tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

その「野良犬」から妻を守ってあげてほしい~「子の連れ去り/拉致」の根源

 

タイトル: その「野良犬」から妻を守ってあげてほしい~「子の連れ去り/拉致」の根源

公開日時: 2020-10-10 08:40:57


概要文: 1.妻の体調変動から来る「不安と自滅」 2.夫がそれをフォローできない。この体調変動は普通夫には理解されないため、妻はその不安を包み隠し、夫への不信を積み重ねる。

本文:

 

■なぜ妻は根源的に夫を嫌悪するのか

当 欄 で も た び た び 話 題 に あ げ て お り EU 議 会 も 非 難 決 議 を 下 し た (https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20200715-00188176/ ついに日本も「共同親権国」 になりそうだ~EU 本会議決議)、離婚時の「子どもの連れ去り/拉致 abduction」に至る、連れ去る側の親の 心理に関して、説得力のあるブログ記事と出会ったので紹介したい。


それは、東北で法律事務所を運営するD弁護士という方がお書きになったもので、僕はお会いしたことはないも のの、これまで時々そのブログを読んで勉強してきた。


D 弁護士は匿名でブログを書かれており、そのブログは Twitter ではよくリツイートされている。Twitter→ブ ログ→法律事務所サイトとたどっていくと容易に事務所名や写真付き弁護士名と出会うことができるので、ここ でもイニシャルにする必要はないかもしれないが、ブログでの匿名性に敬意を払って D 氏としておく。


D 弁護士が 10 月 7 日に書かれたブログ記事([https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2020-10-07 暴力がなく とも妻が夫を強烈に嫌悪する理由 たとえ夫が悪くなくても妻は夫を毛嫌いする。自分が悪くなくてもできるこ とをしていないかもしれないということ。

[家事]])は、僕の長年の疑問である、
「なぜ妻は根源的に夫を嫌悪するのか」
についてある程度答えてくれている。

この根強い嫌悪がベースとなって後戻りのできない離婚へとたどり着き、 その手法として拉致 abduction が選ばれ、離婚弁護士が暗躍し、虚偽 DV が捏造される。


何よりも、「妻が夫を嫌悪する」ことが始まりにあり、僕は長年その嫌悪感のメカニズムがわかったようでわか らなかった(当然「連れ去る/拉致する」夫も存在するので、ここでは多数派であろう妻の拉致について言及し ている)。

■妻の「自滅」と、夫のフォローのなさ

D 弁護士は、離婚や拉致に至る夫への徹底的嫌悪の理由として、ブログでこう書く。


{{{
なぜ、夫に主な原因が無くても、妻は夫を毛嫌いし、夫はそれを理解できないのでしょうか。 大きくまとめると2つの理由があります。
一つ目は、妻が勝手に不安になっている。自滅している。
二つ目は、夫がやるべき対応をしていない。
ということです。 :https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2020-10-07|暴力がなくとも妻が夫を強烈に嫌悪する理由 たとえ夫が

悪くなくても妻は夫を毛嫌いする。自分が悪くなくてもできることをしていないかもしれないということ }}}


詳しくは D 弁護士の記事を直接参照いただきたいが、この、


1.妻の体調変動から来る「不安と自滅」

2.夫がそれをフォローできない


は、僕のこれまでの仕事を通した体験からも納得できる。

D 氏の言うように、まず妻の体調変動をもってくるこ とは、フェミニズム的視点から、あるいは体調に極端なブレのない女性からは、「オンナの不安定な体調」という 紋切り言説で女性を差別するな、または「私の体調はそれほど変調しない」等、反発があるかもしれない。


だが、現実には、D 弁護士が妻たちを気遣いながらも鋭く指摘する「妻の体調変動」は確かにあると僕も実感す る。

それは産後鬱をはじめとしていろいろな精神障害的名称で呼ばれることもあるだろう。そうした名称の確定 性には同意できないものが僕はあるものの、D 弁護士が指摘するように、激しく体調や心理状態が変動する女性 たちは存在する。


この体調変動は普通夫には理解されないため、妻はその不安を包み隠し、夫への不信を積み重ねる。

その不信が 確信に変化し、「離婚弁護士」のアドバイスを受け、「拉致」を決行し、DV 支援センター等の女性支援機関は「虚 偽 DV」の証拠固めの補助を書類作成(「DV 相談があった」という書類)というかたちで容認する。

■その「野良犬」から妻を守ってあげてほしい

D 弁護士のブログ記事では、夫側の態度の硬直さも指摘している。

妻の不安定な体調変動に気遣いができない夫のあり方が、子どもの拉致という最低の行為を導くことになると、 同記事では指摘されている。夫にとっては酷なことではあるが、これもまた事実だと僕は思う。


D 弁護士は記事後半で、その対処方法として、夫妻が共同して「共通の敵」を明確化し、2人でその敵に立ち向 かうよう推奨する。


{{{ 例えば野良犬が、二人を襲ってきたら、あなたは身を挺して将来の妻を守ろうという気持ちがあったはずです。 (略)二人の仲を引き裂こうとする野良犬という体調変化から、自分を犠牲にして二人を守るということです。 :https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2020-10-07|暴力がなくとも妻が夫を強烈に嫌悪する理由 たとえ夫が 悪くなくても妻は夫を毛嫌いする。自分が悪くなくてもできることをしていないかもしれないということ
}}}


共通の敵は妻の体調変化であり、それを D 弁護士は「野良犬」にたとえている。日々の多忙さも夫にはあるだろうが、ぜひともその「野良犬」に立ち向かってほしい。その野良犬から妻を守ってあげてほしい、と。


D 弁護士はふれてはいないものの、妻の自滅と夫の無視から残念ながら離婚に至った多くのケースに関しては、 もしもそんな機会が訪れたなら、2人で語り合ってみてはどうかと僕は思う。


あるいは来年にも法制化されるかもしれない「共同親権・共同養育」の具体的運用の中で、その仲介システムと して運用される可能性のある ADR (Alternative Dispute Resolution もうひとつの紛争解決)での話し合い のなかで、過去のすれ違いのいきさつを、「野良犬から守ることができなかった」という観点から振り返ると、 ADR がより円滑に進むかもしれない。

若い支援者たちのパレーシア~高校生支援の臨床哲学

タイトル: 若い支援者たちのパレーシア~高校生支援の臨床哲学

公開日時: 2019-08-04 11:31:22
概要文: 他者の記憶が、若い支援者たちを捉え、時間の蝶番を外してしまった。その奇妙な時間から、若い支 援者たち自身の力で通常の時間に帰ってきた。
本文:

 

 

大阪府立西成高校の「となりカフェ」と、神奈川県立田奈高校の「ぴっかりカフェ」

 

昨日 8 月 3 日、日本大学にて「居場所カフェが教育を変えていく」という 150 人規模の大きなシンポジウムが 開かれ、僕も参加した。

 

当欄でも時々取り上げる高校内居場所カフェは現在全国の 40 校程度の高校で開催され、メディアでも時々取り 上げられる。

 

昨日は、「元祖居場所カフェ」である大阪府立西成高校の「となりカフェ」関係者(2012 年よりスタート)、そ こから 2 年遅れて開始した神奈川県立田奈高校の「ぴっかりカフェ」関係者、加えて先進的に居場所カフェを研 究する大学教授らも加わり、3 時間に渡って熱心な報告と議論と語り合いが繰り広げられた。


そのチラシも添付しているのでご参照いただきたいが、ここにある「現場トーク」という 30 分の終盤のコーナ ーが、僕のシンポジウム体験史上、最も深く問題に切り込んでいくものになった。


そこに至る 2 時間半も、研究者やベテラン支援者(僕はここ)らが熱く、熱心に報告・議論した。それらを受け て、シンポジウムのクライマックスは、となりカフェとぴっかりカフェの現場を支える若い支援者の女性が 3 人 ステージに並んで座り、訥々と語るものだった。


はじめは、となりカフェとぴっかりカフェの創設のエピソードや維持する上で気をつけていることなど、通常の 話題だった。時にユーモアも絡めつつ、男性ジェンダーではなかなか醸し出せない、柔らかな雰囲気で進行して いたと思う。


そして話が徐々に深まっていき、これまで支援してきたことを振り返り、高校中退してしまった高校生たちに触 れる展開となった。


すると、3 人の 1 人が言葉に詰まった。そしてゆっくりと表情が崩れ始め、静かだが胸のそこから響いてくるよ うな嗚咽の声をマイクが拾った。

 

続けて、もう一人の女性支援者もその嗚咽をフォローしようとしてマイクを握ったものの、同じように何かに囚 われたように目に涙を浮かべた。


■自分は支援者として今ここにいる


どうやらその 2 人は、これまで支援してきた高校生を思い出し、力及ばず中退となった、高校生たちの映像に囚 われているようだった。そこには後悔と、無力感と、また同時に、それら当事者たちとの交流の体験にに支えら れている現在の支援者としての自分に対する、自信のなさと、何とかここまで自分は来ているという小さな達成 感も見てとれた。


自分は支援者として今ここにいる。ステージに上がり、居場所カフェの「現場トーク」を語る。その支援者であ る彼女らを語らせるものは、高校をやめていったあの高校生たちだ。そのやめていった若い「他者たち」が、い まの自分たちをつくりあげている。高校をやめていった若者たちの何重もの声と、その笑顔の映像が瞬時にして 若い支援者たちを捉えてしまった。


やめた高校生たちの声と笑顔に捉えられた若い支援者たちは、まさに「時間の蝶番(ちょうつがい)が外れた」 (シェークスピア/ドゥルーズ)かのように、ステージ上で 10 分以上の「蝶番の外れた時間」を漂っていた。


その時、まさに、彼女たちの記憶のなかで、失った若者たちに対してなんらかの語りかけをしていたのだと思う。

それは M.フーコーのいう「パレーシア」(https://book.asahi.com/article/11643179 「真の生」開く哲学、 ソクラテスに探る)だと言っても構わないと僕は思った。

すべて包み隠さず、記憶の中の若者たちに許しを請いながら、高校内居場所カフェという新しい取り組みにそれ でも向かい続ける。


記憶に語りかけるその瞬間、不思議なことに、僕には「支援者/被支援者」の両者が構造的に持つ権力関係(支 援者が権力側に位置する←これまた M.フーコー『性の歴史 I』)から、彼女たち若い支援者はすり抜けたように 映った。その、記憶の中の高校生に向かう姿は、できるだけ対等で、水平な面に立っているように思えた。


■会場中で時間の蝶番が外れていた


時間の蝶番が外れてしまった、ハムレットの困惑を引き戻したのは、外れた時間の中に漂いつつ先の 2 人と同じ く目に涙を溜めていた 3 人目の若い女性支援者だった。


その時、実は会場中でもらい泣きしている人が多かった。僕もじんわりと目に涙が浮かんでいた。つまり、会場 中で時間の蝶番が外れていた。 だが3人目の女性支援者は、2人の先輩たちに果敢にも問いを投げかけ、そうすることで2人の先輩を通常の時 間に戻そうとした。

 

それは意識的にしたものではないと思う。あえていうと、これまたやめていった高校生たちの記憶がその 3 人目 の支援者に対して「そろそろ戻ってもいいよ」と語りかけたのだと僕は思う。 その記憶からの語りかけの力により、3 人目はまず最初に通常の時間に戻り、ほかの 2 人も徐々にこちら側の時 間に戻ってきた。


そして、3 人に笑い顔も見られるようになり、規定の 30 分がたち、シンポジウムは終了を迎えた。


他者の記憶が、若い支援者たちを捉え、時間の蝶番を外してしまった。その奇妙な時間から、若い支援者たち自 身の力で通常の時間に帰ってきた。記憶に囚われていた間、彼女ら若い支援者は、まごころをもって記憶の中の 高校生たちと語り続けていたと思う。それは単なる謝罪でもなく説明でもない、涙という真摯な語りかけだ。


昨日のシンポジウムは、これら一連のスペクタクルな展開を(客観的には 10 分ほどの静かな時間)、貧困や虐待 問題を多く抱える高校生たちをなんとかしたい 150 人の参加者たちとともに共有できた有意義なものになった。

成熟を拒否し、家族解体を志向する(少女の)フェミニズムが支えた、「男女共同参画」政策

成熟を拒否し、家族解体を志向する(少女の)フェミニズムが支えた、「男女共同参画」政策

 

■「DV阻止=単独親権」を推し進めるフェミニズム

ここ最近、2件立て続けに「共同親権」に関する訴訟が起こされている。2件ともが、共同親権は「基本的人権」のひとつだという趣旨を訴状で述べているのも共通する(共同親権関連資料 訴状(共同親権集団訴訟)子の連れ去り違憲訴訟)。

2通の分厚い訴状をざっと読む限りでも、ここに述べられる「親権=基本的人権共同親権」は論理的であり、納得できる。

ただしこの問題は、そう単純ではなく、主としてDV支援の立場から、共同親権は単独親権支持者によって否定されている(ここに、申告だけで事実化される「虚偽DV」が含まれ、それに基づく「支援措置」により、訴えた側=多くは妻、が有利になるという社会問題が生じている)。

僕の議論は、DVも含むジェンダーギャップ低位置国と、少数の単独親権採用国(日本含)が重なることから、むしろ単独親権がDVを生むのでは、と問題提起をしている(「虚偽DV」はその風潮を逆利用している)。

この問題提起とは別に、以前より、「DV加害者=男性・夫」(実際は、30代の夫婦であれば、加害側は女性・妻が上回る)という偏向した観点から、離婚しても「親権」という名目で関係性が続いてしまう共同親権に関して、単独親権サイドから強力な反対がある。

いわば、DV阻止=単独親権という発想なのだが、これを推し進めてきたのが、「男女共同参画社会」を積極的に支持してきたフェミニズム、という点も見逃せない。

たとえば、上野千鶴子氏が理事長を務めるWAN(ウィメンズアクションネットワーク)のサイトで共同親権反対の署名活動が行われたことも象徴的だった(署名できます【2月28日】1万人 署名提出記者会見:STOP共同親権 DV・虐待被害者の安全を守って 共同親権法制化は 慎重な議論を)。
上野氏が単独親権支持であることは、これまでもいくつもの場面で述べられている。

■全編ルサンチマン(現状価値の否定)に貫かれた祝辞

男女共同参画社会は、霞が関エリート女性官僚と、上野氏を中心としたフェミニズムフェミニストたちが推し進めてきたと、この動きの中にいた大泉博子氏が明確に述べている。

男女共同参画は官制フェミニズムだったということである。男女共同参画がなぜエリート女性向けになったかというと、女性のエリート官僚が引っ張ったというのと、当時の社会のバックグラウンドがフェミニズムだったからである。上野千鶴子氏をはじめ、フェミニズムの論客が登場し、リベラルな考え方が社会を賑わせた。エリート官僚と社会のリベラリズムが合体した形で出来上がったものなので、「官制フェミニズム」と名付けてよいと思う。出典:「男女平等社会」のイノベーション―「男女共同参画」政策の何が問題だったのか


女性の就業率向上等で男女共同参画政策には一定の成果があったと大泉氏は述べる。僕も同感だ。ただ大泉氏は、少子化対策等での予算配分の問題で男女共同参画政策には難点があったと遠回しに述べている。

その後我が国には「男女共同参画センター」が各地に設置された。また、配偶者暴力防止法(DV防止法)をベースに、配偶者暴力相談支援センターも各地に設置されている。支援施設一覧を見ればわかる通り、同支援センターは各地の男女共同参画センター内にもある(配偶者暴力相談支援センターの機能を果たす施設一覧)。

僕は、大泉氏と同じく女性の社会参加という点で男女共同参画政策には大きな意義があったと思うが、ここに(特にその政策を支えた80年代フェミニズムに)含まれる「ルサンチマン」の思想が、いまに至る単独親権固守の思想につながったと捉えている。

ここでのルサンチマンは、主として男性へのルサンチマンで、現代の「男社会」を否定することから始まる考え方だ。
たとえば昨年話題になった、上野氏の東大入学式祝辞にこんな一節がある。

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。
ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。出典:「がんばっても報われない社会が待っている」東大の入学式で語られたこと【全文】


最後は祝辞らしく締めくくるものの、読みようによっては全編ルサンチマン(現状価値の否定)に貫かれた祝辞である。この「社会の不公正に対する怒り」こそが上野氏の魅力でありフェミニズムなのだが、全編にあふれる男性社会への怒りと諦めは根深い。

■「少女フェミニズム」と「産まない女」

こうしたルサンチマンを抱くフェミニズムは、「娘のフェミニズム」「少女フェミニズム」とも呼ばれているらしい(働く/働かない/フェミニズム 家事労働と賃労働の呪縛?! “自立の迷走”からのフェミニズムの自立のために 金井淑子)。

つまりいつまでも娘の立場で語っていて、社会や親、男に対しての攻撃の仕方が、自分が親、あるいは自分が社会だという認識が欠落しているというのだ。上野フェミニズムがとった「娘の立場」のラディカルさ、「娘の立場」からの母殺しは、自分が次には大人の「女の立場」をどこかで巧みにズラし、結果的には「成熟」を拒否する「少女フェミニズム」につながっているというものである。出典:同書、p44

このようなある種の「成熟拒否」は、別ページで指摘される、「産まない女」を選択することにより「“産”の思想をつくることには関われない」(p43)という発言とも結びつく。これは言い換えると、「家族」の否定である。

このように、男女共同参画社会を引っ張った上野氏を中心にしたフェミニズムには、以上のような現状の社会に対するルサンチマン的否定が含まれ、そこから生まれた「少女フェミニズム」「家族解体フェミニズム」があり、その結果として「子ども」が遠い存在、言い換えるとそれは「対象=オブジェ」のようなものとして捉えてしまう。

僕が少し前の当欄で、「子どもはオブジェ~小さな大人でもなく、権利の主体でもなく」とする記事を書いたのは、現代日本では子どもが「権利主体」でもなく「小さな大人」でもなく、それは奇妙な客観的な対象になっていることを言いたかったのだが、子どものオブジェ化は、自分に一生懸命な「少女フェミニズム」にも根付いている。

共同親権をベースに、子どもも権利の主体として顕在化

つまりは、論理的に考えると合理的でない単独親権が現代ニホンで生き続けているのは、以下の理由からではないか、ということを僕は指摘したい。

1.男女共同参画社会の構築に80年代フェミニストは大きく影響を与えた。
2.だが同思想は「少女フェミニズム」であり、現状の男性社会を否定する。
3.否定の象徴がDVだが、その被害者に男性が含まれていても、DV加害=男性ととらえ、それら男性が親権を握り続ける共同親権を否定する。
4.その結果、子どもがサバルタン潜在的対象として、見えない当事者になってしまっている。子どもを潜在化させる(存在を消す)この「少女の」フェミニズムは、「家族解体」を目指している。

冒頭に書いたとおり、近代社会の原理に忠実になるためには上のようなねじれた構図を一度紐解き、共同親権をベースにすると同時に、子どもも権利の主体として顕在化させることが健康的だ。

そして、DV対策も、ルサンチマン的妬みの否定ではなく、クリアに暴力対策を(警察システムを誘導して)行なうことが合理的だろう。

2020年4/5「Yahoo!ニュース個人」記事より、修正・改題

「劣化する支援」とは〜代表、代弁、表象のマジック

「劣化する支援」とは〜代表、代弁、表象のマジック


■代表、代弁、表象

現在の学習支援や子ども食堂が対象とするのは一部の貧困層であり、それは歴史と地縁の中で支援サイドと世代重層的(父母や祖父母)に繋がってきた人々が多く含まれると予想する。


その問題を考えるためには、G.スピヴァクが『サバルタンは語ることができるか」』で問いかける、いくつかの「リプレゼンテーション(英)/ルプレザンタシオン(仏)」が参考になる。それらのリプレゼンテーションは以下の4つがあると僕には思える。
 
リプレゼンテーション①フーコードゥルーズに見られる、「透明な存在」としてマイノリティを語る/代弁する人々(知識階層に多い。一般支援者にも見られる)。自分の立ち位置はさておき、「弱い人々」としてのマイノリティを一方的に語る。
 
リプレゼンテーション②マイノリティの中でも比較的見えやすい層。『サバルタン〜』では、地方の名士が事例化されている。現代日本では、僕が「貧困エリート」と表象する、比較的地縁があり子ども食堂や学習支援とつながることのできる人々。
 
リプレゼンテーション③ナポレオン3世に見られる「ズレる代表化」。ルイ・ナポレオンナポレオン3世は「喜劇」として(マルクス)語られた。これも①と同じく、②を代弁する。現代日本では当然、僕が「劣化する支援」等の中で言及する「NPOリーダー」たちである。
 
リプレゼンテーション④スピヴァクサバルタン〜』ラストに取り上げられる自殺した少女。彼女の死はマイノリティ運動の挫折の可能性があるが、インド社会は恋愛のもつれとして表象した。
 
リプレゼンテーションの意味において、①〜③は「代表」の意味合いが強く、①と③では「代弁」の意味も強く、④は「表象」の意味合いが強い。いずれもリプレゼンテーションの和訳だ。
 
■いきなり「喜劇」として、NPOリーダーとなる
 
現在日本の貧困支援に起こっている状況は、以下のように進行する。
 
リプレゼンテーション②の見えやすい層(これを僕は「貧困エリート」と表象した。見えやすさを強調することであえてこの表現を用いている)を主対象としつつ、その対象化は、同時に、地縁がなく見えにくい貧困層を潜在化させる(これが虐待サバイバー=ポスト要対協と重なる)。
 
見えやすい層は、富裕層の多い地域(たとえば文京区や西宮市の貧困支援)で貧困支援の対象となる。これは、リプレ①や③の、「代弁する人々」の機能あるいは怠慢の結果でもある。
 
こうしたメカニズムの中で、①の「透明な支援代表者たち」が自らの存在を消して(具体的には出身地や経歴を曖昧にして)、また③の「組織を代表する人々」が④の存在を看過し(というか気づけず)、②に自らの組織の機能を集中させる。①も③も、結果として②を支援対象とする。
 
現在は、マルクスが『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』で語ったような事態は日本には到来していない。
つまり、マルクスのいう1つ目の悲劇(ナポレオン1世)も日本のソーシャルベンチャー界には出現していないが、いきなり「喜劇」としてのナポレオン3世が「NPOリーダー」として現れている。NPOリーダーはみな底が浅い(単純なポリティカル・コレクトネスだったり、「カネ」に飢えすぎだったり、批評に耐えない言説ができたり、そもそも発信できなかったり)。
 
その喜劇は、はマルクスの言う通り、無邪気な大学生(フランス労働者たち)たちによって圧倒的な支持を得る(ルイ・ナポレオンも、都市労働者に支持された)。
 
■真の貧困層は常に隠される
 
こうした喜劇のなか、④の真の貧困層は常に隠される。
 
それは怠け者というレッテルを貼られ時に虐待加害者になったりするが、虐待被害者でもあり彼女ら彼らの持つ被害結果としての軽度知的障害やPTSDは隠蔽される。
 
僕が最近の原稿の中で、リプレゼンテーション②を「貧困エリート」とあえて呼んだのは、現在の貧困支援者たちの注意をひくためでもある。
representation のもつ普遍性は、社会が極端に階層化されるとわかりやすく現れる。罪作りなのは、リプレゼンテーション①〜③のメカニズムが、④の潜在化を生み出すことだ。
 
サバルタンが語れなくするのは、第一にフーコー的存在(中間支援組織と学者)=リプレゼンテーション①や、ナポレオン3世的存在(NPOリーダー)=リプレゼンテーション③の存在が大きい。
 
加えて、フランス労働者たち(キラキラ大学生)だが、まずはフーコールイ・ナポレオンに自覚してほしいと迫ったのが、迫力のあまり無整理で書き綴った名著『サバルタン〜』だ。
 
阪大で生スピヴァクを見た時(下の京都賞スピーチの翌日)僕は、その眼光の鋭さとユーモアに感動してしまったが、その眼光には、今日もリプレゼンテーションの罠と格闘し続ける意志を見、僕も少しでも真似しようと誓ったのだった(^o^)
 
 

スピヴァク京都賞受賞時の動画より。この翌日、阪大で語ったスピーチを僕は聞いた。

 

若者は恋愛しない

 

高校生支援の「出口戦略」は、個別ソーシャルワークだった~「ひらの青春ローカリティ 2」報告

高校生「出口戦略」は、個別ソーシャルワークだった~「ひらの青春ローカリティ 2」報告

公開日時: 2017-12-02 11:46:42

概要文: 生徒の状況に見合った社会資源を探しつなげていくソーシャルワークは、高校の教師にはできない。 それは、専門知識を持ち、社会資源の人脈を持ち、かつ高校生たちから信頼されるスタッフにのみできることだ。

本文:

 

■ひらの青春ローカリティ

 

昨日、「ひらの青春ローカリティ 2」と題するフォーラムが、大阪市平野区で開催され、定員 70 名を越える 80 名以上が集まり、熱気あふれるものになった。

このフォーラムは、平野区主催の「ひらの青春生活応援事業」が 2 年目を迎え、実数 30 名ほどの高校生に対し て丁寧な個別ソーシャルワーク支援を行なう同事業の具体的中身を報告するものだ。

昨年も同じタイトルでフォーラムが行われたが、1 年目ということもあり、理念を共有する催しになったことは 仕方なかった。

この事業の理念とは、チラシにもあるような「ジモトで学ぶ、働く、愛する」というあり方に平野区のハイティ ーンになってほしいというもので、そのためには「高校卒業」にまずはこだわる、というものだ。

高校卒業は別に現在属する高校にこだわる必要もなく、通信制高校に移行してもいいのだが、ここでいう「卒業」 は学歴にこだわるというよりは、「潜在化させない」「ひきこもり予防」という側面が大きい。

 

■高校中退してそのままひきこもる

 

僕は 10 年ほどひきこもり支援 NPO(淡路プラッツ)で代表を努めてきたが、そこでわかったことは、30 才手 前までひきこもっている人々の多くが、高校中退してそのままひきこってしまったということだ。

この段階(高校中退)でなんとか社会とつながっていれば、ひきこもりに陥ることを防げるのではないか。

そう思って 6 年前に始めたのが、大阪府立西成高校の「となりカフェ」の試みだった。 この「高校内居場所カフェ」は大きな反響を呼び、6 年たった今では、大阪と神奈川で 10 校ずつほど高校内居

場 所 カ フ ェ が 行 わ れ て い る ( https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20170729-00073878/ 「モーニング」を出す高校内居場所カフェ~西成高校モーニングとなりカフェの試み)。

この前講演仕事で訪れた静岡県でも高校内居場所カフェは始まっており、ゆっくりと静かではあるが、「となり カフェ」や「びっかりカフェ」(神奈川県立田奈高校)のスピリットは、全国に広がっていくように期待してい る。

だが実は、この高校内居場所カフェに対して、根強い反論があった。

それは、「カフェの有効性はわかったが、生徒たちの卒業や社会参加はどのように支援していくのか」という問 いだ。

 

■「出口戦略」

 

これに対して僕は、恥ずかしながら答える理屈をもっていなかった。 が、今回とりあげている「平野青春生活応援事業」をやっているうちに徐々に確信を抱いてきたのが、

「生徒一人ひとりの事情に寄り添う丁寧な個別ソーシャルワーク

こそが、高校内居場所カフェの「出口戦略」だということだ。

生徒の状況に見合った社会資源を探しつなげていくソーシャルワークは、高校の教師には時間的にできない。

そ れは、ソーシャルワークの専門知識を持ち、社会資源の人脈を持ち、かつ高校生たちから信頼される若手スタッ フにのみできることだ。

そうした、丁寧な個別ソーシャルワークの実践が、昨日は報告されていった。僕はそれをコーディネートしなが ら、「やっぱり高校内居場所カフェの出口はこれだったんだ」と確信した。

高校内居場所カフェで生徒達にアウトリーチし、カフェではできない細かいソーシャルワークを個別に行なう。

そうすることで、高校以降ひきこもりになる潜在化を防ぐ。この、「居場所カフェ→個別ソーシャルワーク」とい う流れこそが、20 代のひきこもりを防ぐメソッドだ。