【茜(あかね)さす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖(そで)振る】
この頃、日本のロックやジャズばかり聴いてきたと同時に、アメリカやイギリス、ブラジルやフランスほかの音楽も僕は聴く。
それらを聴けば聴くほど、日本語(という思考様式)の拘束について考える。
その「五七調の魔術」のようなものが、常に日本人の思考を拘束する。そこからどれだけ逃げようとしても、日本語で歌う限り、あるいは日本語で思考する限り、我々は「万葉の罠」のようなものに縛られている。
それならいっそのこと、その原点である万葉集に還ってみようと思った。全20巻のなかから、代表的な短歌をあらためて読んでいこうと思う。
ラカンやドゥルーズのいう象徴界le symboliqueに我々は2才頃の言語獲得後に入り込んでいくとして、それ以降死ぬまで行なわれる思考様式がこの独特な五七調で行なわれるのは不思議すぎる。
イギリスのパンクロックのように叫びきれない、母音の連なりと拘束と万葉の山々のこだまが、我々を2,000年以上(日本語成立の頃から)拘束している。それをぼちぼち研究しようかなと😀