■コンサーバティブとは「時間の流れ」
保守というと消極的なイメージを抱きますが、コンサーバティブとは「時間の流れ」を積極的に受け止めることだと思います。
大きな時の流れに身を委ね、ちっぽけな近代的自我(これが左翼やリベラルやマルクス主義)に振り回されないこと。
焦って事を急いでも、そこには血と粛清と内ゲバが待っています。
日本には何本もの雄大な川が流れ、たとえば、若い時に見た最上川のゆったりとした流れを僕は忘れることができません。
身体や性や、子どもの成長とそれを見守る家族といった社会の根本原理については、言語的に急いでまとめて変化させず、最上川の静かなときのうねりのようなものに身を委ね、川のかたちが変わることを事後的に受け入れることだと感じるんですね。
それが、縄文時代よりたくさんの「移民」を何波にも渡って受け入れ、その後仏教も受け入れつつ身近な神々とも仲良くしてきた極東の島国の運命のように僕には思えます。
■事後的決定の中にこそ自由や個人を見つけた
時間の流れとその中での事後的決定は、拙速な意識的決定とは異なります。
フロイトやドゥルーズはその事後的決定の中にこそ自由や個人を見つけたのだと僕は想像しています。
事後的に発見する決定の手前には、意志では把握できないたくさんの「不気味なもの(フロイト)」が無意識の底に落とし込まれていきます。それらが大きな時間の中で何かのかたちになります。
その「かたち」がポジティブなものになって自然に現れるのを待つことがたぶんコンサーバティブであり、それは自然との積極的会話だと僕は思うんですね。
■人の回復と変容
僕はふだんの仕事では、トラウマで傷つく若い人たちやお母さんたち(時にはお父さんも)に寄り添う支援をしています。
気づけば、もう25年以上そんな仕事をしてきました。
その中でできることは、基本は「待つこと」です。
傷ついた人々の回復を待つだけではなく、時間という大きな川の流れを漂う子どもや親たちを、側で見守るような感覚です。
そうして時間という川を見守っていると、人はゆっくりゆっくりと変化していきます。
そして、事後的に「自分は少し楽になったかな」と気づく。
人の回復と変容は、こうした大きな時の流れの中でゆっくりと事後的に決めていくことのほうが、最も安心・安全なんじゃないかと僕は思うんですね😀