tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

DV支援者は「DV」を理解しているのだろうか

■暴力とは「主体」による刻印

 

共同親権に社会が向かうとき、DV加害者にとってそれ(共同親権)はDVターゲット(被害者)を加害者が発見しやすいとDV支援者はいう。

 

そのため、それを理由にして、DV支援者は共同親権に反対し、現在の単独親権に執着する。

 

動機はDV加害者へのそうした警戒であるが、その単独親権への執着がエスカレートし、離婚支援の「技術」として「子どものabduction アブダクション/拉致」が定式化された。

 

アブダクションの理由とてして「虚偽DV」が確立され、それを助けるように女性支援センター等での「相談記録」のみでDVという事実が確立される。

 

その、「虚偽DV→子どものアブダクション」の被害にあった別居親たちが、現在は徐々に名乗りをあげて訴えている段階だ。

 

こうした理不尽のもとには、「DV/ドメスティックバイエレンス」の捉え方がある。

 

現在、DVは児童虐待と同じように、「心理的」「経済的」「無視(ネグレクト)」のようにその「暴力」のあり方が拡大されて捉えられている。

 

その拡大方針には僕は賛成だ。これまでの社会は「暴力」や「傷つき/トラウマ」に対してあまりにも寛容で、現実の肉体と肉体が衝突するそれ(性暴力含む)を、主として暴力と捉えてきた。

 

だが、哲学の分野では、たとえばデリダなどは、「名付けの始まり(何かに対して名前をつける)」ことが根源的暴力だとする哲学者もいる。

 

哲学的には、「主体」や「自我」が強引に何か(「他者」)をカテゴライズすることが暴力だとされる。

 

暴力とはそれほどナイーブなものであり、主体が強引に行なう事象(怒鳴る、無視する、懲罰としてカネを与えない)はすべて暴力になる。

 

■包丁を構える「被害者」も

 

そんな、「主体による刻印」としての暴力のあり方と同時に、

 

「その暴力はいつも一方通行なのか」

 

という問いを僕はこれまでずっと考えてきた。

 

たとえば誰がが誰かを殴る場面を想定してみると、2人が対峙している時に、いきなり一方が一方を殴ることはほぼない(見知らぬ他人への衝動殺人くらいか)。

 

多くは、口論(心理的暴力)がその身体的暴力の前に続いていたはずだ。

 

そして、何かのきっかけで「手が出る」。その「手が出る」手前の時点で、心理的暴力(怒鳴り合い)が多くの場合は発生している。また、その心理的暴力が発生する前の段階では、何日にもわたる無視/ネグレクトもあるだろう。

 

そのネグレクトに追い討ちをかけるために経済的DVも、「水責め」のようにして発生することがあると思う。

 

経済的暴力を黙って受ける人もいれば、心理的暴力(怒声)で逆襲する場合もある。

 

そのような、いくつもの「暴力」が重なって身体的暴力に到達するが、その身体的暴力の場面においても、殴られっぱなしでありながらも怒鳴り返す人もいると思う。また、一方的に怒鳴られながらも、殴られている間「黙ってにらみ続ける(ある種のネグレクト)」人もいると思う。

 

あるいは、殴られた後、衝動的にキッチンに走っていき、包丁を構える「被害者」もいる。

 

■暴力の複雑性を「縮減」してDVは成り立つ

 

このように、ドメスティック・バイオレンスという一事象には、各種の暴力が含まれている。

 

では、こうした何通りもの複雑な暴力が発生するDVの場において、なぜ「加害者」と「被害者」を特定することができるのだろうか。

 

それは簡単で、被害者が自分は被害者だとして名乗りをあげるからだ。

 

仮にそこに身体的暴力があったとして、その被害者が身体的被害を受け骨折などを被った場合、その2人の暴力的やりとりの中での被害者と加害者は特定できる。

 

また、骨折や痣などの身体的暴力がなかったとしても、「私は怒鳴られた」としてDV支援センターに相談に行くと、その名乗り行為自体がDVの事実として認められる。

 

多くは一方的に怒鳴られることは少なく、ネグレクトも含めると非常に緊張感の高いコミュニケーションが展開されているはずだが、名乗りや相談という二次的出来事を一次的出来事(暴力)に含まれるものとして認定される。

 

つまり、我々の社会では、「暴力の複雑性」の分析をそもそも諦めており、物理的事象(骨折等)や被害者を自認する者の名乗りにより、犯罪行為としての暴力が成り立つ。

 

犯罪行為としての暴力とは司法が認める暴力のことで、暴力行為の複雑性を「縮減」する社会システムが「法」ということだ。

 

デリダが『法の力』でいうように、何かを法的に定立する際、そこには不思議な力(デリダは衒学的言葉ではぐらかすが)が働き、どこからが暴力でどこまでは暴力ではないか、誰がどの時点で加害者であり被害者なのかは、実は「科学的」には証明できない。

 

初めに書いたように、「暴力のコミュニケーション」であるDVの複雑な実態を細かく追っていくと、その複雑性に眩暈がする。

 

その複雑性を「縮減」して初めて、実はドメスティック・バイオレンスは成り立つ。

 

■DV支援者の倫理は、暴力の複雑性を伝えること

 

その縮減もある種の暴力であるが、「起こっている事態をこのように括りまとめる(縮減する)ことをしないと、その暴力的事象を社会は捌けないんですよ」

 

と、まずは、DV支援NPOや弁護士はそのDVに関係する被害者と加害者に伝える倫理があると僕は思う。

 

その倫理に支援者は自覚的になって初めて、被害者と加害者をそれこそ「暴力的に」位置付けるDV支援の複雑さを社会に提示できる。

 

その複雑さを意識せず、表面的訴えのみにしか耳を貸さない(そんな紋切り的捉え方しかできない)多くのDV支援者は、それこそ暴力的だとも言える。