「主体効果subject-effects 」という人間の普遍的傾向が、ポリティカルコレクトネスというタテマエを呼び、サバルタンの潜在化という普遍的悲劇を起こすのでは、という明確な問いを僕は抱いています。
我々は油断するとsubject-effects に囚われてしまい、「水底」(ポリコレ的表層の奥)に潜むサバルタンの声を忘れてしまう。それを聴くことができるのは、パレーシアという率直さと素直さかなあという答えが、今のところの僕の到達点です。
スピヴァクが批判するフーコーが、subject-effectsに囚われつつ最晩年にパレーシアに辿り着いたことも皮肉ですね。
※
スピヴァクは『サバルタンは語ることができるかCan the Subaltern Speak?』執筆後、大著『ポストコロニアル理性批判』を上梓し、同書3章「歴史」に「サバルタン〜」をブラッシュアップして掲載しました。
僕が探した範囲では、元々の『サバルタン〜』原書を見つけることができず、スピヴァク自身の英文で「サバルタン」を読もうとすると、『ポストコロニアル〜』中「歴史」を参照するしかありません。
僕は英文は結局スラスラ読めないままでしょうが、哲学論文理解で重要なのは一語一語の訳とその説明だと思います。案外、翻訳家がその人の好みで専門用語を訳している場合があり、具体例は忘れましたが20年前の修士論文執筆時にはそれで僕はずいぶん手間取りました(修論執筆時にこれら原書はゲット😀)。
スピヴァクの有名なルプレザンタシオン représentation(表象/代表・代弁)の訳の解釈はまず押さえることは必要でしょう。
その上で、『サバルタン』読解上欠かせないのが、サバルタンの隠蔽化の行程で見られる、「代表者(ex.ルイボナパルト)の出現とサバルタンの潜在化」というメカニズムを暴くことの重要性です。
そしてそのメカニズムを支える重要な概念として、「主体subject 」があり、主体効果subject-effects があるのでは? とスピヴァクは仄めかせています。
subject はわかりやすい代表者が好きなので、そこに幽霊のように取り憑き、同時に真の当事者/サバルタンを潜在化させるんですね。
だからあらためて、僕は『サバルタンは語ることができるか』1章を読み直そうと思い、その原書が手に入らないのであれば、そのブラッシュアップ版「歴史」をチェックしてみようと思った次第です。
※
主体効果subject-effectsとは、どれだけドゥルーズらが無意識的なものの効果(たとえば「器官なき身体」等でそれを表現)を述べたとしても、そこにはsubject的なものがくっついてしまうことを表します。
言い換えると、完全な自由や乱雑さはあり得ず、主体的コントロールに人や社会は常に毒されている。
それをスピヴァクはおそらくsubject-effectsと言っていて、このことが、逆に「潜在的他者」であるサバルタンを生み出してしまう。
この強力な主体効果こそが、我々にサバルタン(真の当事者)の存在を忘れさせるんですね。
そして同時に、
「エリートサバルタン」(p43)
が強力に注目されます。強い主体効果がサバルタンを隠し、エリートサバルタンのみを浮かび上がらせる。
このエリートサバルタンこそが、僕が20年来挙げてきた「元当事者」であり「経験者」という訳です。
そして、このエリートサバルタンにのみ焦点化して議論しても、強い主体効果(サバルタンが隠されている)のため、多くの人は気にならない。
これが「劣化する支援」につながっていきます。目立つエリートサバルタンしか、あるいは語ることのできる元当事者しか、多くの支援者やメディアは目に入らないんですね。
これらは、人間の思考形態の必然的結果かもしれません。
サバルタンは語ることができない
という現象は、そうした人間の宿命的思考形態がもたらすもの、とも言えます。
*
同書の末尾で、ハイティーンで自死した女性のエピソードが取り上げられ、彼女の親戚たちは恋愛経験のもつれとしてその死を意味づけます。
女性は社会活動家で、インドの独立運動に関わっていた節があるのですが、「恋愛」という、若い女性にまとわりつく「恋愛主体」の一現象としてその死は捉えられるんですね。
そう捉えられないために、女性はわざわざ生理になるのを待って死んだにも関わらず。
けれども主体効果の力は大きく、生理までわざわざ待って縊死したその思いさえも潜在化させてしまった。
僕は、そうしたサバルタンの思いというかある種の無念さをつくりだす構造を顕在化させたいと思います。
その無念さを産み出すのは、人間社会の悪魔性なんですよね。
写真は、『ポストコロニアル〜』当該部分の訳と原文。