tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

「死」を知らないニッチ NPO が主流になった悲劇

タイトル: 「死」を知らないニッチ NPO が主流になった悲劇
公開日時: 2018-10-09 13:01:50

概要文: 個別ソーシャルワークがいま、揺れているのだ。そのとき、現れてきたのが、これまでニッチだった NPO だ。

現実的ではない「警察と児相の情報全件共有」の提案などは、ニッチ=半分素人の案だと僕は思っている。 本文:

 

■ジンケン@広島

 

9 月のなかば、僕はこの 1 年毎月続けてきた「劣化する支援」というイベントを広島で開催した。当欄でも以前、 東京での試みを報告している(https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20180429-00084614/ 中流層の感受性の鈍さは貧困層には暴力そのもの~「劣化する支援@東京」)。

 

広島でのテーマは「人権/ジンケン」だった。ソーシャルインパクト評価重視を背景とした成果指標主義(若者 就労支援であれば「どれだけの若者の数が就労できたか」とその「数」を問う)が NPO/ソーシャルセクター業 界を席巻する現在、たとえば高齢ひきこもりや虐待サバイバー等、支援にとって最も重視する必要のある潜在化 され抑圧された人々のあり方を見つめる必要があるのではないか、その抑圧された人々を見つめるということは つまり、「人々の人権を守る」ということでは? と問いたかったからだ。

 

ソーシャルインパクト評価の問題点については以前当欄にも書いた (https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20180911-00096497/ 数が「ソーシャルインパク ト」か?~支援なんて、結局は「偶然の他者との出会い」)。 新自由主義を背景にした、行政の効率を問うこの思想を僕は嫌いではない。ドゥルーズ的「群れ」の思想とこの 新自由主義は親和性があるように思えるが、一方ではデリダ=スピヴァク的「サバルタン」の思想からすると、 新自由主義こそがサバルタン=真の当事者を生み出している。

 

■ソーシャルインパクト評価では測れない部分

 

いや、哲学などを持ち出さなくても、ひきこもり支援をしているといつも感じる「ひきこもりから脱出して支援 施設に繋がるまでのモチベーション構築と行動化」という、支援にとって最も困難な部分が、成果指標型のソー シャルインパクト評価では測れない。

 

面談に到達した人数の前に、本人が面談に出かけてもいいと感じるその瞬間は、その瞬間の本人にはなぜ動くこ とができたたかわからないだろうし、数年後に振り返ってもその理由は自分でもはっきりわからない。 当然、親にもわからない。

 

つまり、「当事者」は語れない。哲学者のスピヴァク が『サバルタンは語ることができるか』のなかでしつこく 語りかけ、僕も当欄で以前述べた通りだ(https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20151012- 00050395/ 「当事者」は語れず、「経験者」が代表する~不登校から虐待まで~)。

 

一方、ソーシャルインパクト評価は、わかりやすい指標を求める。若者支援であれば、就労につながる面談、履 歴書の書き方講座への参加、就労実習の体験、実際のアルバイト体験等、目に見えてわかりやすい「成果」をそ れは求める。 だが、地域若者サポートステーションを訪れる若者のうち、どれだけがそうした「成果」と結びつくだろう。年 間 1 万数千人の社会参加した数と、60 万人とも 70 万人とも言われるニート・ひきこもりの数のギャップが、 その成果の虚しさを示す。

 

が、行政予算削減=小さな政府化が主目的の新自由主義=ソーシャルインパクト評価からすると、ニート数削減 の実態よりも、「行革しながら成果を少しでも出す」ことが重要だから、皮肉なことに成果数自体は二次的にな る。

 

■ニッチ=傍流

 

成果を求められながらそこそこの数でもいいこの「ゆるさ」「軽さ」は、NPO の支援の水準もゆるめに落として しまう。


また、こうしたソーシャルインパクト評価に群がる NPO たちは、子ども支援のなかでは「傍流」に位置してき た。それは、学習支援、塾クーポン配布、高校生の「語り合い」等、それなりに評価はされてきたが、虐待や貧 困への個別ソーシャルワーク支援という支援主流からすると、あくまで「傍流」だった。

 

その「傍流」度合いが、NPONPO として魅力的にしていた。傍流=ニッチこそが、NPO の特徴であり、そ こから生まれたのが子ども食堂であり、学習クーポンであり、高校生の語り合い事業だったのだ。

 

それらの脆弱さをいまさら嘆いても仕方ないが、個人情報守秘の厳格さが行政に求められ、そうした情報の取扱 いが行政内で大議論になっており(児童虐待問題における警察と児童相談所の情報「全件」共有等)、そう言われ ながらもたとえば「生活保護」行政セクションにおいてはいわば素人的担当者が数年ごとに移転配置される現在、 相対的に行政が弱くなった。

 

貧困支援でいうと、個人情報をもとに関係機関が個別ケースに応じて柔軟にケースワーク支援する行政の動きが 見えない。素人担当者が、個人情報漏洩をなによりも恐れ、それの応用を組織全体で示し現場を守ることができ にくい。


個別ソーシャルワークがいま、揺れているのだ。

 

そのとき、現れてきたのが、これまでニッチだった NPO だと僕は捉えている。 まったく現実的ではない「警察と児相の情報全件共有」の提案などは、ニッチ=半分素人の案だと僕は思ってい る。

 

もっというと、支援の最前線で唐突に訪れる「死」を、それらニッチたちはたぶん知らない。そうしたシリアス さを知らないことの朴訥さがこれまで彼女ら彼らの微笑ましい特徴だったが、個別ソーシャルワーク(行政)が 相対的に低下した今、そうした朴訥さは、たとえば「全件共有」のような非現実的(だが一部権力からするとあ りがたい)な無邪気な提案となって示される。

 

ニッチ/傍流のかわいさがいつのまにか引っ込み、権力の美味しさをすっかり味わい始めている。その結果、真 の当事者(たとえば虐待サバイバーや高齢ひきこもり)が潜在化し、「ジンケン」という言葉の意味が漂流してい るようだ。

数が「ソーシャルインパクト」か?~支援なんて、結局は「偶然の他者との出会い」

タイトル: 数が「ソーシャルインパクト」か?~支援なんて、結局は「偶然の他者との出会い」

公開日時: 2018-09-11 19:54:34

概要文: 「あの『ひきこもり 10 年』の若者が、こう『自立』するなんて」と、実際に「結果」を導いた要素 は、コア当事者になればなるほど「数値化」は難しい。 支援なんて、結局は「偶然の他者との出会い」なのだ。

本文:

 

■いつからだろう

僕は、ひきこもり/ニート不登校の支援をしてはや 25 年になる。 が、いつからだろう、「支援の成果」として、たとえばひきこもり/ニートであれば、就労や就労実習に至った数 や、そこまでは至らなくとも就労に至るまでのモチベーションが形成されたか否かという、ある種の成果指標が、 支援の意味あるいは支援の実績として評価されてきたように感じていた。

 

それはそうだろう、若者の(あるいは不登校の)支援をするための予算の大元は税金にさかのぼる。その血税を つかってまで行なう支援については、「目に見える」成果を出して報告する必要がある。

 

だから、たとえば地域若者サポートステーションや各自治体で行われる若者への就労支援事業に関して、その事 業内で「いかに就労へのモチベーションが形成されたか」「何人の若者が就労に向かうためのセミナーを受講で きたか」「何人がアルバイトできたか」という、目に見える数字としての成果を厚労省が、あるいは行政が求める ことは仕方ないと思ってきた。

 

が、そうした成果指標至上主義、「数字」絶対主義は、どうやらさらにウラの論理があるようだと気づいたのは、 ここ 1 年のことだ。

 

■「行政」の台所と組織事情

 

たとえば「就労」に関して、一人でも多くの若者が就労(正社員化)することで、年金や健康保険の社会的コス トが軽減されて財政は楽になる。という視点を持つのは、あくまでもそのコストを「コスト」として捉えざるを えない、行政の視点だ。 また、そのための支援を民間に委託して行政本体の人件費を節約して楽になるのは、これまた行政自身の視点だ。

 

このような視点、財政と人件費のコスト削減が、若者への「支援の成果」を求める立場にも含まれているらしい。 どうやら、子ども若者支援への「数」を求める姿勢は、目の前で困っている当事者たちへの支援も当然含まれる が、そのウラには、支援するお金を拠出するこの場合「行政」の台所と組織事情が大いに関係しているようだ。

 

そして、行政の財政と人件費の節約とは、そういえばよく考えると、「新自由主義」として括られるものではない か。

と僕が気づいたのもつい 1 年前。


30 年も昔の大学経済学部時代、おもしろ半分に受けていたケインズ経済学とその反対のフリードマン等の新自 由主義経済学を、久しぶりに思い出したのであった。

 

劣等生の僕は詳細までは忘れてしまったけれども、フリードマンが小さな政府を提唱し、その結果としてアメリ カでレーガノミクスが現れたのは鮮やかに覚えている。その流れから、日本にもバブル崩壊以降に輸入され現実 化されている。

 

■現場は、数字をひねり出す

 

それら新自由主義経済学は、とにかく「小さな政府」を目指し、行政の予算の節減を標榜し、結果としてケイン ズ主義とは反対の、多くを民間に任せる「自由」を標榜したはずだ。

 

だからそれは、「支援」とは関係ないはずだ。

 

また、「休眠預金」的な眠れる莫大なおカネを合理的にやりくりする政策や、「ふるさと納税」のような地方創生 に役立つリベラルっぽい視点や、そして、若者の就労支援のようないかにも福祉的な政策とも関係ないはずだ。

 

だが、行政の財政の有効利用と人件費削減という視点でくくる時、それらは新自由主義の実践形として示すこと が可能のようだ(http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/2282 「休眠預金」の運用めぐり、NPO が緊急集 会)。

 

悲惨なのは、「数の成果」を求められそれを日々提出するために自らの日々の実践を「数値化」することに頭を捻 る、現場の若手スタッフたちだ。 現場は、とにかく目の前の当事者をなんとかしたいために、それらの数字たちをひねり出している。

 

■「ソーシャルインパクト」は偶然の要素が強い

 

だが現実の若者支援は、そうした「数字」にはなかなか現れない。


ひきこもりの若者の「社会参加」は 10 年単位の時間がかかり、多くは複数の支援機関をまたいでいく。

 

それら複数の支援期間は、新自由主義的「ソーシャルインパクト評価」が求めるような「ステークホルダー」た ちにまとめられることはなく、ひきこもったりボランティアしたりぶらぶらするなかで頼っていった複数の支援 機関が担う。

 

それら複数の支援期間は、ソーシャルインパクト評価が設定しているようなネットワーク組織には収まらず、そ の組織の外側にあるボランティア団体が担ったりする。


ひきこもりの若者にとって、10 年単位で出会い、結果として社会参加に役立った各組織は、最初から社会が「イ ンパクト」を出すために用意していたものではない。

 

それらの組織体との出会いは、あくまで偶然だ。

 

10 年単位の時間の流れのなかで、たまたま出会い、たまたま優しくしてもらい、たまたまその意気に応じても いいかな、と思ってしまった。


すべては「偶然の出会い」の結果なのだ。

 

僕が見ている限り、「ソーシャルインパクト」と呼ばれるようなある種の「結果」は、かなり偶然の要素が強いも のだ。

 

「まさかあの『ひきこもり 10 年』の若者が、こんなかたちで『自立』することになるなんて」と、実際に「結 果」を導いた要素は、コア当事者(ここでの事例ではひきこもり)になればなるほど「数値化」は難しい。 支援なんて、結局は「偶然の他者との出会い」、人が変わる契機なんて、そんなものだろう?

 

だから、ソーシャルインパクト評価、あるいは数字の絶対主義は、支援の本質、人間が偶然の他者との出会いに よって徐々に変わっていくそのおもしろさを隠蔽してしまう。 そんな、「人間が変わることのおもしろさ」を、現在の成果求道主義のこの社会は押しつぶす。

 

 

復活「劣化する支援/NPO」〜イデオロギー、サバルタン(当事者)、商業主義、技術の劣化

10/16に「劣化する支援/NPO」が4年ぶりに復活し、配信形式でしたが、西成高校校長・山田勝治先生とともに以下の点を話し合いました。

 ※

ソーシャルセクター業界で起こっている「劣化」現象には、以下の4点が背景にあると考えます。


それらは、

①リアリズムvs.イデオロギー

サバルタン(語れない当事者)の代弁と代表⇄ /紋切り型の広報

③商業主義の偽善性

④技術と評価の劣化(キラキラNPOはここ)

等々です。


ここに含まれる「劣化」ポイントは、

①では、イデオロギーの優越性
②では、サバルタンの潜在化と、当事者への想像力の不足
③では、社会貢献で隠した金儲け主義
④では、現場を詳細に見ることができない

となります。

 

 ※

 

そして、この「劣化する支援/NPO」企画に反発する人々は、①〜④に自覚的でない人々のようです。

具体的には、

①自らの左翼性ほかに無自覚
②「従来のマイノリティ」への焦点化だけで時間が止まっている。それは「マイノリティ代表」を生み出し、その代表が自身のマイノリティ性を語ることで、「語れない当事者/」が潜在化する。マイノリティの掘り下げが、事業の曖昧化を生じさせるアポリア
③商業的「おいしさ」を隠す
④紋切的「弱者」を信じる

等の表現でまとめることができます。

逆に言うと、上の①〜④に自覚的になれば、「劣化」の進行を止めることができる、ということになります。

 ※

そして以下は、「ポスト劣化」に向けての提言です。

「劣化」したNPOが、自らの劣化を乗り越えるため(あるいは劣化していないNPOがさらに輝き続けるために)のヒントですね。

それらは、

①リーダーが「自分の哲学/思想」を持つこと
②スタッフがそれに共鳴すること
サバルタン(潜在化する当事者ex.子ども)に常に光を当てること。と同時に、「サバルタンは語れない」ことの難点について、常時語ること
④商業主義を隠さないこと(「倫理的なビジネス」が劣化を防ぐ)
⑤ファンを騙さないこと(④の言い換え)
イデオロギーではなくリアリズムに徹すること
⑦法人ミッションと事業コンセプトを貫くこと
⑧「技術」を常に磨くこと
⑨小さな組織であること(①〜⑧を貫徹させるため)

 

11/23の劣化続編「我々は当事者を語ることができるか」ではこの①〜⑨にも言及し、中でも③の困難さを平易に説明したいと思います😀

 



 

「私怨フェミニズム」の呪縛にかかった普通の女たち

 

「私怨フェミニズム」の呪縛にかかった普通の女たち

■私怨/昭和フェミニズム

 

共同親権運動を推し進めている人たちから時々聞くのだが、単独親権の思想的背景であるフェミニズムを「敵」に回すことは運動としては得策ではないらしい。

 

僕は自称フェミニストで、マイフェイバリット論文はスピヴァクの「サバルタンは語ることができるか」(みすず書房)なのだが、この1年ばかりは「私怨/昭和フェミニズム」を批判してきた。

 

それはこのエッセイ(「私怨フェミニズム」の罪)でも表現した。ここでのこんな一文は、従来の「私怨/昭和フェミニズム」がいかに真の当事者(サバルタン)である子どもの声を隠蔽し、その思想自体が新たなマイノリティ問題(子どもの連れ去りや虚偽DV)を産み出すかを訴えようとしている。

 

 

「女性」に焦点化するあまり、家族内の真の当事者である「子ども」が潜在化されている(「離婚技術」としての虚偽DVと、子どものアブダクション/拉致の蔓延。その結果、子どもと「別居親」との関係が疎遠になる)

(略) 

 このように、軽口で「私怨」を語り、その恨みを「男」や「男社会」に縮約する「私怨フェミニズム/昭和フェミニズム」には、令和2年現在、大きな「責任」が生じている。

 

それは、カネを握り、メディアを制し、行政施策に大きな影響を与えているからだ。

つまり、「女性」は未だに性暴力被害を受けながらも、同時に「権力」にもなっている。男性はもちろん今も権力ではあるが、女性は「第2権力」になっている。

 

私怨/昭和フェミニズム(これに関してはこの記事も参照〈母権優先-昭和フェミニズム-単独親権司法〉権力)は、令和の時代、さまざまな悪影響を多方面に及ぼしていると僕は感じる。

 

だが、ある意味こうした「正論」を展開することは、たとえば共同親権という具体的なムーブメントを継続していく時、まったく得策ではないらしい。

 

■普通の女たち

 

それは、どんな理由であれ(たとえば共同親権の法制化運動)、その運動の「敵」として(私怨/昭和)フェミニズムを対立させてしまうと、なんといえばいいのだろう、その私怨/昭和フェミニズムの呪縛にかかった多くの女たちからその運動が排斥されてしまうのだ。

 

排斥までいかなくても、「無言の警戒」のような壁を、その運動(たとえば共同親権の法制化運動)につくられてしまう。

 

そうした動きは僕もよくわかる。僕もここ1年以上共同親権運動に深く関わってきたが、この「無言の警戒」のような壁に何度か当たってきた。

 

僕としては、長らく勉強してきた「臨床哲学」あるいは哲学の方法論に従い、既存の価値を「カッコに入れた」だけなのだが、そこには私怨/昭和フェミニズムの大きく高い壁があった(具体的には単独親権派が持つ権力による反発)。

 

だがその古くてリジッドな私怨/昭和フェミニズムだけならまだマシだった。

 

そこには、その古くてリジッドな思想に囚われた普通の女たちの存在があった。

 

■「私は生きづらい」

 

社会保障費など含め大きく見積もって8兆円、小さく見ても数兆円は硬い女性関連の予算の思想的背景として、私怨/昭和フェミニズムは存在する。上の引用にもあるように、それは立派な「権力」だ。

 

だが、その「権力になった」という事実よりも、身の回りに散見される女性差別に、普通の女たちは苦しんでいる。

 

相変わらず女性差別はある。うっとおしい男たちもオジサンから若者までそこらじゅうに存在する。そうした身の回りの男たちの振る舞いと同時に、社会制度(給与や昇進、産休・育休を含むM字カーヴ問題諸々)や社会規範(ありすぎて書けない)、まさにありすぎて言えないほど女性差別はそこらじゅうにある。

 

だから、8兆円か数兆円か知らないし、上野千鶴子氏のうっとおしさもよくわかってはいるのだが、

 

「私は生きづらい」

 

という事実は変わらない。

 

その生きづらさのために、フェミニズムを批判する議論に対して無意識的に警戒してしまう。

 

その批判されているフェミニズムは私怨であり昭和だとは十分認識している。けれども、自分が日々晒されている差別と天秤にかけると、私怨/昭和フェミニズムがどんなに自己中でも支持せざるをえない。

 

私怨/昭和フェミニズムの欠点は十分知っている。が、それがない世界よりはまだマシだ。

 

という結論により、普通の女たちは「無言の警戒」を行なう。具体的には、私怨/昭和フェミニズム(たとえば上野千鶴子氏)のナンセンスさを理解しながらも、フェミニズムへの批判には敏感になる。

 

現代の日本社会は、この敏感さが一つの世論になっている社会だ。

 

僕としては、一線の共同親権運動家が嘆くように、フェミニズムアンタッチャブルなものとしたくはない。

 

その欠点(私怨と昭和)、その影響力(既存の女性差別を利用した社会的呪縛)を十分言語化し、現代の女たちの不自由さについて言及していきたい。

 

 

 

NPOリーダーは、それを支持する人々の鈍感な欲望の象徴

NPOリーダーは、それを支持す人々の鈍感な欲望の象徴

http://toroo4ever.blogspot.com/2017/12/npo_28.html

■「中流階層NPOスタッフ+支持者の無難な欲望の集約」

昨日「劣化する支援2@静岡」を熱気満々のうちに終えて考えたことは、「劣化」でいつも話題に登るNPOリーダーたちはある種「中流階層NPOスタッフ+支持者の無難な欲望の集約」ということだった。

それはまずは某新聞の旧知の記者さんと話しているうちに気づき始めたことで、その新聞の読者たちは基本的に下流階層の「真の当事者」たちと出会っておらず、NPOリーダーが東京の裕福な区で貧困支援しようがその矛盾にはなかなか気づけないということだ。

NPOリーダーも真の当事者(サバルタン)とトークしたことがないかもしれないが、それを支持する多くの中流階層の人々=某新聞のメイン読者たちも、当事者と出会ったことがない。

新聞やテレビを通して当事者と呼ばれる人々を目撃しているかもしれないが、それは当事者を代表する人々(スピヴァクいうところのインドにおける地方有力者)であり、たとえば「自分たちの貧困のあり方」をことばで表現できたりする。

この、自分の状況を語れる人々は、下流層を代表する(ルプレザンタシオン/表象)人々ではあるが、真の当事者=サバルタンではない。

サバルタンは自分が何者かを「客観的に」語ることが難しい。不登校当事者が自分のことを不登校と名乗ったりラベリングされたりすることを極端に嫌がるように、真の貧困当事者あるいは虐待被害者は、自分が貧困であり虐待被害者だと認識しづらい。

それができるようになるには、自らに刻印された心的外傷をそれなりに突き放して見つめることができるまで時間がかかる。人によっては死ぬまで自分を客観視できない。

■そこがスピヴァクにはもどかしい

こうしたこと(当事者は語れない)は僕はずいぶん長いこと考えてきた。
これに加えて昨日「発見」したのは、サバルタンを代表する元当事者(ひきこもりであれば当事者ではなく「ひきこもり経験者」)の声を集約したり、そうした元当事者/経験者を同情的に支持する周縁の人々の「思い」を上手にまとめるリーダーが発生するということだ。

このリーダーは、元当事者/経験者でもなく支持者でもない。そうした多くの「声」をまとめ、象徴的にそれらの声が集約される人だ。

こうしたあり方(象徴としての運動リーダー)としてスピヴァクが『サパルタンは語ることができるか』の冒頭で例にあげるのが、哲学者のフーコードゥルーズである(あるいはナポレオン3世)。

フーコードゥルーズも悪人ではなくあくまでもマイノリティの側に立って発言しようとする。
けれども彼らがとりあげるマイノリティは、サバルタン的真の当事者ではなく、インドの地域名士的な人々であり、そこがスピヴァクにはもどかしい。

ルプレザンタシオンには「表現/表象」という意味とは別に、「代表/代弁」という意味も含まれ、フーコードゥルーズがマイノリティを代弁する役割を演じつつ、また彼らが見ている対象が真のマイノリティではない、マイノリティを代表する人々であることがスピヴァクの怒りを買う。

ひきこもりであれば、ディーブにひきこもっている人とは基本的にアウトリーチできないが、「経験者」になると出会うことができる。そうした一種の「ひきこもりエリート」だけを見てひきこもり問題全般を語る論者たちに、スピヴァクが再び日本に来日することがあれば大怒りするだろう。

■それを支持する人々の鈍感な欲望の象徴

誰もが知る有力NPONPOリーダーたちには悪意はない。団体の規模を拡大したいという素朴な資本家欲望がある程度だ。

彼らがうっとおしい存在になっているのは、彼ら彼女らという存在を置いて安定する、経験者や支持者の欲望の結果だと僕は気づいた。真の当事者を見ずに問題を語るリーダーの姿は、真の当事者に出会えない(あるいはそこから抜け出した)支持者や経験者にとってとても都合がいい。

そして、規模としては小さな病児保育や総合学習内での自分語りという「無難な事業」も、支持者にとっては都合がいい。また、裕福な区で貧困支援したりするその中途半端さも、スモールパッケージなわかりやすさがある。

決してNPOリーダーたちが鈍感なのではなく、そのある種の鈍感性は、それを支持する人々の鈍感な欲望の象徴なのだと僕は気づいた。

そうした意味で、昨日の「劣化する支援2@静岡」は大収穫だった。(^^)



〈母権優先-昭和フェミニズム-単独親権司法〉権力

タイトル: 〈母権優先-昭和フェミニズム-単独親権司法〉権力
公開日時: 2020-07-08 16:50:40
概要文: 1. 「イエ(家父長制)回帰」を忌避するための母権優先

2.思想としての「昭和フェミニズム
3.上の組織化(日弁連中心)
4.養育費の確保という集金システムの確立

本文:

 

■「共同親権沼」


たまたま「共同親権」を当欄で考察し、その記事に対して「別居親」(離婚したあと親権を剥奪され子どもと別居 する親たち)の方々から予想外の「感謝」(具体的には Twitter 上での「ありがとうございます」や「いいね」) をいただいたことから、僕はある意味「共同親権沼」にどっぷりつかっている。


この沼は最初想像したよりもはるかに深く、日本社会の課題に光を当てることのできる、多くの問題系を内包し ている。


日本社会の課題とは、「単独親権」のもとに日常的に起こる、虚偽 DV や「子ども拉致」の問題だ。


その一つひとつに対して、当欄ではこれまでこまめに考察してきた。


「虚偽 DV」であれば、このhttps://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20200425-00175144/ 虚 偽 DV は 、 「 昭 和 フ ェ ミ ニ ズ ム 」 か ら 生 ま れ た https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20200630-00185839/ 「DV 冤罪」~昭和フェミニズ ムの罪記事で考察した。


「子ども拉致」であれば、https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20200619-00184051/ もう ひとつの「拉致被害者家族」~離婚時の abduction記事等で考察した。
単 独 親 権 そ の も の の 問 題 に つ い て は 、 https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20200615- 00183433/ 崩壊した養育費と面会交流が、「単独親権離婚システム」終了の証しで考察している。


ここでの、面会交流がなく養育費のみ求められる問題については、 https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20200626-00185152/ 別れた親は「人間 ATM」では ない~養育費と親子交流で考察している。


この「面会交流」については、ペアレンティングタイムと言い直し、 https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20200412-00172834/ アタッチメントが「ペアレン ティング・タイム」をいざなう~離婚後の「面会交流」ではなくで考察した。


■離婚した母はイエから追い出されることが普通だった

 

これらの問題を支える単独親権や「昭和フェミニズム」すべてが詰まった我が国の離婚システム全体については、 https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20200504-00176800/ 堕落した「離婚システム」な どで考察した。


こう振り返ると、現代日本の離婚に伴う諸問題をだいたい検討してきたようだ。 また、こうして綿密に考察すると、離婚の中で 1~2 割ほどを占めるといわれる(嘉田由紀子参院議員)DV 案 件を除くと(これは警察も入った DV 対応をしていくことになる)、8 割程度を占める多数派の事例のなかに「一 般性」を見出すこともできる。


ただ、一人で考えてもなかなか突破口は見つからないので、知り合いのジャーナリストや共同親権派の弁護士の 方の協力も得て、その「一般性」について考えた。


その結果、現代日本の離婚問題に伴う諸課題について、以下のような答えを導き出すことができた。


{{{:
1. 「イエ(家父長制)回帰」を忌避するための母権優先


2.思想としての「昭和フェミニズム

 

3.上の組織化(日弁連中心)


4.養育費の確保という集金システムの確立 }}}


1.はわかりにくいかもしれない。これから当欄で明らかにしていきたいが、実は日本の弁護士や法曹界はこの「家 父長制への回帰」を最も恐れているという。


日本の単独親権は、現在は母親がその親権を取ることがほとんどだが、戦後の一時期までは、日本独自の「イエ」 が親権を取り(形式的には父親)、離婚した母はイエから追い出されることが普通だった。


現在の母親中心の単独親権は、その追い出された母たちの「人権」を救済することに力点を置いているのだそう だ。


■〈母権優先-昭和フェミニズム-単独親権司法〉権力


この、母/オンナを守る、という点で、「昭和フェミニズム」は絶大な力を果たした。その影響力については、冒 頭のいくつかの引用記事を参照にしてほしい(特に

https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20200425-00175144/ 虚偽 DV は、「昭和フェミニズ ム」から生まれた)。


この、「母権優先」を守ってきたのがこの 30~40 年の法曹界だったという。母権優先から自然と導かれる「単 独親権」を、一部の弁護士だけではなく、日弁連の中心にいる弁護士たちも信奉しているそうだ。


これは驚きである。


そ し て 、 4. の 「 集 金 シ ス テ ム 」 に つ い て は 、 こ の 記 事 https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20200703-00186379/ 増えすぎた弁護士~離婚時の 「子ども拉致」の源泉?に書いた。ある意味、腐敗している。


これら、現代日本社会における錯綜する社会システムの混合に関して、現代権力論を創設した哲学者の M.フー コーであれば、


〈母権優先-昭和フェミニズム-単独親権司法〉権力


とでも呼ぶだろう。

子どもは語ることができるか~「娘は心中に承諾していた」

タイトル: 子どもは語ることができるか~「娘は心中に承諾していた」

公開日時: 2020-10-22 19:46:11
概要文: 子どもは語ることができない。その語れなさに想像力を働かせるのは大人の使命だ。また、その語れ なさの代わりに代弁することも、「昔子どもだった」大人の使命でもある。
本文:

 

親による子どもを巻き込んだ無理心中というのはそれほど珍しくはないが、その行為は最低最悪の 暴力である。

なぜなら子どもは自分の思いを基本的に語ることはできない。

語っているように大人(親)には見えたとしても、 それは大人(親)の願望に即した語りとなる。

なぜなら、子どもは、いちばん身近な大人の欲望に合わせることが、その子どもの「生存戦略」になるからだ。


身近な大人(多くは親)の願望を叶えるよう、自分の発言や考え方を合わせていくことが子どもがその世の中で 生きていく上での基本となる。 要は、親に気に入られることが、その子自身の「いのち」を維持することにつながるということだ。


だから、単独親権下の我が国で、理不尽にも片方の親に拉致/連れ去られた子どもは、その拉致の理不尽に憤る ことは決してなく、拉致した親の考え方にひたすら「合わせて」いくことになる。


具体的には、自分が拉致されて別居することになったもうひとりの親を憎むことになる。
あるいは、親子無理心中を親から迫られた時、子どもは「親が願うのであれば」と、その願いを受け入れてしま う。


自分が次の瞬間、殺されるというのに、目の前の親の願望に寄り添っていく。


最近、そのような事件がまたあった (https://news.yahoo.co.jp/articles/77f2163289660b73622c20f4d8cdac0d88a92921 「娘は心中に 承諾していた」6歳女児殺害、殺人罪の母親弁護側が主張)。

 

ここで殺された子どもは、以下のようなやりとりを親としていたという。


{{{ これに対し弁護側は、萩被告が「死にたい。一緒に死んで」と言うと、凜々ちゃんが「痛くないならいいよ」な どと答えたという母子のやりとりを明かし、犯行時に凜々ちゃんは抵抗せず、外傷もなかったと指摘。萩被告が 夫や交際相手と別れ、働きながらの子育てや将来への不安から毎日の生活に絶望し、心中を考えるようになった と訴えた。 :https://news.yahoo.co.jp/articles/77f2163289660b73622c20f4d8cdac0d88a92921|「娘は心中に承 諾していた」6歳女児殺害、殺人罪の母親弁護側が主張
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「痛くないならいいよ」という子ども。その子どもの言葉をそのまま信じてヘリウムガスで殺した親は、その「子 どもを信じて殺す」という行ない自体が最悪の権力であり最低の暴力であるということを想像できない。


そして子どもは、常に身近な大人の思いに寄り添うために生きている。


そして子どもは、おそらく 10 才頃までは自分の言葉をもつことができない。 それまではほとんどが親の言葉の模倣であり、親に気に入られるために生きている。


言葉をもたない存在、言葉のほとんどは身近な親のそれを真似しつつ自己を形成する存在。その存在は、親が「一 緒に死んで」と頼んだ時、「痛くないならいいよ」以外に、どんな言葉を発することができるだろう?


子どもは語ることができない。その語れなさに想像力を働かせるのは大人の使命だ。また、その語れなさの代わ りに代弁することも、「昔子どもだった」大人の使命でもある。


※みなさま、8 年間続いてきた当欄は今回で終わりとなります。長い間のご支援、ありがとうございました。