この作品を絶賛する人々に共通するのが、「見るたびに良くなる作品」というもので、確かに僕もそう思った。僕はAmazonで4回見たが、だんだん同作を「許せる」ようになった。
実は初見では、そのタイムスリップと低予算作品の紋切り型に我慢できず、前半は禁断の早送り鑑賞となった。これではダメだと思い、2回3回とチャレンジしたものの、タルコフスキーに慣れた目と脳からすると、なんというか、タルコフスキーとは別の意味で退屈だった。
すべては予定調和のエンタメで、そんなエンタメや人情ものも実は嫌いではない僕にとっても、ラストの対決以外はキツかった。
けれども、俳優らが時折見せる、演技やシナリオを超えた「人生そのもの」的な、ナマな生というか、その汗や息遣い、身体の所作等が徐々に迫ってきた。
多くの方が指摘するように、ラストの「真剣」設定の対決では、そうした身体性やla vie そのものが画面に満ち溢れている。
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この領域を感じてしまうと、批評の大部分を占める「低予算自主制作苦労エピソード批評」が邪魔になってくる。そんなエピソード批評によるフォローは、この映画の複数回視聴によりようやく見えてくる、不完全だからこそ現れる、人間の露骨な身体性を覆い隠す。
それは、映画制作の苦労話エピソードが逆に覆い隠す、人間の中途半端性と、身体の生々しさと、しゃべり言葉の弱々しさ等に見られる、人間世界そのものの魅力だ。
いわば我々は、繰り返しこの映画を見ることで、映画が持つ紋切りと約束事の世界を無視できるようになる。映像が陳腐すぎて、紋切りすぎて、つまらなさすぎて、それらシナリオと演出のレベルの鑑賞を放棄してしまう。
映画内映画(タイムスリップものの時代劇という設定を、現代劇というフィクションに包摂しているメタ映画)なんかもどうでもよくなる。
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代わりに何が現れるかというと、俳優たちの筋肉、声帯、涙腺、汗等の生々しさだ。その息苦しさ、たどたどしさ。
また、照明が届かない暗やみや、暗やみの中で走りうごめく人々も画面にぼんやりと映し出され、躍動する身体たちを後押しする。
そこでは、我々の人生というものが、①さまざまな身体性が交錯する瞬間のつらなりであり、②暗やみによる曖昧な輪郭で切り取られた輪郭と景色なのだ、という事実を暴露している。
単なるメタ映画とはわかっていても、見るたびに通常の映画的諸条件はどうでもよくなり、我々の人生そのものが持つ唯一性と単独性が浮かび上がってくる。
監督の意図かもしれないが、慌ただしい映画的紋切り編集の谷間に、ロングテイク・ロングショットが挟み込まれ意図的に時間が止められることも、一瞬これが映画であるということを忘れさせる。
こうした想いに至るまで、最低でも4回の鑑賞が必要だった、僕にとっては珍しい映画でした♪