tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

未来、群れ、変な大人~高校生居場所カフェほか「サードプレイス」論

タイトル: 未来、群れ、変な大人~高校生居場所カフェほか「サードプレイス」論
公開日時: 2017-06-06 10:11:10
概要文: つまり、過去とは「家族=ファーストプレイス」であり、現在とは「仕事=セカンドプレイス」のことだ。3 つめの未来への時間こそが、サードプレイスの真髄だ。

本文:

 

 

■哲学的サードプレイス


「論」というほどたいしたことではないが、当欄他で「サードプレイス」を語る僕に対して(高校生居場所カフ ェの効果だけではなくその一般的効果を度々語っている https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20161125-00064828/ 残業は、日本の「サードプレイ ス」か?)、「一度きちんとサードプレイス論をきかせてほしい」という声があった。


サードプレイス自体は、オルデンバーグ『サードプレイス』(https://www.amazon.co.jp/サードプレイス――- コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」-レイ・オルデンバーグ/dp/4622077809 サードプレイ ス―― コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」)に書かれているので参照してほしいが、社会学 の本らしく、同書ではサードプレイスの根源的意味を考察できない。


家庭(ファーストプレイス)でもない、職場(セカンドプレイス)でもないサードプレイスが日本とアメリカで は喪失しており、現在の諸問題の一部はそこに原因があるとする同書は、そのネーミングに関して功績はあるも のの、それは「パラサイトシングル」や「ニート」と同じくそこまでだ。 データから社会現象を導き出すその手法は華やかなものの、現代社会の人々がなぜそこに行き着いたのかはなか なか言及しない。


そうした人々の価値の源泉、「土台」の感覚や考え方は、多少暴論が含まれていたとしてももう少し深い次元か ら断言される必要がある。暴論は僕はイヤだけれども、どこかで割り切って言葉を引き受け、新しい言葉として 提示しなければ、データ集積をいつまで持っても「土台」には到達できない。


データ(科学)自体、それらを支える科学自体が、常識やパラダイムに基づくものだからだが、まあ大風呂敷は やめて、僕の考えるサードプレイスの深い意味を以下にさらっと述べていこう。今回以降、これは時々バージョ ンアップされます。


■3 つめの未来への時間こそが、サードプレイス


我々が考える「時間」は、僕が日常つけるアップルウォッチ的トリッキーなグッズに頼らずとも、1 時間を 60 分とし、1 分を 60 秒として、その間隔は平等にあると教えられている。また、我々自身も時間をそのように捉 えている。

 

だが、時間はいつも平等には流れてはいない。その日の出来事や予定により、早い 1 日もあれば異常に濃密で長 い 1 日もある。


産業革命後に(近代成立後に)生まれた「学校」では、「時間割」ということばに表れているように、時間は科学 的に平等に流れている。学校空間ではチャイムとチャイムに仕切られ、生徒も教師も常に科学的時間に追われる。


が、時間は「現在」がすべててであるという捉え方もあるし、過去の集積が「いま」という一点に向かっている いう捉え方もある。それは、ヒュームやベルグソンといった著名な哲学者が生涯をかけて考えたテーマでもある。


時間はもうひとつ、「未来」へ向かって怒涛のように流れ注ぎ込まれる、というアナーキーな捉え方をする人も いる(ドゥルーズニーチェ)。その時間の考え方はある意味クレイジーであり、いかにもドゥルーズやニーチ ェらしい。 「時間の蝶番が外れてしまった」というシェークスピアの言葉とともに「未来の時間」をクレイジーに論ずるド ゥルーズは(『差異と反復』2 章)、現在という忙しさや過去という束縛にとらわれない、3 つめの時間を結果的 に提示している。


つまり、過去とは「家族=ファーストプレイス」であり、現在とは「仕事=セカンドプレイス」のことだ。3 つ めの未来への時間こそが、サードプレイスの真髄だ。


■ポジティブな「群れ」


サードプレイスでは、特定の友達は必要ない。誰かに会いに行くためにサードプレイスは存在していない。 それは、「会う」ために行く場所ではなく、自分も含めてそこで「いる」ために行く場所だ。


僕は、今年度発行されるであろう、『NPO 法人パノラマ 成果指標委員会報告冊子』でこんな発言をしている (http://npopanorama.wixsite.com/panorama PANORAMA)。



田中:そこは A 君とか B 君とか具体的な人ではなくて、なんか人がいるから来てるっていうのがサードプレイ スなんですよ。だから「人がいる」とか、「誰かがいる」っていうのはいいと思います。

高橋:カフェに行けば誰かに会えるっていうことですか?

田中:ややこしいですけど、誰かが「いる」と「会える」はまた違うものなんですよ。

石井:「いる」は別に会えなくてもいいんですよね。

田中:そう、「いる」がサードプレイスなんですよ。話したくなければ話さなくてもいいのがサードプレイスだか ら。これはめっちゃ重要な問いですよ。


「会う」とは、誰かが何らかの目的で他の誰かと出会うということだ。「いる」とは、特定の主語はもたないヒトが何人かその場所にいて、時に言葉をかわしながらも、言葉以前の互いの存在そのものを認め合うということだ と思う。


ドゥルーズガタリは『ミル・プラトー』ほかで(https://www.amazon.co.jp/千のプラトー-上-資本主義と分 裂症-河出文庫-ジル・ドゥルーズ/dp/4309463428 千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症)「群れ」の概念を 提示している。


群れでは、自我が立った個別の言葉は不要であり、生命体(ヒト限定ではない)がなんとなく集まり、時間と場 所を共有する。その群れは決して静かなものではなく、時には激しいグルーブを生じさせたりするが、そこには スローガンや反対運動もなく、分子のブラウン運動のように当たっては飛び散ることが繰り返される。 そこにあるエネルギーそのものには「否定」がないことが特徴的だ。


「いる」というあり方でしか説明できないこの場所(サードプレイス)では、ポジティブなブラウン運動が自我 を超えて飛び交う。時にそこでは諍いが起こるものの、そのコンフリクトはあくまでポジティブに僕には映る。


■「若い魂たち」を、サードプレイスの「変な大人」が癒やす


コンフリクト・摩擦をネガティブなものとしてくくるのは、あくまで近代社会(その尖兵である一部の保守的な 教師)だ。そして哀しいことに、ポジティブなブラウン運動を担うハイティーンは、近代の尖兵たちにいつも説 き伏せられる。


だからこそ、「変な大人」の教師がそこには必要になる。近代の規範から多少逸脱する少数の教師たちは、生徒に とって救いである。


が、原理的に規律規範側に属してしまう「変な大人」教師には、やはり限界がある。


そこで登場するのが、サードプレイスの中にいる「変な大人」だ (http://toroo4ever.blogspot.jp/2012/05/blog-post_27.html 「変な大人」が子どもを癒す~「変な大人」 論 1)。高校生居場所カフェでいうと、そこにいる若きスタッフでありながら変な大人でもある人たちだ。 これら、変な大人が、その変度には濃淡があるものの、存在そのものでハイティーンたちを勇気づけることは確 かなのだ。やがてはハイティーンたちの多くは変ではない社会(一般社会)にも戻っていくことになるだろう。


が、当事者がどこを目指そうとも、規律社会に傷つけられサードプレイスに流れてきたそれら「若い魂たち」を、 サードプレイスの人々は癒やす使命がある。 その、癒やす人々が「変な大人」であり、サードプレイスの元からいる住人たちだ。


以上、未来、群れ、変な大人という 3 要素が、サードプレイスのもつ意味とパワーだ。★