tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

子どもは語ることができるか~「娘は心中に承諾していた」

タイトル: 子どもは語ることができるか~「娘は心中に承諾していた」

公開日時: 2020-10-22 19:46:11
概要文: 子どもは語ることができない。その語れなさに想像力を働かせるのは大人の使命だ。また、その語れ なさの代わりに代弁することも、「昔子どもだった」大人の使命でもある。
本文:

 

親による子どもを巻き込んだ無理心中というのはそれほど珍しくはないが、その行為は最低最悪の 暴力である。

なぜなら子どもは自分の思いを基本的に語ることはできない。

語っているように大人(親)には見えたとしても、 それは大人(親)の願望に即した語りとなる。

なぜなら、子どもは、いちばん身近な大人の欲望に合わせることが、その子どもの「生存戦略」になるからだ。


身近な大人(多くは親)の願望を叶えるよう、自分の発言や考え方を合わせていくことが子どもがその世の中で 生きていく上での基本となる。 要は、親に気に入られることが、その子自身の「いのち」を維持することにつながるということだ。


だから、単独親権下の我が国で、理不尽にも片方の親に拉致/連れ去られた子どもは、その拉致の理不尽に憤る ことは決してなく、拉致した親の考え方にひたすら「合わせて」いくことになる。


具体的には、自分が拉致されて別居することになったもうひとりの親を憎むことになる。
あるいは、親子無理心中を親から迫られた時、子どもは「親が願うのであれば」と、その願いを受け入れてしま う。


自分が次の瞬間、殺されるというのに、目の前の親の願望に寄り添っていく。


最近、そのような事件がまたあった (https://news.yahoo.co.jp/articles/77f2163289660b73622c20f4d8cdac0d88a92921 「娘は心中に 承諾していた」6歳女児殺害、殺人罪の母親弁護側が主張)。

 

ここで殺された子どもは、以下のようなやりとりを親としていたという。


{{{ これに対し弁護側は、萩被告が「死にたい。一緒に死んで」と言うと、凜々ちゃんが「痛くないならいいよ」な どと答えたという母子のやりとりを明かし、犯行時に凜々ちゃんは抵抗せず、外傷もなかったと指摘。萩被告が 夫や交際相手と別れ、働きながらの子育てや将来への不安から毎日の生活に絶望し、心中を考えるようになった と訴えた。 :https://news.yahoo.co.jp/articles/77f2163289660b73622c20f4d8cdac0d88a92921|「娘は心中に承 諾していた」6歳女児殺害、殺人罪の母親弁護側が主張
}}}


「痛くないならいいよ」という子ども。その子どもの言葉をそのまま信じてヘリウムガスで殺した親は、その「子 どもを信じて殺す」という行ない自体が最悪の権力であり最低の暴力であるということを想像できない。


そして子どもは、常に身近な大人の思いに寄り添うために生きている。


そして子どもは、おそらく 10 才頃までは自分の言葉をもつことができない。 それまではほとんどが親の言葉の模倣であり、親に気に入られるために生きている。


言葉をもたない存在、言葉のほとんどは身近な親のそれを真似しつつ自己を形成する存在。その存在は、親が「一 緒に死んで」と頼んだ時、「痛くないならいいよ」以外に、どんな言葉を発することができるだろう?


子どもは語ることができない。その語れなさに想像力を働かせるのは大人の使命だ。また、その語れなさの代わ りに代弁することも、「昔子どもだった」大人の使命でもある。


※みなさま、8 年間続いてきた当欄は今回で終わりとなります。長い間のご支援、ありがとうございました。

子どもは利用される

子どもは「脅威」に利用される
公開日時: 2017-05-16 09:59:25
概要文: 子どもや平和や自分の現実的あり方を(理想主義的ではなく)徹底的に思考しないと、少年兵に象徴されるように、「子ども」と「現場」はすぐに利用される。

本文:

 

■「今そこにある危機


先週はずいぶん北朝鮮関係でメディアが騒がしかった。

アメリカがついに武力発動させるとか中国もついに我慢 の限界とか韓国も新大統領でどうなるのかとか、まったくゴルゴ 13 好き「おじさん好み」の話題でありながら (僕も実はほとんど読んでる)、その「脅威」の現実性から、列島を呑み込むほどの話題になっている。


僕は少し前に当欄でhttps://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20170509-00070766/ バーター (抱き合わせ)としての高校無償化という記事を書き、現政権が自らの悲願である憲法 9 条改正を高校無償化 という社民主義的なマターを抱きわせにして乗り切ろうとしているとして、いくぶん皮肉を込めて書いてみた。


野党の弱小化という好材料はあるにしろ、現政権はいまだ 50%の支持を得ている。これはおそらく最近指摘さ れるようになった「消極的容認」なのだろうが、それと同時に、外交の緊張状態という点も含まれるだろう。


「ミサイル」という、小説や映画の中でしか知らない用語が、まさに「今そこにある危機」としてメディアで叫 ばれる。そのとき、理想的平和主義の上に議論を積み重ねてきたリベラルの多くは、その存在感が薄くなる。


ここで皮肉なのは、「バーター(抱き合わせ)」として「子ども」という概念を併設して語ることの有効性だ。こ の平和、この子どもたちの笑顔を守るためには、積極的に安全保障を語る必要があるという指摘に対して、反論 することが難しくなってしまう。


■子どもは「小さな大人」だった


世界では(特にアフリカでは)「少年兵」の問題が語られ、子どもは戦争の被害者どころか「現場の尖兵」として 利用されているエリアもある。

この場合も当然子どもは「被害者」なのではあるが、皮肉なことに、洗脳された 少年兵も戦場では人を殺す。

殺したあと(ハイティーンで)退役し重い PTSD に襲われたとしても、戦場という 現場では加害者ではある。


この場合、PTSD と洗脳の被害者ではあるものの、戦場では子ども兵士は加害者であり、その現場では子どもは「子ども」という概念におさまる人ではなく、

「小さな兵士」「小さな大人」

として扱われる。


産業革命までは子どもは「小さな大人」だった(P.アリエスhttp://www.msz.co.jp/book/detail/01832.html 〈子供〉の誕生 アンシァン・レジーム期の子供と家族生活 L’ENFANT ET LA VIE FAMILLIALE SOUS L’ANCIEN REGIME)のと同じように、現代の戦場でも現場においては子どもは「小さな兵士」だ。


だから現在、戦争の脅威とバーターで子どもという平和を守らなければいけないという思考は、それほど古いも のではなく、おおまかにはここ 200 年ばかりの価値だと思う。

エリアによっては、戦争と子どもは対立概念にはならず、戦争という大きな事象の中に仕方なく巻き込まれる人 間の一部として、子どもは位置づけられてもいる。


つまり、子どもだからといって特別視はできず、戦争という「不思議」というか「人間」を定義する時の一項目 にどうしても巻き込まれてしまう不幸な事象の中の人々の一部として、位置づけられても珍しくはない。


■「子ども=絶対弱者」はラッキー


現在の日本においては、子どもにとってラッキーなことに、子どもは絶対弱者として位置づけられる。

アフリカ の子どもは少年兵にならされるが、日本の子どもは「子ども」として守られる。


哲学的な深いレベルになると、前回ほかで僕が指摘するように、子どもや赤ちゃんは「徹底的に守られるが徹底 的 に 大 人 を 癒 や す 存 在 」 で も あ る ( https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20170510- 00070793/ こども保険の「心地よさ」~責任と正義を超える笑顔と身体の躍動、「守ってあげたい」)。

こうした価値がベースになり、日本の子どもは守られ、その守って当たり前という価値が、外交政策的レベルに おいては、集団的自衛権をもつことの間接的根拠となっている。


これは巧妙ではあるが、多くの日本人の価値を踏まえた保守政権らしいやり方だ。

その巧妙さを受け止 めて対案を出すくらいでないと、現在の野党勢力は劣勢のままだろう。


平和のために子どもをバーターで出してきた権力と渡り合うためには、「子どものための平和」を堅持する現実 的思考と政策を提言できなければ、野党勢力は劣勢のままだ(論理的にはいずれにしろ「9 条改正」 だろう)。


政治からは距離を置いている子ども支援者たちも、それぞれが抱く「脅威と子ども」の考え方を定立しないと、 いつまでも現場に逃げられないと思う。

子どもや平和や自分の現実的あり方を(理想主義的ではなく)徹底的に思考しないと、少年兵に象徴されるよう に、「子ども」と「現場」はすぐに利用される。★

「18 才の父」は逃げる

タイトル: 「18 才の父」は逃げる~貧困と虐待の連鎖をどこで切るか
公開日時: 2016-02-13 13:38:47
概要文: 虐待の連鎖を切断するには、学校のあり方を早いうちから「職業」中心の視点に変え、ハイティーンになって親になったとしても「失業」からは遠くて強い若い親たちを大量育成する。 本文:

 

■若い父は「逃げる」


もちろん全員が全員でもなく、また僕自身が貧困ハイティーン支援とかかわりだしてから日も浅いため一般論に までなりきれないのかもしれないが、10 代出産した若い母のパートナー、つまりその若い父(多くは 10 代)の エピソードを聞いていると、「逃げる」まではいかないにしろ、その不安定さ(仕事が続かない、ゲームやギャン ブルのアディクション等)はある程度は共通しているようだ。


自分の子どもはまだ 6 ヶ月にも満たない場合もあるというのに、その不安定さには驚くばかりだが、貧困ハイテ ィーンのヤングパパたちにはそれこそ「あるある」のようなので、周囲の人々もそれほど驚かない。

「しっかりしろよ」程度の声かけはするかもしれないが、近々訪れるはずの別居→離婚→シングルマザー化→ヤ ングママが新しい彼氏をつくる可能性のリアリティーが強すぎて、現在のハイティーンパパの不安定さはそれこ そ「想定内」のようなのだ。

 

そうして「逃げる」ヤングパパもいれば、そのまま踏みとどまるものの虐待の主役にやるヤングパパもいるだろ う。

虐待が日常化すると当然児童相談所案件となり、子は親から引き離されていく。

そこからまた始まる親と子の物語は、15 年以上あとに子がハイティーンとなり、自分がされたことを今度は「す る側」となって反復される。


こうした「貧困と虐待の連鎖」はお馴染みのものではあるが、誰もがこの連鎖の切断にチャレンジしながらも、 なかなか現実化できていないのが実情だろう。

僕も日々、この連鎖の切断をどの時点で行なえばいいのか考察しているが、そのキーはおそらく「教育」にある と思うようになった。


■「犯人探し」ではなく


1 ヶ月くらい前の当欄でふれたように、「40 才前後のおじいちゃんおばあちゃん」の存在も当然大きい (http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakatoshihide/20160108-00053229/ 「40 才のおじいちゃんおば あちゃん」が子どもの貧困を生む)。

虐待の加害者でもありおそらく被害者でもある 40 才祖父母の立ち位置が、 現在の虐待加害者であるハイティーン父母に大きな影響を与えている。


虐待事件では背景化してしまっている、連鎖の直接的原因でもある(つまり虐待ヤング父母をつくりだしてしま った)これら 40 才祖父母への介入をいかに行なうかが、ヤング父母の精神的変化にも影響するとは思う。


そのことが結局は、現在の最大の被害者である乳幼児を守ることにもつながることにはなるだろう。だから、こ れら「40 才前後のおじいちゃんおばあちゃん」の存在を、周囲の者は決して忘れてはいけない。


が、この発想ではどうしても「犯人探し」の色合いを帯びてしまう。

犯人を探し虐待連鎖を切断する(虐待加害 者を特定し更生させ、その加害者をつくりだした祖父母へのアプローチも常時行なう等)発想は、まさにイタチ ごっこであり、支援側が燃え尽きる。


具体的には、児童相談所職員のバーンアウト現象は、いっときの看護師のそれをこれからはるかに上回るだろう。

看護師は、看護学の中に「バーンアウト」が織り込まれているほどの伝統ある支援の専門職でもある。

これに対 して児相職員は普通の公務員が多いそうだから、バーンアウトの意味が自覚できないままバーンアウトととなり 鬱をかかえ退職していく。そんな人、すでに全国に大量にいるのではないか。


■中学から「職業訓練」を


虐待連鎖の当事者たちに対して、虐待事象のあとにアプローチする「支援」的組み立ててではイタチごっこにな り、連鎖はなかなか防ぎきれない。


やはりここは「教育」、つまりはハイティーン親たちができるだけ夫婦関係を円満に維持し、「18 才の父」が逃げなくていいようなシステムの中にヤング親たちを組み入れることが重要だと思う。


それは要するに、中学あたりから「職業訓練」のレールへと、希望する子どもたちを乗せてしまうことだ。 小学校の教育を終え中学に入った時、10 代後半からは社会人として安定的に継続できるようにするために、「使 える」職業訓練を伝達する。


具体的には、日本の 70%を超えるサービス業内において、大学教育でないとわからないような専門知識ではな く、本当にすぐに「現場」(たとえばホテルの接客等)で使えるような技術を中学のうちから実践的に学ぶ。


そのためにはカリキュラムから単位構成からクラス単位から教員のあり方(知識や組織)から学校の建物構造ま で、それこそすべてに手を入れなければいけないだろうが、これは十分やる意味はあると思う。


■「大学の多さ」解消も


虐待連鎖の切断だけではなく、現在の日本の最大問題の一つだと僕が思う「大学の多さ」の解消にもつながるか らだ。 入り口の数が多く(大学)出口の数は以前と同じ(求人数)という、日本のいびつなシステムが、女性や若者の 職業参入を塞いでいるといわれる。


これを変えるには、正社員システムに「短時間低賃金正社員( L 型社員)」を導入するなどとして「下」に開き (個人的には嫌いな発想だが、低いレベルで世界賃金統一というグローバリゼーションの動きには逆らえない)、 非正規雇用の「エリート」として契約や派遣を位置づける等して雇用側も変化する必要はある。


が、なんといっても、あまりにも多くなってしまった大学と、あまりに高くなってしまった「進学率(浪人や専 門学校を入れて 70%を超える)」のために、従来型の大学生ばかり支給される企業側の変化のスピートがついて いけない。


10 代の教育システムの多くに、実践的「職業」の観点が入っていない。

このことが、10 代からの職業育成のコ ースがつくられていないことにつながる(だから若者たちは現在、実践的サービス業スキルをアルバイト体験の 中でしか学べない)。


奨学金のも問題なども、要はこうした動きが底辺にある。


話が膨らんでしまった。 虐待の連鎖を切断するには、学校のあり方を早いうちから「職業」中心の視点に変え、ハイティーンになって親 になったとしても「失業」からは遠くて強い若い親たちを大量育成する。

それによって、母のシングルマザー化を防ぎ、若い父の「逃亡」も防ぎ、それによりステップファミリー化と新 家庭内での虐待も防ぐ、このようなサイクルをつくるしかないと僕は思う。

 

そのために、10 代から実践的な「仕事」を身につけること。これは、少子高齢社会での、若者の新しい生き方に もつながるはずだ。★

「18 才の父」は逃げる

タイトル: 「18 才の父」は逃げる~貧困と虐待の連鎖をどこで切るか
公開日時: 2016-02-13 13:38:47
概要文: 虐待の連鎖を切断するには、学校のあり方を早いうちから「職業」中心の視点に変え、ハイティーンになって親になったとしても「失業」からは遠くて強い若い親たちを大量育成する。 本文:

 

■若い父は「逃げる」


もちろん全員が全員でもなく、また僕自身が貧困ハイティーン支援とかかわりだしてから日も浅いため一般論に までなりきれないのかもしれないが、10 代出産した若い母のパートナー、つまりその若い父(多くは 10 代)の エピソードを聞いていると、「逃げる」まではいかないにしろ、その不安定さ(仕事が続かない、ゲームやギャン ブルのアディクション等)はある程度は共通しているようだ。


自分の子どもはまだ 6 ヶ月にも満たない場合もあるというのに、その不安定さには驚くばかりだが、貧困ハイテ ィーンのヤングパパたちにはそれこそ「あるある」のようなので、周囲の人々もそれほど驚かない。

「しっかりしろよ」程度の声かけはするかもしれないが、近々訪れるはずの別居→離婚→シングルマザー化→ヤ ングママが新しい彼氏をつくる可能性のリアリティーが強すぎて、現在のハイティーンパパの不安定さはそれこ そ「想定内」のようなのだ。

 

そうして「逃げる」ヤングパパもいれば、そのまま踏みとどまるものの虐待の主役にやるヤングパパもいるだろ う。

虐待が日常化すると当然児童相談所案件となり、子は親から引き離されていく。

そこからまた始まる親と子の物語は、15 年以上あとに子がハイティーンとなり、自分がされたことを今度は「す る側」となって反復される。


こうした「貧困と虐待の連鎖」はお馴染みのものではあるが、誰もがこの連鎖の切断にチャレンジしながらも、 なかなか現実化できていないのが実情だろう。

僕も日々、この連鎖の切断をどの時点で行なえばいいのか考察しているが、そのキーはおそらく「教育」にある と思うようになった。


■「犯人探し」ではなく


1 ヶ月くらい前の当欄でふれたように、「40 才前後のおじいちゃんおばあちゃん」の存在も当然大きい (http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakatoshihide/20160108-00053229/ 「40 才のおじいちゃんおば あちゃん」が子どもの貧困を生む)。

虐待の加害者でもありおそらく被害者でもある 40 才祖父母の立ち位置が、 現在の虐待加害者であるハイティーン父母に大きな影響を与えている。


虐待事件では背景化してしまっている、連鎖の直接的原因でもある(つまり虐待ヤング父母をつくりだしてしま った)これら 40 才祖父母への介入をいかに行なうかが、ヤング父母の精神的変化にも影響するとは思う。


そのことが結局は、現在の最大の被害者である乳幼児を守ることにもつながることにはなるだろう。だから、こ れら「40 才前後のおじいちゃんおばあちゃん」の存在を、周囲の者は決して忘れてはいけない。


が、この発想ではどうしても「犯人探し」の色合いを帯びてしまう。

犯人を探し虐待連鎖を切断する(虐待加害 者を特定し更生させ、その加害者をつくりだした祖父母へのアプローチも常時行なう等)発想は、まさにイタチ ごっこであり、支援側が燃え尽きる。


具体的には、児童相談所職員のバーンアウト現象は、いっときの看護師のそれをこれからはるかに上回るだろう。

看護師は、看護学の中に「バーンアウト」が織り込まれているほどの伝統ある支援の専門職でもある。

これに対 して児相職員は普通の公務員が多いそうだから、バーンアウトの意味が自覚できないままバーンアウトととなり 鬱をかかえ退職していく。そんな人、すでに全国に大量にいるのではないか。


■中学から「職業訓練」を


虐待連鎖の当事者たちに対して、虐待事象のあとにアプローチする「支援」的組み立ててではイタチごっこにな り、連鎖はなかなか防ぎきれない。


やはりここは「教育」、つまりはハイティーン親たちができるだけ夫婦関係を円満に維持し、「18 才の父」が逃げなくていいようなシステムの中にヤング親たちを組み入れることが重要だと思う。


それは要するに、中学あたりから「職業訓練」のレールへと、希望する子どもたちを乗せてしまうことだ。 小学校の教育を終え中学に入った時、10 代後半からは社会人として安定的に継続できるようにするために、「使 える」職業訓練を伝達する。


具体的には、日本の 70%を超えるサービス業内において、大学教育でないとわからないような専門知識ではな く、本当にすぐに「現場」(たとえばホテルの接客等)で使えるような技術を中学のうちから実践的に学ぶ。


そのためにはカリキュラムから単位構成からクラス単位から教員のあり方(知識や組織)から学校の建物構造ま で、それこそすべてに手を入れなければいけないだろうが、これは十分やる意味はあると思う。


■「大学の多さ」解消も


虐待連鎖の切断だけではなく、現在の日本の最大問題の一つだと僕が思う「大学の多さ」の解消にもつながるか らだ。 入り口の数が多く(大学)出口の数は以前と同じ(求人数)という、日本のいびつなシステムが、女性や若者の 職業参入を塞いでいるといわれる。


これを変えるには、正社員システムに「短時間低賃金正社員( L 型社員)」を導入するなどとして「下」に開き (個人的には嫌いな発想だが、低いレベルで世界賃金統一というグローバリゼーションの動きには逆らえない)、 非正規雇用の「エリート」として契約や派遣を位置づける等して雇用側も変化する必要はある。


が、なんといっても、あまりにも多くなってしまった大学と、あまりに高くなってしまった「進学率(浪人や専 門学校を入れて 70%を超える)」のために、従来型の大学生ばかり支給される企業側の変化のスピートがついて いけない。


10 代の教育システムの多くに、実践的「職業」の観点が入っていない。

このことが、10 代からの職業育成のコ ースがつくられていないことにつながる(だから若者たちは現在、実践的サービス業スキルをアルバイト体験の 中でしか学べない)。


奨学金のも問題なども、要はこうした動きが底辺にある。


話が膨らんでしまった。 虐待の連鎖を切断するには、学校のあり方を早いうちから「職業」中心の視点に変え、ハイティーンになって親 になったとしても「失業」からは遠くて強い若い親たちを大量育成する。

それによって、母のシングルマザー化を防ぎ、若い父の「逃亡」も防ぎ、それによりステップファミリー化と新 家庭内での虐待も防ぐ、このようなサイクルをつくるしかないと僕は思う。

 

そのために、10 代から実践的な「仕事」を身につけること。これは、少子高齢社会での、若者の新しい生き方に もつながるはずだ。★

ポリティカル・コレクトネスの矛盾

タイトル: ポリティカル・コレクトネスの矛盾~「子どもの権利」は正しいが全員から支持されない
公開日時: 2016-12-06 10:50:53
概要文: マイノリティや社会の潜在的問題を代弁・代表することは必要だ。
だがそれが「よいこと」となった時、その運動をしないものが「悪いもの」として排斥されてしまう。それはま さにオートマチックに起こる運動。
本文:

 

■プロレスとトランプ


今回のアメリカ大統領選でのヒラリーの敗北は、すべてのマイノリティ支援運動に大きな問いを投げかけている。

当選者がトランプ氏なだけに氏の個性や主張をアメリカ国民は支持したと思いがちなのだが、多くの記事をチェ ックするうち、今回は総合的に「ヒラリーの敗北」あるいは「ヒラリーに代表されるポリティカル・コレクトネ ス(社会的公平さ)の敗北」であると僕は確信した。


た と え ば こ の 記 事 等 ( [https://www.buzzfeed.com/bfjapan/the-new-

counterculture?ref=mobile_share&utm_content=buffera9416&utm_medium=social&utm_source=fa cebook.com&utm_campaign=buffer&utm_term=.fcRw8Q4pp#.klV5odrjj トランプ氏を支持した「物言わ ぬ多数派」の学生たち])、いま出ている夥しい数の選挙論評を参照してほしい。

この頃は徐々に「ポリティカル・コレクトネス」に対する息苦しさ・物言えなさが、トランプに代表される「適 当だがタテマエではないホンネが見える」議論へと近づいていることを示している。


トランプの手法にはプロレスのそれと比較される (http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20161111/TokyoSports_615885.html “暴言王”トラ ンプの原点はプロレスのWWE)。

引用した記事だけではなく、いくつかのエッセイや記事が、トランプ現象と プロレスの「筋書きのあるバトル」やバトル前後のマイクパフォーマンス等に言及しており、そこに含まれる嘘 とホンネを人々は楽しんでおり、そのこととトランプ当選は同じ地平にあるというのだ。


確かに僕も長らくアントニオ猪木ファンだったので、この「嘘とホンネのエンターテイメント」の魅力のほうが、 ヒラリー的というか「プライド」(ちょっと古いかな)的真剣なバトルよりも「人間味」があって好きになってし まう、というのはわかる。

現在、女性を中心とした新しいファンを獲得して、プロレス人気が蘇ったこともなん となく納得している。

プライド的チョークスリーパー(ワザは正統だがその正統さを理解しなければ何やってるのかわからない)より は、猪木的まんじ固めのほうが「嘘だけど本当」っぽい。


プライドは結局消え去り、プロレスは復活している。この、「嘘だが人間っぽい」という点を押さえた言説でなけ れば、人々を息苦しくさせるようだ。

ポリティカル・コレクトネスは、本当だけれども「人間」「嘘」「余白」を楽しむ余裕がなく、その正統さが多く の人々を遠ざける。


■「子どもの権利」が正しいことは誰もが知っている


僕の仕事の分野でいうと、「子どもの権利」が正しいことは誰もが知っている。

そして「いじめ」もダメだし児童 虐待も当然ダメだ。学校の硬直的なあり方も広く共有されているだろうし、未熟な教師がたくさん世の中にはお りそれらが日々ミスっている(いじめ扇動等)ことも広く知られている。


だからこれらリジッドな(堅い)教育制度に対して、「子どもの権利を守ろう」と、主としてリベラル的な人々は 声をあげてきた。

僕もそこに含まれ、20 代は教育・医療問題の編集者として、30 才以降は現場支援者・NPO 代 表として「子どもの人権」を守るために仕事をしてきたつもりだ。


が、編集者時代からいつも直感的にではあるが思っていたのは、「声高に『子どもの人権』を唱えても案外人々は ついてきてくれない」ということだった。

一部の人々(リベラルや人権的運動の実践者)は当然ついてきてくれる。だがそれはいつも多数にはならない。

かといって人々の多くが子どもの人権を否定しているかというとそうではなく、子どもの人権は大切だけれども学習会に参加するほどのモチベーションはないという人々が一定割合いた。


僕が体験したものとはまったく規模は違うが、今回のアメリカ大統領選でも、ヒラリーに「投票しなかった」人々 が、前回の「オバマには投票した」人々よりも上回ったことがポイントだったと言われる。

いわばこの 8 年間は、 オバマの人間的魅力がポリティカル・コレクトネス的堅さをフォローしてきたものの、「ヒラリーという『公平 さ』の典型的堅い人物」には票は集まらなかった。


だからこそ、ポリティカル・コレクトネスは負けた。言い換えると、だからこそ、ポリティカル・コレクトネス だけを前面に出すとはなぜか人々は離れることが鮮明になった。


■それは「善悪の倫理」とくっついているから


ポリティカル・コレクトネスがなぜ「堅い」かというと、それは「善悪」の倫理とくっついているからだと僕は 考える。


マイノリティや社会の潜在的問題を代弁・代表することは必要だ。 だがそれが「よいこと」であるとなった時、その運動をしないものが「悪いもの」として自動的に排斥されてし まう。

それはまさにオートマチックに起こる運動であって、運動をしないものは倫理的というほど大げさに悪く はないのだが、「する人=良い人」の反対に「しない人=悪い人」というある種の概念操作が行われる。


その概念操作は誰が運転しているわけでもないのだが、事を「善悪」の基準で判断する時、我々人間がどうして も思考してしまう自動運動であり、その強制的自動運動こそが我々人間にどうしてもつきまとう「倫理(エシッ クス)」が引き起こしてしまう限界点だ。


またこれがややこしいのが、そうした善悪基準からの排除の背景に「良心」的ヒューマニズムがあるということ だ。

良心やヒューマニズムがあるため、ポリティカル・コレクトネスに乗っている人もその堅さや狭さを自覚で きないし、そこに乗り切れない人もポリティカル・コレクトネスを正面から批判しきれない。

その良心は誰にも責めることはできず、「よいこと」であり、ここにもまた堅さが存在する。


この立場(良心をペースにした善悪基準を土台にするポリティカル・コレクトネス)にいったん立ってしまうと、 人々は単純になるようだ。

単純になると、人は「プロレス」が理解できなくなる。

その「嘘」や「余白」や「筋 書きというエンタメ」を、間違っているもの=悪いものとして一方的に断罪したくなる。


嘘や筋書きも人間だし、正しさも人間だ。が、正しさのほうにだいぶ「善悪」が存在する。そして嘘や筋書きの ほうに、最近は「自由」が存在するようだ。


■トランプは漁夫

 

おもしろいのは、右的存在だといわれる「2 ちゃんねらー」の多くは実は中道・常識派だったりする。

元ひきこ もりの元若者たちも 2 ちゃんな人は多く、「ポリコレな人々」が大嫌いだったりするものの、僕の知っている 2 ちゃんねらーたちは心優しい青年たちであり、アンチ左翼ではあるがヒューマニストだったりする。


そう、市井のたくさんのヒューマニストたちをポリティカル・コレクトネスは吸収できなかった。

人間は、道徳の教科書通りに生きているわけではなく、堅いイデオロギーからも自由な存在だ。

この自由さを求 める多くの人が現代では保守主義と結びつき(日米欧)、2 ちゃんねらーは日々一見右っぽいことをネットに書 き込む。


反対側では、マイノリティの自由を求めるポリコレな人々が結果として堅い思考に捉えられ、非公式な場でそう でない人々から距離をとられる。

その結果、日米欧とも保守勢力が「漁夫の利」を得ている。トランプもたぶん 漁夫なのだ。


また「社会貢献というコレクトネス」を条件とする NPO やソーシャルセクターもこれは避けられない問題だが、 多くのソーシャルセクターはまだ気づいていない。

それは、ソーシャルセクターたちがポリティカル・コレクト ネス王道を走っていることでもある。★

エグザイルは貧困の怒りを代弁しない

タイトル: エグザイルは貧困の怒りを代弁しない~NHK 女子高校生「相対的貧困」番組問題

公開日時: 2016-09-03 11:44:03
概要文: その結果、無難なエグザイルのことばは、アンダークラス若者の「気持ち」を無難な世界として閉じ 込める。現実の貧困アンダークラス若者はもっとセンシティブだったり暴力的だ。

本文:

 

■湯浅氏と藤田氏の解説


NHK の貧困女子高校生番組は反響を呼び、バッシングも擁護も含め、結局は「相対的貧困」について理解が進 んだと僕は解釈している。

擁護しつつ冷静に解説したのはやはり湯浅誠氏で (http://bylines.news.yahoo.co.jp/yuasamakoto/20160831-00061633/ NHK 貧困報道”炎上” 改めて 考える貧困と格差)、氏は大学の先生になってしまい微妙に心配していたものの、最近はやっと「前線」に戻っ てきたようだ。


また、藤田孝典氏の解説も明晰であり (http://mainichi.jp/premier/business/articles/20160830/biz/00m/010/005000c 「1000円ランチ」 女子高生をたたく日本人の貧困観)、湯浅氏と藤田氏の擁護解説を読めば、この問題のポイントは理解できる。 念のため、湯浅氏の末文を引用しておこう。



今回の NHK 貧困報道“炎上”は、
登場した高校生と番組を制作した NHK が「まとまった進学費用を用意できない程度の低所得、相対的貧困状態 にある」ことを提示したのに対して、
受け取る視聴者の側は「1000 円のキーボードしか買えないなんて、衣食住にも事欠くような絶対的貧困状態な んだ」と受け止めた。
そのため、後で出てきた彼女の消費行動が、 一方からは「相対的貧困状態でのやりくりの範囲内」だから「問題なし」とされ、 他方からは「衣食住にも事欠くような状態ではない」から「問題あり」とされた。 いずれにも悪意はなく(高校生の容姿を云々するような誹謗中傷は論外)、
行き違いが求めているのは、 衣食住にも事欠くような貧困ではない相対的貧困は、許容されるべき格差なのか、対処されるべき格差なのか、 という点に関する冷静な議論だ。 そしてその議論は、どうすればより多くの子どもたちが夢と希望を持てて、より日本の発展に資する状態に持っ ていけるか、という観点でなされるのが望ましい。 その際には、高度経済成長を経験した日本の経緯からくる特殊性や、格差に対する個人の感じ方の違いを十分に 踏まえた、丁寧な議論が不可欠だ。


 

■文化のシャワーを小さい頃に浴びないことには、発信できない

 

この結論を読めば今回の騒動の大筋は理解できるが、そのことと、「相対的貧困」当事者の声をどう伝えるか、どう「代弁」するかは別問題である。


相対的貧困者は 6 人に 1 人になっているが、その 2,000 万人の人々は、残念ながらほとんどが自らの気持ちや 状態を発信できない。


これは、貧困に伴う学習不足や、貧困の結果生じる児童虐待から陥った発達の遅れ等の原因が考えられるが(た とえば杉山登志郎医師の「第四の発達障がい」や、ライター鈴木大介氏の「脳障害と貧困記事」 http://toyokeizai.net/articles/-/127404 貧困の多くは「脳のトラブル」に起因している 「見えない苦しみ」ほ ど過酷なものはない等参照)、そうした原因論はまさに最前線の議論だからまだ一般化はされていない。


これらはひとことで言うと、「文化」不足からくる発信能力の低さだ。

貧困家庭や養育環境が原因の低さなので、思春期以降に出会った第三者による「文化シャワー」があったとして もなかなか発信能力は獲得できない(ちなみに僕の本業はこうした「文化シャワー」をハイティーンに伝えるこ と だ → た と え ば こ の 記 事 参 照 http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakatoshihide/20160821-00061345/ 「カルチュラル・シャワー」高校生カフェは 2.0 に~横浜、川崎、大阪のチャレンジ)。


人間の「世界」とは、イコール「ことば」の世界の豊穣さとつながる。

また、ことば(記号)を土台としたさま ざまな「文化」を子ども時代にどれだけ浴びたか、その浴びた文化「量」がそのまま、その人の「世界」の広さ とつながる。


その文化内容に「善悪」はあるとしても、まずは「量」を浴びる必要がある。

ことばと文化をたくさんたくさん 浴び、それらのシャワーから自分に適した価値を選択していく。 その価値に基づいた自分なりの「ことば」が、その人の世界観を構成し、その世界観から自分なりのことば(つ まりはその人の世界観)が発信できる。


まずは、ことばや文化のシャワーを小さい頃に浴びないことには、発信もできない。 その点で、一般的に、紋切りの文化や狭い語彙しかもたない貧困層の世界観は不利だ。


■エグザイルは貧困の怒りを代弁しない


だからこそ、貧困層が愛する「文化」が、そうした多様なことばや価値をもつ必要があるのだが、コロンブスの 卵的にどちらが先かはわからないものの、貧困層やその代表的生活様式のひとつである「ヤンキー」層が愛する 文化は、徹底的に細く紋切り的なことばや価値しかもたない。


それはたとえば、エグザイルの作品に現れている。

ちなみに僕はエグザイルのアツシが結構好きで、アツシが無謀にもアメリカ進出というかアメリカ修行に行くこ と(http://www.huffingtonpost.jp/2016/08/31/exileatsushi_n_11792006.html EXILE の ATSUSHI が 2018 年まで海外へ 決断した思いを語る)にはガッカリ感はあるものの、数で勝負するヤンキー/アンダーク

ラス文化のトップにいるアツシが人員キャパを超えるエグザイルから「押し出される」ことは仕方がない(ヤン キー文化と「数」はこれ参照→http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakatoshihide/20160830-00061643/ ヤンキーは「海賊王」がすき~階層社会の『ワンピース』)。


ちなみに元祖ヤンキー代表といえば矢沢永吉だが、ミドルクラスばかりの当時の日本社会ではエーちゃんはマイ ナーであり、またエーちゃんは『成り上がり』というベストセラー本も書いた。エーちゃん自ら、自分のナマの ことばで、「自分」を語る人だったのだ。


が、エグザイルは徹底的に紋切り型だ。典型的な愛のことば、若者のことばが詞にはあふれるが、それは無難な 若者世界観を表象しており、ロック的エゴイズムもない(マーケティング的にロック的うっとおしさを排除して いる)。

エグザイルははじめから貧困層を狙っているわけでもなく、実際、中間ミドルクラス層にも好きな人はいるのだ ろうが、多くのアンダークラス若者にも結果としてて支持されている。


その結果、無難なエグザイルのことばは、アンダークラス若者の「気持ち」を無難な世界として閉じ込める。現 実の貧困アンダークラス若者はもっとセンシティブだったり暴力的だったりするだろうが、そうした微細さは紋 切りな愛の言葉が発現を抑止する。


結果として、エグザイルは貧困の怒りを代弁しない。

 

■彼女ら彼らと毎日関わる、支援者や教師


では誰が「代弁」するか。

それは湯浅氏や藤田氏ではない。彼らはあくまでも「良質な外部」なのだ。もちろん片山さつき氏でもない。


では、雨宮処凛氏だろうか。雨宮氏のこのエッセイを読むと一見代弁者のように勘違いしてしまうが (http://blogos.com/article/188788/ すべての貧困バッシングは、通訳すると「黙れ」ということ~「犠牲 の累進性」という言葉で対抗しよう~の巻 - 雨宮処凛)、ここには「ロマンティック・ヒューマニズム・イデオ ロギー」(ロマンティック・ラブ・イデオロギーのパロディです)といってもいい、過剰な人権主義ロマンのよう なものがある。


この過剰な人権主義ロマンは、一人ひとりの貧困者の単独性(世界でただ1人のその人のあり方)を隠し、ヒュ ーマニズムを主張したいための道具として使われるという皮肉な結果になる(いずれ別に詳述します)。


アンダークラスの人々を誰が代弁するか。


僕は今のところ、それは、「現場」で彼女ら彼らと毎日関わる、支援者や教師だと思っている。

現場の支援者や教 師は、日々の忙しさも大事ではあるが、ある意味、貧困若者を「どう代弁するか」という最重要な仕事を担うと僕は考える。

有名人が解説する段階は終わっているのだ。★

マイルドヤンキーとワンピースにはついていけない

タイトル: マイルドヤンキーとワンピースにはついていけない
公開日時: 2016-07-24 10:14:29
概要文: 峰不二子ちゃんやルパン、カジくんとミサトさん、彼女ら彼らの関係性は、単純な「仲間」や「恋人」 などでは決してない。
本文:

 

■マイルドヤンキー的な価値観についていけない


昨 日 ポ ケ モ ン GO ネ タ で 当 欄 を 更 新 し た ば か り な の で あ る が (http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakatoshihide/20160723-00060286/ ポケモン GO!で、ひきこもり はスマホ購入へ GO!)、昨日今日と横浜出張で、新幹線マニアな僕はあえてこだまやひかりに乗って楽しむため 車内でやることもなく、以前から考えていた『ワンピース』とマイルドヤンキーについて綴ってみることにした。


ちなみに今は横浜からの帰りの新幹線こだま内、ガラガラの 1 号車先頭の座席で、先頭座席のみ使用が許される コンセントに MacBook を突っ込んで当記事を書いている(大阪まで 4 時間以上かかるがこれがまた楽しい)。


それはさておき、人気マンガ『ワンピース』とマイルドヤンキーは親和性があると、ホリエモンが指摘している ([http://blogos.com/article/184076/ 記事 キャリコネニュース2016年07月19日 17:47「ワンピース」

の話は飲み屋ではタブー? 面白くないと口にすると「テメェは人間の心が無ぇ!」とファン激怒])。

上の記事内に、以下のようなホリエモンのツィートが引用されている。


「仲間さえ無事なら大丈夫的なマイルドヤンキー的な価値観についていけない」


さすが世の動きに敏感なホリエモン、友情・努力・勝利の権化といってもいい『ワンピース』と、仲間内での信 頼感を最重要価値にするマイルドヤンキーとの共通価値を指摘している。


これに加えて少し前の僕の記事でも触れたのだが (http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakatoshihide/20160720-00060176/ 甲子園があるかぎりマイル ドヤンキーは滅亡しない)、マイルドヤンキーは以下のような「貧困文化」の一部でもある。


EXILE が好き、
地元(家から半径 5km)から出たくない、

「絆」「家族」「仲間」という言葉が好き、

生まれ育った地元指向が非常に強い、

内向的で、上昇指向が低い(非常に保守的)

低学歴で低収入、

できちゃった結婚比率も高く、

子供にキラキラネームをつける傾向、

喫煙率や飲酒率が高い、

(以上はウィキペディアのマイルドヤンキー項より引用・抜粋)


エグザイルやイオンに加えて、重要な文化資本的な要素として『ワンピース』がどうやらあり、マイルドヤンキ ーが先かワンピースが先かはわからないが、それぞれが「仲間・友情」価値を補強し合い、彼ら彼女らの最重要 価値になっている。


■人間は裏切る


ところで、人間は裏切る。

ルパン三世』の峰不二子や『エヴァンゲリオン』のカジくんのようなアニメ世界のキャラだけではなく、実社 会の人間たちは普通に嘘をつき、周囲を騙し、裏切っていく。

裏切りと嘘は、ドストエフスキーの登場人物たちやアメリカ映画『スティング』にだけに出てくる現象ではなく、 世の中でゴロゴロ毎日生産されている。


それは当然ヤクザ社会だけの現象でもなく、普通の会社や普通の学校(クラス)や普通のバイト仲間や古くから の友情関係のになかでも日常的に繰り広げられる光景だ。


当然、僕もよく嘘をつく。また、人々を裏切ることも時々ある。

 

その裏切りは、別の面から見るとライフステージの新段階だったり、あえて裏切り摩擦を起こすことで停滞した 局面を切り開く戦術だったりする。

峰不二子ちゃんもカジくんも、ピョートル・ヴェルホーベンスキー(『悪霊』)もポール・ニューマン(『スティン グ』)も、あえて嘘をつき騙し、一時的に周囲の信頼をあえてなくす行動をとり、仲間たちから見放される。


当然僕も(そしてあなたも)、このような裏切りと嘘によって他者を巻き込み、時には他者から嘘をつかれ裏切 られ、ぐちゃぐちゃの人間関係へと巻き込まれていく。

イギリス映画の名作『秘密と嘘』にも描かれたように、秘密と嘘を前提とするから人間は深く暗く時には明るく 陽気で、それらすべてがからまりあってこその「C'est la vie.(これが人生、ラビー)」なのだ。


峰不二子ちゃんやルパン、カジくんとミサトさん


マイルドヤンキーや『ワンピース』は、いや、友情・努力・勝利の(貧困も含めた)若者文化は、このような「裏 切りの豊穣さ」を悪いもの、倫理的に間違ったものとして否定する。


これは窮屈だ。 なぜなら、現実のマイルドヤンキーたち、あるいは貧困若者たち、いや若者たち全般の日々の人生には、普通に 嘘と裏切りが存在するからだ。


実際に横行する嘘と裏切りを「悪いもの」として否定し、友情と仲間との信頼を絶対善として理想化する。 これは実は、現実の自分たちの生(la vie)を否定する行為でもある。


裏切りや嘘を含む日々の豊穣な生活を肯定せずありえない理想(友情の絶対善化)を善として根拠化するこうし た心理操作は、ニーチェも指摘する「ルサンチマン」の一部である。

まあそんな哲学議論はさておき、以上のような理由でマイルドヤンキーと『ワンピース』は、僕にとってはかな り窮屈なんですね。


峰不二子ちゃんやルパン、カジくんとミサトさん、彼女ら彼らの関係性は、単純な「仲間」や「恋人」などでは 決してない。

裏切られながらも信頼し、時には騙しながらも時々頼る。これが人間関係というものであり、僕が 若者たちに知ってほしい「人間のおもしろさ」だ。


マイルドヤンキーや『ワンピース』は、その人間の深さを伝えることを微妙に邪魔する。★