tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

「死」を知らないニッチ NPO が主流になった悲劇

タイトル: 「死」を知らないニッチ NPO が主流になった悲劇
公開日時: 2018-10-09 13:01:50

概要文: 個別ソーシャルワークがいま、揺れているのだ。そのとき、現れてきたのが、これまでニッチだった NPO だ。

現実的ではない「警察と児相の情報全件共有」の提案などは、ニッチ=半分素人の案だと僕は思っている。 本文:

 

■ジンケン@広島

 

9 月のなかば、僕はこの 1 年毎月続けてきた「劣化する支援」というイベントを広島で開催した。当欄でも以前、 東京での試みを報告している(https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20180429-00084614/ 中流層の感受性の鈍さは貧困層には暴力そのもの~「劣化する支援@東京」)。

 

広島でのテーマは「人権/ジンケン」だった。ソーシャルインパクト評価重視を背景とした成果指標主義(若者 就労支援であれば「どれだけの若者の数が就労できたか」とその「数」を問う)が NPO/ソーシャルセクター業 界を席巻する現在、たとえば高齢ひきこもりや虐待サバイバー等、支援にとって最も重視する必要のある潜在化 され抑圧された人々のあり方を見つめる必要があるのではないか、その抑圧された人々を見つめるということは つまり、「人々の人権を守る」ということでは? と問いたかったからだ。

 

ソーシャルインパクト評価の問題点については以前当欄にも書いた (https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20180911-00096497/ 数が「ソーシャルインパク ト」か?~支援なんて、結局は「偶然の他者との出会い」)。 新自由主義を背景にした、行政の効率を問うこの思想を僕は嫌いではない。ドゥルーズ的「群れ」の思想とこの 新自由主義は親和性があるように思えるが、一方ではデリダ=スピヴァク的「サバルタン」の思想からすると、 新自由主義こそがサバルタン=真の当事者を生み出している。

 

■ソーシャルインパクト評価では測れない部分

 

いや、哲学などを持ち出さなくても、ひきこもり支援をしているといつも感じる「ひきこもりから脱出して支援 施設に繋がるまでのモチベーション構築と行動化」という、支援にとって最も困難な部分が、成果指標型のソー シャルインパクト評価では測れない。

 

面談に到達した人数の前に、本人が面談に出かけてもいいと感じるその瞬間は、その瞬間の本人にはなぜ動くこ とができたたかわからないだろうし、数年後に振り返ってもその理由は自分でもはっきりわからない。 当然、親にもわからない。

 

つまり、「当事者」は語れない。哲学者のスピヴァク が『サバルタンは語ることができるか』のなかでしつこく 語りかけ、僕も当欄で以前述べた通りだ(https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20151012- 00050395/ 「当事者」は語れず、「経験者」が代表する~不登校から虐待まで~)。

 

一方、ソーシャルインパクト評価は、わかりやすい指標を求める。若者支援であれば、就労につながる面談、履 歴書の書き方講座への参加、就労実習の体験、実際のアルバイト体験等、目に見えてわかりやすい「成果」をそ れは求める。 だが、地域若者サポートステーションを訪れる若者のうち、どれだけがそうした「成果」と結びつくだろう。年 間 1 万数千人の社会参加した数と、60 万人とも 70 万人とも言われるニート・ひきこもりの数のギャップが、 その成果の虚しさを示す。

 

が、行政予算削減=小さな政府化が主目的の新自由主義=ソーシャルインパクト評価からすると、ニート数削減 の実態よりも、「行革しながら成果を少しでも出す」ことが重要だから、皮肉なことに成果数自体は二次的にな る。

 

■ニッチ=傍流

 

成果を求められながらそこそこの数でもいいこの「ゆるさ」「軽さ」は、NPO の支援の水準もゆるめに落として しまう。


また、こうしたソーシャルインパクト評価に群がる NPO たちは、子ども支援のなかでは「傍流」に位置してき た。それは、学習支援、塾クーポン配布、高校生の「語り合い」等、それなりに評価はされてきたが、虐待や貧 困への個別ソーシャルワーク支援という支援主流からすると、あくまで「傍流」だった。

 

その「傍流」度合いが、NPONPO として魅力的にしていた。傍流=ニッチこそが、NPO の特徴であり、そ こから生まれたのが子ども食堂であり、学習クーポンであり、高校生の語り合い事業だったのだ。

 

それらの脆弱さをいまさら嘆いても仕方ないが、個人情報守秘の厳格さが行政に求められ、そうした情報の取扱 いが行政内で大議論になっており(児童虐待問題における警察と児童相談所の情報「全件」共有等)、そう言われ ながらもたとえば「生活保護」行政セクションにおいてはいわば素人的担当者が数年ごとに移転配置される現在、 相対的に行政が弱くなった。

 

貧困支援でいうと、個人情報をもとに関係機関が個別ケースに応じて柔軟にケースワーク支援する行政の動きが 見えない。素人担当者が、個人情報漏洩をなによりも恐れ、それの応用を組織全体で示し現場を守ることができ にくい。


個別ソーシャルワークがいま、揺れているのだ。

 

そのとき、現れてきたのが、これまでニッチだった NPO だと僕は捉えている。 まったく現実的ではない「警察と児相の情報全件共有」の提案などは、ニッチ=半分素人の案だと僕は思ってい る。

 

もっというと、支援の最前線で唐突に訪れる「死」を、それらニッチたちはたぶん知らない。そうしたシリアス さを知らないことの朴訥さがこれまで彼女ら彼らの微笑ましい特徴だったが、個別ソーシャルワーク(行政)が 相対的に低下した今、そうした朴訥さは、たとえば「全件共有」のような非現実的(だが一部権力からするとあ りがたい)な無邪気な提案となって示される。

 

ニッチ/傍流のかわいさがいつのまにか引っ込み、権力の美味しさをすっかり味わい始めている。その結果、真 の当事者(たとえば虐待サバイバーや高齢ひきこもり)が潜在化し、「ジンケン」という言葉の意味が漂流してい るようだ。