tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

ふたりは、こころの湖で手をつないで (新作中編小説の1)

 

1.月の湖

ヒカリが大学1年生の夏休みに東北の海沿いのホテルで1ヶ月のアルバイトを終えたあと、そのホテルに先輩が迎えにやってきた。

先輩とヒカリはまだつきあってはいなかったが、先輩は「迎えに行く」と言い、ヒカリもそれが当たり前だと思った。

ヒカリのバイト先は古いホテルだったが、東京からの客で常に満員だった。先輩が来た日はたまたま1室キャンセルがあり、先輩はその部屋に宿泊することができた。

食堂で夕食を終え、ヒカリも洗いものの仕事が終わった時、アルバイトのチーフがヒカリに気をつかって彼女に少し時間を与えた。

時間ができたことを、ヒカリは夕食を終えた先輩に伝えた。そして、

「海岸に行ってみよう、先輩」

と誘った。先輩は笑顔を浮かべ、細かい時間と場所を打ち合わせた。

ヒカリがエプロンをとり、夜の海岸に降りてみると、先輩はすでに波打ち際にいた。

その渚で、先輩は遠く暗い水平線を探しているようだった。

「今日は、月が出たり出なかったりですね」ヒカリは先輩の背中に語りかけた。

先輩はヒカリが砂浜に降りてきたのを察しているようだったがこちらを振り向かず、水平線らしきものを探しながら声だけでこう答えた。

「月は時々ものすごく大きくなるもんね」

それはヒカリも気づいていた。ムーンの前にいろいろな形容詞をくっつける大きな月たちの呼び名には彼女は関心はなく、時々、びっくりするくらい大きくなり、その中に鮮やかな月の湖のような輪郭をもった灰色のような影が彼女を捉えた。

そのことを先輩に言ってみると、彼も「僕も同じ」と言って笑った。「あ、雲から月が出てきたよ」

ふたりでその月を黙って眺めてみた。鮮やかで大きなその衛星は、時々暴力的にも感じられる大きさで、地球の人々を見おろしていた。その光は決して明るいとは言えないのだが、人口的な蛍光灯よりもはるかに強い光線で地上のモノたちの輪郭を区切っていた。

暗いのに強いその光の光源には、灰色の湖が浮かんでいた。その湖は、ウサギのお腹にも見え、それを、読書する女のスカートのひだと読み取る人々もいた。

一般には、そこは雲の海とも呼ばれていたが、ヒカリにはそれは海とは思えず、やはり湖のように感じられた。

そのように先輩に言ってみた。先輩は、

「海よりは湖だなあ」とつぶやき、横に並んでいたヒカリの手を握った。

ヒカリと先輩は、そうやって時折手をつないだ。その瞬間、いつもヒカリの気持ちは満たされた。

そのような気持ちを、ある日、ヒカリは母のカナタに伝えてみた。母は、

「わかるよ」と言って微笑んだ。どうやら母のカナタも同じような体験をしてきたようだった。

月光を浴び、月を見ながら先輩は、月の湖の話をした。

「あの湖に」と先輩は高い声でつぶやいた。「水があるわけはないんだけど、水がもしもあったとしたら僕らはどうしよう?」

ヒカリはその言葉を聞いて目を瞑り、月の女のスカートの湖に水が満たされる映像を想像してみた。

その映像は不思議な絵で、月の湖のそばにヒカリが立っていた。

そして彼女は、地球の光を浴びている絵の中の一人物だった。

「先輩」とヒカリは言った。「月の湖には、地球からの青く強い光が射してるみたいです」

先輩はヒカリのその言葉には何も答えず、強く右手を握って返した。ヒカリも自分の左手に力を込めた。

すると、ふたりは不思議なことに、月の女のスカートの湖の渚に立っている感じがヒカリにはした。地球からの青くて強い光をふたりは浴びつつ、自分の主語をその時忘れてしまったのだった。

地球からの青くて強い光により、月の湖の渚に立つヒカリと先輩は、自分たちの主語を忘れてしまった。

ふたりは目を開けて手を離し、背後の古いホテルへと帰っていった。アルバイトを今日で終えたヒカリは、迎えにきた先輩とともに、明日から京都を目指す予定だった。