この頃、Twitter BlueとFacebookで、自分の書くコメントによっては同じものをコピペして掲載するようになってきた。
Twitterはこれまで僕は、共同親権を中心として社会的なテーマでショートコメントしてきた。Twitter的短文ではそれはどうしても限界があり、だいぶポリコレ的な、タテマエ的社会派コメントとなった。
それは、この添付ブログにも書いた通り(初出はYahoo!だったので数万アクセスあった)、20代前半で始めた「さいろ社」的熱いパッションが背景にあるものの、パッションがあればあるほど何かを「落として」いく。
その落としたものはちょっと不気味で、熱い社会派テキストを書きつつ、どこかで僕は冷めていた。
■ポリコレ的情熱か、文学的彷徨か
だからたぶん僕は、28才くらいで支援者に転身した。
その転身には後悔はないものの、ポリコレを避けるがあまり、ストレートな社会派ステートメントを忌避する癖がついた。
不気味に抜け落ちるもの(フロイト的には「欲望」、文学的には「愛」「汚れ」「無垢」等)と、ポリコレ的怒りは問題の表裏であり、これをいかに同居させるかというのが、僕のテーマだ。
このアティテュードをまわりの人々に見てもらうことは、おそらく「支援」にもつながると想像している。
匿名中心のTwitterはポリコレ的情熱、実名のFacebookは文学的彷徨に近いと僕は思っている。TwitterがTwitter Blueとして、ほぼ文字制限がなくなると、この両者を融合させることができる。言い換えると、ふたつの別々の利用者に同じものを提供することができる。
■ポリコレの限界の突破
社会派ポリコレコメントなのか、個人的晦渋か。人々はあらかじめ諦めて両者を使う。
けれども、そのふたつをミックスしたコメント(社会派でありながらメタ視点を入れ、個人的にウジウジするコメント等)が並ぶタイムラインがあると、その存在自体が「脱構築」的起点となり、書き手(僕)と読み手を混乱させる。
その混乱に、ポリコレの限界を突破するものがあると直感する。
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【マイノリティ擁護/代弁のために我々は熱く語り書いたが、不思議なことにその行為は、「何 か」をこぼれ落とす。社会制度の理不尽さを訴える我々の言葉は、同時にそれが正義であればあるほど、人間の 持つ複雑な魂のようなものをすべてカバーできない。
その「何か」は、笑いだったりズルさだったり嘘だったり秘密だったり諧謔だったり皮肉だったり、人間のもつ あらゆる面を含む】