■決して一方通行ではないその瞬間
2月26日に「校内居場所カフェスタンダード③」があり、今年度3回に渡って検討してきた、「校内居場所カフェ」の基準(コンセプトやソフトを言語化する)づくりの議論をかなり深めることができた。
その議論の中で、スタンダード(基準)とは若干ニュアンスが異なるものの、僕が最も大切にしていることについて、言葉にし難いその感じの一端をなんとか言葉で表現しようとした結果、参加者(オンライン30名+リアル数名)の関心を惹いたことが、僕にはある種の喜びになった。
その言葉にしにくい感じは、居場所カフェだけに限らず、また支援の現場だけに限らない、コミュニケーションの中で突然訪れる不思議な感じを指す。
その不思議な感覚は基本的には「ふたり」の間で生じるものだが、決して一方通行ではない。なぜかわからないが、その瞬間は同時に訪れ、互いのこころを揺り動かす。
その「ゆり動く」感じは、こころというある種の「岩」が下のほうから少しだけ動き、同時にその岩の色自体が少しだけ薄くなってくるような感じでもある。
■湖にくるぶしまで浸かっている
そして、その実感を持ったメタファーは次のイメージを生み、透明になった岩の奥にある風景は、ある種の
湖
に近い質感をもった深くて暗く、静かだが決して否定的ではない光景が現れる。
2/26にオンラインでしゃべったかどうかは忘れてしまったが(貴重なナマ中継にするためzoom録音をあえてしなかった)、そのこころの湖にたどり着いた人は靴を脱ぎ、くるぶしだけその湖の浅瀬につけている。
対話の相手は横にはいない。だが現実の視界には、その相手が映っている。そしてその相手の目を見、声を聞き、こちらも声を返す。
けれども一方では、その互いのこころの湖 Lake of the heart でくるぶしまで水に浸かり立っている。
そんな感じになった時、同時に、どちらかの目に涙が流れている。
そこから10分程度、「告白」的な言葉が続いていくのだが、それは重要なことではないと僕は思う。
面談支援の中で度々そんな感覚に包まれる僕は、その感覚がやってきた時にいつも決まって訪れる「告白」を大切に聞いてきた。そして、そんな「神秘的な出来事」を語ることはこれまで封印してきた。
だが2/26のイベントでは、自分でもわからないままなぜだかその感覚について話していた。そして不思議だったのは、この話が聞き流されることなく、参加した人々に対して印象的なものとして届いたことだった。
それは、C.ロジャーズや河合隼雄といったカウンセリングの達人が書いているようで書いていない瞬間だと思う。
おそらくそれは、「文学」形式でしか表せないものだと僕は捉えている。一例として、村上春樹『羊をめぐる冒険』の、ラストの「鼠」と「僕」の会話だろうと思うが、うる覚えだが鼠は泣くこともなく僕も聞き続けることもなかった。
だが景色としては、このこころの湖は村上春樹が表象するものに近いと思う(たとえば『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終わり」パート)。
あるいはそれは、哲学者ドゥルーズが引用する、シェイクスピア『ハムレット』の一文「『時間はその蝶番から外れてしまったle temps est hors de ses gonds.』」の瞬間なのかもしれない(『差異と反復』2章 G.ドゥルーズ)。
ただ、村上春樹やドゥルーズが想像する以上にこのこころの湖 Lake of the heartには、我々を吸い寄せ、静かに人を落ち着かせる瞬間だと僕は捉えている。村上春樹やドゥルーズが強く喚起させる「死」には、僕の場合それほど強くはない。もっとポジティブな瞬間だ。
面談室で突然訪れるそのポジティブな瞬間を通過することで、支援の密度はさらに濃くなっていく。