tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

「ソーシャル複合体」の暴力性

「ソーシャル複合体」の暴力性

 

 

■「ソーシャル複合体」

なんというか、「ソーシャル複合体」とでも名付けざるをえないムーブメントが、ここ10年の日本社会を覆っている。

それはまず、IT等のベンチャービジネスから落ちこぼれた人々の逃げ道として用意され、そのルサンチマンに気づかないまま宣伝される広報戦術に乗って行ってしまった、同じくルサンチマンを抱える大学生を大量動員している。

それはまた、リベラル色の強いメディアが応援する。

それはまた、大企業のCSR部門や広告代理店が、社会正義という対消費者に良いイメージを与える概念を使用する好機会でもある。

それはまた、たとえば「大阪万博誘致」的な、行政主導のイメージ戦略にとっては非常に好都合な題材である。

■「ソーシャルインパクト」的夢のパワー

IT落ちこぼれ組ルサンチマンNPOについては、この前書いた僕のこの記事(さっさと六本木ヒルズに行ってよ、おしゃれNPOリーダー)を参照されたい。

ルサンチマンNPOリーダーと、ソーシャルに憧れる大学生は、微妙な「共犯」関係にある。
互いが互いの欠落をカバーしあいながら、「ソーシャルインパクト」的夢のパワーに後押しされて結合している。

リベラル色一辺倒のメディア、そのこと自体はさして悪くはないが、微妙な議論(保守や原発やそれこそソーシャル等の境界の話題)について直言することは避けがちな現代のマスメディアも、これら「ソーシャル」を後押しする。

大企業CSRや広告代理店や大阪万博的行政主導イベントも、無反省にソーシャル団体を持ち上げPRの道具としている(大阪万博誘致「ソーシャル動画」など)。

大阪万博についてはもっと露骨な動画を某区役所で僕は今日延々鑑賞していたのだが、それはいま簡単には検索できなかった。が、上添付PR動画とそこに貼り付けられている大阪市動画を見るだけでも、「ソーシャルの夢」をこれらは十分アピールする。

■ソーシャル複合体は無邪気すぎる

僕が不思議なのは、児童虐待やDV、それらを起因とする第四の発達障害など、貧困コア層(全国規模では 5,00万人以上は存在するだろう)の問題を看過してしまうこうした「ソーシャル」的動きに、ソーシャル当事者は何も罪悪感を抱かないのか、ということだ。

そんな質問を、コア層を看過しているNPOリーダーなどにぶつけると必ず、

子ども食堂や学習クーポンはいまはコア層に届かないかもしれませんが、いつかは届くと信じています」

と無邪気に反論する言葉と出会うことになる。

そうだろうか。
コア層に彼女ら彼らソーシャルな人々はいつかは届くだろうか。

僕は超悲観的にみている。だって、貧困コア当事者層が避けに避けているのが、これら「ソーシャル複合体」的おしゃれなムーブメントなんだもの。

ソーシャル複合体は無邪気すぎる。彼女ら彼らの正義感や優しさが、いかに貧困コア層を傷つけているか、想像できない。

そう、その存在(複合体)があるというだけでそれは「暴力」であり、同時にコア層の深刻なあり方が隠蔽されてしまう。

 
コア層の多くは、ソーシャル複合体があるおかげで名乗りでることができない。それだけ、複合体的おしゃれさを警戒している。
 
 
2018.6月記事を修正、改題

「家族」は解体されない

「家族」は解体されない

 

 

■「感情体験」の集約の場としての家族

 

僕が最近思うのは、80年代/昭和フェミニズムの背景にある「家族解体主義」は、何かが決定的に欠落しているということだ。

 

それはたぶん、家族が含む人間の「信頼」の力を指す。

 

家族には「権力」(男性権力)も含まれそれを家族解体主義者は攻撃するが、同時に「感情」レベルの信頼も含む。その感情レベルのあり方を僕は以前当欄に書いた(「感情体験」の場である家族に「解体」はない〜家族のアップグレード)。

 

この、根源的な「感情体験」の場を集約するものとして、人は「家族」を形成している。この根源的な場を否定することはヒトを否定することにもつながると僕は思う。

 

この感情体験の中には、残念なことに暴力や権力が含まれる。それはたくさんある家族をめぐる小説や映画を想起すれば明瞭だ。もちろん、日常的に起こる、家族内での傷害や殺人も、感情体験の具体的実例だ。

 

 「おひとりさま」の称賛

 

家族の感情体験は同時に、「信頼」や「愛」と呼ばれる内面の動きや実際の行為も含む。

 

信頼や愛は、家族以外の関係(恋人・友人)の間でも生じ、家族解体主義者は、ヒトが持つ信頼や愛は現在の(権力を含む)家族システム以外で形成すればよいと説くのだろう。

 

現状の暴力と権力に満ちた家族をいったん解体し、現状の家族システムからそうした負の要素を抽出した人間関係を基礎にすればよい、と説くのだと思う。

 

その結果、たとえば「おひとりさま」の称賛といった行為につながっていく。また、オンナ同士の緩やかな関係の賞賛ともつながる。家族が孕む暴力と権力を否定し、緩やかで荒波のない平和な人間関係のみ残された世界で十分ではないかと。

 

家族解体主義の思春期的衝動には、(男性)暴力と権力への嫌悪を前面に出しつつ、ユートピア的社会集団(あるいは「静かに1人でいること」)への憧れ、がある。

 

それは、上野千鶴子氏がインタビューなどで時々語るユートピア社会のイメージなどを読んでいてもよく伝わってくる。それは、思春期の優等生的リーダーが描く理想社会なのだ。

 

 人間には「子ども」時代がある

 

だがおもしろいことに、人間には「子ども」時代がある。

 

子育てで最も重要だと言われる、概ね1.5才までのアタッチメント/愛着形成には、「数名の大人との安定したスモールワールドでの生活」の中での、「くっつき/アタッチメント」が欠かせない。

 

この体験がないと(つまり虐待被害を受け続けると)、いわゆる愛着障害に人はなり、生涯にわたって他人との安定したコミュニケーション形成に苦しむことになる。

 

このアタッチメント体験が、人間が持つ根源的「信頼」の力を育むと僕は思う。何もこれは最前線の発達心理学だけのテーマではなく、たとえば哲学者のデリダがいう「ウィ、ウィ」の領域(『ユリシーズ・グラモフォン』)、現象学での間主観性の領域などは、こうしたプレ・コミュニケーションの体験を軸に議論を展開している。

 

乳児時代と初期幼児時代、我々は少数の大人との濃密な「くっつき(アタッチメント)」によって、根源的「信頼」を獲得していく。

 

その少数の大人とはほぼ「両親」と同義だ(ここに祖母等が含まれる)。これはもちろん、実の親である必要はないものの、数名単位でなければ、乳児は「他者」を認識することができない。

 

そうして数名の他者を認識し、その認識をもとに日々のアタッチメントが実践され、根源的手者への「信頼」が育まれる。

 

これはたとえば、乳児院等での10数名のスタッフによる交代制育児では、乳児の認識能力の未熟さのために獲得できないものだ。

 

つまり、人の根本原理である「信頼」は、少数の大人が形成する安心できる場でしか形勢が難しく、それが現在では「家族」ということになる。

 

 家族解体主義の先にはディストピア

 

この「家族」を、まったく静かで平和な大人の関係性だけで完結する小集団へと変化させることが可能だろうか。そうした大人たちによって「子ども」を授かり、時々おとなたちは「ひとり」で静かに生活しつつも、育児も行なう、ということが可能だろうか。

 

冗談ではなく、これがおそらく家族解体主義者たちが描く「子育てのイメージ」だろう。陳腐なSF小説が描くような、出産は試験管と最新テクノロジー、育児は職業的「親」等な世界になれば可能かもしれないが、現在ではそれはディストピアとして描かれる。

 

そう、家族解体主義の先にはディストピアが待っている。

 

現実には、現状の家族システムをヒトは模索しつつも受け入れ、試験管ベビーも職業的親も例外に留まり、今の「家族」が継続すると僕は予想する。

 

その中で人は愛と信頼を模索し、同時に暴力と権力をできるだけ小さくするよう努力するだろう。その模索と努力の対象は、そう、「家族」だ。

 

つまりは、家族は解体されることなくアップグレードされたりダウングレードされたりして継続し続ける。これが僕の(僕だけではなく多くの人々が描く)「家族」だ。

 

家族解体主義は、自らのイデオロギーに忠実なあまり、「信頼」という基礎機能を育む現状の家族を丸ごと否定し、葛藤が極端に少ない夢想的な人間グループへとその信頼獲得機能を移行させようとする。

 

それはもしかすると、1万年単位で見ればありえないことではないかもしれないが、たとえば1万4千年前の縄文社会では今の家族はなかったものの、男性による支配と暴力は今よりも極端だったと思う。

 

たぶん「家族」を考えることは「ヒト」そのものを考えることで、それはフェミニズムのような社会学の一分野で担うにはあまりに広大な射程を含む。

 

いずれにしろ、この未完成で未熟な価値(家族解体主義)に支えられたイデオロギー(80年代/昭和フェミニズム)が日本社会を30年間席巻したことが、現在の多くの問題を産んだと僕は思う。

ATフィールドよ、さようなら

 

■それは、「新潮文庫をひとりで読む」程度のテーマ系

 

エヴァンゲリオンの最後の映画が3月に公開され、エヴァの諸記録を塗り替えて一般公開が終了しようとしている。

 

8月末にはDVDが販売される予定だそうで、それもものすごく売れるはずだろうから、まだしばらくこのブームは続くと思う。

 

僕は、エヴァテレビ版の最初の放映を95年にリアルタイムで毎週見ていた頃からのディープなファンだ。あのテレビ版衝撃の結末から、すでに25年以上がたってしまった。

 

また今回僕は、どうしても「シンエヴァ」を見に行く気になれず、今日に至っている。その割には、インターネットでの「ネタバレ動画」は100本以上は見ているだろう。だからたぶん、ストーリーの把握に関しては、映画館で1回見ただけの普通のファンとあまり変わらないと思う。

 

一般上映も終了に近づいたこの頃は、さらに「ネタバレ動画」が増えているようで、作り手側も許されるだろうと認識しているのか、以前よりもさらにコアなネタが暴露されている。

 

そうした暴露動画を繰り返し見ることで僕は、エヴァンゲリオンという作品が25年以上にわたって社会に刻印した「自分というATフィールドを打ち破ることのたいへんさ」が、あまりにも過大に表現されたのではないかと、頭を抱えてしまった。

 

ATフィールドなんてたいしたことない。

 

それは庵野監督にとっては生涯のテーマで、鬱も発症させる「自他の境界を抜ける」という大問題なんだろうが、それは多大なる予算をかけて25年にもわたって取り組み、「セカイ系」という大袈裟な一大テーマに拡大し、さらに諸外国にまでそのテーマを拡大・売り込む必要があるほどのものではなかったと僕は思う。

 

それは、思春期の中高生が、ひっそりと、「新潮文庫を買ってひとり読む」程度の、超ミニマムなテーマ系ではないだろうか。

 

■それはあくまでも私的領域で

 

碇ゲンドウは死んだ妻に会いたかった、アスカは中学時代の同級生が結局は帰る「港」だった、ミサトさんは父の研究の落とし前をつけた、等々、それぞれの結末が映画の終盤で描かれるそうだが、25年かけて世界を何回も破滅のループに陥れ、すべての「魂」をまとめたり解き放ったりするその世界観そのものが、結局はこの「死んだ妻に会いたい」という個人的欲望とシンクロする。

 

これが「セカイ系」(個人の物語と世界の破滅がパラレル)の醍醐味で、エヴァはその代表作品だが、今回「シンエヴァ」がすべて謎を解いた(たぶん)ことで、多くの人は感動した。

 

が、映画を見ずにネタバレ動画だけを見た僕は脱力した。多くてせいぜい15人ぐいの人物の自己実現欲求を叶えるために、アディショナルインパクトやロンギヌス/カシウスの槍やATフィールドという大層な設定が用意されている。

 

誰もが、「死んだ妻に会いたいのなら、目を瞑ってお墓に語りかければ?」とどこかで思っているはずだ。

 

僕は、死んだ父に会いたくはないものの、少し話しかけたい時は、彼の墓に立ち寄り、独り言を言う。「悪かったね、父ちゃん」とか。

 

セカイ系自体の脆弱さは、その無意味な大仰さに尽きる。

 

その大仰さの根源は、持て余す自意識の巨大さ、だ。それはこれまで、文学作品や漫画をひとりで読みながら、僕を含むそれぞれの思春期たちが乗り越えてきたテーマだった。

 

それらの作品は、サリンジャー大島弓子などメジャーな作家なものも含まれるが、両作家も持続的に売れ続けてはいるものの、「ひっそりと」読み継がれるタイプのものだ。

 

決してエヴァのように、世界規模で受け入れられるものではない。

 

自我と知者との領域とその越境は、あくまでもパーソナルな感覚のものであり、「ATフィールド決壊!」的軍事用語の中でフォーマルに叫ばれるものではない。

 

それはあくまでも私的領域にある感覚だ。

 

だが、その私的フィールドだけでは人が生きていけなくなる思春期において、人は、自分と「他」の間に生じた「裂け目」をゆっくりと開け、ゆっくりと「自他の交流」を行ない始める。

 

その私的フィールドと「他」の間で繰り広げられる交流は、大っぴらに語られるものでもないし25年続くものでもない。

 

それは、自分と他者たちとの狭い空間の中で、ひっそりと行われる通過儀礼なのだ。世界で100億円以上の売り上げと世界規模での公開と25年にわたるテーマの共有、といった、そんな大袈裟なものでは決してない。

 

セカイ系もATフィールドにも頼らず、「自分の力と偶然の出会いで」乗り越えていく、それが「自分とセカイ(他者)」というものだと思う。

 

だが、「ATフィールドの世界観」は25年も引っ張られ過ぎた。庵野監督のテーマを、我々は「商売」に仕立て上げ過ぎたのだと思う。

 

ATフィールドにさようならし、庵野監督に「あまりに長く引っ張り、世界市場化させてしまってスミマセン」と謝る時だと思う。

男もなぐられる〜なぐられ、虚偽DVされ、支援措置され、実子誘拐され、実子と会えず、自死に追い込まれる

 
 ■男もなぐられる

 

当欄でも度々指摘するように、ドメスティックバイオレンス=DVの局面においては、男性もたびたびなぐられる。

 

DVは児童虐待と同様、身体的暴力の他に心理的(言葉)なものや経済的なものも含まれる。これらの被害に、もちろん男性/夫もあっている。

 

労働組合「連合」の調査では、30代の夫婦の場合、被害者は夫側が多い(ハラスメントと暴力に関する実態調査(2017年)

 

また、「夫婦間の殺人」においても、近年になり、男女の被害数が拮抗している(殺人事件の2割が夫婦間で起きている背景事情 全体は減少傾向にあるが親族間は増えている)。

 

要は、女/妻も相変わらず暴力の被害に遭っているものの、同じくらい、男/夫もその被害に遭っている。年齢によっては男のほうがその被害に遭っている。

 

要は、80年代以降のフェミニズムの定着化が招いた、「男=加害者=悪」というイメージは、最近の調査によって、男性加害の拡大解釈であることがわかってきた。

 

 「男は黙って耐え忍ぶ」

 

事実は男性加害ばかりではなく男性被害も多い。つまり、現代社会の夫婦等の「カップリング」においては常に暴力が起こり、そこにジェンダーの差異はない。

 

ここに「虚偽DV」や「DV支援措置(被害者の住所を秘匿できる)」「子どものアブダクション=誘拐=連れ去り」などが絡み、シンプルな「暴力の悪」に加えて、その「悪」を根拠にしたさまざまな「DV被害者が有利になる技術」が開発されている。

 

そうした事実があるものの、この30年間の(80年代/昭和フェミニズム)の蔓延により、新しいエビデンスがアップデートされておらず、支援機関にも女性が利用しやすいものがほとんど(DV支援センターや女性相談センター等の窓口)なため、男性被害者が孤立している。

 

また、これまで固定化された「男性ジェンダー規範」が男性自身を縛っているため、仮に相談機関ができたとしても、なかなか当事者はそこを訪れない。

 

男性ジェンダー特有の、

 

「男は黙って耐え忍ぶ」

 

的美学の罠に陥っている。それを、離婚弁護士を筆頭にした、「80年代/昭和フェミニズムシステム」が両手をあげて歓迎する。

 

 新しい治安維持法

 

DVで生じる暴力は「傷害罪」や「暴行罪」に適合するのだが、DVという概念下においては、刑事事件化しない「ドメスティックバイオレンス」として捉えられる場合がある。

 

それは、上に示した「DV支援措置」の範囲内で捉えられるもので、「暴力の『事実』は問わず『相談』の事実のみでDV判定する」という奇妙な基準のことだ。

 

被害者を自認する者が、暴力の事実とは別に、DVの不安を各相談センターに申告するだけで、そしてその申告・相談の記録が各センターに残っただけで、「事実としてのDV」が確立される。

 

これは非常に恐ろしいことで、「あの人ヤバそうだから捕まえて」と相談しただけで、そのやばそうな人には完全に情報が絶たれるということだ。これは、DV相談という衣を被った、

 

「新しい治安維持法

 

のような意味合いを持っている。そして、その「相談という密告」により、密告された者の社会的立場を一瞬にして奪い、その者に流れる情報を遮断する。

 

■光を当てよう

 

まず、「男もなぐられる」。

 

そして、この新しい現代のありようは、「なぐられる男」を、①虚偽DVや②DV支援措置や③実施誘拐といった被害に合わせ、男をさらに追い込んでいく。

 

その結果、④実子と「面会交流」できないかもしれない(できても月数時間)、そして⑤鬱状態に追い込み、多数(統計には出ていないが1,000人は超えると僕は読んでいる)の自死者を生み出している。

 

日本社会は、こうした悲劇の事態を、平成から令和へと流れる数十年の時間の中で生み出してしまった。そろそろそこに光を当て、変化させるときだ。

 

※妻/女性側の被害も承知していますが、今回は男性被害者の顕在化に光を当てました。ご理解いただければ幸いです。

サバルタン=オンナは、フェミニストのせいで語れない

  **

 

僕は日々、このオトコ社会で苦闘する10代女性のカウンセリングを行なっている。

 

オトコ社会の暴力性は21世紀になってもなんら変化しておらず、特にそのターゲットとされる10代から20代前半の女性は、その被害(心理から身体まで幅広くターゲット化)に日々あっている。

 

ここで具体的なことは書けないが、その悔しさで、女性達は毎日泣いている。

 

加害側の男性ジェンダーのほうは、意識的な暴力(心理的・経済・ネグレクト・身体+性等、被害項目は児童虐待と同じ)から、無意識的な暴力(これは主として心理的と経済)まで、80年代と変わらず反復されている。

 

無意識的な(心理的/言葉の)暴力には、紋切り的な「からかう・皮肉を言う」のほか、男性ジェンダー自身の女性との関係局面での苦労話のかたちをとりつつ女性を侮蔑する、自分(男性)にはとても太刀打ちできないなどと自分を「下」に置きつつ女性をからかう等、高等技術というかひねくれまくったものもある。

 

また、30代の夫婦のDV被害者には男性のほうが多いという事実(逆DV “アウトレイジ”な妻に泣く30代夫)もある。

 

自分(男性側)を女性の「下」において皮肉を言いつつ相手を目下すという無意識的な暴力の根拠には、現実に男性が暴力を受けているという事実もある。決して、ルサンチマン的心情だけで男性は皮肉を言っていない場合もある。

 

 **

 

このように、現代の女性差別をめぐる事態は錯綜している。

 

けれども、冒頭に書いたように、若い女性たちは80年代と同じようにオトコ社会から差別される屈辱を日々味わっている。

 

だが、そのように差別される女性達は、人類史開始から延々と続く、

 

①既存の男性権力

 

に加えて、もう一つの窮屈さに縛られなかなかモノを言えない状況に追いやられている。

 

それは、

 

②「プチ権力化したフェミニスト」への世間からの反発

 

という事態だ。

 

男女共同参画センターやDV支援など、「女性」関連の予算は8兆円規模ともいわれる(少し古いが→平成30年度における第4次男女共同参画基本計画関係予算について 内閣府男女共同参画局調査課)。

 

また、上野千鶴子氏をはじめとして物言うフェミニストは国立大学教授等、それなりの社会的ポジションに座り、行政システムの中でも中核に位置する方も多い(その反対に、「政治」は女性議員が圧倒的に少ないが)。

 

年間8兆円の予算がつき、アカデミズムや行政にはそれなりのポジョンを占める人々が多数存在する「女性」の現状は、

 

プチ権力

 

といっても言い過ぎではないと思う。

 

 **

 

この状況(「女性」がプチ権力化している)のおかげで、「現場」で日々差別される主として若い女性達の立場が窮屈になっている。

 

「オンナのしんどさ」をどれだけ訴えても、権力を有するオンナの現状に敏感な「現場の」オトコたちはそこを突いてくる。

 

なんやかや言っても、お前たち(オンナたち)は権力とカネを持っているじゃないか、と。

 

そう言われると、個別に現場で苦闘するオンナたちは沈黙してしまう。

 

一般論として、「権力とカネを持つオンナ」という様態は事実だからだ。その事実に圧倒され、差別される現場の若いオンナたちは沈黙する。サバルタン=オンナは語れない。

 

つまり、プチ権力化したフェミニストは、その存在によって、自らサバルタン(語れない現場のオンナたち)を創出している。自らの存在によりサバルタンを生む、典型的権力と暴力がそこにある。

法制審議会「監視付き親子交流」を問う ユニークトーク6/16(水)19:00

田中俊英Facebookタイムライン

6/16(水)19:00 いつでも再視聴可 無料

田中俊英(officeドーナツトーク

石井政之ユニークフェイス研究所)

 

法制審議会に「監視付き親子交流」という人権侵害の動きがあるという疑いも出てきたりして、法制化に向けてさまざまな動きが出ています。それをユニークフェイス石井さんと検証します。オンライン無料♪

 

 

【今回のユニークトークでは、以下の3つの話題について語り合います。

山尾志桜里(国民民主党所属の政治家)・倉持麟太郎(弁護士)事件

https://bunshun.jp/articles/-/45105

https://news.yahoo.co.jp/articles/64475aeeb76b43dfec36be18b7df79276ef07f42

・書籍 「共同親権が日本を救う」(高橋和孝著 幻冬舎

  市民ジャーナリズムが、批判する力をもちはじめた

https://ishiimasa.hateblo.jp/entry/2021/05/17/090759

・「監視付き面会交流」が議論されている、という情報 

  法制審議会ウオッチング 

https://www.sankeibiz.jp/econome/news/210513/ecc2105131321001-n1.htm

 

いずれもホットな話題で、重要な問題です。しかし、めまぐるしい状況の変化のなか、注意しないと半年後には忘れてしまうかもしれません。このユニークトークによって、リスナーと共に記憶にとどめていたいと考えています。

お気軽にご参加下さい】

「夢」に似たオンラインコミュニケーションでは、我々は「孤独」に追い込まれる

 

■オンライン会議では変になる

 

以前から僕は、zoomなどを用いてオンライン会議等をするとき、何か変な感覚に陥っていた。

 

その感覚の「哲学的」理由がこの頃わかった気になったので、簡潔に書いてみる。

 

哲学者のデリダは『ユリシーズグラモフォン』という小さな書物の中で、「ウィ、ウィ」という不思議な概念を提案している。

 

「ウィ」とは英語の「イエス」のことだが、デリダのいうウィは普通言われるところのイエスではなく、メタレベルでのウィだ。

 

相手の言葉に対して「イエス/はい」と返事するのが普通のウィだが、メタレベルのウィとは、

 

「はい、あなたはここにいてもオッケーですよ」

 

という、これから始まる2人のコミュニケーションを承認する意味での「イエス」のことを指す。

 

「あなたと私のコミュニケーションがこれから始まりますね、こう思うこと自体がすでにふたりのコミュニケーションが始まっていることの印ですよね。

私は、そのコミュニケーションが存在してしまっている、そのこと自体を承認します」

 

この、コミュニケーションが成り立つための「土台」がすでにあることを認めること、これがデリダの言う「ウィ」のレベルだ。

 

 「前提と継続と相互干渉のウィ」

 

ただし、このウィは、もう一つウィを伴い、「ウィ、ウィ」としてあるとデリダは語る。

 

このあたりを哲学者の高橋哲哉氏は以下のように説明する。ちょっと難解だが引用してみる。

 

この根源的なウィ、根源的な約束は、それ自身すでに他者の呼びかけへの応答である限り、じつは根源的とはいえず、他者に先立たれている。私が実際の発話以前に、またあらゆる発話とともに、無意識のうちにウィを発しているとき、私はつねにすでに他者からウィを発するよう求められているのであり、その呼びかけを無意識のうちに聞いてしまっているのである。私のウィはつねに第二のウィで、他者のウィに先立たれている『デリダ』高橋哲哉/講談社より、p313

 

いかにも哲学者らしく難解だが、僕は単純に、

 

①コミュニケーションの前提としてのウィ

 

がまずはあり、それを維持するものとして、

 

②それを維持するウィ

 

があると単純に考えることにしている。加えて、

 

③常にすでに相互干渉している、それらのウィ

 

という3つ目のオーダー(水準)も隠されていると思う。

 

いわば、①は「前提のウィ」であり、②は「つづけるウィ」であり、③は「相互干渉するウィ」とも言い換えることができる。

 

この、「前提と継続と相互干渉のウィ」が、我々のコミュニケーションにはあらかじめ含まれている。

 

高橋氏の言葉で言うと、

 

「この根源的なウィ、根源的な約束は、それ自身すでに他者の呼びかけへの応答である」

 

そしてこれは、

 

「他者に先立たれて」おり、「私のウィはつねに第二のウィ」

 

ということになる。

 

■「線」ではフォローできない

 

この、「前提と継続と相互干渉のウィ」は、オンラインという、まさにその電子的なか細い「線」ではフォローしきれない。

 

その線の細さでは、「前提と継続と相互干渉」の水準を捉えきれないのだ。

 

これはおそらく、身近な人とのオンラインコミュニケーションでも同じだと思う。

 

従来の電話で長時間しゃべる、FacebookやLINE等のSNSの「テレビ電話」サービスを用いて交流する、zoomを用いてテキストやパワポ資料なども活用する等、あらゆるくふうをしても、何かが物足りない。

 

それは、そうしたオンラインコミュニケーションには、「前提と継続と相互干渉のウィ」が少ししか存在しないからだ。

 

いわば我々のコミュニケーションは、メタレベルの「前提と継続と相互干渉のウィ」がなければいけない。

 

前提と継続と相互干渉のウィがなければ、それらのない「夢」に似たオンラインコミュニケーションだけでは、我々は、人は、「孤独」に追い込まれてしまう