tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

虹の彼方に

 

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アキラは娘のカナタに、これまで2回自分の絵を描いてもらった。一度はカナタが6才の頃、突然「ママをかく!」とカナタが叫んで始まったものだった。

それまでもカナタは何回かアキラと夫の絵を描いていたが、それはイメージで描かれたものだった。カナタがイメージするヒトのかたちがまずあり、その丸い輪郭の中に目や口などのパーツを描くやり方だった。

カナタの、ヒトや母という固定されたイメージを何度も描き、それは3才よりは4才、4才よりは5才と年齢が上がるたびに上手になっていったが、それはカナタによる絵という言語の発達とパラレルだった。

だが6才になって「ママをかく!」と始めたその絵は、キッチンに座ったアキラに対して「動いちゃダメ!」と言いながら、アキラとノートを交互に見つめ、カナタなりの母の肖像を描きこんでいった。

アキラはじっとはしておらず、時々立ってその絵の進行を観察した。イメージの母、といういつもの丸い顔ではあったものの、いつものイメージを描く線が微妙に揺れていた。その線にはカナタの自信が含まれていなかったのかもしれない。カナタは何回か消しゴムでその線を消し、別の線を上から描いていった。

アキラが驚いたのは、写生してできあがっていくアキラの顔に、カナタが鉛筆で斜線を何本も引き、「影」を描いたことだった。イメージの母には影の線はなかった。だが、この写生の母には、頬の部分に黒く太くななめに描かれた影の線があった。

カナタは納得いかず、その影の線をまた何回か消し、消した上からまた線を描いていった。写生のアキラの絵はそのたびに黒ずんだものの、雰囲気が出てる、とアキラは思った。

カナタはそれでも何度も何度も母を見つめ、初めての母の肖像が完成した。だいぶ黒ずんだ頬をもつ母の顔は、口の部分だけイメージで描いたのだろう、不自然に笑っていた。

その、最後の仕上げにイメージの口を描き始めた時、カナタはこちらを見ずにずっとノートを睨みつけて描いていた。

すると、アキラの目が涙で滲んできた。初めて、娘に写生してもらう喜びの涙だろうか。そこまで娘が成長したことの実感が、彼女にいま訪れているのだろうか。あるいは、娘に直視され続けたことが、母がいつも構えている心の壁を崩したのだろうか。

娘に知られたくないため、キッチンのテーブルの上にあったティシュでその涙を拭いたものの、自分の目が潤んでいるという自覚はアキラにはあった。

最後の仕上げのため顔を上げてこちらを向いたカナタに、アキラは笑みを返すことはできた。

「うまくいかないけど」娘のカナタは恥ずかしそうにしていた。「できた」

アキラはその絵の側に行き、絵についてほめた。

 ※※※

2回目は、カナタが大学4回生のはじめ頃だった。カナタはそれまで2年ほど「先輩」とつきあっていたが、先輩は社会人2年目に会社を辞めてパリに行き、そこに住み始めてしまった。

アキラは多くを聞かなかったものの、どうやら先輩とはその時点で別れたようだった。

「あ、そうか」とアキラは独り言をつぶやいた。「別れてしばらくたった頃だった」

季節は梅雨時だっただろうか。就職活動を始めていたカナタは、その日もスーツを着て出かけるようだった。だが徐々に雨が本降りになり、家の中からでも大きな雨音が聞こえてきた。するとカナタは、

「やめた、やめたー」っと、黒いかばんをソファに投げ出した。

アキラも、そんな土砂降りの中をくだらない就職活動をするのはバカバカしいと思い、「やめろ、やめろー」っと言って笑った。

するとカナタは、ソファに投げ出した黒いかばんの中からノートを取り出してそのままソファに座った。そして、

「ママを描いてあげる」と言い、「はい、そこに座って」と、15年以上前に座ったのと同じ椅子をボールペンで指した。

アキラはその展開がおもしろくて、娘に言われるままに椅子に座り、娘のほうを見た。自分が年をとってしまったのかもしれない、とふと彼女は思った。

「ママ、若々しい」と言いながら、カナタはボールペンで描いていった。

それはアニメのキャラクターのようでありながらも、不思議に実写感のある線だった。15年以上前と同じく、母のアキラはじっと座らず時々立って娘の絵を覗いた。鉛筆ではなくボールペンを使っているせいか、6才の頃より、その線はずっと細い。けれども、その細い線が描く影は濃密でリアルだった。

「上手よね」とアキラはつぶやいた。「こんなに上手なんだから、就職なんてやめて、マンガでも描けばいいのに」

「黙って座る」カナタは厳格に言って母を座らせた。そして、母のアキラの顔と、手元のノートを交互に見つめ、肖像画を続けて描いていった。

カナタのもとには、当たり前だがパリからの手紙は届いていない。先輩はパリの住所を知らせてきてはいたが、カナタから手紙を書くことはできない。2ヶ月前に届いた手紙には、ポルトガル人の女と話が合う、と先輩は書いていた。ポルトガル人とは英語で会話しているといい、お互い英語が下手くそだから話が合うんだろうハハハ、みたいに先輩は書いていた。

母の肖像画は、その頬に少しだけ斜線を書き込み、完成間近になった。カナタはパリのことは忘れてその頬に集中しようと思った。

「もうちょっとで完成するよ」とカナタが言った時、その目に涙が浮かび始めた。パリのことは頭の中にはなかったはずなのに、それは目の縁に留まっていたのかもしれない。

アキラは娘のその様子を見て、「それだったらコーヒーでも入れるよ」と言って椅子から立った。2つのカップにインスタントコーヒーを入れ、ポットから湯を注いだ。

カナタは、大きな声で泣き始めた。カナタ自身、なぜこんな大きな声で泣いてしまうのかわからなかった。先輩のことは吹っ切ったはずだ。いや、吹っ切っていなかったとしても、こんな大声で泣くことではない。

外の土砂降りの雨は続いていた。だからカナタの泣き声は誰にも届かず、ただ母のアキラのみが聞いていた。

母のアキラは、15年以上前に、6才のカナタに自分の肖像画を描いてもらった時、あの時は自分が泣いてしまったことを思い出した。

 ※※※

インスタントコーヒーといってもその香りは強烈で、母子を香りの空間の中に閉じ込めていた。娘のカナタはずっと泣いていた。母のアキラはその様子をじっと見つめていた。6才の娘に、あのあと私はどうしたんだっけ? 娘を抱きしめたのかな、それともつくり笑いでごまかしたんだっけ?

カナタはようやく泣くことを終えるようだった。雨も小ぶりになっているようだった。虹が出ているかもしれない。

6才の時、絵を描く自分を見て泣いた母のことなどすっかり忘れているカナタは、先程まで大声で泣いていた自分についてそれほど恥ずかしく思っていないないことに、自分でも驚いていた。そして、

次からは。と二人は思った。

次からは、

「絵を描く時は慎重に」と二人は同時に言った。

やっぱり親子なのか、言い回しも同じ感じで、「シンチョウニ」とハモった。

「そう、慎重に、だよ」と母のアキラが言うと、

「了解です!」と娘のカナタは答えた。

カナタの目に涙は残っていたものの、口元は笑っていた。その口元はイメージの笑いではなく、いま、この時の、22才のカナタがその土砂降りの雨の日に衝動的に浮かべ、雨がやんだあと外には虹が出ているかもしれない空気に包まれた、6才っぽくもある笑みだった。