦の月

 

離れた場所から互いに想い合う場合に恋のメタファーとして使われる月が、雲で隠されることのない鮮やかな上弦の月として、久しぶりに描かれていた(第25回)。

 

この上弦の月は、道長柄本佑とまひろ/吉高由里子を照らし続けている。

 

道長からの結婚祝いはまひろへのゴーサインを示し、その直後に彼女は現実的な道を選択した。権力者である道長はもう何年も前にその現実的選択を行ない、ドラマで描かれるだけでも賢妻2人と何人もの実子たちに囲まれている。

 

これらの現実的幸福と、生き霊や怨霊に包まれる世界(安倍晴明やおそらく定子ほかも)と、上弦の月に見守られ続ける運命の関係(まひろと道長)が同時に存在し、それらが責め合うことなく肯定する世界が、近代より遥か以前の平安期だったのだと思う。

 

◾️月の光

 

鮮やかな上弦の月を、まひろと道長は別の場所から見上げる。

 

自然災害(今回は洪水)は、我々の生活や運命と密接にリンクしていることが実感される。

 

大雨のあと泥を片付けたまひろが、道長を想いつつも父の友人との結婚を決める。

 

同じ頃一条天皇は、定子との運命の道以外見えない。

 

だがその横にいる定子は、出家後の「死」を常に意識している。

 

これらが同時に走る。どの価値が正しいかは示されないものの、月の光による運命の結び付き(まひろと道長)を信じたいと願うのは、見る我々が近代人だからなんでしょうね。

 

◾️出家とは死

 

26回の前半では、久しぶりに満月(だったと思う)が映し出された。その後、道長とまひろのパートが20分程度ずつ区切って描写され、最後に2人は石山寺で邂逅して終わった。

 

月の映し出された前半は政治劇ではあったが、出家し「死」を背負う定子の内裏入りとそれに接近し続ける一条天皇の姿を、すべての人々が忌み嫌う描写が印象的だった。

 

それほど出家者はタブーで、そのタブーに「生の中心」である天皇は関わってはならない。

 

道長柄本佑は、自分の娘を使ってまで天皇を死の世界から遠ざけようとするが、一条天皇自身が生死の境界を気にしない。

 

天皇は、いわば近代的欲望に基づいた定子との愛に向かうのみ、という当時の人々が理解できない行動をとる。

 

◾️生死の渚

 

まひろパートでは、自分の手紙を周りに見せびらかす夫を妻(まひろ)が憎むシーンが描かれる。単独的な愛に秘密は当たり前というまひろの常識はいわば「近代の愛」の常識であって、その秘密性は絶対だ。

 

その秘密性があるからこそ愛や信頼は生まれるとまひろは信じるが、平安官僚男性の夫には意味不明だろう。

 

一条天皇と定子は、近代的愛に忠実なあまり生死の渚を容易に超えてしまう。

 

まひろも近代的愛を知っているのだが、生死を超えることはせず、偶然性に身を任せる。

 

平安官僚男性であるまひろの夫は、当時の価値に基づき妻の機嫌をとろうとするが失敗する。

 

まひろは、一条天皇と定子のように力で当時の価値を破りはしない。あくまでも平安期の時間の流れに身を委ねつつ、力は行使しない。

 

◾️蝶番の外れた、運命の時間

 

いつもながらなのだが、運命のような月の導きに2人(まひろと道長)は身を任せる。それは、平安時代の自然の脅威の時間でもないし、近代の欲望と自我の時間でもない。

 

それは、死と生の時間でもないし、情熱の愛の時間でもない。

 

それは、止まった時の中でお互いだけが動く時間。時の蝶番が外れた瞬間でもあるし、まさに運命の時間。

 

この時間の描写の間、不思議と互いを求め合うような欲望の力を感じられない。この時間の間は、平安でもなく近代でもない、全然別の時間に2人が移動したような気がする。

 

この、突然現れる、とても難しい運命の時間をいつも2人は逃さない。次回27話でそれが成就するかはわからないが、この特別な時間、蝶番の外れた瞬間に久しぶりに観る側は立ち会うことができた。

 

その瞬間、非常に肯定的なものを得ることができたように僕は感じました。

 

醜悪squalorの美しさ〜「正義」では表現できないもの

サリンジャー「エズメに捧ぐ〜愛と醜悪」では、ノルマンディ上陸作戦に参加しヨーロッパ大陸で疲弊するX(サリンジャー自身がモデル)が、エズメとの出会いを回想し少しだけ安らぎを得る。

 

彼女がつぶやく「醜悪」さがsqualor だと記憶するが、戦争というsqualorのリアルなかたちを知ってしまったXは、エズメのいうsqualorに逆に癒される。

 

サリンジャーやカーヴァーが作品の中で表現する人間の醜悪さと美しさは、戦争のsqualorとエズメのsqualorの差異にある。

 

その2つのsqualorが持つ汚れの程度や次元の異なりを、短編小説作家という詩人たちは巧妙に描き出す。

 

その現れが人間であり、ポリティカルコレクトネスでは決して表現できない領域の美しさと醜悪さだ。

 

この詩的領域をポリコレは「正義のことば」で隠蔽してしまう。

 

そして現在、squalorの差異がわからない若者たちが大量に生産されている。紋切り的正義で物事を若者たちは判断しようとするが、その「語りきれなさ」にどこかでイラついている。あるいは、もがいている。

 

ポリティカルコレクトネスに縛られた正義によって、「何か」が大きく抜け落ちており、そこに若者たちは苛立っている。

 

けれども、諸価値の不足や表現の未熟さに関して、若者たちの感性は気づいている(squalorの複雑さに気づけないがその不足に違和感を抱く)。自らの言葉の足りなさに苛立っている。

 

ポリティカルコレクトネスによる具体的攻撃は、このようなかたちで若者を襲う。

 

 **

 

サリンジャー「エズメに捧ぐ」で語られる「醜悪」の原語は「squalor 」だ。

 

エズメにとってsqualorが意味するものは、雰囲気としてはmoving (感動的)な感じでもあり、それを語り手は戸惑いながら受け止める。

 

【She nodded. “Make it extremely squalid and moving,” she suggested.“Are you at all acquainted with squalor?”

彼女はうなずいた。「ひどく醜悪で、感動的なものにしてくださいね」と提案した。「醜悪ってことよくご存じでいらっしゃるかしら」 】

 

squalorを五感で楽しむエズメのスノッブさや気取りも、ノルマンディ上陸後の疲弊しきった語り手には一つの可愛らしさに映り、squalorはよくわからないけれども「だんだん身に染みてきている」ので、作品にしてみると答える。

 

【I said not exactly but that I was getting better acquainted with it, in one form or another, all the time, and that I’d do my best to come up to her specifications. We shook hands.

わたしははっきりとわかっているわけではないが、四六時中それはなんらかの形でだんだん身にしみてきているということと、わたしは彼女のご注文にそうように努力するといった。わたしたちは握手した】

 

これらは、ポリコレ的一元化した言葉ではない、まさに「詩」を我々の言葉が内包していることを教えてくれる。

 

それはすぐにわかるわけではないが、ゆっくりとわかるようになる。だから、苛立つのは十分理解できるけれども、と僕にはサリンジャーが子どもや若者に語りかけているかのように感じる。その表現の繊細さが伝わるよう努力する、と。

 

そうした誓いと実現化の努力を、我々普通の大人もしてもいいんじゃないかと僕は考える。その努力の具体化が「支援」だと思う。

 

https://www.amazon.co.jp/dp/B0BMLRFMDJ?ref_=cm_sw_r_ud_dp_K27WSTT10WNKBBHJJSYK

 

 

 

自分の思うところを恐れずに発言すること〜スピヴァクの率直さ

4分過ぎに「研究者にとって必要なものとは何か?」と問われたスピヴァクは、the truth honestyと即答する(そう聞こえる)。これが「誠実さ」と訳されるが、これはどちらかというと「パレーシア的率直さ」のニュアンスに近いような気もする。

 

続けて語る、「『主体性を重視しない哲学』(ポストモダン哲学ですね)に影響を受けた私」が、誠実さ/率直さを語ることは実は困難であること。けれども、ここでいう誠実さは「資質」のことであり、「自分の思うところを恐れずに発言すること」であるという。

 

これこそまさに、フーコーのいうパレーシア。スピヴァクフーコーがこんな動画で重なってビックリしましたが、年をとるとみんなここ(誠実さや率直さ)に向かうのかな。

 

いずれにしても、陳腐な表現ではあるが、「魂のすべて」でサバルタンと関わっていくことをスピヴァクは求めているんでしょうね😀

 

ガヤトリ・C・スピヴァク(第28回京都賞受賞者)からのメッセージ - YouTube

 

 

大きな「扉」が開きました〜離婚後の共同親権、民法改正案可決

もともとは、面談支援のなかで時々出会う「別居親」のみなさん(父だけではなく母も)が流す「涙」の意味を熟考するうちに、この共同親権への民法改正を僕は応援してきました。

 

もちろん、別居親の方の嘆きも聴きつつ、DV被害の母親の苦しみ(PTSDですね)も聴いています。

 

両者の痛みの重さは同等だと僕は考えますが、この問題に僕が向き合い始めた5年前は、単独親権による別居親の痛みは完全にサバルタン化(潜在化)していました。

 

当然、同居親が連れ去った子どもの痛みも完全にサバルタン化されていました。

 

そうした声を受けて僕なりに大手ニュースサイトで積極的に発信したり、個人的にイベントを開催協力しました(残念ながら大手ニュースサイトの連載は終了)。

 

スピヴァクデリダフロイト理論を受けて「サバルタンは語ることができるか」と問い、その「語れなさ」を発信し続けています。そして、インドで、サバルタンの顕在化に尽力してきました。

 

僕も、こころの師であるスピヴァクに少しでも近づきたく、この5年、自分なりに活動しました。

 

もちろんDVや虐待被害者支援もこれまで通り続けます。そして、共同親権に基づいた実際の動きもこれからでしょう。

 

けれども大きな「扉」は開きました。ドアーズがそのグループ名に参照したブレイクの詩を思い出します😀

 

If the doors of perception were cleansed
every thing would appear to man as it is, infinite.

(知覚の扉が清められたなら、物事はありのままに、無限に見える)

 

(ウィリアム・ブレイク) 「まといのば」ブログ

 

離婚後の共同親権導入、参院法務委で可決 民法改正案成立へ | 毎日新聞