tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のもう一つのブログです✌️

アタッチメントの呪縛がほどける〜ファーストプレイス(家族)の秘密③

 

 

前回、前々回と、乳児期のアタッチメントや恋愛期の濃密さが「家族」の原点となり、その明確な記憶を消失することで、逆にそれらが理想化されることを簡単に書いた。

 

その記憶の「イデア」化が、我々の人間関係の原点となり、我々にコミュニュケーション能力を与える。

 

だが皮肉にも、獲得したコミュニケーション能力と反比例するように、我々の原点であるアタッチメントの記憶をなくし(乳児期)、その記憶は理想化されていく(恋愛期以降)。

 

■風俗店でも

 

今回は親子関係の移り変わりをみてみよう。

 

決定的なアタッチメント期がすぎ、他者への信頼関係という技術(というか、一般的な人間の属性そのもの)を獲得し、我々は小学生高学年となり、やがてそれぞれの人生にとっては決定的な思春期に突入する。

 

同時に、その人らしい自我がようやく確立され、その人にとっての人間関係が始まる。

 

その時、それら人間関係を確立できるための土台を与えてくれた(主として)親は背景化する。親が背景化し、我々は友人や恋人を作ることになる。

 

その後は、誰もが体験する青春が始まる。中にはひきこもりになり、他者関係の希薄な思春期を送る人もいるが、メディアやネットを通して、「親以外のアタッチメント」を求める点では同じである。

 

中には、「風俗」店において、人工的ではあるが「濃厚な接触」を求める場合もある。

 

■自由と郷愁のトレードオフ

 

こうした時期を通り抜け、次にやってくるのが、元々のアタッチメント提供者である「親との別れ」だ。

 

それは現代日本では、たぶん20代前半に訪れる人が多いだろう。いや、ここ最近の20年程度では、20代後半かもしれない。

 

その時、アタッチメント提供者であるその人間(親)は、アタッチメント受給者である人間(子ども)からすると、フツーの少し老いた大人として目の前にたたずむ。

 

そのたたずみは何とも寂しげで、かといってそこから離れる時期はすでに来てしまっている。

 

だから離れていき、離れた後は、あれだけ感情的に対立していたその人と喧嘩しなくなる。

 

その時点が、子どもにとって、「感情のコミュニケーション」の場であるそのファーストプレイス(家族/家庭)から離れた瞬間だ。

 

以降、親子はほとんど対立しない。対立するとすれば、大人同士の対立になり、それは金銭が絡むことになる(この段階で起こる「事件」と、思春期時の「感情の対立」事件とはそもそもフェイズが異なる)。

 

親子間の感情的対立が極端に少なくなった時、その時が親からの自立を示す。それ以降、子どもがゲットする「自由と孤独」は、同時に抱く「アタッチメントや恋愛への郷愁」とトレードオフになる。

 

それが「大人になる」ということだ。

アタッチメントと恋愛の、「事後的」甘美〜ファーストプレイス(家族)の秘密②

 

 

このブログではしばらくの間「家族」を扱おうと思っている。

 

前回、家族でのコミュニケーションを「感情のコミュニケーション」だとした。

 

感情のコミュニケーションと名付けざるをえないほど、家族という内部では、何気ないことで摩擦が起こってしまう。他人相手だとそれほど腹も立たないし悲しくもならずに割り切れることが、いざ家族(特に親子と夫婦)内でコミュニケーションする時、何気ないことを引き金に齟齬が起きる。

 

対立する当事者たちの内面では、感情的爆発と同時に、「?」も並走している。

 

なぜこんな些細なことで腹が立ってしまうのか、あるいは涙がでてきてしまうのか。当事者たちにもわからない。

 

 **

 

その謎の根源について、前回僕は、親子関係と夫婦関係の原点である「アタッチメント」期と「恋愛」期にあるのではないか、とした。それを以下のように表現してみた(それは「感情」のコミュニケーション〜ファーストプレイス(家族)の秘密)。

 

アタッチメント時代は(赤ちゃんを)抱いて歌っておっぱいを飲ませていればよかった、恋愛時代は互いを見つめ合い触れ合うだけでよかった。その時期が終わった後、その距離の近さはそのまま、ネガティブな「ひっかかり」のようなものが黒い感情として互いを襲う。

 

 20年近くに及ぶ子育ての中で、僕は、1才半頃までの「アタッチメント」を育む時期が最も重要だと思う。

 

たとえば、乳児院児童養護施設という集団養育のなかで薄いアタッチメントしか経験しなかった人は(そこに施設内虐待等あればなおさら)、いくつになっても他者を信頼できず、身近な者が荷物を取ろうと手を上げだけで身構えたりする。アタッチメントを獲得しないと、他者に対する信頼を直感的に得ることができない。

 

また、恋愛の初期において、互いが衝動的に惹かれ合う時期も、甘く甘美であり、それは性欲と結びつき、理性のコントロールの外に置かれる。

 

この時期はむしろ現実のセックスのほうが邪魔になり、紋切り的行動様式が問われるセックスを行なうことがむしろ、恋愛初期の甘美な欲望的世界を薄めてしまう。

 

一生懸命(紋切り的に)セックスすることが、逆にその恋愛に秘められているイメージの洪水を矮小化する。恋愛が神秘的なものではなくなり、決められた物語として矮小化してしまう。

 

「欲望」とはフロイト用語だが、「イメージに焦がれる」ということで、それぞれが抱く美的性的倫理的な諸イメージを、ある一人の人物に同一化してしまうことだ。このイメージの発動があって初めて、人は一義的欲求(食欲や排泄欲や射精欲等)から脱出することができる(欲求は生物学的、欲望はイメージ、欲動は生命の根底というフロイトの3分類)。

 

いわば、イメージを抱くことで、人はサルではなくなる。そのイメージの欲望の象徴が初期の恋愛であり、この時期は記憶も曖昧になってしまう。

 

 **

 

紋切りの罠に収斂されず、アタッチメント期を言語以前の乳児の奔放さに寄り添い、恋愛の欲望のイメージを爆発させると、その奔放さや爆発が完ぺきに近ければ近いほど、なぜか記憶が消失する。

 

甘美なアタッチメントと恋愛が完成に近づくと、なぜか細かい記憶が薄くなり、事後的な快楽だけが残る。

 

赤ちゃんの笑み、恋人の瞳、そうした断片的記憶はもちろんあるが、甘美なはずの細かい記憶が曖昧になってしまう。

 

そう、記憶は言語的に組み立てるものだから、「ことばの外」にあるそれらの甘美さをうまく捉えることができない。

 

言い換えると、それらの甘美さは「事後的に」よかったものとしてしか捉えられない。

 

それは、魔法による夢、のようなものだ。ことばでは捉えられないイメージと身体の本流がそこにはある。

 

 **

 

「家族」、その根幹である親子関係と夫婦関係の原点には、こうした「ことばの外のイメージ」がある。

 

それらのイメージは、とにかく「よかったもの」として事後的に捉えられている。なぜそれが「よかった」のかは、当事者たちにも答えられない。

 

けれども、その「中身のない甘美な記憶」が、家族のコアにある。その時期があるから、いまの生活に追われる時期も耐えられると自分たちに言い聞かせている。

 

「事後的に形成された甘美さ」が家族の根幹にあり、目の前の親やパートナーは、その甘美さの中心にいた人なのだ。

 

そうしたパーフェクトな事後的記憶のせいで、今という現実がいつも「なにか足りない」ものとなる。よく覚えてはいないが、この人とは、この子とは完ぺきにつながりあった実感がある。

 

でもなぜ、いまこの人と、この子と、わかりあえないのだろうか。あれほど完ぺきな甘い記憶があるのに。

 

こうした残念さかが、感情の本流となって家族内の人々を襲うのではないか、と僕は想像している。

それは「感情」のコミュニケーション〜ファーストプレイス(家族)の秘密

日付:

 

ずいぶん更新をサボってきたブログだが、しばらく「家族」をテーマに短い文章を書いてみたいと思う。

 

高校内居場所カフェは居場所であり「サードプレイス」、そして職場や(子どもにとっての)授業/学校は「セカンドプレイス」である。そして、家族/家庭は「ファーストプレイス」ということになる。

 

日本やアメリカではサードプレイスがなくなったため、子どもに諸問題が集中している。だから僕は、編集者から支援者に転身して25年以上、このサードプレイスづくりに集中してきた。

 

それは、西成高校の「となりカフェ」に見られるように一定の成果は出せたと思っている。

 

同時に僕はここ25年以上、個人面談支援(カウンセリングやソーシャルワーク)を通して、保護者や子どもや若者たちを支援してきた。

 

その中で一貫して感じるのは、「家族」というある種の「魔物」である。

 

別に、家族内で度々起こる凶悪事件を指しているのではなく、家族においては、他のプレイス(仕事や居場所)ではなかなか生じない独特の対立が巻き起こる。

 

それはたいていは「家族だから」と諦められている。家族なのでどうしても喧嘩してしまう、家族なのでどうしても距離が近すぎる等々。

 

家族だからトラブルは仕方がない。逆に、家族だから想像していなかった親密な出来事も起こる。それらハプニングは、距離の近い家族なのですべて仕方がないと諦められている。

 

■家族とは感情

 

家族は魔物と僕は思わず書いてしまったが、実はそれほど神秘的なものでもないと思う。

 

家族内コミュニケーションで第一に立ち上がるのは、何よりも、

 

「感情」

 

である。同じようなテーマの会話を職場で行なっていても、それは意見対立にはほぼならないのだが、家族で同じような何気ない話題をしていても、なぜか意見の対立へとつながっていく。

 

その話題は本当に平凡なもので、趣味・テレビニュース・過去の体験等々、人間が空き時間に何気なく行なう会話が、それが家族で行なっている場合、なぜか言い合いになったりする。

 

言い合いを避ける人は、沈黙になり、何かを我慢する。その我慢の中には感情的うねりが蓄えられている。

 

家族内コミュニケーションにおいては、なぜかこうした「感情」的たかまり

うねり、沈黙を抱えやすい。

 

ある人たちはその感情のまま対立しぶつかるが、ある人たちはひたすらその感情を抱えたまま我慢する。

 

■アタッチメントと恋愛

 

これは単に「距離」の問題だろうか。セカンドプレイスでの活動を終え、ファーストプレイスであるイエに人は帰る(だが児童養護施設の子どもは、帰ってもセカンドプレイスのまま。ファーストプレイスがない)。

 

帰った家は普通は狭く、互いの距離感もセカンドプレイスよりは圧倒的に近い。

 

距離は物理的なものだけでもなく、共通体験の積み重ねが心理的距離の近さを生む。子どもが2才頃までは、これは「アタッチメント」として必要な近さで、あるいは恋愛体験→結婚へとつながる親密さの醸成にとっては必要な近さでもある。

 

けれども、アタッチメントとしての近さ、恋愛の醸成としての近さの時間が過ぎたあと、多くは数年後には離れていく宿命にある、近さだ。

 

だが多くの場合、アタッチメントと恋愛を、家族内の関係は引きずっている。子どもが中学生になった、経済も含め生活全体を考えなければいけない夫婦になった時、あれだけ必要で甘美だったアタッチメントと恋愛は、「感情」という名の黒いものに変化している。

 

その黒い感情が、その変わらぬ距離の近さをベースに、互いに侵食し合う。

 

アタッチメント時代は(赤ちゃんを)抱いて歌っておっぱいを飲ませていればよかった、恋愛時代は互いを見つめ合い触れ合うだけでよかった。その時期が終わった後、その距離の近さはそのまま、ネガティブな「ひっかかり」のようなものが黒い感情として互いを襲う。

 

家族とは、こうした独特の「感情」のコミュニケーションをもとにしたシステムだと、僕は思っている。

成熟を拒否し、家族解体を志向する(少女の)フェミニズムが支えた、「男女共同参画」政策

 

 

■「DV阻止=単独親権」を推し進めるフェミニズム

ここ最近、2件立て続けに「共同親権」に関する訴訟が起こされている。2件ともが、共同親権は「基本的人権」のひとつだという趣旨を訴状で述べているのも共通する(共同親権関連資料 訴状(共同親権集団訴訟)子の連れ去り違憲訴訟)。

2通の分厚い訴状をざっと読む限りでも、ここに述べられる「親権=基本的人権共同親権」は論理的であり、納得できる。

ただしこの問題は、そう単純ではなく、主としてDV支援の立場から、共同親権は単独親権支持者によって否定されている(ここに、申告だけで事実化される「虚偽DV」が含まれ、それに基づく「支援措置」により、訴えた側=多くは妻、が有利になるという社会問題が生じている)。

僕の議論は、DVも含むジェンダーギャップ低位置国と、少数の単独親権採用国(日本含)が重なることから、むしろ単独親権がDVを生むのでは、と問題提起をしている(「虚偽DV」はその風潮を逆利用している)。

この問題提起とは別に、以前より、「DV加害者=男性・夫」(実際は、30代の夫婦であれば、加害側は女性・妻が上回る)という偏向した観点から、離婚しても「親権」という名目で関係性が続いてしまう共同親権に関して、単独親権サイドから強力な反対がある。

いわば、DV阻止=単独親権という発想なのだが、これを推し進めてきたのが、「男女共同参画社会」を積極的に支持してきたフェミニズム、という点も見逃せない。

たとえば、上野千鶴子氏が理事長を務めるWAN(ウィメンズアクションネットワーク)のサイトで共同親権反対の署名活動が行われたことも象徴的だった(署名できます【2月28日】1万人 署名提出記者会見:STOP共同親権 DV・虐待被害者の安全を守って 共同親権法制化は 慎重な議論を)。
上野氏が単独親権支持であることは、これまでもいくつもの場面で述べられている。

■全編ルサンチマン(現状価値の否定)に貫かれた祝辞

男女共同参画社会は、霞が関エリート女性官僚と、上野氏を中心としたフェミニズムフェミニストたちが推し進めてきたと、この動きの中にいた大泉博子氏が明確に述べている。

男女共同参画は官制フェミニズムだったということである。男女共同参画がなぜエリート女性向けになったかというと、女性のエリート官僚が引っ張ったというのと、当時の社会のバックグラウンドがフェミニズムだったからである。上野千鶴子氏をはじめ、フェミニズムの論客が登場し、リベラルな考え方が社会を賑わせた。エリート官僚と社会のリベラリズムが合体した形で出来上がったものなので、「官制フェミニズム」と名付けてよいと思う。出典:「男女平等社会」のイノベーション―「男女共同参画」政策の何が問題だったのか


女性の就業率向上等で男女共同参画政策には一定の成果があったと大泉氏は述べる。僕も同感だ。ただ大泉氏は、少子化対策等での予算配分の問題で男女共同参画政策には難点があったと遠回しに述べている。

その後我が国には「男女共同参画センター」が各地に設置された。また、配偶者暴力防止法(DV防止法)をベースに、配偶者暴力相談支援センターも各地に設置されている。支援施設一覧を見ればわかる通り、同支援センターは各地の男女共同参画センター内にもある(配偶者暴力相談支援センターの機能を果たす施設一覧)。

僕は、大泉氏と同じく女性の社会参加という点で男女共同参画政策には大きな意義があったと思うが、ここに(特にその政策を支えた80年代フェミニズムに)含まれる「ルサンチマン」の思想が、いまに至る単独親権固守の思想につながったと捉えている。

ここでのルサンチマンは、主として男性へのルサンチマンで、現代の「男社会」を否定することから始まる考え方だ。
たとえば昨年話題になった、上野氏の東大入学式祝辞にこんな一節がある。

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。
ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。出典:「がんばっても報われない社会が待っている」東大の入学式で語られたこと【全文】


最後は祝辞らしく締めくくるものの、読みようによっては全編ルサンチマン(現状価値の否定)に貫かれた祝辞である。この「社会の不公正に対する怒り」こそが上野氏の魅力でありフェミニズムなのだが、全編にあふれる男性社会への怒りと諦めは根深い。

■「少女フェミニズム」と「産まない女」

こうしたルサンチマンを抱くフェミニズムは、「娘のフェミニズム」「少女フェミニズム」とも呼ばれているらしい(働く/働かない/フェミニズム 家事労働と賃労働の呪縛?! “自立の迷走”からのフェミニズムの自立のために 金井淑子)。

つまりいつまでも娘の立場で語っていて、社会や親、男に対しての攻撃の仕方が、自分が親、あるいは自分が社会だという認識が欠落しているというのだ。上野フェミニズムがとった「娘の立場」のラディカルさ、「娘の立場」からの母殺しは、自分が次には大人の「女の立場」をどこかで巧みにズラし、結果的には「成熟」を拒否する「少女フェミニズム」につながっているというものである。出典:同書、p44

このようなある種の「成熟拒否」は、別ページで指摘される、「産まない女」を選択することにより「“産”の思想をつくることには関われない」(p43)という発言とも結びつく。これは言い換えると、「家族」の否定である。

このように、男女共同参画社会を引っ張った上野氏を中心にしたフェミニズムには、以上のような現状の社会に対するルサンチマン的否定が含まれ、そこから生まれた「少女フェミニズム」「家族解体フェミニズム」があり、その結果として「子ども」が遠い存在、言い換えるとそれは「対象=オブジェ」のようなものとして捉えてしまう。

僕が少し前の当欄で、「子どもはオブジェ~小さな大人でもなく、権利の主体でもなく」とする記事を書いたのは、現代日本では子どもが「権利主体」でもなく「小さな大人」でもなく、それは奇妙な客観的な対象になっていることを言いたかったのだが、子どものオブジェ化は、自分に一生懸命な「少女フェミニズム」にも根付いている。

共同親権をベースに、子どもも権利の主体として顕在化

つまりは、論理的に考えると合理的でない単独親権が現代ニホンで生き続けているのは、以下の理由からではないか、ということを僕は指摘したい。

1.男女共同参画社会の構築に80年代フェミニストは大きく影響を与えた。
2.だが同思想は「少女フェミニズム」であり、現状の男性社会を否定する。
3.否定の象徴がDVだが、その被害者に男性が含まれていても、DV加害=男性ととらえ、それら男性が親権を握り続ける共同親権を否定する。
4.その結果、子どもがサバルタン潜在的対象として、見えない当事者になってしまっている。子どもを潜在化させる(存在を消す)この「少女の」フェミニズムは、「家族解体」を目指している。

冒頭に書いたとおり、近代社会の原理に忠実になるためには上のようなねじれた構図を一度紐解き、共同親権をベースにすると同時に、子どもも権利の主体として顕在化させることが健康的だ。

そして、DV対策も、ルサンチマン的妬みの否定ではなく、クリアに暴力対策を(警察システムを誘導して)行なうことが合理的だろう。

2020年4/5「Yahoo!ニュース個人」記事より、修正・改題

子育て世帯では、妻/母が暴力の加害者

 

■30代夫婦は、妻のほうがDVする

 

少し古い、連合のDVに関する調査(2017年ハラスメントと暴力に関する実態調査 よりhttps://www.jtuc-rengo.or.jp/info/chousa/data/20171116.pdf?v1120)によると、30代夫婦の場合、妻のほうが夫よりも暴力を多く振るっている。

 

20代夫婦の場合は同割合でDV加害者だから、大部分の「子育て世帯」では、夫も妻も暴力を振るい、特に子育て世帯の中心である30代においては、妻のほうが加害者である。同調査p11では以下のように記述する。

 

(略)男性でも4人に1人の割合となり、配偶者から暴力を受けている男性は少なくないようです。特に、 30代男性では38.1%と4割近くとなりました。

 

同じページにある図も以下に貼り付けてみよう(精細な画像は同サイトでご覧ください)。

 

f:id:tanakatosihide:20210712084727j:plain

 

■男女平等な暴力

 

一方で、40代から上のDVでは、これまで通り女性の被害が目立つ。特に50代では、女性はやられ放題、男がやり放題だ。

 

つまり日本では、40才あたりを境目に、夫婦間の暴力の様相が異なってくる。

 

40才前半はいわゆる団塊ジュニア世代であり、学齢期は日本の最後の経済繁栄期を体験し、成人後は「格差社会化」の中心世代となった。勝ち組と負け組の差が激しく、「負け組」の中心がいわゆる「ひきこもり」の方々であり、僕はそうした人々を何百人も支援してきた。

 

一方でこの世代は「社会起業の時代」の第一世代でもあり、僕はたくさんの企業する若者たち(現在40代前半)を見てきた。そこには女性も何割か含まれる。彼ら彼女らは「勝ち組」に入れてもいいだろう。

 

負け組も勝ち組も、それぞれ「ジェンダー」に関してさまざまな思いを抱くものの(たとえば、ひきこもり男性が一般女性に抱くルサンチマン)、平等/不平等の視点からそれらの価値を見てみると、一部で著しく差別され暴力の被害に遭う女性も一定存在するとはいえ、40代半ばより上の世代の男性全般が示す「家事スキルのなさ」「あからさまな暴力性」はそれほどでもないと思う。

 

40代より上の男性に比べて家事もできるし暴力も振るわない男性が多い。もちろん、夫婦喧嘩的ドメスティックな局面では暴力も出るのだろうが、それは連合調査にあるように、「男女平等」で出現する。

 

男も女も、同じような割合で時にニコニコし、時に殴る。40代より上に見られるよに、加害側と被害側の立場の固定がそれほどでもない。

 

■古い体験からしか現状を想像できない古いフェミニストたちによって、現状が隠蔽

 

また児童虐待においても、これはよく知られたことであるが、「実母」が最大の加害者である。これはいくらでも調査結果はあるが、下には読みやすいものを。

 

sumamon.jp

 

児童虐待において、最大の加害者は「実母」である。児童への虐待なので、ここで暴力が発生する舞台は、「子育て中の家庭」ということになる。

 

つまり、DVにおいても児童虐待においても、子育て世帯においては、

 

妻/母

 

のほうが殴っているということになる(心理的・ネグレクト・経済的「暴力」含む)。

 

だが従来の、

 

①「女性が暴力の被害者」という構図のイメージが強いこと、

 

②殴られる男というイメージは多数の男性にとってネガティブなもの、

 

等から、「殴る妻/母、殴られる夫/父」というイメージがなかなか定着しない。

 

旧来のフェミニズムが訴えてきた「大多数の殴られる女/妻/母」という実像とイメージは40代以上のものであり、30代以下の子育て世代ではだいぶ実像とイメージが異なってきた。

 

だが、旧来フェミニストの中心は40代以上(そのコアは50代以上だと想像する)であり、その上の世代の「暴力の実態」は従来の「男加害、女被害」のため、それぞれの古い体験からしか現状を想像できない古いフェミニストたちによって、現状が隠蔽されている。

 

 

 

 

 

 

「ソーシャル複合体」の暴力性

「ソーシャル複合体」の暴力性

 

 

■「ソーシャル複合体」

なんというか、「ソーシャル複合体」とでも名付けざるをえないムーブメントが、ここ10年の日本社会を覆っている。

それはまず、IT等のベンチャービジネスから落ちこぼれた人々の逃げ道として用意され、そのルサンチマンに気づかないまま宣伝される広報戦術に乗って行ってしまった、同じくルサンチマンを抱える大学生を大量動員している。

それはまた、リベラル色の強いメディアが応援する。

それはまた、大企業のCSR部門や広告代理店が、社会正義という対消費者に良いイメージを与える概念を使用する好機会でもある。

それはまた、たとえば「大阪万博誘致」的な、行政主導のイメージ戦略にとっては非常に好都合な題材である。

■「ソーシャルインパクト」的夢のパワー

IT落ちこぼれ組ルサンチマンNPOについては、この前書いた僕のこの記事(さっさと六本木ヒルズに行ってよ、おしゃれNPOリーダー)を参照されたい。

ルサンチマンNPOリーダーと、ソーシャルに憧れる大学生は、微妙な「共犯」関係にある。
互いが互いの欠落をカバーしあいながら、「ソーシャルインパクト」的夢のパワーに後押しされて結合している。

リベラル色一辺倒のメディア、そのこと自体はさして悪くはないが、微妙な議論(保守や原発やそれこそソーシャル等の境界の話題)について直言することは避けがちな現代のマスメディアも、これら「ソーシャル」を後押しする。

大企業CSRや広告代理店や大阪万博的行政主導イベントも、無反省にソーシャル団体を持ち上げPRの道具としている(大阪万博誘致「ソーシャル動画」など)。

大阪万博についてはもっと露骨な動画を某区役所で僕は今日延々鑑賞していたのだが、それはいま簡単には検索できなかった。が、上添付PR動画とそこに貼り付けられている大阪市動画を見るだけでも、「ソーシャルの夢」をこれらは十分アピールする。

■ソーシャル複合体は無邪気すぎる

僕が不思議なのは、児童虐待やDV、それらを起因とする第四の発達障害など、貧困コア層(全国規模では 5,00万人以上は存在するだろう)の問題を看過してしまうこうした「ソーシャル」的動きに、ソーシャル当事者は何も罪悪感を抱かないのか、ということだ。

そんな質問を、コア層を看過しているNPOリーダーなどにぶつけると必ず、

子ども食堂や学習クーポンはいまはコア層に届かないかもしれませんが、いつかは届くと信じています」

と無邪気に反論する言葉と出会うことになる。

そうだろうか。
コア層に彼女ら彼らソーシャルな人々はいつかは届くだろうか。

僕は超悲観的にみている。だって、貧困コア当事者層が避けに避けているのが、これら「ソーシャル複合体」的おしゃれなムーブメントなんだもの。

ソーシャル複合体は無邪気すぎる。彼女ら彼らの正義感や優しさが、いかに貧困コア層を傷つけているか、想像できない。

そう、その存在(複合体)があるというだけでそれは「暴力」であり、同時にコア層の深刻なあり方が隠蔽されてしまう。

 
コア層の多くは、ソーシャル複合体があるおかげで名乗りでることができない。それだけ、複合体的おしゃれさを警戒している。
 
 
2018.6月記事を修正、改題

「家族」は解体されない

「家族」は解体されない

 

 

■「感情体験」の集約の場としての家族

 

僕が最近思うのは、80年代/昭和フェミニズムの背景にある「家族解体主義」は、何かが決定的に欠落しているということだ。

 

それはたぶん、家族が含む人間の「信頼」の力を指す。

 

家族には「権力」(男性権力)も含まれそれを家族解体主義者は攻撃するが、同時に「感情」レベルの信頼も含む。その感情レベルのあり方を僕は以前当欄に書いた(「感情体験」の場である家族に「解体」はない〜家族のアップグレード)。

 

この、根源的な「感情体験」の場を集約するものとして、人は「家族」を形成している。この根源的な場を否定することはヒトを否定することにもつながると僕は思う。

 

この感情体験の中には、残念なことに暴力や権力が含まれる。それはたくさんある家族をめぐる小説や映画を想起すれば明瞭だ。もちろん、日常的に起こる、家族内での傷害や殺人も、感情体験の具体的実例だ。

 

 「おひとりさま」の称賛

 

家族の感情体験は同時に、「信頼」や「愛」と呼ばれる内面の動きや実際の行為も含む。

 

信頼や愛は、家族以外の関係(恋人・友人)の間でも生じ、家族解体主義者は、ヒトが持つ信頼や愛は現在の(権力を含む)家族システム以外で形成すればよいと説くのだろう。

 

現状の暴力と権力に満ちた家族をいったん解体し、現状の家族システムからそうした負の要素を抽出した人間関係を基礎にすればよい、と説くのだと思う。

 

その結果、たとえば「おひとりさま」の称賛といった行為につながっていく。また、オンナ同士の緩やかな関係の賞賛ともつながる。家族が孕む暴力と権力を否定し、緩やかで荒波のない平和な人間関係のみ残された世界で十分ではないかと。

 

家族解体主義の思春期的衝動には、(男性)暴力と権力への嫌悪を前面に出しつつ、ユートピア的社会集団(あるいは「静かに1人でいること」)への憧れ、がある。

 

それは、上野千鶴子氏がインタビューなどで時々語るユートピア社会のイメージなどを読んでいてもよく伝わってくる。それは、思春期の優等生的リーダーが描く理想社会なのだ。

 

 人間には「子ども」時代がある

 

だがおもしろいことに、人間には「子ども」時代がある。

 

子育てで最も重要だと言われる、概ね1.5才までのアタッチメント/愛着形成には、「数名の大人との安定したスモールワールドでの生活」の中での、「くっつき/アタッチメント」が欠かせない。

 

この体験がないと(つまり虐待被害を受け続けると)、いわゆる愛着障害に人はなり、生涯にわたって他人との安定したコミュニケーション形成に苦しむことになる。

 

このアタッチメント体験が、人間が持つ根源的「信頼」の力を育むと僕は思う。何もこれは最前線の発達心理学だけのテーマではなく、たとえば哲学者のデリダがいう「ウィ、ウィ」の領域(『ユリシーズ・グラモフォン』)、現象学での間主観性の領域などは、こうしたプレ・コミュニケーションの体験を軸に議論を展開している。

 

乳児時代と初期幼児時代、我々は少数の大人との濃密な「くっつき(アタッチメント)」によって、根源的「信頼」を獲得していく。

 

その少数の大人とはほぼ「両親」と同義だ(ここに祖母等が含まれる)。これはもちろん、実の親である必要はないものの、数名単位でなければ、乳児は「他者」を認識することができない。

 

そうして数名の他者を認識し、その認識をもとに日々のアタッチメントが実践され、根源的手者への「信頼」が育まれる。

 

これはたとえば、乳児院等での10数名のスタッフによる交代制育児では、乳児の認識能力の未熟さのために獲得できないものだ。

 

つまり、人の根本原理である「信頼」は、少数の大人が形成する安心できる場でしか形勢が難しく、それが現在では「家族」ということになる。

 

 家族解体主義の先にはディストピア

 

この「家族」を、まったく静かで平和な大人の関係性だけで完結する小集団へと変化させることが可能だろうか。そうした大人たちによって「子ども」を授かり、時々おとなたちは「ひとり」で静かに生活しつつも、育児も行なう、ということが可能だろうか。

 

冗談ではなく、これがおそらく家族解体主義者たちが描く「子育てのイメージ」だろう。陳腐なSF小説が描くような、出産は試験管と最新テクノロジー、育児は職業的「親」等な世界になれば可能かもしれないが、現在ではそれはディストピアとして描かれる。

 

そう、家族解体主義の先にはディストピアが待っている。

 

現実には、現状の家族システムをヒトは模索しつつも受け入れ、試験管ベビーも職業的親も例外に留まり、今の「家族」が継続すると僕は予想する。

 

その中で人は愛と信頼を模索し、同時に暴力と権力をできるだけ小さくするよう努力するだろう。その模索と努力の対象は、そう、「家族」だ。

 

つまりは、家族は解体されることなくアップグレードされたりダウングレードされたりして継続し続ける。これが僕の(僕だけではなく多くの人々が描く)「家族」だ。

 

家族解体主義は、自らのイデオロギーに忠実なあまり、「信頼」という基礎機能を育む現状の家族を丸ごと否定し、葛藤が極端に少ない夢想的な人間グループへとその信頼獲得機能を移行させようとする。

 

それはもしかすると、1万年単位で見ればありえないことではないかもしれないが、たとえば1万4千年前の縄文社会では今の家族はなかったものの、男性による支配と暴力は今よりも極端だったと思う。

 

たぶん「家族」を考えることは「ヒト」そのものを考えることで、それはフェミニズムのような社会学の一分野で担うにはあまりに広大な射程を含む。

 

いずれにしろ、この未完成で未熟な価値(家族解体主義)に支えられたイデオロギー(80年代/昭和フェミニズム)が日本社会を30年間席巻したことが、現在の多くの問題を産んだと僕は思う。