だいぶ前にKindleで買ったが、ふだんの仕事に追われて読む気が起こらなかった『街とその不確かな壁』をようやく読み始めた。たしかに、『世界の終わりとハードボイルド〜』の別バージョンみたいな作品だ。
最近のハルキの小説の特徴である過剰なメタファー類を抑え気味なのも読んでいて楽。静かな文体の割には妙に色気というか性を感じさせる文も少なく、引っかからない。
デビューから『1Q84』や『カフカ』くらいまでは読み、結局彼の作品でいちばん好きなのは未だに『羊をめぐる冒険』。数年前に稚内を訪ねたのも実は、同作最終盤に出てくる鼠と語らった館があったであろう北見山地の山々を見たかったからだ。
ハルキのユング好きは相変わらずのようで、夢読み等は出てくるけれども、そこも抑えた筆致により気にならない。ダラダラ読んでいこうっと。
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村上春樹『街とその不確かな壁(上)』を引き続き読む。
本ではなくKindleで読んでいるので、全体のどのあたりまで到達しているのか実感しないまま進んでいると、壁の内側で人物たちが別れる場面で第一部が終わり、少し驚く。
いつものハルキ節ではあるものの、70代になって書かれた本作は、30代で書いたであろう姉妹作『世界の終わりとハードボイルド〜』とは似ているようで違う。
本作の登場人物の1人は、街の図書館で「夢読み」の仕事を続けることで、人々の存在も自分自身も徐々にその壁の内側に溶け込んでいく。そうして溶け込むことについてその人物は受け止めており、第一部の「別れ」も、溶け込みを選んだためだった。
30年以上前の『世界の終わり〜』のほうは、溶け込みというよりは、「個の自分」が生きていた世界に戻ることを選択する物語だったと記憶する。
正確には忘れてしまったが、30年前の登場人物たちは、「溶け込む」ことよりも「戻る」ことを選んだのだと思う。けれども作者70代半ばの今は、溶け込み(個の埋没=死、ですね)の「受容」が筆致から滲み出る。
2部は福島県の山間部が舞台のようだ。北海道北見山地(『羊』)や四国の奥深い山峡(『カフカ』)でもなく、福島・会津の先の廃線駅周辺の描写が続く。この先も楽しみだが、ハルキ作品で時々生じる「息切れ」が来ないことを祈ります。
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村上春樹『街とその不確かな壁』をようやく読了。1部がスリリングだっただけに、残り2部と3部は1部とはまったく違う小説に思えた。発達障害らしい設定の少年を造形しているのも、あまり作者らしくはないと感じた。
「幽霊」への直接的な言及についても、晩年になってなんとなく文学的筆力からエッセイスト的筆力へと移行した印象を抱いた。
今作は、40年前であれば頻出していたジャズや映画への言及もほとんどなく、それが読んでいて楽ではあった。たまたま最近僕はポール・デズモンドという昔のサックス奏者をよく聴いていたのだが、この下巻でそのデズモンドに触れている部分があり、若干のシンクロニシティを感じたもののその程度。
1部が傑作であることは明らか。また、本作全体が醸成した「死あるいは『別領域』との連携」みたいなものを常時読者に問いかけてくる力には魅力がある。自我が把握しているように感じるこの現実の曖昧さや儚さや楽しさは、いつでもまぼろしであっても不思議ではない。
そこへの用語的技術として、幽霊や亡霊やゴーストということばを使ってその世界を切り開くか。
あるいは、そうしたファンタジー的単独性(その例が本作)を描写することなく、いつも心の中で「恐山」のような概念とリンクさせておくか。
概念自体を扱う哲学が友達の僕としては、文学マニアではあるものの、前者の単独性/キャラ設定では物足りない。
やっぱり、街や壁で仕切られる僕/私という単独的日常よりは、たとえば「恐山」のように、そのことばのイメージそのものが青森北端にある奇妙な山という単独的意味を超え、違う平原を切り開く大きな概念をつくるありように惹かれる。幽霊という個のイメージだけは若干つまらない。
そういう意味では、この小説の第一部は、「死への溶け込み」といった大きな概念を詩的に描いていた。
何はともあれ、この作品も僕にとっては2週間後の青森県恐山旅行に向けての想像的トレーニングとなりました🏋️