拙論「青少年支援のベースステーション」(人文書院『いまを読む』所収)に、先ほどのadresse(『バナナブレッドのプディング』で描かれるミルクの差し出し)について言及しています。デリダ議論の中で僕が論じたのは『ユリシーズグラモフォン』でした😀
以下は、論文写真より当該部分です😀
【デリダは、このウィに関して、「『私という形式』をまとって」として用心深く表現しながらも、どうしてもそこに「私」という語を使ってしまわざるをえないことの難しさについて串直に述べている。
この点がデリダの特徴だと僕は思っていて、通常言うところの自我に先行するものとして「未規定で最小の差し向け」としてのウィがあるとして、それを差し向け adresseとして表現しながらも、それはたとえば「私という形式」で語らざるをえないという。
デリダは、「ウィという主題に関してはメタ言語は常に不可能であろう」(Ug一五三、p127)とも言い切る。言語(つまりは自我のレベル)そのものがこのウィを前提としているため、言語ではウィは表現できない。
だからそれは仕方なく、「私」として表現される。そして、ウィそのものは「痕跡」となる】
※
『いまを読む』人文書院から、田中原稿「青少年支援のベースステーション」。
この4ページでデリダ「ウィウィ」の半分を説明していますが、10年以上たってこれベースの中編小説を書いている現在、原稿後半に示した2つ目のウィ(未コピー)と、ここに書く1つ目のウィはもっと混在しているなあと思い始めました。