tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

中流層の感受性の鈍さは貧困層には暴力そのもの~「劣化する支援@東京」

タイトル: 中流層の感受性の鈍さは貧困層には暴力そのもの~「劣化する支援@東京」

公開日時: 2018-04-29 10:34:16

概要文: こうした諦めが伝わらないミドルクラスの人々には心を閉ざす。つまり、ミドルクラスの人々はこう した諦めが想像できない感受性の鈍さがある。その中流層の感受性の鈍さは、貧困層には「暴力」そのものであ る。

本文:

 

■「劣化する支援 5@東京」

 

4 月 28 日に、東京・飯田端にて「劣化する支援 5@東京」という集まりを開き、NPO 等「ソーシャルセクター」 で仕事をする人々が 40 名も集まって、現在我が国で展開される「社会貢献」「ソーシャルビジネス」等について 話し合った。

 

これは「5」がついているだけあって、これまで、大阪・静岡・京都・松江で開催してきた。毎回定員を上回る ソーシャルセクター界隈の人々が集まって議論を交わしている。


この取組を通して感じることは、これまで NPO を中心とする「ソーシャル」界隈には、このようなメタレベル な批評行為はあまりなかったのだなあということだ。

 

もちろん、NPO たちは孤立しているわけではない。それらは、「つながり」という言葉に象徴されるように、い くつかの団体が組んで貧困支援等の事業を展開している。 が、実はそうした「つながり」はオープンなようでオープンではなく、気の合う代表同士がそれぞれの思惑をも って組んでいる。

 

その事自体はたいへん良いことではあるが、その「つながり」が形成されることで、皮肉なことにつながりの外 との間に強力な壁が形成され、つながりというタコツボのなかで閉じていくことになる。 共同事業体を形成する時に避けられない皮肉(オープンを目指して外に開くものの繋がった瞬間それは閉じてタ コツボ化する)なのだが、その皮肉をソーシャルな人々はある意味無意識的に行なう。

 

その無意識的タコツボつながりが、外から観察していると、微妙にノブレスで「選ばれた」感じのエリート組織 体になってしまう。

 

■「つながり」の結果の優越性

 

そうしたつながりの矛盾のようなものを「批評」するのも、「劣化する支援」イベントのひとつの役割だ。ソーシ ャルセクターには「中間支援」という業務も含まれ、現在それは資金調達等のアドバイスなどで行なわれている。 が、メタレベルからの「つながり」の批評なども、それが一般性をもち批評行為がさらなる上質なサービス創造 の可能性をもつのならば、中間支援の 1 つになると僕は思う。

 

だから「劣化する支援」のサプタイトルは、「批評の中間支援」としている。

 

「つながり」の結果の優越性は、現在多くのソーシャルセクターの人々が属するであろう「中流階層~ミドルク ラス」の優越性を結果として証明してしまう。

 

現在、NPO 等のソーシャルセクターでやっと「食べて」いけるようになったものの、多くはまだまだ収入は低い ままだろう(もちろん僕も)。


ただ、大学生にはソーシャルセクターは有力な就職先の 1 つでもあるようだ。「一流企業」とはオーダーは異な るものの、就職に向かうモチベーションとしては同量程度のエネルギーを、学生たちはソーシャルセクターに注 いでいるという(一流企業に行けないルサンチマンといういじわるな見方もあるが)。

 

そうしたソーシャルセクター志望の学生たちも、もちろんミドルクラス出身だ。階層の連鎖が着実に進む日本で は、なかなか下流層から中流層には上がれない。 言い換えると、中流層の人々は、親から子へ「学歴」や「文化」を伝えていく。フランスの社会学者 P.ブルデュ ーが指摘した通りの事態が我が国でも進行している。

 

ミドルクラスの子どもたちは親と同じような文化知識を得、親と同じように大学を出、親と同じようにそれなり の仕事につく。 その仕事に現在は「ソーシャルセクター」が含まれている。災害支援や貧困支援といった社会貢献は、「特定非営 利活動法人 5 万時代」においてはそれほど珍しいものではなくなった。 そこに、ミドルクラスの若者たちが向かっている。

 

■暴力そのもの

 

けれども、当欄で以前指摘したように、災害は平等に人々を襲うが、貧困は不平等に人々にのしかかる (https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20180311-00082584/ 貧困と虐待は「平等な不幸」 ではない)。 階層化かが完成しつつある(「階級社会」になりつつある)我が国では、経済的下流階層の人々は下流階層のまま であり続ける。

 

下流層の大人、若者、子どもは、ずっと下流層のままである。 そしてそこでは、「弱いものがさらに弱いものをたたく」(ブルーハーツトレイントレイン」)といった事態が 日々起こっている。 その人間的弱さを僕は責めることはできないし、その弱さそのものが「人間的」だと感じることもある。

 

そして、僕が当欄で時々「貧困コア層」と呼ぶ人々は (https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20180404-00083537/ 「貧困コア層」は存在するの か)、「人間的」な日常を送りながら、上のソーシャルセクターに属するようなミドルクラスの若者たちとは絶対

的に距離を置く。

 

自分たちとソーシャルセクター若手社員たちは、完ぺきに住む世界が違う。 その断絶感はルサンチマンのようなひねくれた近接性ではなく、絶対的な断絶だ。関わること自体を拒否する。 喧嘩して拒否するといったものではなく、そもそも近寄らない。絶対的に距離を置く。

 

その理由はひとつ、自分たちのことを伝えても、ミドルクラスの人々には絶対的にわからないと身をもって知っ ているからだ。ミドルクラスの人々の言うような、

 

「努力すればいつかは報われる、いつかはつながれる。学習支援も受けていくと、いつかはそれなりの幸せが訪 れる」

 

といった無邪気で明るい言葉は、アンダークラスの若者を傷つける。 なぜなら、絶対そのようなこと(ミドルクラスの人々がいうようなミドルクラス的幸せ)は訪れないからだ。

 

も ちろん、下流には下流なりの幸せがあり、一瞬の微笑みは毎日訪れる。けれどもその幸せや笑みは、決してミド ルクラスのソーシャルな若者たちが無邪気に描くことのできる笑みではない。

 

それは、虐待サバイバーの笑みであり、相対的貧困のなかでの笑みなのだ。常にどこかで負い目や物足りなさや 怒りや諦めを抱く(思春期的痛みではない)諦めの中の笑みだ。

 

こうした諦めが絶対に伝わらないミドルクラスの人々には完ぺきに心を閉ざす。つまり、ミドルクラスの人々は こうした諦めが想像できない感受性の鈍さがある。


その中流層の感受性の鈍さは、貧困層には、

 

「暴力」、

 

そのものである。

上野千鶴子さんの時代を終わらせたい

#上野千鶴子さんの時代を終わらせたい

◾️隠蔽と私怨と

 

フェミニズムは都合よく隠蔽します。そのことこそが、旧来の偏狭なイデオロギーであることの証明ですね。

 

 

その思想の原点に「私怨」を公的に折り込むことも、不寛容なイデオロギーだと思います。

toroo4ever.blogspot.com

 イデオロギーではなく、もっと寛容でオープンな立場のフェミの出現が望まれます。

 

その意味で、日本のフェミニズムを象徴する上野千鶴子さんにはきちんと引退してほしいと僕は思っています。

 

上野千鶴子氏の引退」は、日本の文系大学の改編にもつながると期待します。

 

◾️現実主義でオープンな「ユーモア+寛容な女性系」思想を

 

「師匠」や派閥の存在など無視して、実力本位でのし上がっていく社会学者や哲学研究者を見てみたいですね。

旧来著名研究者を持ち上げる出版文化も終わってほしい。

 

くだらないけどある種おもしろい存在として「男性」を許し微笑み、

 

全体主義で不寛容な私怨フェミニズムを小馬鹿にし、

 

片方の親とそれを操る弁護士に誘拐された子どもの立場に立つ、

 

現実主義でオープンな「ユーモア+寛容な女性系」思想が望まれます。

 

絵本のない幼児時代とは何か~たとえば「ぐりとぐら」

タイトル: 絵本のない幼児時代とは何か~たとえば「ぐりとぐら

公開日時: 2018-10-18 14:56:57
概要文: ホリエモンたちのような発信力のある中上流層は、下流層の実態を想像できない。だから、「絵本大
事だよね~」まで語れるが、絵本を読めない若い親たちがなぜ絵本に親和性のない価値を抱いたかまでは想像で きない。
本文:

 

■読解力とは語彙力に基づく「世界」の広さそのもの


ホリエモンがいつもどおり自分を炎上させながらも、その中身は珍しく直球で語る幼児教育に関するこの記事 (http://blogos.com/outline/332337/?fbclid=IwAR3vkZyOJVtE4kmE5Q53N38sF0tVF1hGddWlFgpZ jqgmSOdvqXUmXPte_OY 【堀江貴文×三田紀房】読解力のないヤツが多すぎる明確な理由)を読んで、なる ほど、貧困層はこのようにして「見えなく」なるのかと思ったので、以下書いてみる。


ホリエモンは、最近の子ども若者たちの「読解力」が落ちたと直撃する。その理由を座談会出席者たちとあれこ れ検討し、結局は幼児時代の「絵本体験」にあるのでは、と指摘する。


読解力とは語彙力に基づく「世界」の広さそのもので、世界の広さは言葉の獲得量に比例し、それを獲得するに は子ども時代よりとにかく「ことばの量」を浴び続けることにつきる。 また、それに加えて、子どもの興味関心に身近な大人(親)が辛抱強く寄り添い、興味関心をベースにしつつさ らにその世界を広げる。


そうした積み重ねで、子どもの「シナプス」がつながっていき、何かの分野で才能がきらめき始める。


このような最先端の議論は徐々に浸透し始めてきているように僕は思うが、ホリエモンの座談会においても、読 解力を伸ばすためには結局幼児時代の「絵本体験」にあるのでは、と言及される。


ぐりとぐら


が、ホリエモン自身は親に絵本をあまり読んでもらったことがなかったらしい。そのかわり、「レコード」で絵本 の物語・言葉世界を享受していったようだ。座談会はこう続く。


{{{ 堀江:朗読とかも付いてるヤツ。......絵本って、お母さんとかが読んでくれるものじゃないですか。
三田:いわゆる読み聞かせってヤツですね。 堀江:そう。でも、ウチは共働きだったから、絵本を読んでくれないわけよ。だから、レコードで......。 三田:昔ありましたよね、ソノシート付きとか。

堀江:僕の持ってたのはソノシートじゃなくて、ちゃんとしたレコードが付いてるヤツで、それが親の代わり。 :http://blogos.com/article/332337/?p=2|【堀江貴文×三田紀房】読解力のないヤツが多すぎる明確な理由 }}}


という感じでダラダラ進んでいくのだが、幼児のホリエモンは、レコードという「親」の力で芳醇な言葉の世界 (=ホリエモンの世界そのもの)を拡大していったらしい。


確かに、絵本は幼児にとっては最強の世界観拡大ツールだ。ときに規範的なものもあるが、たとえば「ぐりとぐ ら」シリーズなどは多くのことを示唆しており、メタファーに満ちている (https://www.fukuinkan.co.jp/ninkimono/detail.php?id=1 ぐりとぐら)。 ぐりとぐらがカステラを協力してつくり、森の友だちたちが喜んでほおばる、そのシーンを繰り返し読んでいく だけで、幼児の世界は広がっていくだろう。


ぐりとぐらのなかった幼児期を過ごした親

 

だが、ホリエモンたちには、「絵本のない世界」にまで言及してほしかった。

 

絵本=絵とことばという抽象世界を享受するには、ことばと絵が一体となったメタファーが炸裂する絵本のペー ジたちを楽しむ余裕や慣れが必要だ。 その慣れは、その絵本を読む親自身が、そうした抽象世界に慣れておく必要がある。


ぐりとぐらが大きすぎるタマゴを発見し、それをカステラにしようと話し合う。 そのシーンについて、あるいは巨大なタマゴについて、カステラという食べ物について、それら抽象性と文学性 を自然に受け入れ、それらの絵と言葉を親自身が楽しみ、自分の子どもたちに伝えていく余裕をもつ必要がある。


その余裕は、残酷ではあるが、「経済的余裕」とパラレルである。 日々の生活はおカネで困っていないからこそ、ぐりとぐらのメタファーを楽しむことができる。そしてその享受 感を、自分の子どもである幼児と分かち合うことができる。


だが、たとえばぐりとぐらのなかった幼児期を過ごした親は、ぐりとぐらが子どもに与える効果が理解できない。 その、巨大タマゴのすごさ、カステラのすごさ、森の仲間たちが和気あいあいとカステラをほおばるすごさが直 感的に理解できない。


だから、スマホを簡単に幼児に与える。

 

子ども食堂や塾クーポンの軽さ

 

階層社会となった我々の社会は残酷だ。

絵本の効果を知らない親は、「ぐりとぐら」なんて無視し、スマホを与える。 経済的に余裕ある親は、ふたりとも仕事をしていたとしても、我が子に「レコード」を与える。

 

「絵本のない幼児時代とは何か」


という問いについては、それは単純に親の貧困問題と直結すると思う。 が、ホリエモン周辺にはおそらく貧困層は存在しないので、ホリエモン周辺(中上流クラス)では、議論もここ までとなる。


ホリエモンたちのような発信力のある中上流層は、下流層の実態を想像できない。だから、「絵本大事だよね~」 まで語れるが、絵本を読めない若い親たちがなぜ絵本に親和性のない価値を抱いたかまでは想像できない。 それは、広い意味での児童虐待の連鎖(ネグレクトや言葉の暴力)に巻き込まれた結果なのだ。


虐待の連鎖の中では、絵本どころではない。 このように、経済的に恵まれたホリエモンたちに、その発信内容に限界があることが、「見えない貧困」をつくっ ている。それはそれで仕方ない。


子ども食堂や塾クーポンの軽さも、これと似ている。

 


https://www.fukuinkan.co.jp/ninkimono/detail.php?id=1

「つなぐという意思」~ローグワンと居場所カフェ

 
公開日時: 2018-02-24 09:17:09

概要文: いつのまにか全国に広がりつつある。中身は、となりカフェのような小規模カフェから、ぴっかりカフェのようような大規模カフェまで多様ではあるものの、「サードプレイスで中退を防ぐ」という意思は共通し ている。


■ローグワン

スター・ウォーズの最新作(『最後のジェダイ』)は興行的には意外と失速ぎみなのだそうだが、僕はその前のス ピンオフ作品『ローグワン』に感銘した一人だ。


同作を僕は、グアム島行きの飛行機の中で見たが、最初何気なく見ていたものの、途中から乗り出して見、最後 は久しぶりに感動を覚えた映画作品となった。

この映画の主人公は実は人間ではなく、「つなぐという意思」だ。実際にはデススターの機密情報が人々の手か ら手へとバトンタッチされていき、最後にレイア姫に渡るところで話は終わる(スターウォーズ・サーガ上では、その 10 分後からスターウォーズ 1 作目が始まるという)。


同作は基本的に暗く悲惨なストーリーなのだが、見終わった時はなぜか元気の出る不思議な映画でもある。


その不思議さを去年のグアム旅行の頃からずっと引きずっていたのだが、最近、3 月に神奈川県で行なう「居場 所カフェが学校を救う」というイベントのことを考えていた時 (https://www.facebook.com/events/2036234763287595/ 第二回予防支援に於ける成果指標作成委員 会シンポジウム)、「そういえば『となりカフェ』は、となりカフェをつなぐという『意思』によってこの 6 年間 続いてきたなあと思い至ったのであった。


当欄でも度々言及する高校内居場所カフェの元祖である、大阪府立西成高校「となりカフェ」は 2012 年度スタ ートで、今年度で 6 年が過ぎようとしている。

今年度は「モーニングとなりカフェ」という試みも行ない (https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20170915-00075804/ 朝の高校に「サードプレイ ス」はある~西成高校「モーニングとなりカフェ」スタート!)、これがクラウド・ファンディングにもとりあげ られ、大きな話題を呼んだ。


何年か前には TBS 系で 1 時間のテレビドキュメンタリーにもなっている。



■「サードプレイスで中退を防ぐ」という意思



となりカフェは、何人かによって創設され、何人かによって初期運営され、何人かによって運営が続き、そこに 「安全な居場所」概念やソーシャルワークや文化の伝達等で肉付けされていき、今年はモーニングサービスまで 行なうようになっている。

この 6 年を、その現場ではじめから今に至るまで通して働いてきたスタッフはいない。

中心的なスタッフは数名 いるが、創設スタッフと現在の責任者スタッフとも、6 年通しているわけでもない。ほかの現場スタッフも、そ れぞれ数年支えてはくれたが、それぞれがそれぞれのタイミングで次の人生ステップへと移っていった。


今月上に書いたようなイベントがあり、それに加えて来年度は全国の何ヶ所かでこうした事業の有効性を訴えて いく「全国ツアー」や、神奈川の居場所カフェを運営する 10 ほどの団体が集まる「サミット」イベントなども 計画している(上の「成果指標作成委員会」主催)。 他にこうしたスタイルの居場所カフェは、静岡や北海道や宮城でも実践されているようだ。


いつのまにか、ゆっくりとではあるが全国的に広がりつつある。その中身は、となりカフェのような「ソーシャ ルワーク型小規模カフェ」から、神奈川県立田奈高校「ぴっかりカフェ」のようような「文化シェア型大規模カ フェ」まで多様ではあるものの、「サードプレイスで中退を防ぐ」という意思=ミッションは共通している。


■「高校内居場所カフェ 2.0」

 

それはまさにミッションであり、意思なのだが、この「意思をつなぐ」という全体の空間と時間の流れが、『ロー グワン』における、「これ(映画では機密情報)をつなぐことこそすべての目的」という人々の共通意思とも似て いるような気がしてきて、不思議だ。


「高校内に居場所カフェ=サードプレイスをつくり中退予防につなげよう」というまさにミッションという意思 が、連綿とつながり拡大する不思議な感じ。 となりカフェは各高校内にそれぞれの居場所カフェのタネをまき、また大阪市平野区の「ひらの青春生活応援事 業」のような、居場所カフェに来た生徒を個別ソーシャルワークのなかでさらに支えるという、「それ以降の展 開」の事業にまでヒントを与えている。


そのとなりカフェを 6 年かけてつくってきた人々はその時ごとに交代してミッションをバトンタッチし、最近で はモーニングとなりカフェにまで至った。


最初からの「生き残り」は僕だけだ。 が、僕はいわばダースベイダーみたいなもの、超マネジメント層にいる現場の外にいる人間だ。ルークやレイア 姫やハンソロは次々とバトンタッチしていき、そのレイア姫でさえその前に活躍したローグワンの人々から意思 をバトンタッチされている。


来年は、「高校内居場所カフェ 2.0」の年になるかもしれない。そのことも、さらなる意思の展開だと思うと感慨 深い。

子を思って料理する「新しい父」たち

タイトル: 子を思って料理する「新しい父」たち

公開日時: 2020-05-25 09:12:43
概要文: が、「変化し始めた男性たち」の具体的あり方がどんなものかを見てみれば、その「普通さ」とやさ

しさに親しみを持ってしまうだろう。彼らが抱く、子への素朴な愛情は、ツイートを読む者を泣かせる。 

 

 

■「変化し始めた男性」

 

「離活」とは離婚活動のことなのだろうが、この前 Twitter を見ていたら「離活ワーママのお役立ち情報」とい うサイトで「https://mama-handbook.com/kozurebekkyo/ 子連れ別居は違法な連れ去りになる?判例と親 権・離婚への影響を解説」という記事と出会うことができ、そのカジュアルなタイトルとは裏腹にかなり専門的 にかつ平易に書かれている内容に感心した。

僕もたびたび当欄で取り上げてきた「子の連れ去り」について (https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20200419-00174121/ 「ぼくは、父(母)親に絶対 会いたくありません」~「連れ去り洗脳」という児童虐待)、わかりやすく解説しており、同記事では最後に以 下のように記し、裁判所の「遅さ」と別居親が諦めてはいけないことを指摘して終わる。

{{{ 裁判所の実務は世の中の流れに一歩遅れて変更されるのが常です。

でも、子の連れ去りに関する日本国外の問題意識が高まっており、大きな変化が見られる可能性は十分にありま す。

子連れ別居を考えている人は、夫婦で合意した上で子供を連れて出ないと親権者になれないリスクがあることを 認識しておく必要があります。

連れ去られた人は、子供を取り返すことを諦めず、周囲を巻き込んで現状のおかしさを伝える努力が求められま す。 :https://mama-handbook.com/kozurebekkyo/|子連れ別居は違法な連れ去りになる?判例と親権・離婚への 影響を解説

}}}

たしかに、裁判所はいつも「遅い」。が、それを「世の常」で済ませることは、共同親権への社会の関心の高まり からしても、できない。 同記事は、「男性の育児参加」の増加とそれへの関心の高さに触れ、「子の連れ去り」についてもこのように記す。

{{{ でも、男性の育児参加が進み、男性の育児に対する関心が高まるにつれて、黙認されてきた連れ去り別居に異を 唱える人が増え始めます。

男性が子供を引き取って育てる家庭がある 離婚後の共同親権制を採用する国が多い 離婚後の共同親権を主張する団体がある こうしたことも一般的に知られるようになりました。

その結果、連れ去り別居の被害者が声を上げ、それがネットや口コミで徐々に拡散されて、連れ去り別居が注目 され始めています。 :https://mama-handbook.com/kozurebekkyo/|子連れ別居は違法な連れ去りになる?判例と親権・離婚への 影響を解説

}}}

このサイトは離婚活動に取り組む働く女性たち用のサイトだ。その、女性向けサイトで、「変化し始めた男性」や 子どもの連れ去りの違法性、そして共同親権について、どちらかというと肯定的に取り上げている。

 

■DV 被害親による共同親権(別居親)の否定と、無関心別居親の存在

 

当欄でもたびたび取り上げるように、社会は「共同親権」へと移行しつつある。

だが、ドメスティック・バイオレンス/DV 被害親(たとえば一時保護 8 千人 http://www.gender.go.jp/policy/no_violence/e-vaw/data/pdf/dv_data.pdf 婦人相談所における一時保 護件数)が、その被害の実感を根拠に、共同親権を全否定することは珍しくない。その全否定のインパクトの強 さにより、DV とは無関係な別居親が子と会えなくなる。

また、これも大問題なのだが、「子に関心のない別居親」もいる。独身に戻ったことで、自分の子を振り向かない 親はたしかに存在する(いずれ当欄でとりあげます)。

これら、DV 被害親による共同親権(別居親)の全否定と、無関心別居親の存在はあまりに大きく、上の「変化 し始めた男性/父たち」の動きを見えにくくする。

そして、「育児に関心をもつ」父を子から遠ざけることが、その子自身を傷つけることになる。

子からすれば、父母が離婚することは関係なく、その内面に 0 才時より刻印された愛着/アタッチメントは両親 に向かう。親の暴力行為(無関心含む)がないにもかからず一方的に連れ去られたとしても、そのアタッチメン トは消えることはない。

乳幼児期に刻印された「他者との信頼の土台/アタッチメント」は、それをともにかたちづくった両方の親に対 して生涯抱き続ける。

つまり、DV 親と無関心別居親がそれとは関係ない多くの子どもの人権を侵害する。昭和フェミニズムと離婚弁 護 士 が そ れ を 利 用 し て い る ( https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20200504-00176800/ 堕落した「離婚システム」)。

 

■その「普通さ」とやさしさ

 

親の暴力的あり方(DV と無関心)は、親の権利(共同親権)や子どもの人権とは本来違う次元での出来事だ。 だが、その暴力の非道さが、人権という「ヒトの土台/基盤」にまで浸潤している。その浸潤がこの問題をわか りにくくしている。

が、「変化し始めた男性たち」の具体的あり方がどんなものかを見てみれば、その「普通さ」とやさしさに親しみ を持ってしまうだろう。彼らが抱く、子への素朴な愛情は、ツイートを読む者を泣かせる。

この「自粛」期間中、今は離れて過ごす子どもを意識した料理をつくり、その写真も添付した「変化し始めた男 性たち」のツイートを、何回か僕は見かけた。それを引用して終わることにしよう(なお、別居する母たちの存 在も僕は現実に知っている。そして、彼女らが常に子を思い、時には涙していることも知っている。今回はそう した母像には迫れなかったが、いつかは当欄で書いてみるつもりだ)。

以下のツイートを見て、僕は泣きました。なお、引用ツイートで写真がかぶることはご容赦くださいね。 https://twitter.com/catbirdwindmoon/status/1263076486564605952|ON|ON https://twitter.com/PaPaChan_41913/status/1263429648773312513|ON|OFF

https://twitter.com/Kha_ReMemberYou/status/1263784441610027009|ON|OFF

「あの子が死んだのかもしれません」~子の連れ去り abduction にあった母の悲しみ

タイトル: 「あの子が死んだのかもしれません」~子の連れ去り abduction にあった母の悲しみ 公開日時: 2020-08-18 14:36:51

概要文: あの子は生きているのだろうか。

そんな切実な思いを抱きつつ、子を奪われた親たちが日々過ごしていることを、子と同居している一方の親や拉 致 abduction を支持した弁護士は理解しているのだろうか。

本文:

 

■ 「こんな暑い日、あの子はどう過ごしているだろう」

 

前回僕は、離婚時の「連れ去り/拉致 abduction」の被害にあった(子どもを一方的に連れ去られた)「別居親」 の悲しみについて書いた(https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20200808-00192225/ 「パ パ、神経衰弱しよう」~連れ去られた親の「抜け殻」感)。 それは父親の悲しみに若干特定してしまった感があったので、今回は母親の悲しみについて書く。

父親と同じく、理不尽な理由で離婚時に我が子を連れ去られた/拉致 abduction された母親は、数は少ないな がらも存在する。

その理由はさまざまだろうが、「この場面は自分が引いたほうが子どもが悲しまないで済む」的な、女性ジェン ダー的(受動的な配慮に基づく)理由もあるようだ。それは、男性元パートナーと闘うよりは自分が一歩引いた ほうが子どもにとっては楽なんじゃないかという、配慮と態度だ。

その葛藤の奥には、それぞれのカップルの事情はあると思う。だから、目の前の傷ついている母に対して、カウ ンセラーの僕もそこまでなかなか聴くことはできない。

そのため、「別居親」に追いやられた理由に関しては、今のところその原因の一般性にまでは僕は到達していな いのだが、子どもとの別居後、その子を思い日常を過ごす母たちのあり方はわかる。

それら別居母、拉致によって子どもから引き離された母たちは、日常を淡々と過ごしている。けれども、その日 常には常にいなくなった子どものことが含まれている。
たとえば、

「こんな暑い日、あの子はどう過ごしているだろう」

「こんな大雪の日、あの子は無事学校から帰ることができているだろうか」 「コロナにあの子はかかってはいないだろうか」等。

 

■「こんなことで泣いてはいけないんですが」と言いつつ、謝る

 

そんな日常(どんな時も子どもを思う日々)を送っている母たちの表情からは、そのように常に子を思い子を心 配する思いはなかなか読み取れない。
けれども、離婚時に子を拉致/abduction された悲しみの傷は、常に抱き続けている。

諸事情があって、その悲しみと理不尽さを Twitter などでは表出できないけれども、常に子を思うことに関して は、前回取り上げた別居親である父と変わりない。

実の母だもの、当たり前だ。
たとえば僕は、ある早朝に突然、Facebookメッセンジャーを受け取ったことがある。それは、

「朝、ネットを見ていると、某県の中学で、プールでの事故があったという記事が目に入りました。その県は、 私の息子が住んでいる県なのです。理性で考えるとそのプール事故で亡くなった生徒さんと私の息子が一致する ことはないのですが、どうしても心配してしまって」

と書いている。

何回かやりとりするうちに結局は電話することになり聞いていくと、その母は号泣してしまう。号泣しながらも 僕に、「スミマセン、スミマセン」と謝る。

僕はそうした事態にはある意味慣れているため、何も謝られる必要はないが、その母たちは泣きながら謝る。

「こんなことで泣いてはいけないんですが」

と言いつつ、謝る。

 

■あの子は生きているのだろうか

 

子を授かったという喜びは、その子がいつ死んでしまうかもしれないという強迫観念に襲われ続けることと並列 にある。

その強迫観念は、どんな親も抱いているのではないかと僕は想像している。こんなかわいい子どもを私は抱くこ とができた。今はたまたまこうして抱擁し幸福に包まれているが、この幸福はいつまで続くかはわからない。い

ついかなるアクシデントで、この幸福が破壊されることはありえる。

世の幸せな母たちは、子を抱擁しつつも、こうした強迫観念に苛まれていると僕は想像している。 ましてや、子どもとは関係のない夫婦間の離婚という事態で予想外に我が子と引き離された時、その強迫観念は 常に別居母たちを襲い続ける。

あの子はいま何をしているのだろう? あの子は生きているのだろうか。 あの子は死んだのかもしれない。

死んだはずはないに決まっているが、ニュースで流れるその死亡事故と、わたしの子どもの死がどうしてもつな がってしまう。子どもと同居する親(元夫)に電話しても笑われるか無視されるだけなので、失礼とは思いなが らもカウンセラー(僕)にメールしてしまう。結局は電話し、泣いてしまう。どうしても、プールで死んでしま った中学生と、わたしの息子の死がつながってしまうから。

その死で、わたしと彼(息子)のつながりがまったくなくなってしまうから。 そして、わたしも死にたくなるから。

そんな切実な思いを抱きつつ、子を奪われた親たちが日々過ごしていることを、子と同居している一方の親や拉 致 abduction を支持した弁護士は理解しているのだろうか。

早朝に目覚め、ついつい見てしまったスマホに現れたそんなニュース(プール事故等)から、ひとりベッドで泣 く母たちの思いを、我々は想像することができるだろうか。

共同親権・実子誘拐への口封じに声をあげる賛同のお願い

ライターの宗像さんが中心になって以下をお願いしています。僕も賛同人になりました。メールでのアクションなので少し面倒ですが、ご賛同いただければ幸いです。

 

以下、宗像さんが中心になって作成したお願い文をコピペします。

 

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共同親権・実子誘拐への口封じに声をあげる賛同のお願い

このところ、共同親権や実子誘拐のテーマについて、報道機関に対し学者も含め口封じの圧力がかかっていて、新聞記事やテレビニュースにならない状況が続いています。
つきましては、声明文に多くの方のご賛同のお名前をいただくことで声を上げることを目的に、以下の内容で賛同を集めたいと思います。ご一読いただき、ご協力いただけますよう、よろしくお願いします。拡散歓迎です。

■賛同〆切 3月31日(木)
■賛同送付先 kuchifujino@gmail.com

ご賛同いただけます方は、以下の空欄に記載いただき、メール連絡先まで送付下さい。
個人、団体とも可です。お名前(団体名)と肩書を公表します。連絡先(メールまたは電話)は不明点の問い合わせのためです(公表はしません)。

いただいた賛同は、記者クラブほか報道各社に届けて記者発表するほか、呼びかけ人のサイト、SNS等で公表します。

お名前(or 団体名)
肩書
連絡先(メールまたは電話)

呼びかけ人
石井 政之(ノンフィクション作家)、田中 俊英(一般社団法人officeドーナツトーク代表理事)、西牟 田靖(ノンフィクション作家)、牧野
佐千子(ジャーナリスト)、宗像 充(ライター)

問い合わせ 0265-39-2067(宗像)*不在時は留守電に電話番号を残してください。


* * * * * 以下声明文案 * * * * *

実子誘拐・共同親権に関する公正報道を求める共同声明(案)

2022年2月21日、警察庁は各都道府県警宛に「配偶者間における子の養育等を巡る事案に対する適切な対応について」という文書を出しました。

親による子どもの誘拐について、場合によっては刑事罰の対象になることを示した判例とともに、同居時からの連れ去り、及び別居親による連れ戻しについて、被害の届出について適切に対処するよう求める内容です。

日本以外の諸外国では、“child abduction”実子誘拐として処罰の対象になる行為が、日本では放置されてきました。

この現状の中で、先の警察庁通知の持つ意味は大きく、内容の是非の議論はあるにしても、夫婦間の関係が悪化した場合において、どのような対処が法的に規制されるうるかについての規範の変更ともなりうるものです。

しかしながら、国民生活において大きな影響を与えるこの通知について、一部のネットメディアを除いて、その存在を公にして報じた新聞社、放送局は現在まで見当たりません。

過去、実子誘拐や共同親権についての記事が掲載され、番組が放送されると、大量の苦情がメディア企業に寄せられ、その中でネット上の記事が削除されることも見られました。問題となる記事や番組は、男性が加害者、女性が被害者という従来の報道姿勢に挑戦するものです。

また先の通知に関して報じたネット記事が掲載されると(「AERA朝日新聞発行)、修正されたことが記事中に明示されました。この記事に関して、詳細な正誤表がSNS上に出回り、記事を残すために言い回しまで忖度する編集サイドの姿勢がうかがい知れます。

これからの社会で、どのような制度や社会認識が作られていくのか、受け手が判断できるよう賛否両論についてメリット、デメリットを適切に報じ、さらにそこで出された論点の妥当性について評価しながら議論に資するのが、報道機関としての役割です。

にもかかわらず、ことこの問題については、苦情が来そうなので触れない、というイージーな判断を報道の公共性に優先する大手メディアの姿勢は明らかです。

このような姿勢が変わらなければ、公正な報道を続けようと奮闘するネットメディアの記事も孤立します。もはや報道機関全体が信用を失墜し、その役割を果たせなくなるのではないかと私たちは危惧しています。

社会にタブーを広げているのは、口封じのためにあなた方の会社に苦情を入れる人たちであり、同時に、マスメディアで働くあなたたち自身です。双方の主張の違いを人権侵害行為を報じない免罪符にしてはなりません。

私たちは新聞社や放送局が、男性を加害者としてのみ扱う報道姿勢を改め、実子誘拐や共同親権についての報道について、もっと積極的に取り上げることを求めます。

それは伝えるべきことを伝えるという本来報道に求められる役割にほかなりません。

呼びかけ人
石井 政之(ノンフィクション作家)
田中 俊英(一般社団法人officeドーナツトーク代表理事
西牟 田靖(ノンフィクション作家)
牧野 佐千子(ジャーナリスト)
宗像 充(ライター)