「ライナスの毛布」は結局「ミルク」だった。正確に言うと、添付画面にある「さあミルクを飲んで」という言葉なのだろう。
高2の頃初めてこの作品(『バナナブレッドのプディング』大島弓子)を読んだ時は、主人公三浦衣良が終盤、髪で顔を隠すこの行為は、自意識過剰が主たる動機だとてっきり思っていた。
今回『バナナブレッド』を再読してわかったのは、自意識過剰は過剰でも、より自己否定的な側面が大きいということ。
自分/主体を持て余すことからくる顔の隠蔽というよりは、自分のような主体はいなくなったほうが世のためになるという思い込みを主人公は抱えている。
自分は「自分」を放棄できないという諦めは受け入れるが、ただ、今のままでは生きていくのが難しい。死の手前にいる主人公が選んだ行為が、だから前髪で顔を隠すことだった。
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顔を隠した主人公に救いの手を差し伸べるのは、『ライ麦畑』での妹のような近親者ではなく、主人公が淡い恋心を抱く先輩。
その先輩はミルクを差し出しadresser 、これを飲めば「心がなごむよ」と、ありきたりの言葉を投げかける。
そんな陳腐なシーンが『バナナブレッド』の山場なのだが、主人公は髪で顔を隠したまま先輩を見上げ、差し出されたミルクカップを握りしめる。
それまでの錯綜したコミュニケーションは、先輩のシンプルな言葉とミルクの差し出しという行為ににたどり着く。
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よく考えると、主人公の周りにいる親友も両親も友人たちも誰もそうしたシンプルな行為(ミルクの差し出し)に至らず、全員「複雑でcomplexe」反復する諸行為で主人公を支えようとした。
その中で先輩だけがミルクを差し出す(adresser 他者へと向かう)。そのadresserは一方的コミュニケーションではなく、差し出すというその行為には、「受け取ってくれる」という先輩の確信が混入している。
先輩は、主人公が顔(自分)を隠すというその行為に責任をどこかで感じているが、その責任には、「このミルクカップを受け取ってくれる」という確信が同居する。
またミルクを差し出された主人公は、他者(幼少期の薔薇の木がメタファー)からまさか礼以上の言葉(存在の肯定の言葉)「好き」を言ってもらえるとは思いもよらず、思わずミルクを受け取る(現実のコミュニケーションとなる)。
その責任と確信、ミルクという偶然の他者の「現れ」が、大島弓子がたどり着いた、
「他者を支える」「他者に支えられる」
ということなのだと思う(以上はデリダの議論でもあります)。
これらは、僕が日々の支援で目指していることです😀