tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

やさしさの根源〜共同親権研究会@沖縄②

昨日11/13、2回目の「共同親権研究会・交流会@沖縄」があり、別居親の父たちが集まってそれぞれが語らった。

 

それぞれの子どもの思い出を話し、それぞれが沖縄でできることを確認し、お互いがいたわり合った。

 

いつもこの会を大阪や川崎や那覇で司会進行していて僕が感じるのは、それら別居親たち(父が多いが母も含む)の持つ「静かさ」とやさしさだ。

 

それら別居親たちの多くが、月1回の子どもとの「面会交流(冷たい言葉だ)」さえ果たせないことが多い。4人に1人の別居親しか月1面会交流ができず、それ以外は何年にも渡って実際に子どもと会っていない。

 

月に1回子どもの「写真」が送られてくる「間接交流」というまやかしの方法もある。それすらなく何年も子どもと会えない別居親も普通に存在する(何万人単位で)。

 

そうした事実を別居親たちは静かに語る。

 

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そこでタブーな話題が、「子どもが成人になったら会える(から今は我慢)」という励ましだ。家庭裁判所の調査官などがよく使う言葉だという。

 

その言葉は別居親たちを激しく傷つける。

 

そんなことは承知している。子どもが18や20才になり、自分の力で別居親を探し当て会いにくるエピソードも別居親の先輩達から聞かされている。また、僕のような支援者からも聞かされる(僕自身、あまり考えずにそうした言葉を投げかけたことも以前にはあった。今はものすごく反省している)。

 

別居親たちは、子ども時代をいま送る、「子どもとしての我が子」に会いたいのだ。

 

やがては思春期を迎え自我を確立し、高校を卒業すると同居親の元を去り、大学入学や就職をし、やがては自分と再会することになる。

 

その大人になってからの再会も求めてはいるが、何よりもその子が「子ども」である時代に別居親たちは会っておきたい。

 

別居親というか、親は、子ども時代の我が子をしっかりと記憶に焼き付けておきたい。

 

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3才までの子どもの笑顔の記憶があるから、長く続く子育てを親は引き受けることができるとよく言われる。

 

そうした「育児の代償としての子ども時代の記憶」という要素もあるが、別居親たちが求める「今のその子と一緒にいたい」という欲望は、育児のモチベーション形成のための記憶だけではないと思う。

 

それは、二度と戻らない子ども時代のその子どもの記憶の「刻みつけ」のようなものではないか、と僕は思う。

 

連れ去り/拉致のような暴力的出来事がなければ、子どものあり方の「刻みつけ」は日常的に親は行なっている。

 

子どもの笑顔、泣き声、怪我をして擦りむく、早朝トイレにつきそう、嫌いな茄子をチーズに包んで食べてもらう等々、何気ない日常の一つひとつが親の記憶となり無意識に沈澱し刻み付けられていく。

 

それはトラウマのようなネガティブな出来事ではないがメカニズムとしてはトラウマに似ており、あのフロイトが「不気味なもの」と呼んだものの不気味ではないもの、だ。

 

それはトラウマではなく、我々人間を人間として成り立たせているもの、その記憶によって我々が優しくなれるもの、いわば「思いやりの源泉」ではないかとこの頃僕は思う。

 

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子どもがいない人は、恋人や親友、人によっては親、人によってはペットとの何気ない日常の中にそうした「思いやりの源泉」を求め、現実の交流の中で無意識に沈澱させていく。

 

それがあるから人はやさしくなれる。誰かとの根源的なコミュニケーション(現実の場面ではそれは日常的な出来事の連鎖ではあるが)を通じて、人は思いやりややさしさを獲得していく。

 

だが子どもを拉致されることで、1人になった別居親たちは、自らのやさしさが形成され発動されることを「待ち続けている」ように僕には思える。

 

拉致さえなければ自然と獲得できたやさしさの源泉を奪われ、その空振り感から「静けさ」が生まれてくる。

 

その経験がなくても十分やさしくはあるのだが、あればもっとやさしくなれたはずだ。

 

その空虚感が、その独特の静かさと沈黙を生んでいるように思える。子どもを拉致された父や母は、それでも子どもと時々出会うことで、目の前の子どもや人間たちにやさしくなりたい。

 

そんな、やさしさへの渇望のようなものを僕はいつも感じる。

 

 

不倫後の元夫婦に共同養育は可能か

Twitterを眺めていると、驚くほどの別居親(主として男性)の方々が、「妻(夫)に不倫された」とつぶやいている。

 

その方々は同時に、不倫した妻(と離婚弁護士)によって、子どもを連れ去り/拉致されている。

 

拉致されると、ご存知のように、拉致された別居親は実の子どもといえども会いにくくなる。

会えても、月に1 回2時間程度だ。

 

だから、共同養育を要望する別居親がほとんどで、そのための共同親権の法改正がいよいよ来年に迫ってきたと言われる。

 

だから僕は素朴な疑問を抱く。

予想通りに共同親権・養育へと制度が改正された時、不倫によってこじれてしまった元夫婦は、共同養育へと無事移行することが可能なのだろうか、と。

 

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Twitterでは、こんなご意見も寄せられた。

 

 

それはそうなのだけど、人間には「感情」というものがある。この方が指摘するのはもっともなのだが、「離婚前に不倫した元パートナー」と、平和に共同養育できるほど我々は自分の感情をコントロールできるのだろうか。

 

そのように心配しながらも、実は僕も、その感情はコントロールできると思う。

 

なぜなら、「不倫」は、感情をどこかに置き去りにできるほどのディスコミュニケーションが可能な出来事だと思うから。

 

言い換えると、「不倫」は、徹底的に相手を「他者」として別次元に封じ込めることができる出来事だと思うから。

 

だったらわざわざこんな問題提起をする必要ないだろうというツッコミが入りそうだが、共同親権・養育へのシステム変更が目前に迫っている今だからこそ、あらゆる心配事を言語化する必要があると思う。

 

ささやかだけれども、ずっと子どもたちの幸福を祈る別居親たちの姿

今年は、これまで共同親権を模索してきた人々の思いが一気に集約される年になったと思う。

 

長くこの運動に携わってきた方からすれば、「あの数年前も同じような鼓動があった」と振り返ることだろう。

 

また、当事者たちのそれぞれの「運動論」からすれば、運動の進め方の細かい違和感はあると思う。「単独親権」を完ぺきに排除するかしないか云々。

 

けれども、恩讐を超えて、今こそ親権のベースを共同親権に据える時がやってきたことは、運動の中心にいる人たちは感じ取っているだろう。

 

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だが、恩讐を越えられない人たちもいる。

 

変な日本語だが、あの「高葛藤」に悩まされてきた元夫婦からすれば、葛藤(要するにケンカ)体験の重みがすごすぎて、共同親権など考えることもできない。

 

そこに、あからさまなDVや児童虐待がなくとも、離婚と離婚以降も延々もめてきた元カップル/夫婦からすれば、その葛藤を乗り越えた「共同」などは偽善に思える。

 

だから、そうした「当事者」からすると、共同親権的理想論は「ウソ」に見える。

 

この頃は共同親権はずいぶん市民権を持ち、来年にも民法改正があるかもしれないので大っぴらには言えない雰囲気になってきたものの、「それは理想論だ」と吐き捨ててしまう親たちも一定数いらっしゃる。

 

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僕は支援の仕事でそうした親御さん達と日常的に出会ってきたが、夫婦間での高葛藤を抱えてきたそれら親御さんたちはいずれも「善人」である。

 

よほどのことがない限り、それら善人たちは「子どもの利益」を第一に考えている。

 

特に、「別居親」と呼ばれる人たちは、もちろんそのほとんどがDVをしているわけではなく、そのほとんどが自分の子どもの幸福を願っている。

 

その願いは、子どもと会うことがたいていは月イチペースのため、その限られた「面会」時間の中で、親としての自分の思いを結実させようとする。その願いは切なく、けなげで、献身的だ。

 

それこそが「親」というものだろう。月イチ2時間程度の「面会交流」(冷たい響きの言葉だ)の中で、元パートナー/同居親を気遣いながらも(彼女/彼らに拒否されると「面会交流」自体できなくなる)、別居親たちは子どもと会う方法を模索する。

 

元パートナーの気分次第で月イチ2時間しか我が子と出会えない。それでも、子どもにとって「善きこと」と想像すれば、想像できるだけのポジティブなプレゼントを用意する。

 

そんな健気な親たち(別居親たち)の気持ちがあなたには想像できるだろうか。そんな親達からすると、「共同親権」は理想論なのかもしれないが、現在のどん詰まり感に風穴を空けてくれる方法論でもある。

 

その風穴の先にはささやかだけれども「幸福」が待っている。

 

「昭和フェミニズム」が一方的に毒してきた「強圧的な親(男性ジェンダーとも言い換えられる)」というイメージを超えたところにある、ささやかだけれどもずっと子どもたちの幸福を祈る親たちの姿がそこにある。

 

そのようなささやかだが強い幸福への願いの力によって、高葛藤他の「恩讐」を超える時が今やってきていると僕は感じる。時が満ちた感じ、だ。

 

大阪市存続は「新自由主義からの転換点」になれるか

少し古くなったかもしれないが、以下は、大阪市4分割の是非について行なった住民投票に関するエッセイ。初出はこのブログ

toroo4ever.blogspot.com

だが、BLOGOSにも転載されなかったのでここに掲載することにした。

 

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よかった! 今回の大阪市「都構想(4分割)」の是非を問う2回目の住民投票も、「新自由主義」的合理化を目指す分割案に対して、市民が拒否することができた。

この新聞記事(1万7千票差、再びNO 松井氏「私の力不足」)の図によると、僕が最も「大阪」らしいと思う、阿倍野、住吉、西成、天王寺、生野、大正、平野などの諸区は(この内のほとんどでドーナツトークは仕事をしてきた)すべて反対している。

これは「アンチ新自由主義」のかたちとして、これからの日本の100年に大きな意味を持つかもしれない。

 

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僕は、上町台地中心に細かく分断される大阪市は、善悪や便利不便を超えて、「これぞ人間の都市」という醍醐味があると思っている。めっちゃ不便なんだけど、住めば住むほど、この不便さにいつも歴史と愛着を感じる。

 

たとえば夜、動物園前(西成区)の「NPO法人ココルーム」(周辺はザッツ昭和な大歓楽街)から、20分かけてドーナツトーク事務所(阿倍野区)に歩いて帰る時、左側(西側)の上町台地を見上げ感じながら歩く。

 

そこには大きな墓地(阿倍野霊園/市設南霊園、墓地自体は明治に周辺墓地を統合して新設されたがそこには江戸からの墓石がいくつも建つ)が広がっており、夜の魂たちの息遣いが台地下にも伝わってくるようだ。

 

その墓地の少し南には、あの安倍晴明の名を持つ阿倍晴明神社がある。

 

たとえば、大阪府立病院(いまは現代的な名前に変わっている)から、路面電車駅の帝塚山4丁目駅に歩く時、たった10分ではあるが、マンガ「ジョジョ」に出てくるあの「杜王町」みたいな時間のズレを感じることがある。

 

たとえば、天王寺区役所から上町台地を下がってJR桃谷駅まで歩く時、西側の台地の峻厳さと異なり、ダラダラと次の町(桃谷以東の生野区)」へと下り町をつなげる東側の「台地の境界」が、これまた「経度」と時を飛び越えた感を抱かせる。

 

これらは、新自由主義に代表される「合理性」以前の世界であり、その世界のあり方を人々は愛しているんだなあと僕は想像する。

 

ごった煮のモツ鍋というか、ニューオーリンズのガンボ料理大阪バージョンが、人間の身体の細胞を作り維持しているのだと思う。これは合理性では説明がつかない。

 

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「大阪」はやっぱり、日本ではそれを典型的に示してくれる絶対無比の街だ。今回の住民投票では、住民がというよりは、「土地や歴史」が人々を合理性と新自由主義から忌避させた。

 

新自由主義の台頭も合わせて(維新のrise and fall も合わせて)、それを教えてくれる街。今回の結果で、新自由主義へのカウンターが見えてきた。

 

住民投票前に積極的に反対意見の発信をしていた京大教授の藤井聡氏は、反対可決後、ツイッターで以下のようにつぶやいた。

 

大阪市廃止の住民投票、お疲れ様でした。仮に否決になったとすれば、またぞろ「シルバーデモクラシー」と言って結果否定の動きが出てくると思いますが、そうした見解は間違い。 下記NHKデータによれば10/20代は高齢者の意見に近いのです。若者は決して、大阪市廃止を強烈に望んでなどいないのです。

 

僕はそれに対して、

 

現役世代は合理主義/新自由主義に流れ、合理性では物足りない50代以上と最近では若者世代が「土地と歴史と魂」を重視するんだと思います。魂の遍歴の物語である『鬼滅』を若者が幅広く支持するのと重なりますね。

 

リツイートしてみた。

この『鬼滅』とは『鬼滅の刃』のことで、お若い方々を中心として空前のヒットとなっている鬼滅と今回の大阪市民の決定はリンクしていると僕は思う。

現役世代は合理主義/新自由主義に流れるが、合理性では物足りない50代以上と最近では若者世代が、「土地と歴史と魂」の物語に自分を重ねている。

新自由主義下での大阪市の4分割という合理性は、社会の中心にいる現役世代や大阪市のビジネスの中心地である中央区や梅田あたりでは受け入れられる。

けれども、その周辺(若者・高齢者や)やその歴史的コアの部分(住吉・西成・阿倍野等)には受け入れることはできない。その合理性では、人の魂や涙や歴史や死や喜び等を決して語ることができないからだ。

またおもしろいことに、そうした人間と鬼の魂の遍歴の物語である『鬼滅の刃』が現在大ヒットしており、それを若者が幅広く支持している。

その鬼滅への支持(人々の魂の遍歴への関心の強さ)にみられる合理性/新自由主義の否定と、今回の大阪市4分割否定の住民の意思は見事にリンクしていると思う。

今回の住民投票による否決は、新自由主義からの大きな転換点になる可能性も秘めていると思う。