3/25、阿倍野ハルカス25階という場所で、G.C.スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房)の読書会を行ないました。発表は僕。
今回の僕の『サバルタン』解説は、同書の一般的白眉である「ルプレザンタシオンのダブルセッション(p25 同語が「表象」と「代表/代理」の二重の意味を含むことからくる混乱)」についてはさらりと流し、その「意味の横滑り」を産む「主体効果subject-effects」の謎に絞り込んだものとなっています。
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主体効果とは、どれだけドゥルーズらが無意識的なものの効果(たとえば「器官なき身体」等でそれを表現)を述べたとしても、そこにはsubject的なものがくっついてしまうことを表します。
言い換えると、完全な自由や乱雑さはあり得ず、主体的コントロールに人や社会は常に毒されている。
それをスピヴァクはおそらくsubject-effectsと言っていて、このことが、逆に「潜在的他者」であるサバルタンを生み出してしまう。
この強力な主体効果こそが、我々にサバルタン(真の当事者)の存在を忘れさせるんですね。
そして同時に、
「エリートサバルタン」(p43)
が強力に注目されます。強い主体効果がサバルタンを隠し、エリートサバルタンのみを浮かび上がらせる。
このエリートサバルタンこそが、僕が20年来挙げてきた「元当事者」であり「経験者」という訳です。
そして、このエリートサバルタンにのみ焦点化して議論しても、強い主体効果(サバルタンが隠されている)のため、多くの人は気にならない。
これが「劣化する支援」につながっていきます。目立つエリートサバルタンしか、あるいは語ることのできる元当事者しか、多くの支援者やメディアは目に入らないんですね。
これらは、人間の思考形態の必然的結果かもしれません。
サバルタンは語ることができない
という現象は、そうした人間の宿命的思考形態がもたらすもの、とも言えます。
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同書の末尾で、ハイティーンで自死した女性のエピソードが取り上げられ、彼女の親戚たちは恋愛経験のもつれとしてその死を意味づけます。
女性は社会活動家で、インドの独立運動に関わっていた節があるのですが、「恋愛」という、若い女性にまとわりつく「恋愛主体」の一現象としてその死は捉えられるんですね。
そう捉えられないために、女性はわざわざ生理になるのを待って死んだにも関わらず。
けれども主体効果の力は大きく、生理までわざわざ待って縊死したその思いさえも潜在化させてしまった。
僕は、そうしたサバルタンの思いというかある種の無念さをつくりだす構造を顕在化させたいと思います。
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今回はべたーな読書会をもとに、上のような諸点をはっきり発見できてよかったと思います。「劣化」の大元を発見することができました。
これでやっと、足掛け4年以上続いた「劣化する支援/NPO」を終わらせることができました。
このようなオーソドックスな読書会も結構いいなあと思ったので、不定期に開催する気になってきています。阿倍野ハルカス25階という場所も気に入りました(何か気分が上がる)。
今回は「主体効果」について考えたのですが、けれどもその主体効果はそれほどキツイものなのだろうか、我々のコミュニケーションの「起源」とは何だろう?
そこには「他者との遊びplay 」の要素は含み込まれていないのだろうか。
ということで、メルロ=ポンティ『幼児の対人関係』を読もうかなあと思い始めました。夏頃?😀
僕のfacebookタイムライン2023年3月25日に、その動画がアップされています(facebookのせいか、動画そのものがうまくコピペできない😹)。
https://www.facebook.com/tanakatosihide