■「憎しみ」
離婚後、親権をもち子どもと同居する同居親は、単独親権のもと親権を手放さざるをえなかった別居親に対して、ある種の「憎しみ」を抱いているように僕には映ります。
離婚後の共同親権は確実となり、現在はそのなかみが議論されている今、では、共同親権をもとにした共同養育はどれだけ可能なのかという、欧米の水準にやっと日本も立つことができます。
たとえば、ブラッドビッドとアンジェリーナ・ジョリーは、6人の子どもをめぐる共同養育のあり方について、いまだに議論を重ねています。
ふたりの心理面での詳細はわからないものの、そこには当然「憎しみ」のような複雑な感情が横たわっているのでしょう。
一方で、単独親権下でも現在、別居親に大きな制限はあるものの、それなりに子と会うことができている別居親も少ないながらもいらっしゃいます。
僕が観察しているかぎりでは、当然これも深い心理面はわからないものの、それほど互いの感情を掘り下げず、なんというか、子ども優先の「ノリ」でうまくいっているところが多いみたいです。
■憎しみの背景の自覚
このように、
①同居親の「憎しみ」を言語化することで共同養育への可能性が生まれるのか、
あるいは言語化せず、
②憎しみを抱いたままある種の「ノリ」で共同養育するほうが継続可能性が生まれるのか、
について明確化したいと僕は思っています。
言語化すると余計憎むような気もするし、言語化しないと共同養育は実は元夫婦が平等に拡大していかないのでは、という疑いもある。
けれども、自分の憎しみの背景を自覚するほうが、別居親への「許し」が生まれるように、僕は思ったりもします。
よくわからずに憎んで会わないよりも、これこれの理由で(互いの性格や定期的ケンカの理由や、あるいは「発達障害」的コミュニケーションのズレ等)憎むことになったと自覚するほうが、両者平等な共同養育に近づいていくと想像します。