tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

それは奈良盆地の早朝の霧になり、決して夜のロンドンにはならない〜万葉と五七の魔術①

この頃僕が思うのは、

 

日本語を使った瞬間、その曲は日本語に負けてしまう

 

ということだ。日本語の牽引力は凄まじく、それは結局は万葉集的ノリに遡る。和歌とはよく言ったもので、日本語には西洋的リズムは絶対に乗らない。

 

ここで挙げられているYMO や宇多田やヌジャベスも、結局は英語に走ったり日本語を捨てた。

 

 ※

 

日本語とは日本人の思考そのもので、それはどう足掻いても和歌的リズム、5、7、5的な、とてもぬる〜いが、なぜか早朝の奈良盆地の霧に包まれるようなリリックとリズムに包み込まれる。

 

背後にどれだけ最新の音を構築しても、それは和歌になる。だから清志郎のように和歌に徹したものは突き抜けていくが、多くは細野やヌジャベスや宇多田のように逃げる。

 

日本語をさらに研ぎ澄まし現代詩に近づけると(リリックからポエムへ)西洋的リズムの敗北は顕著になり、それらのポエムの完成度の高さと強い声は、日本ロックではなく

 

「現代的和歌」

 

になっている。

 

 ※

 

そういう拘束性の強い言語で我々の思考は日々積み重ねられている。若者中心に日本語の拘束を解こうとしても、それは初音ミクのようなボツになった万葉集みたいになる。

 

僕は、ここ数年日本の最新音楽ばかり聴いてきてこのことを痛感した。ただこのジャンルで仕事している人たちはこれに気づけない。

 

はっぴいえんども成功した現代和歌だったが、それは松本隆のリリックに加えて、万葉的ドラムスも大きかったと思う。

 

この、日本語の万葉的強靭な拘束性に気づいて諦めない限り、名曲はなかなか生まれない。

フィッシュマンズの曲は柏原譲のベース中心でリリックは単語中心、小沢は開き直って難解な現代詩に向かったが最近のものはすっかり万葉集現代和歌になっている。

 

日本語を使う限りロック(西洋的リズム)には限界がある。それは奈良盆地の早朝の霧になり、決して夜のロンドンにはならない。

 

そのかわり、盆地の早朝の霧には朝日が差し込んで溶け出し、独特の音楽を産む。ロックとしては最弱な言葉だが、現代和歌としてそれを捉えると、世界でも珍しいジャンルが成立している。

 

以上が、音楽について最近考えていることでした😀

 


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