tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

オレンジの香りと色による暖かな革命

11月27日、立川で「共同親権研究会@西東京2〜オレンジ革命の内側と外側から」というイベントがあり、僕も登壇していろいろ語った。

 

その夜は、研究会のあと懇親会を21時30分過ぎから開始し、20名以上の方が参加されたと思う。

 

研究会を受けた熱いトークが懇親会でも繰り広げられ、場所は立川という都心から比較的離れた都市で開催したため終電を逃した方々も10名近くおられ、それらのみなさんが始発待ちのためにカラオケ屋で過ごすという、久しぶりのファンタスティックな一夜となった。

 

研究会自体は「内側と外側から」という副題にもあるとおり、別居親やそれを支援する弁護士の方という「内側」の人たちと、僕のような支援者や一市民として共同親権問題に関心を持った方々、大手マスコミやフリーのメディア関係者といった「外側」の人たちが集まり、来春にも控えている民法改正も視野に入れたさまざまな問題が議論された。

 

そこで印象的だったのは、「オレンジ」という言葉だった。

 

前回、当欄でも触れた通り(人々の叫びや願いや悲しみが起こり通過した後に、ひとつの「権利」が確立される 〜「共同親権」までもうすぐ - tanakatosihide’s blog)、今年になって特に活発になってきた共同親権をテーマにした動きにたどり着くまで、さまざまな議論が展開されてきた。

 

だが現在は、ついに念願の民法改正(それは民法創設後125年後に訪れた抜本的改正でもある)である「単独親権から共同親権へ」がすぐそこに訪れている。

 

その法改正の瞬間に向けて、多くの恩讐を乗り越えて、改正の一瞬だけまとまる時が来ている。

 

 ***

 

具体的には、民法819条冒頭のこの1行の変更にそれは集約される。

 

第819条

  1. 父母が協議上の離婚をするときは、その協議で、その一方を親権者と定めなければならない」民法第819条 - Wikibooks

 

ここにある「その一方を」を「その両者を」に変更するだけなのだが、そのたった一つの言葉の言い換えに、民法成立後125年、戦後になってからでも75年間を要している。

 

それがついに、改められる時が来た。

 

そしてその時は、人々のさまざまな思いは残しつつ、「ひとつの色」に染め上げる瞬間でもある。

 

その色は、人々の思いが溶け込みやすい色、溶け込めるような暖かい色である必要がある。その暖かさと溶け込みの象徴が、

 

オレンジ、

 

だと僕は思う。

 

当事者たちが行なってきたパレード的な発信活動の中に溶け込んでいったこのオレンジが、共同親権へと人々を駆り立てる一つのテーマカラーになった。

 

ある意味、自然発生的にその色は選ばれ、選ばれ続けてきた。

 

人々の叫びや願いや悲しみを統合し象徴する一つの色として、「オレンジ」はいつもそこにある。それはオレンジ・ムーブメントやオレンジ革命と呼ばれ始め、我々の「家族」の新しいあり方を示し包み込むやさしい色だ。

 

これは日本では珍しい、「色」が人々を包み込み奮い立たせるムーブメントで、内側や外側の人々が無理のない範囲で集まり語れる色、それが「オレンジ」なのだ。

 

親権という、家族システムの根幹の抜本的変更は文字通り「革命」なのだが、この革命はジョン・レノンが叫んだような声高なレボリューションではなく、人々の思いがオレンジ色にゆっくりと染め上げられ包み込まれる、オレンジの香りと色による暖かな革命だ。

 

f:id:tanakatosihide:20201129104256j:plain

朝が来るまで語ったオレンジの人たち(RK弁護士〈左〉と僕)。@猫鳥風月さんツイートより

 

 

 

 

 

 

 

人々の叫びや願いや悲しみが起こり通過した後に、ひとつの「権利」が確立される 〜「共同親権」までもうすぐ

現在、「共同親権」を推し進める社会運動の内部で微妙なすれ違いがあるようだ。

 

僕はイマイチその内容が理解できていないのだが、共同親権を推し進めるために行なったことが、やりすぎとか謎とかで揉めているらしい(誰に了解をとったとか、誰の責任とか)。

 

僕とはしてはたいへん良いことだと思う。

 

元々、共同親権・養育という一点でしか集まっていない当事者(別居親)のみなさんが力を合わせて法改正(来春とも言われる)に向かう時、そうした大目標が目の前に見えてきた時、人間社会は揉めるものだ。

 

それを内ゲバみたいなバカバカしいものにせず、民放改正という大目標に向けて議論し小さいことで揉めて一時的に団結し、さらに議論したり揉めたり団結して、結局は法改正というゴールに辿り着くのが、さまざまな考えを持つ人間たちが集うムーブメントというものだ。

 

その間には「リーダー」が出てきたりそのリーダーが挫折したり新しい人が議論をふっかけたりその新しい人が挫けたりと、いろいろある。それはまさに、フランス革命の頃からいろいろある。

 

それが「当事者」のムーブメントというもので、社会に新しく「権利」を確立するときは欠かせないものだ。

 

その過程で、たとえばキング牧師が亡くなられたような悲しい出来事も生じる。

 

そんな、いろいろな人々の叫びや願いや悲しみが起こり通過した後に、ひとつの「権利」が確立される。

 

近代社会はその繰り返しで、現在の日本であれば、その権利とは、

 

共同親権

 

のことだ。

実は癌でした

このことを書くのはやめておこうとずっと思っていたのだが、昨日「高校生マザーズ5@住吉区」イベントで、高校生マザーやその夫、2人の子どもにもご参加いただき、またオックン奥田さんや新山さんほか、僕が支援した若者たちも一体となった「チーム・ドーナツトーク」の姿を見てなんとなく書いてもいいかなあ、という気分になった。

 

また、いつものことだが、「仕事」の重さについて昨日も少しだけ議論になり、僕はあっさりと「仕事なんかしなくてもいいですよ。仕事が苦手な人は誰かに食べさせてもらえばいい」と断言できたことも含め、なぜ僕が「振り切っているか」ということを書く必要もあるなあと今朝思った。

 

僕は10年前に脳出血となり、そこからの「生還」話はいろいろなところで書いている。その経験があってこその、いろいろな規範から本格的に自由になったと自認している。

 

だが実は、昨年、その脳出血後毎月訪れるクリニックの血液検査のデータを見たドクターが、「前立腺の数値が気になる」と言った一言で、次の試練が始まっていた。

 

どうやら僕はあの「前立腺癌」っぽかった。だが前立腺癌は「活力」ある男優たちもよくかかる、なんというか、発達した現代医療(あえてポジティブに表現します)によく見られる「あえて見つかる病気」であり、一昔ならば見つからなくてもいい病気の一つだと僕は思っていた(類似に甲状腺癌など)。

 

だから、そのホームドクターの一言は無視しようかなと思ったのだが、なんとなく善人なそのドクターの笑顔に負けて、僕は近所の大阪府立病院(いまはそれっぽいカッコいい名前になっている)に行って、あの大げさな検査を受けた。

 

 ***

 

その検査はエグすぎたのでここでは細かくは書かないが、まあ恥ずかしい姿勢を取らされたそのままの姿で、和やかに語る看護師さんたちとエグい検査を受けた。

 

その結果、やっぱり前立腺癌だった。

 

僕は20代の頃「さいろ社」という出版社を友人の松本くんと立ち上げ、20代後半で辞めたものの、その頃の医療問題は相当深く取材した。

 

癌に関しても雑誌の特集までは組まなかったが、取材する看護師さんたちのトークの中にはいつも出てきた病気だったし、それの「告知」問題は90年代前半までは医療における最大の問題のひとつだった。

 

だが実際に自分が癌になり、その「告知」を受けた瞬間はあっさりとしたもので、

 

「癌ですね〜」

 

とニヤニヤ目のドクターに告げられたのだった。それは、軽すぎた。

 

だが、その「軽さ」は僕に衝撃を与えることなく過ぎ去り、いわゆるステージ1程度の軽いものだったそれの治療は、放射線療法も抗癌剤も必要なく、別の薬を毎月飲むだけのものだった。

 

その薬の副作用的なものは別に書こうと思うが、それから1年以上たち、僕の前立腺癌は消えてしまったらしい。

 

 ***

 

つくづく、あれは変な体験だった。10年前の脳出血が超ドラスティックだっただけに、3大疾患の一つである「癌」を患ったにしてはずいぶんあっさりしていた。

 

もちろん、僕の友人の中には、抗癌剤放射線治療を受け、激しい副作用と対峙する方もいらっしゃる。そんな方々にはたいへん申し訳ないのだが、あの検査のハードさに比べてみると、その治療は実にあっさりしたものだった。

 

だが、10年前の脳出血に続いて、「死」を意識させてくれた「癌」という言葉の響きは、僕には大きな意味があった。

 

それはとにかく僕に、

 

自由

 

という言葉と意味を再び考えさせるものになっている。

 

僕が生きていく上で「自由」という価値は最も重要なもので、そこに経済学的な厳しい意味が多少くっついていたとしても、根源的自由さを追求し続けることが、僕が生きる意味だと思っている。

 

僕の場合、癌はあっさり治ったものの、それになったことでこの1年以上再び深く「自由」を考えてこれたことはよかった。

 

だから、「仕事なんてどうでもいい」と普通に断言できる。

 

我々の人生は限られており、その限られた時間の中で自由に生きることが何よりも大切だ。

 

それを抑制するもの(たとえば仕事という名の労働)があり、それが辛ければ、さっさとやめたほうが得だと思う。

左翼は現代的右翼になった〜子ども拉致と虚偽DVの隠蔽

 今日もこんなニュースがTwitterに流れてきた。 

 

 

このニュースの言葉づかいを読んで傷つく人がいる。

 

それは、「虚偽DV」をもとに子どもを配偶者と離婚専門弁護士に連れ去られ(英語ではabduction=拉致)、「ひとり」になってしまった毎年数万人は発生する「別居親」たちだ。

 

別居親には父親が多いものの、母親も存在する。拉致という事象において最大の「当事者」は子どもであるが、その子どもからすると、別居することになった別居親ももちろん親、だ。

 

ひとり親なんかではない。

 

ところが「シングルマザー支援」を名乗るNPOの中では、旧来のDV支援に傾倒するあまり、毎年何万人も発生するこの別居親の存在と、別居親から突然離されることによって悲しみの底に突き落とされる子どもたちの心境を看過する。

 

僕はいろいろなところで、この突然の拉致の後、同居親の顔色を伺いつつやがて別居親を子どもが嫌悪させられていくことになる「悲しみの構造」について言及してきた。

 

「生きていかなければいけない」子どもたちの「生存戦略」として、別居親への嫌悪は仕方なくとる方法だ。

 

「ひとり親」という言葉一つにも、これだけの「悲しみ」がくっついてくる。

 

そんな弱い者の悲しみを見つめ顕在化することが、リベラルの仕事であり、いわゆる「左翼」の仕事だったはずだ。

 

だが、2020年の現在、従来の弱い者(たとえばDV被害者)にはスポットを当てるが、新しい弱い者(連れ去られ被害者である子どもや別居親)のことは見ようとはしない。

 

それどころか、「ひとり親」という、潜在化のための便利な言葉をつくり出し、メディアもこれに乗っていく。

 

これまたいつものことなのだが、僕は今朝、こんなツイートもしてみた。

 

 

 そう、現在進行形で悲しみの淵にいる「新しい当事者」を見ず、潜在化させていく。

 

新しい当事者たちを顕在化させ、親権問題を「共同親権」に移行し、別居親からの経済支援を促す政策にシフトすれば、この記事で言われる貧困問題は別のフェイズとなる(同時にDV対策も力を入れる)。

 

「現代的(硬直した)保守」とは、こうした硬直的リベラルや左翼のことを指す(現代ではそれとは反対に、従来の保守勢力が虚偽DVや別居親のことを救済しようとしており、新しい「ねじれ現象」が起きている)。

 

左翼は硬直的保守になり、弱い者の味方ではなくなった。これはもはや「現代的右翼」なのだろう。

 

「劣等生のこの僕に、素敵な話をしてくれた」〜子どもが大人になるための、大人の態度

僕も30年くらい不登校支援を続けているが(最初は不登校から始まり、その後ひきこもり・発達障害・虐待サバイバー等多岐にわたっている)、支援を始めた頃驚いたのは、

 

「親たちはものすごく悩んでいるんだなあ」

 

ということだった。

 

ハイティーンから20代前半の僕にとって、「親」に代表される大人たちは、ある意味「権力」の象徴であり、それは決して揺るぎない存在だった。

 

そのよくある「紋切り的権力」に対しては常に刃向かい反抗するのが子どもというか10代であり、不登校という選択をした子どもたちに対しては、権力への反抗という意味合いにおいて、僕は尊敬していた。

 

 ***

 

しかしそうした権力観こそが紋切り的であり、実際は、子どもはもちろんのこと、大人(親)も大いに悩んでいた。

 

不登校の子どもは、僕が期待したほど「自己決定」はできず、誰かからの誘いを常に待っていた。また、まったく大人や学校には反抗していなかった。

 

「反抗」というよりは、学校という誰もが歩む規範的体制に対して順応できない自分を責めていた。

 

だから僕は、そんな子どもたちとのコミュニケーションを大切にし、そんなコミュニケーションから生じる曖昧な「決定」に関しての哲学的分析に励んだ。

 

大人たちも前述の通り、「大人」とはいえないほど悩んでいた。

 

子どもへの声かけの仕方、思春期の子どもへの理解の困難さ、教師との距離感、夫婦関係のあり方等、次から次へと親からは悩みが出た。

 

子どもの悩み、親の悩み、そうした悩みたちを毎日聞きながら僕は、子どもたちがいつのまか変化していく、その不思議な感じが好きだった。

 

そう、悩める10代前半の子どもたちは、いつの間にか「自分の言葉」を持つようになっている。

 

 ***

 

もちろん、5才頃から、ヒトは親の模倣から脱して、徐々に自分の言葉と価値観を獲得し始める。

 

それは子どもたちを観察していればすぐにわかるのだが、5才前後までの「模倣」を脱し、基本的には親と友達の影響を受けながらも、思春期以前から子どもは「その子らしさ」を獲得するようだ。

 

その、子どもの自分らしさの獲得と、子どもが思春期になって悩み始める親たちのゆらぎは、影響し合っている。

 

僕がそこで親たちに期待するのは、その親自身の「ゆらぎ」を上手に子どもに伝えるということだ。

 

「上手に」という意味は、決して怒鳴らず、また極端に否定的にも諧謔的にもならず、また笑いにすべてを投げ出すことでもなく、素直に自分の言葉でその悩みを静かに語りかけることだ。

 

 ***

 

もちろん子どもは、堂々とした親からの語り掛けを待っている。

 

だがそれと同時に、結論はないものの、静かに真摯に子どもに話しかけてくる親や大人の声を待っている。

 

そうした大人の静かな語りかけや大人自身の静かだが決して諦めない言葉を聞くことが、僕は、子どもが思春期に突入する最大の準備になると思う。

 

もちろん、思春期に入ってからでも遅くはなく、ボソボソとつぶやくものの決して誇張や偽善ではない、大人自身の言葉は、子どもたちに「未来への扉」を提示すると思う。

 

思春期以降では、たとえばRCサクセションが「僕の好きな先生」で、「劣等生のこの僕に、素敵な話をしてくれた」と歌った、あの美術の先生のように。

 

大人が「やさしさ」について目覚める点に付いては、僕はこの記事(やさしさの根源)語った。

 

それとは別に、思春期の前あるいはその最中に子どもは何かに気づいてく。

 

それがしっかりとしたその人独自の言葉になるためには、そこから30年以上の時間が必要になるかもしれない。

 

けれども、大人や親の微妙だが実直な言葉と佇まいが、その「目覚め」を導いていくことは確かだ。

 

そんな大人に、我々はなっているだろうか。

 

 

やさしさの根源〜共同親権研究会@沖縄②

昨日11/13、2回目の「共同親権研究会・交流会@沖縄」があり、別居親の父たちが集まってそれぞれが語らった。

 

それぞれの子どもの思い出を話し、それぞれが沖縄でできることを確認し、お互いがいたわり合った。

 

いつもこの会を大阪や川崎や那覇で司会進行していて僕が感じるのは、それら別居親たち(父が多いが母も含む)の持つ「静かさ」とやさしさだ。

 

それら別居親たちの多くが、月1回の子どもとの「面会交流(冷たい言葉だ)」さえ果たせないことが多い。4人に1人の別居親しか月1面会交流ができず、それ以外は何年にも渡って実際に子どもと会っていない。

 

月に1回子どもの「写真」が送られてくる「間接交流」というまやかしの方法もある。それすらなく何年も子どもと会えない別居親も普通に存在する(何万人単位で)。

 

そうした事実を別居親たちは静かに語る。

 

 ***

 

そこでタブーな話題が、「子どもが成人になったら会える(から今は我慢)」という励ましだ。家庭裁判所の調査官などがよく使う言葉だという。

 

その言葉は別居親たちを激しく傷つける。

 

そんなことは承知している。子どもが18や20才になり、自分の力で別居親を探し当て会いにくるエピソードも別居親の先輩達から聞かされている。また、僕のような支援者からも聞かされる(僕自身、あまり考えずにそうした言葉を投げかけたことも以前にはあった。今はものすごく反省している)。

 

別居親たちは、子ども時代をいま送る、「子どもとしての我が子」に会いたいのだ。

 

やがては思春期を迎え自我を確立し、高校を卒業すると同居親の元を去り、大学入学や就職をし、やがては自分と再会することになる。

 

その大人になってからの再会も求めてはいるが、何よりもその子が「子ども」である時代に別居親たちは会っておきたい。

 

別居親というか、親は、子ども時代の我が子をしっかりと記憶に焼き付けておきたい。

 

 ***

 

3才までの子どもの笑顔の記憶があるから、長く続く子育てを親は引き受けることができるとよく言われる。

 

そうした「育児の代償としての子ども時代の記憶」という要素もあるが、別居親たちが求める「今のその子と一緒にいたい」という欲望は、育児のモチベーション形成のための記憶だけではないと思う。

 

それは、二度と戻らない子ども時代のその子どもの記憶の「刻みつけ」のようなものではないか、と僕は思う。

 

連れ去り/拉致のような暴力的出来事がなければ、子どものあり方の「刻みつけ」は日常的に親は行なっている。

 

子どもの笑顔、泣き声、怪我をして擦りむく、早朝トイレにつきそう、嫌いな茄子をチーズに包んで食べてもらう等々、何気ない日常の一つひとつが親の記憶となり無意識に沈澱し刻み付けられていく。

 

それはトラウマのようなネガティブな出来事ではないがメカニズムとしてはトラウマに似ており、あのフロイトが「不気味なもの」と呼んだものの不気味ではないもの、だ。

 

それはトラウマではなく、我々人間を人間として成り立たせているもの、その記憶によって我々が優しくなれるもの、いわば「思いやりの源泉」ではないかとこの頃僕は思う。

 

 ***

 

子どもがいない人は、恋人や親友、人によっては親、人によってはペットとの何気ない日常の中にそうした「思いやりの源泉」を求め、現実の交流の中で無意識に沈澱させていく。

 

それがあるから人はやさしくなれる。誰かとの根源的なコミュニケーション(現実の場面ではそれは日常的な出来事の連鎖ではあるが)を通じて、人は思いやりややさしさを獲得していく。

 

だが子どもを拉致されることで、1人になった別居親たちは、自らのやさしさが形成され発動されることを「待ち続けている」ように僕には思える。

 

拉致さえなければ自然と獲得できたやさしさの源泉を奪われ、その空振り感から「静けさ」が生まれてくる。

 

その経験がなくても十分やさしくはあるのだが、あればもっとやさしくなれたはずだ。

 

その空虚感が、その独特の静かさと沈黙を生んでいるように思える。子どもを拉致された父や母は、それでも子どもと時々出会うことで、目の前の子どもや人間たちにやさしくなりたい。

 

そんな、やさしさへの渇望のようなものを僕はいつも感じる。

 

 

不倫後の元夫婦に共同養育は可能か

Twitterを眺めていると、驚くほどの別居親(主として男性)の方々が、「妻(夫)に不倫された」とつぶやいている。

 

その方々は同時に、不倫した妻(と離婚弁護士)によって、子どもを連れ去り/拉致されている。

 

拉致されると、ご存知のように、拉致された別居親は実の子どもといえども会いにくくなる。

会えても、月に1 回2時間程度だ。

 

だから、共同養育を要望する別居親がほとんどで、そのための共同親権の法改正がいよいよ来年に迫ってきたと言われる。

 

だから僕は素朴な疑問を抱く。

予想通りに共同親権・養育へと制度が改正された時、不倫によってこじれてしまった元夫婦は、共同養育へと無事移行することが可能なのだろうか、と。

 

***

 

Twitterでは、こんなご意見も寄せられた。

 

 

それはそうなのだけど、人間には「感情」というものがある。この方が指摘するのはもっともなのだが、「離婚前に不倫した元パートナー」と、平和に共同養育できるほど我々は自分の感情をコントロールできるのだろうか。

 

そのように心配しながらも、実は僕も、その感情はコントロールできると思う。

 

なぜなら、「不倫」は、感情をどこかに置き去りにできるほどのディスコミュニケーションが可能な出来事だと思うから。

 

言い換えると、「不倫」は、徹底的に相手を「他者」として別次元に封じ込めることができる出来事だと思うから。

 

だったらわざわざこんな問題提起をする必要ないだろうというツッコミが入りそうだが、共同親権・養育へのシステム変更が目前に迫っている今だからこそ、あらゆる心配事を言語化する必要があると思う。