■50年前は構図がシンプル
今から思うと、ジョンが「power to the people 」と叫んだ50年前は構図がシンプルで、それは19世紀末からあまり変わっていなかった(見えにくい金融資本系権力はさておき)。
左翼が守る弱者は、黒人や女性であり、さまざまなマイノリティは黒人や女性という代表的マイノリティにいわば含まれていた。
50年たって、代表者的マイノリティには「利権」があることが(あるいは補償や賠償ほか諸々がくっついていることが)当たり前になり、その補償と利権を代行するサービスも、社会システムの中に位置付けられた。
代表的マイノリティには光が当てられ、the people にpower が与えられた。
■Power /権力が埋め込まれた
けれども、ジョンが行進し抗議した方法論は50年たっても残っている。その行進を共にすることによる連帯感や高揚感もまだ生きている。
ジョンのあの声も我々の記憶にしっかりと刻みつけられている。
けれども、ジョンが代弁しようとしたマイノリティの人々は50年たち、そのマイノリティの人々の身体の中に、
Power /権力
が埋め込まれてしまった。
身体の中に50年前にはなかった権力がしっかり根付き、そこにmoney /カネがまとわりつく。
■ジョンの魂の声が小さくなる
悲劇なのは、マイノリティ問題そのものは断片的段階的にしか解決しないので、その抗議と行進は人々を未だ惹きつける。
言い換えると、代表的マイノリティ問題のコアは僅かながら残り、そこにプロテストする「ジョンの魂」も残っている。
そのジョンの叫びに若い人々は未だ惹きつけられるが、いつのまにか気づけば(年齢を重ねれば)若い人々にはジョンの魂の声が小さくなり、利権で成り立つ日々の生活に流される。
その時、そもそもジョンが聞こうとしていた本当の当事者(サバルタン)の声が時折聞こえたとしても、生活のカネと日々の安定により、そのただでさえ聞こえにくい声が聞こえなくなってしまう。
それが2023年の現代だ。