◾️「表現すること」の極北は物語ではなく詩
「詩」は文学の根幹です。文学というか生き方とコミュニケーションの根幹だと思います。
たとえば『赤毛のアン』を見たり読んだりしていると、アン・シャーリーはいつも自分の気持ちを詩に託します。アンが夜、ダイアナの家の灯りを遠くに見ながらつぶやく詩は、何よりもアンとダイアナの結びつきを連想させました。
日本では、詩は哲学よりも人生の土台として機能してきました(和歌や俳句等)。ピンチョンの長い長い小説群でも、変な詩たちが常に飛び交います。
詩は、僕らの核心をいつも突くんですよね。
このことの共有がほぼ失われた現在、「ネタバレ」云々等の「物語」に束縛された価値観に、すっかりこの国と大部分の世界は覆われてしまいました。
たとえばゴダール作品は、映画を終わらせる手段として、「死」があります。主人公を死なせることで、物語を嗤う。物語とエンタメは二次的(どうでもいい)というわけです。
だから、たとえば宮崎駿監督の新作の物語やネタバレなどはどうでもよく、その映像に仕込まれた詩を感じることが、監督への正式な応答になります。これが倫理です。
「表現すること」の極北は物語ではなく詩なのです。
◾️対象aの代表格は、乳房・糞便・声・まなざし
「物語」の呪縛に我々は囚われています。
そこから抜ける手段としてメタファーとしての「詩」があるのだとしたら、その詩/メタファーたちが志向している世界は、おそらく、ラカンのいう言語獲得(2才)以前の「現実界 Réel」なのだと思います。
だから詩は、ラカンのいう「対象a/objet a/オブジェアー」でもあるんですよね。
対象aの代表格は、乳房・糞便・声・まなざしの4つだとよく解説されますが(乳児期の「対象」の代表格)、ラカンは幻惑的に「地中海に浮かぶ空き缶の煌めき」なども事例に挙げています。
つまりは、言葉に「縮約」されない世界そのもの/Réelであればなんでもいいのです。
オブジェaの源泉は、乳児期に日常的に接する乳房・糞便・声・まなざしが代表格でしょう。
けれどもRéelの時代、我々が乳児期の頃、世界は言葉でまとめられることなく、世界そのもので迫ってきていました。
それが光の煌めきだったとしても、それは「光の煌めき」とは決して縮約できず、その世界のありようそのままで乳児の我々を包んでいたんですね。
◾️Réelにギリギリ迫る
ましてや、「部分対象」として生きていた生後数ヶ月間は身体の統一性すらなく、乳房システム(乳房と乳と自分の口)、糞便システム(紙オムツと性器と交換する親の手)、声システム(親の声と自分の笑い声と自分の耳)、まなざしシステム(親の目と自分の目)という「部分」で我々は成立していました。
そのRéelの時代は絶対に思い出すことはできませんが、その頃同時にアタッチメント(愛着)が成立し始めていたとすると、それは絶対的な幸福の時代ということになります(反対に、だから乳児期の虐待の回復は長い長い時間を要する)。
その絶対幸福を事後的にイメージさせるのがオブジェaであり、詩です。
というわけで、メタファー(広義の比喩と狭義の隠喩)で構築される詩だけがそのRéelにギリギリ迫るんだと思います。
だから我々には、物語よりも詩が重要で(あるいは物語内に含まれる詩を見出すことが最重要)、表面的なネタバレ等は積極的に無視すればいいと僕は思います。
言葉以前のRéel そのもの〜たとえば赤ちゃん時の乳を飲むことの快〜は、絶対直接に表現できない悲しさが我々の人生の出発点なんですね。