ひきこもることでリアルな人間関係が抽象化され、あらゆるコミュニケーションがイマージュ化と理念化されていくようになります。
そうなることである意味「若さ」を維持する(ひきこもりはみな見た目が若い)のですが、一方で、イマージュ化と理念化により、現実に目の前にいる人が「遠い」存在になるんですね。箇条書きしてみます。
1.イマージュは「欲望」が産み出すもの(フロイト)ですが、同時にそれはリアルな人間関係を遠ざけます。思春期と熟年期に人間はリアルがなくてもイマージュに助けられ(流行語でいうと「推し活」)、そこに幸福を見いだすとともに、独特な「諦め」も生まれる。
2.理念は言い換えると「理想」になり、理想の人間(恋人・友人・指導者等)を追い求めることで目の前のリアルな人間に不満を抱きます。そして、そのリアルな人々への幻滅が心の中で変化していき、やがて「人間は元々たいしたことない」と置き換えられ、厭世気分に囚われます。
この置き換えが、ニーチェのいう「ルサンチマン」ですね(頭上にあるジャンプしても届かないブドウは、元々マズイものだったと置き換えるキツネ)。
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これらイマージュ化と理念化を追い続ける生活が長期ひきこもり生活を支えるものだと僕は考えますが、別にひきこもりにならなくても、こうした傾向を抱きつつそれなりに静かに過ごしているのが現代の思春期青年期だと思います。
僕の実感では、ここにある性差が徐々に縮まってきたと思われるものの、イマージュと理念の奴隷に男性ジェンダーのほうがまだ陥りやすいように感じます(「ジェンダー」概念の古さについても今回は割愛しますね)。
女性ジェンダーが抱く「推し」には、イマージュ化と理念化がなんとなく薄く、そこにはイマージュと理念というメタなレベル(分析的視点)ではない、もう少し直接の感情/エモーションのようなものを感じます(もちろんメタレベル中心の方もいます)。そのエモーションは「身体」とつながり、たとえばダンスのようなかたちで発露されていきます。
分析ではなくエモーションは、それがポジティブなものであれば、「幸福」につながるっぽいんですね(両「性ホルモン」のバランスの議論はここでは詳述を避けます。ただ現代のフェミニズム/セクシュアリティ議論は「社会構築主義」的視点を基準にしており、性ホルモン等の「本質主義」的視点を避けていることは指摘しておきますね)。
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ここ(メタではなくエモーション)の差異と、なかなかエモーションのレベルにたどり着けない動きの遅さが、男性ジェンダーの「生きづらさ」にもつながるように僕には思えます。
そこを突破するには、それら生きづらさを知った上で、日々の瞬間をどう肯定するかということに行き着き、その肯定のメカニズムを知ることで「つらさ」から抜け出すことができるんじゃないか、ということですね。
ここで話は、デリダが解読する、ジョイス『ユリシーズ』最終章で反復される「ウィ、ウィ」の議論にたどり着くわけです(『ユリシーズグラモフォン』)。
このウィを 大島弓子『バナナブレッドのプディング』的に言うと、「ミルクの差し出し」になるんですね(下記に添付)。
最初から他者を肯定し続けることで、いつのまにか「生きづらさ」が軽くなるんじゃないかという提言です。そしてここに「やさしさ」はどう関係するのか、というのが僕の最新の「問い」です🙏
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ミルクを差し出す(adresser)
「ライナスの毛布」は結局「ミルク」だった。正確に言うと、添付画面にある「さあミルクを飲んで」という言葉なのだろう。
高2の頃初めてこの作品(『バナナブレッドのプディング』大島弓子)を読んだ時は、主人公三浦衣良が終盤、髪で顔を隠すこの行為は、自意識過剰が主たる動機だとてっきり思っていた。
今回『バナナブレッド』を再読してわかったのは、自意識過剰は過剰でも、より自己否定的な側面が大きいということ。
自分/主体を持て余すことからくる顔の隠蔽というよりは、自分のような主体はいなくなったほうが世のためになるという思い込みを主人公は抱えている。
自分は「自分」を放棄できないという諦めは受け入れるが、ただ、今のままでは生きていくのが難しい。死の手前にいる主人公が選んだ行為が、だから前髪で顔を隠すことだった。
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顔を隠した主人公に救いの手を差し伸べるのは、『ライ麦畑』での妹のような近親者ではなく、主人公が淡い恋心を抱く先輩。
その先輩はミルクを差し出しadresser 、これを飲めば「心がなごむよ」と、ありきたりの言葉を投げかける。
そんな陳腐なシーンが『バナナブレッド』の山場なのだが、主人公は髪で顔を隠したまま先輩を見上げ、差し出されたミルクカップを握りしめる。
それまでの錯綜したコミュニケーションは、先輩のシンプルな言葉とミルクの差し出しという行為ににたどり着く。
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よく考えると、主人公の周りにいる親友も両親も友人たちも誰もそうしたシンプルな行為(ミルクの差し出し)に至らず、全員「複雑でcomplexe」反復する諸行為で主人公を支えようとした。
その中で先輩だけがミルクを差し出す(adresser 他者へと向かう)。そのadresserは一方的コミュニケーションではなく、差し出すというその行為には、「受け取ってくれる」という先輩の確信が混入している。
先輩は、主人公が顔(自分)を隠すというその行為に責任をどこかで感じているが、その責任には、「このミルクカップを受け取ってくれる」という確信が同居する。
またミルクを差し出された主人公は、他者(幼少期の薔薇の木がメタファー)からまさか礼以上の言葉(存在の肯定の言葉)「好き」を言ってもらえるとは思いもよらず、思わずミルクを受け取る(現実のコミュニケーションとなる)。
その責任と確信、ミルクという偶然の他者の「現れ」が、大島弓子がたどり着いた、
「他者を支える」「他者に支えられる」
ということなのだと思う(以上はデリダの議論でもあります)。
これらは、僕が日々の支援で目指していることです😀

