7/6のオンライン配信イベント「ワイルドサイドを歩けDJ」で取り上げる、ヴィム・ヴェンダース監督『パリ、テキサス』を30年ぶりくらいに見た。
久しぶりのヴェンダース作品は、その独特の「甘さ」は全開だったものの、僕の記憶より遥かに、主演の2人(スタントンとキンスキー)が「ふたりの記憶」そのものに縛り続けられている物語だと確認することができた。
ラストは子どもがらみで締めくくられるため上のテーマが散るが(このテーマの散逸が「親権」問題のコア)、テキサスの低料金テレクラみたいなところで繰り広げられる「記憶の確認」ドラマの後半1時間は圧巻。ナスターシャ・キンスキーが僕の永遠女優だったことを再認識した。
ヴェンダースは小津チルドレンだけれども、小津の「狂気」のようなものにはとても追いつけない。
けれども、小津のヒロイン原節子と匹敵するキンスキーを発掘したことは、ヴェンダースの功績ではある。
ヴェンダースを見ると、いかに小津が通俗的ドラマを避けているのかがよくわかる。小津作品ではおそらく、『パリ、テキサス』で描かれた父子の別れのようなものはスルーするだろう。
小津と異なりヴェンダースは、どうしても自分の思春期の甘美さを作品に残しておきたい人でもある。
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子どもと弟夫婦を除き、実質「ふたりだけの演技とカット」で構成される後半は、これこそが映画ではある。
一応ヴェンダースなりに、小津の名作群を反復している。
久しぶりに見て、僕はその「描きすぎ」のラストで少し泣いてしまった。
元(現?)夫婦が自分たちの長い物語を思い出しやりとりするなかで、自然と「子ども」の姿が背景化し潜在化していく過程を、映画を見るものは追体験できる。
『パリ、テキサス』の2人の大人は、圧倒的に孤独ではある。
その孤独を埋めるために、それぞれが、テキサスの幻の土地を歩いて探したり、テキサスの安テレクラで働いたりしている。
その過程で、「ふたりの間の子ども」はどんどん「潜在化」していく。実際に画面上でも、子どもはテレクラの外の空き地で時間潰しをしている。
次に子どもが「顕在化」するのは、ふたりの大人が孤独だった過去を置き、それぞれが親として戻ったあとだ。
だからキンスキーは子どもを4年ぶりに抱きしめ、スタントンは再び旅に出る。
ふたりの大人はずっと「愛」を求め続けてきた。その再会時に、孤独な大人2人は互いの孤独を埋めるが、その時間は子どもが潜在化した時間でもある。
つまり、子どもの潜在化は、「愛」を求め続ける孤独な親たちが産み出す。孤独な大人たちがその孤独を互いのコミュニケーションで埋めた時から、子どもの潜在化が開始される。
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「孤独を埋める愛」と「子ども」は、決して両立できないと僕は思う。
だから、ヴェンダース映画の「子ども」にはどこか悲壮感と物語感が漂っており、顕在化への欲望が垣間見える。
対して小津映画(ex.『東京物語』)での子どもにはそうした悲壮感はなく、物語の中にひきこもらない。逆に、常に明るく騒がしい。
「被害者」感を滲み出すヴェンダースの子どもとは対照的に、小津の子どもは物語(大人が紡ぐ悲しみの紋切り世界)に回収されずに常に適当に怒ったり拗ねたりする。
その小津の子どもの顕在性は、ニーチェが唱える「子ども/超人」概念のような肯定性にも通じる気もします😀