tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

「陰謀論」が世間に存在し続ける限り、その社会の「言論の自由」は守られている

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ロスチャイルドやロックフェラーやモルガン、19世紀初めのナポレオンのワーテルローでの敗北や20世紀初めのアメリカでのFRBの創設。ロシア革命ボリシェビキ創設の裏話。なによりもロスチャイルド家の紋章の意味や、創設者の子ども男子5人(ほかに5人の女子も)がフランクフルト・ロンドン・パリ・ウィーン・ナポリなどに分散して暴利を追求したこと。

 

加えて「ユダヤ」というターム。繰り返すが、ロスチャイルドの紋章。それが「盾」か「古銭」かはどうでもよく、そこに香る「陰謀」の匂いがその紋章の価値を際立たせる。

 

昨年末のアメリカ大統領選ではディープステート/DSという言葉が氾濫し、それは禁句として今年になっていつのまにか封印されつつあるが、要はロックフェラー系(新大陸系)とリベラル系人脈が結びつき、論者によっては「国際金融資本」、論者によってはグローバリスト等、現代世界を裏で統治する言葉として君臨している。

 

大統領選で敗北したトランプ派は、2ちゃんねるな人たちには正義の味方になっているが、正統的陰謀論(があるとして)からは、大陸系ロスチャイルドの新大陸での粘り、みたいなものとして捉えられる。

 

まあ、どっちもどっちなのだ。

 

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僕がつまらないなあと思うのは、上に書いた噂話が現代では陰謀論として簡単に葬られるということだ。

 

いろいろ読んだところでは、戦前の日本社会では、これら「陰謀論」が楽しい噂話として街中の雑談だったという。陰謀は陰謀としてあやしいかもしれないが、それはそれで真実も幾分含んでいるんだろうから会話として楽しもうよ、みたいな。

 

それが現代ではタブーになっている。

 

僕は、この陰謀論はいくぶんの真実を含んでいると想像している。だから、これを盲信することもせず、陰謀論として最初から否定することもせず、茶飲み話として我々の日常に含ませたほうが健全だと思う。

 

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新型コロナに関して、それは以下の陰謀論で語られる。

 

それは、DSの指示のもと、スイスのダボス会議とかほにゃらら会議とか、限られた富裕層の指示と新勢力(C国とか)の混合された思惑のもとに進められている陰謀というか出来事という語り。

 

実は、僕はわりとこの「陰謀論」を信じる(ピンチョン好きにはたまらない→ロット49とか重力の虹とか)。けれども、多くの人は鼻で笑うだろう。

 

そう、鼻で笑うことも含め、陰謀論陰謀論として消滅させないことがこの議論のポイントだ。

 

逆説的な言い方ではあるが、「陰謀論」が世間に存在し続ける限り、その社会の言論の自由は守られている。あやしい言説が、言論の自由には必要なのだ。

 

その意味で、今年は言論の自由が危ない。

 

 

 

虹の彼方に

 

※※※ 

 

アキラは娘のカナタに、これまで2回自分の絵を描いてもらった。一度はカナタが6才の頃、突然「ママをかく!」とカナタが叫んで始まったものだった。

それまでもカナタは何回かアキラと夫の絵を描いていたが、それはイメージで描かれたものだった。カナタがイメージするヒトのかたちがまずあり、その丸い輪郭の中に目や口などのパーツを描くやり方だった。

カナタの、ヒトや母という固定されたイメージを何度も描き、それは3才よりは4才、4才よりは5才と年齢が上がるたびに上手になっていったが、それはカナタによる絵という言語の発達とパラレルだった。

だが6才になって「ママをかく!」と始めたその絵は、キッチンに座ったアキラに対して「動いちゃダメ!」と言いながら、アキラとノートを交互に見つめ、カナタなりの母の肖像を描きこんでいった。

アキラはじっとはしておらず、時々立ってその絵の進行を観察した。イメージの母、といういつもの丸い顔ではあったものの、いつものイメージを描く線が微妙に揺れていた。その線にはカナタの自信が含まれていなかったのかもしれない。カナタは何回か消しゴムでその線を消し、別の線を上から描いていった。

アキラが驚いたのは、写生してできあがっていくアキラの顔に、カナタが鉛筆で斜線を何本も引き、「影」を描いたことだった。イメージの母には影の線はなかった。だが、この写生の母には、頬の部分に黒く太くななめに描かれた影の線があった。

カナタは納得いかず、その影の線をまた何回か消し、消した上からまた線を描いていった。写生のアキラの絵はそのたびに黒ずんだものの、雰囲気が出てる、とアキラは思った。

カナタはそれでも何度も何度も母を見つめ、初めての母の肖像が完成した。だいぶ黒ずんだ頬をもつ母の顔は、口の部分だけイメージで描いたのだろう、不自然に笑っていた。

その、最後の仕上げにイメージの口を描き始めた時、カナタはこちらを見ずにずっとノートを睨みつけて描いていた。

すると、アキラの目が涙で滲んできた。初めて、娘に写生してもらう喜びの涙だろうか。そこまで娘が成長したことの実感が、彼女にいま訪れているのだろうか。あるいは、娘に直視され続けたことが、母がいつも構えている心の壁を崩したのだろうか。

娘に知られたくないため、キッチンのテーブルの上にあったティシュでその涙を拭いたものの、自分の目が潤んでいるという自覚はアキラにはあった。

最後の仕上げのため顔を上げてこちらを向いたカナタに、アキラは笑みを返すことはできた。

「うまくいかないけど」娘のカナタは恥ずかしそうにしていた。「できた」

アキラはその絵の側に行き、絵についてほめた。

 ※※※

2回目は、カナタが大学4回生のはじめ頃だった。カナタはそれまで2年ほど「先輩」とつきあっていたが、先輩は社会人2年目に会社を辞めてパリに行き、そこに住み始めてしまった。

アキラは多くを聞かなかったものの、どうやら先輩とはその時点で別れたようだった。

「あ、そうか」とアキラは独り言をつぶやいた。「別れてしばらくたった頃だった」

季節は梅雨時だっただろうか。就職活動を始めていたカナタは、その日もスーツを着て出かけるようだった。だが徐々に雨が本降りになり、家の中からでも大きな雨音が聞こえてきた。するとカナタは、

「やめた、やめたー」っと、黒いかばんをソファに投げ出した。

アキラも、そんな土砂降りの中をくだらない就職活動をするのはバカバカしいと思い、「やめろ、やめろー」っと言って笑った。

するとカナタは、ソファに投げ出した黒いかばんの中からノートを取り出してそのままソファに座った。そして、

「ママを描いてあげる」と言い、「はい、そこに座って」と、15年以上前に座ったのと同じ椅子をボールペンで指した。

アキラはその展開がおもしろくて、娘に言われるままに椅子に座り、娘のほうを見た。自分が年をとってしまったのかもしれない、とふと彼女は思った。

「ママ、若々しい」と言いながら、カナタはボールペンで描いていった。

それはアニメのキャラクターのようでありながらも、不思議に実写感のある線だった。15年以上前と同じく、母のアキラはじっと座らず時々立って娘の絵を覗いた。鉛筆ではなくボールペンを使っているせいか、6才の頃より、その線はずっと細い。けれども、その細い線が描く影は濃密でリアルだった。

「上手よね」とアキラはつぶやいた。「こんなに上手なんだから、就職なんてやめて、マンガでも描けばいいのに」

「黙って座る」カナタは厳格に言って母を座らせた。そして、母のアキラの顔と、手元のノートを交互に見つめ、肖像画を続けて描いていった。

カナタのもとには、当たり前だがパリからの手紙は届いていない。先輩はパリの住所を知らせてきてはいたが、カナタから手紙を書くことはできない。2ヶ月前に届いた手紙には、ポルトガル人の女と話が合う、と先輩は書いていた。ポルトガル人とは英語で会話しているといい、お互い英語が下手くそだから話が合うんだろうハハハ、みたいに先輩は書いていた。

母の肖像画は、その頬に少しだけ斜線を書き込み、完成間近になった。カナタはパリのことは忘れてその頬に集中しようと思った。

「もうちょっとで完成するよ」とカナタが言った時、その目に涙が浮かび始めた。パリのことは頭の中にはなかったはずなのに、それは目の縁に留まっていたのかもしれない。

アキラは娘のその様子を見て、「それだったらコーヒーでも入れるよ」と言って椅子から立った。2つのカップにインスタントコーヒーを入れ、ポットから湯を注いだ。

カナタは、大きな声で泣き始めた。カナタ自身、なぜこんな大きな声で泣いてしまうのかわからなかった。先輩のことは吹っ切ったはずだ。いや、吹っ切っていなかったとしても、こんな大声で泣くことではない。

外の土砂降りの雨は続いていた。だからカナタの泣き声は誰にも届かず、ただ母のアキラのみが聞いていた。

母のアキラは、15年以上前に、6才のカナタに自分の肖像画を描いてもらった時、あの時は自分が泣いてしまったことを思い出した。

 ※※※

インスタントコーヒーといってもその香りは強烈で、母子を香りの空間の中に閉じ込めていた。娘のカナタはずっと泣いていた。母のアキラはその様子をじっと見つめていた。6才の娘に、あのあと私はどうしたんだっけ? 娘を抱きしめたのかな、それともつくり笑いでごまかしたんだっけ?

カナタはようやく泣くことを終えるようだった。雨も小ぶりになっているようだった。虹が出ているかもしれない。

6才の時、絵を描く自分を見て泣いた母のことなどすっかり忘れているカナタは、先程まで大声で泣いていた自分についてそれほど恥ずかしく思っていないないことに、自分でも驚いていた。そして、

次からは。と二人は思った。

次からは、

「絵を描く時は慎重に」と二人は同時に言った。

やっぱり親子なのか、言い回しも同じ感じで、「シンチョウニ」とハモった。

「そう、慎重に、だよ」と母のアキラが言うと、

「了解です!」と娘のカナタは答えた。

カナタの目に涙は残っていたものの、口元は笑っていた。その口元はイメージの笑いではなく、いま、この時の、22才のカナタがその土砂降りの雨の日に衝動的に浮かべ、雨がやんだあと外には虹が出ているかもしれない空気に包まれた、6才っぽくもある笑みだった。

 

情熱のポリティカルコレクトネス、その弱点

2017-04-07 Yahoo!ニュース個人より


■20 代の編集者時代


あれは僕が 23 才の時、友人の松本くんが「市民目線の医療雑誌をつくろう! 」と燃えて僕も同調し、さいろ社 (当時は別名だったが)という独立系出版社を共につくった。今風に言うと、出版社を「起業」した。


広告を一切載せず読者からの購読料のみで運営したため経営はたいへんだったが、スポンサーを意識せずに好き な特集を組めるため、さいろ社は徐々に評価され始めた。 雑誌の特集では、看護師不足や脳死臓器移植問題を取り上げ、全国紙や NHK にとりあげられもした。それらは 単行本になり、さらに話題を呼んだ(http://www.sairosha.com/hon/h-naze.htm 看護婦はなぜ辞める?http://www.sairosha.com/hon/sibo.htm 四つの死亡時刻 阪大病院「脳死」移植殺人事件の真相)。


当時、僕は編集者として不登校問題を取材し、記事にしていった。そのなかから「自己決定」を題材に単行本も つくったが(『子どもが決める時代』→残念ながら絶版)、その取材活動がきっかけとなり、20 代後半ころには 僕は編集者から支援者へとシフトしていった。 

また、「自己決定」というテーマは僕に長年とりつき、やがては大阪大学の大学院で「臨床哲学」(なんと、鷲田 清一先生が主任教授でした)を徹底的に勉強することになった。
その意味でも、さいろ社での活動、20 代の編集者時代は、僕にとって「原点」なのだ。


■「愛と汚辱」


看護師不足や脳死臓器移植、あるいは延命医療や院内感染、また不登校やひきこもりの問題について、その問題 のなかで苦しむ人々を取材し記事にしていくと、理不尽な社会のあり方についてふつふつと怒りのようなものが 湧いてくる。 

これでもかこれでもかと取材し書いていくと、医師や製薬会社や厚生・文部行政等だけが悪者ではないと思えて くるようになり、そうした構成要素を産んでしまうこの社会そのもの、日本そのものに対して怒りというよりは ある種の諦めのようなものも抱き始める。


その怒りや諦めは誰にぶつけていいのかわからない。が、患者や看護師や不登校の子どもや延命医療の当事者や その家族の話を聞くに連れ、「これではいけない」と思う。


その素朴な思いが、たぶん「正義」だ。あるいは、コレクトネス、正当性の根拠だ。


だから我々は(編集長の松本くんのパワーはすごかった)、超貧乏でありながらも、また世の中がバブル経済で 浮かれまくっている雰囲気をかいくぐるようにして、全国を取材し(地方病院の空いている病室に一泊させても らったこともあった)、潜在化するマイノリティの声を聞いて回った。そして、書き、本にした。


自分たちでは十分注意したはずだけれども、結果としてあれらは「情熱的なポリティカルコレクトネス」になっ ていたのだと思う。マイノリティ擁護/代弁のために我々は熱く語り書いたが、不思議なことにその行為は、「何 か」をこぼれ落とす。社会制度の理不尽さを訴える我々の言葉は、同時にそれが正義であればあるほど、人間の 持つ複雑な魂のようなものをすべてカバーできない。


その「何か」は、笑いだったりズルさだったり嘘だったり秘密だったり諧謔だったり皮肉だったり、人間のもつ あらゆる面を含む。

それらはおそらく、「正義」としては表象しきれないもので、アートや文学としてのみ表象す ることができる。ピカソや G.マルケス岡本太郎ジョニ・ミッチェルパティ・スミスボブ・ディランやサ リンジャーの作品がもつ「愛と汚辱」(サリンジャー短編「エズミに捧ぐ」のサブタイトルです)のなかに、その 「何か」は大量に含まれる。


■「銭湯評論家」に


僕はやがて青少年支援者に転身し、さいろ社編集長の松本くんはさいろ社を地道に続けながらもいまや「銭湯評 論家」として有名だ。彼は銭湯本を 2 冊も書き(https://www.amazon.co.jp/レトロ銭湯へようこそ-関西版-松 本 - 康 治 /dp/4864031827/ref=pd_lpo_sbs_14_t_0/356-8241704- 8603620?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=BCYXCMAF4PDT92WGP509 レトロ銭湯へようこそ 関西 版)、ラジオ等のメディアにも度々出演して日本の失われた「サードプレイス」の代表格である銭湯文化の素晴らしさを笑いとともに発信し続けている。


最近では、町中の大衆食堂にも注目し、地味~なサイトに延々と全国の「激渋食堂」を紹介している (http://www.sairosha.com/mesi/taishu/index.htm 激渋食堂メモ )。


さいろ社時代、我々はなぜか自分たちの雑誌の中にお笑いコーナーをつくり、本編の特集以上に力を入れて記事 をつくった。それは、「病院ぐるめ(病院食堂食べ歩き)」や「究極のくつろぎタイム(多忙な看護婦/師のため にスペシャルな時間を提供する)」といったコーナーだったが、これがハードな特集に並んで人気があった。


今から思うと、病院食堂食べ歩きや看護師たちと毎月おもしろ体験する(たとえばアニメ好きの看護師と「ドラ ゴンボール」アテレコスタジオを見学し、野沢雅子さんたちと記念撮影したりした)のは、「正義」からこぼれ落 ちる何かをひたすら拾い集めていたのかもしれない。


正当性や正義は、真面目に伝えれば伝えるほど、余計なものを削ぎ落とし、それは科学や統計の名の下に人々の 感情を振り落とす。


正義の言論はだから、時々暴力的になる。


現在の若者たちが思想的には保守的になり、人によっては「ネトウヨ」化しているのは、若者たちがこうした「正 義が生む暴力」の気持ち悪さを無意識的に感じているからだと僕は解釈している。 正義は反論できない狭さとなり、その狭さは若者にとって窮屈で、若者とは、サリンジャーの作品で常に描かれ るように、正義から溢れる「愛と汚辱」のなかで生き、イノセントな部分をいくらか引きずる人々なのだ。


それら、愛と汚辱とイノセントには、正義は狭すぎて荒っぽすぎる。


■スッキリ


サードプレイス探しやぐるめ探索だけにとどまらず、たとえばマツコ等のクィア的お笑いや、Facebook 動画を 用いての DJ 的語り(僕のタイムラインで最近「ワイルドサイドを歩け DJ!」というのを始めた)や、表現以前 のプライベートな感情、たとえば亡きペットへの悼みなどは、すべて「正義以前」「正義の手前にある何ものか」 である。


あげだしたらきりがないこれらに常にこだわり続けることが、正義が暴力になってしまうことを防ぐ手法だと思 う。人々はまだこれらを無意識に展開している。
さいろ社をつくって 30 年、だいぶ時間がかかったが、50 代のテーマにたどり着けて、この頃の僕はスッキリ している。★

 

 

涙を流すその人の深い感情を溜めている湖

少し前の当ブログで、僕は、人と人が接近する場所と瞬間に「涙」が不意に現れ、それはきっとリモートではなく直接のコミュニケーションの場所から現れるのでは、と書いてみた。

tanakatosihide.hatenablog.com

 

この記事で最後に触れたのがレイモンド・カーヴァーの「大聖堂」だった。詳しくは上記事のラストあたりを流し読みしていただきたいが、人と人がわかりあうとても不思議な場所と瞬間について、カーヴァーは文学を通して語っている。

 

この「わかりあい」は、なにも互いが家族や親友である必要もなく、まったくの他人で、しかも互いのパーソナルな物語を知らなくてもやってくるものだと思う。

 

カーヴァーの場合は2人が描く大聖堂のスケッチだった。

 

僕の場合は、面談支援中に突然訪れるクライエントの方の「涙」を通してそのコミュニケーションがやってくる。

 

僕も時に涙ぐむこともあるその突然の感情の露出により、我々はわかりあえた気になる。

 

それはどうしてなのだろう?

 

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もちろん、嘘泣きもある。あるいは勢いで表出される涙もある。僕は、いずれも否定はできない。嘘泣きの中にも重層的な感情の重なりがある。勢いの中にも、深い場所からの感情の吐露が混合している。

 

涙や、そこに至るまでの会話や手の重なりは、とても特別なものだ。

 

僕がこの頃思うのは、ことばでは表せない複雑な感情が現れた時、別の記号で人はその感情をもうひとつのことばで表現しようとするのではないか、ということだ。

 

ことばは同時に意味だが、涙にも意味がある。その液体が現れる深い場所には、涙を流すその人の深い感情を溜めている湖のようなものがある。

 

その湖はふだんは心の鍾乳洞のような場所の奥で薄暗いきらめきとともにひっそりと存在しているが、何かのトリガーにより湖面がゆらぎ、そのゆらいだ湖面から水のようなものが外部に送られる。

 

僕が関心があるのは、そのトリガーと、湖に長い時間をかけて蓄えられる目に見えないが重たい液体のようなものだ。

 

僕は勝手に、その重たい液体をエメラルドのような色をもった液体だと解釈している。人の短い歴史の中に沈殿していき、そのエメラルド色の液体が、何かのきっかけでそこにいる2人(さまざまな「2人」というあり方)の距離を一気に縮める。

 

その短くなった距離をきっかけに、我々はある日、なにか「救われた」ような気分になる。

 

 

「オレンジ革命」は、こんなやさしい感じの変革~共同親権社会へ

 【Yahoo!ニュース個人 公開日時: 2020-09-26 08:03:09

概要文: 少なく見積もっても毎年数万人の子どもたちがトラウマを抱き、「僕たち子どもの声はまったく届か ない」と嘆かせてしまうこの強固な社会システムを、我々自身の「やさしい力」によって変える時が来ている】

 

■人々のコミュニケーションがポジティブに変わりそう

 

「革命」と言えば激烈な印象があり、国民自ら変革することが苦手な日本としては最も縁遠い出来事なのかもし れない。

 

だが、いま日本では、とても静かではあるが、革命というか変革というか、社会や人々のコミュニケーションが ポジティブに変わりそうな事態が進行しているように僕には思える。

 

その変革とは、当欄でもたびたびとりあげ、前回も「オレンジパレード@大阪」として紹介した「共同親権・共 同養育」社会のことだ)。

 

離婚後、親権が同居する親側のみに移行する「単独親権システム」はもはや世界でも少数派で、日本を含めて数 ヶ国しか存在しない。

 

欧米を中心にほぼ世界は「共同親権システム」に移行している。「平日は一方の親、週末はもう一方の親」というあり方(たとえば、一時期のブラッド・ピット/アンジェリー ナ・ジョリー元夫妻)、隔週で子どもと同居する親が入れ替わる方法(フランスではこれが多数派だと言われる) など、その形式は国や各元夫婦で異なるだろう。

 

それぞれがそれぞれの共同親権・養育を模索しつつ、一番肝心な「子どもにとってどのスタイルが居心地がいい か」を模索する。

 

夫婦の仲と親子の関係を切り離し、最大の「当事者」である子どもにとってどういう生活スタ イルがベターなのかを模索するのが共同親権・養育の考え方だ。

 

日本では、フェミニズムの強い影響下からどうしても女性(妻)保護が優先され、その結果「虚偽 DV」が捏造 されたり「子どもの拉致 abduction」が実行され、本当に多くの(年間数万人単位の)子どもと別居親が泣いて きた。

 

「子どもの利益の最優先」を考えた場合、そうした DV 現象がある場合は従来の単独親権のままとし、加害親か ら遠ざけていけばいい。

 

だがそれ以外の多数の親子は上のような共同養育を模索する。それが「共同親権システ ム」社会だ。

 

■「オレンジ革命

 

だから、共同親権・養育社会システムは限りなく子どもサイドに立ったもので、本来は非常に「やさしい」システムなのだ。

 


これまではどうしても単独親権と対立的に語られることが多く、また「親権」という堅っ苦しい言葉がくっつい ているため、それがやさしい社会変革だと想像することは難しかった。

 

だが、今回で 3 回めとなった「オレンジパレード」を終わってみて徐々にわかってきたことは、それは人々のコ ミュニケーションを変えてはいくものの、子どもにとっては「やさしい変化」だということだ。

 

それは、夫婦関係のそれとは違い、子ども(と親)にとっては一生変わることのない「親子関係」のあり方を再 構築し続けるものだ。そうした新しい親子イメージが、当日パレードの参加者(別居親の方)によってこのような短い動画に編集され ている(何本かあるうちのひとつを添付しますが、関心ある方は Twitter をご参照ください)。

 

 

 

これに対して僕は、こんなツイートを思わずしてしまった。

 

 

 

「革命」なんていう言葉を使うつもりはなかったが、このやさしい雰囲気の動画がなぜか僕にそうした言葉を選 ばせた。

 

これは従来言われる激烈な革命ではなく、オレンジ色につつまれ、人々をやさしく包み込み、何よりも両親が離 婚した子どもたちに「安心」を与える変革で、これまでだいぶ狭い意味で「親権」を扱ってきた日本社会からす ると、「革命」と呼んでも差し支えない変革なのだ。

 

「○○革命」は、世界では政治体制の大変革を称するものとして、これまでは用いられてきた。その○○には色 や布地などの用語が当てはめられる。

 

日本は政治を国民自身が変革することはこれからも苦手だろうが、もしかして「家族のコミュニケーション」の 変革を、我々自らが成し遂げることができるかもしれない。

 

もう、「vs.単独親権」などといった狭い土俵から降り、世界では家族の普通のコミュニケーションへと変えてい く時期に来ている。


それが、


オレンジ革命


ではないか、ということだ。

 

■「やさしい力」でオレンジパレード

 

オレンジ革命という言葉の響きに合わせて、以下のような諸々のマークが 登場している。

 

まずは「フラッグ」。

 

 

前回も紹介したが、T シャツ。

 

 

お子様ランチ風(?)小旗。

 

 

 

そしてブログ。

 

 

 

ほかにもいくつもの連動した動きは見られる。

 

こうした、「中心」は存在しておらず、各自がそれぞれの創意工夫で「オレンジ革命」を静かにつくりあげていく ことも、この「やさしい社会革命」の特徴だ。


とにかく、少なく見積もっても毎年数万人の子どもたちが寂しい思いをし時にはそれがトラウマとなり、「僕た ち子どもの声はまったく届かない」と嘆かせてしまう現在の強固な社会システムを、我々みずからの「やさしい 力」によって変えていく時が来ている。

チルドレンファーストの地点にみんなが立って——共同親権vs.単独親権の、恩讐の彼方に

ついに、上川法務大臣により、離婚後の「養育費」と「共同親権」に関して、2月より法制審議会にかけられることになった。これにより、20年来の課題である民法改正が大きく進むことになる。

 

www3.nhk.or.jp

 

従来、離婚後の子どもとの「面会交流」を望む「共同親権」を支持する親たちと、DV被害を恐れる「単独親権」を支持する親たちが鋭く対立してきた(それは当コラムでも度々取り上げている)。

 

そこに、思想的対立(フェミニズム等)も絡み、同問題は長らく停滞してきている。

 

その最大の被害者は、「子ども」である。

 

小さな子どもはなかなか声をあげることは難しい。

 

そうした子どもが「自分の言葉」を完全に獲得するのは思春期以後だからだ。それまで、子どもという存在は、自分に近い大人たちの言葉や価値に「合わせて」生きる。そうすることで、子ども自身が、自分の存在の維持を無意識的に確保しようとする。

 

それはいわば、子どもによる究極の自己防衛だとも言える。近しい大人の考えに「合わせる」ことで子どもは自分の命を守る。

 

そうした事情から、「子どもの言葉」はずっと封印されてきた。離婚による最大の被害者であり「当事者」は子どもであるにもかかわらず、その「沈黙する当事者」の声が封印されてきた。

 

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そうした現状に対して、上川法相はこのように語る。

 

上川法務大臣は、記者会見で「父母の離婚で子どもは心身に大きな影響を生じ、親子の交流の断絶など深刻な影響も指摘されている。女性の社会進出や父親の育児への関与の高まりなど、養育の在り方も多様化している」と述べました。

そのうえで「チルドレンファーストの観点で具体的な検討を行っていただきたい」と述べ、民法などの必要な法律を改正するため、来月にも、法制審議会に諮問することを明らかにしました。

離婚後の養育課題解消へ “法律改正へ来月にも諮問” 法相 | NHKニュース

 

ありふれた言葉ではあるが、この「チルドレンファースト」という言葉が、この、共同親権と養育費をめぐる問題のキーワードとなるだろう。

 

この問題に長年取り組んできた串田誠一議員も、以下のようにツイートしている。

 

 

対立の議論、すなわち「共同親権vs.単独親権」「自由な面会交流vs.当たり前の養育費」等々の、長らく対立してきた諸観点を乗り越え、「チルドレンファースト」の一点で関係者がまとまることが求められている。

 

もうこれ以上、子どもたちに我慢させてはいけない。涙も流させてもいけない。小さな子どもに沈黙させてはいけない。

 

それが、「大人」の最大の倫理と責任だと僕は思う。

 

そう、恩讐の彼方にみんなが立って。

パーフェクト・デイ   (短編小説)

大学に入ることができたカナタは高校の知り合いたち全員と離れることができ、大学で先輩とも出会うことができ、ずいぶん毎日がおだやかになってきた。大学ではほかにも話し相手ができたものの、高校の頃のことは友だちにも先輩にも話していなかった。

その日の朝、高3のカナタは、旅行鞄に3泊分の着替えを詰め込み、最寄りの駅まで自転車でなんとかたどり着いた。鞄を抱え、それとは別にリュックを背負い、自転車置き場から改札へカナタは歩いていった。

気分は重かった。いつもの改札口がいつもより狭くなっているように感じた。いつもの定期券も少し重くなったように感じた。

自動改札の手前で、大きな猫柄の鞄を持つ中年女性がいた。その鞄には猫の絵が描かれているだけではなく、鞄の中から本当に猫の鳴き声がした。

女性は、「黙って、お願い」と鞄に向かって語りかけていた。だが鞄からはか細い猫の鳴き声が響いていた。

女性はそのまま改札に入るかどうか迷っていた。このままではすぐに電車には乗れない。女性は猫柄鞄を持ったままベンチに座り、鞄の外から話しかけている。「このままだったらお家に帰らなくちゃいけないよ」

カナタはその女性と猫柄鞄をずっと見ていた。それだけ改札の手前で猫の声が響いていて気になったというのもあったが、その猫の声がカナタに「改札に入らなくてもいいんだよ」と語りかけている気がしたのだ。

「お腹空いてるのかも」とカナタは女性に話しかけた。

「朝早かったけど、しっかり食べてたのよねえ」と女性は答える。不思議と、動物や赤ちゃんが間に入ると、知らない人同士でも話し合えるものだ、とカナタは思った。

「わたし、スルメを持ってた」とカナタはおやつが入った袋からスルメを取り出した。「こんなの食べるのかしら」

「まだスルメを食べるのは見たことないけど」と女性は笑って答え、「どれ、試しに食べさせようか?」

女性が鞄を開けると、トラ猫が首だけ出した。「あ、それ以上はだめよ、トロオちゃん!」

「トロ?」とカナタは聞いた。

「トロオなの。変わっているでしょ?」と女性は笑いながらカナタからもらったスルメを猫のトロオに差し出した。

トロオは目を細めてスルメの匂いをかぎ、慎重にそれをくわえてみた。

可もなく不可もなく、まあまあの味だな、という感じで、トロオは飼い主の女性を見上げた。

「偉そうだけどかわいいですね」とカナタは言った。

「そうなのよ、トロオちゃん、もう15才なのよ」と女性。

「なぜ改札に入りたくなかったのかな」とカナタは聞いてみた。

「そうねえ、たぶん」女性はトロオが鞄から飛び出ないよう、再びファスナーを閉めた。「電車に乗りたくなかったんじゃないかな。そんな子なんです」

カナタは、もう猫柄の鞄に収まってしまった猫のトロオの表情を想像した。トロオは偉そうに爪の間を舐めているのではないかと想像した。さっきまであれほど鳴いていたトロオは鞄の中では静かになっていた。

「あら、スルメが効いた!」と女性は笑った。「そういうことなのね、今日は電車に乗る日じゃなかったのよ」

女性はベンチから立ち、駅とは別の方向に歩き始めた。

「どこへ行くんですか?」とカナタは聞いた。

「イオンにでも行って、上等の缶詰を買ってあげようかなあ」と女性は答えた。「スルメ、ありがとう」

そのあと、カナタも、駅のコインロッカーに大きな旅行鞄を詰め込んで自転車置き場に戻り、再びその古びた自転車を発車させた。

その日からの修学旅行を、こうしてカナタはやめることにした。

 ※※※

旅行鞄がなくなったので、自転車は少し軽くなった。カナタは、高校とは反対側の方向へ、国道の端を自転車で進んだ。高校方面から逆に行くと、その国道はすぐに海岸にぶつかり、左に海を見ながら延々ワインディングロードが続いていた。

車は少なかったものの、風が強かった。こんな「逃避キャラ」は自分ではなく母のアキラだったのだが、カナタは修学旅行に行くよりはマシだと思っていた。

なぜわたしはこんなに修学旅行がいやなんだろう。

カナタは独り言を漏らした。自転車を漕ぎながら考えたものの、はっきりとした答えは見つからなかった。確かに先生も友だちも嫌いだけど。

高校の一大行事である修学旅行を休むほどの理由にはならない。管理されたスケジュールは心底いやだったし、友だちとのワンパターンの会話にも吐き気はした。だが、客観的には優等生のカナタが、2年以上に渡って耐えることのできたそれらの腐敗したシステムと人物たちを、たった3泊4日くらい我慢できなくなるとは自分でも信じられなかった。

そんなふうに修学旅行をパスしてしまうと、たぶん今日の午前には家か母の携帯に学校から連絡が入る。すると、母や父は心配するだろう。

とは思いつつ、自転車をカナタは止めることができなかった。

「あのトロオちゃんという猫も」とカナタはクスリと笑いながら言った。「いやなことには自己主張した」

わたしも。

カナタは自転車を漕ぎながら声に出してみた。「わたしも」

その声は少し自信がなさそうな細いものだったが、落ち着き始めていた。大型トラックがカナタの横を猛スピードで追い抜いた時も、

「なんだよ!」

と叫びながら、彼女はペダルに力をこめた。その力は、猫のトロオちゃんからのプレゼントのような気もした。

 ※※※

海沿いに大きな食堂があり、そこは観光名所らしく、何台も車が行列になっていた。カナタはその駐車場に自転車を停めて、少し休むことにした。

おやつ袋から朝のスルメを取り出して、口に入れてみた。塩っ気が絶妙で、これはトロオちゃんの機嫌もなおるわけだ。

人間に慣れている白い鳥たちがカナタのそばに5〜6羽近寄ってきた。スルメを鳥に差し出す気分にもなれず、カナタはそれらのトリが鳴きわめくのを傍観していた。

すると、観光客らしい家族が何組かその鳥たちに近づいてきた。鳥は自分たちに近づく人間を見ると大喜びで、だみ声で鳴き続けた。

家族の中の、幼稚園児らしき女の子が、鳥に話しかけている。

「カモメさんだよね?」白い鳥たちは子どもから2メートル程度離れた防波堤の上に並んでいた。「カモメさんだよね?」

横にいた母親らしき女性が、「カモメはね」と言った。「カモメはね、ゆっくり話しかけると人間が何を言ってるのかわかるんだよ」

「知ってるよ」と女の子は答えた。だが、そこから続かず、困った表情を浮かべ、母親を見返した。

「カモメさん、どこに行くの?」と聞いてごらんよ。母親らしき若い女は子どもに向かって答えた。「カモメさん、どこ行くの?」

「ああ、わたしが言うから!」女の子は母を制し、母と同じように聞いてみた。

「カモメさん、どこ行くの?」

母と娘は白い鳥たちからの返答をしばらく待っていた。最初にしゃべったのは母のほうだった。

「聞こえた?」母親らしい女性は笑っている。すると、その子どもは、

「聞こえたよ!」と大きな声で答えた。

母親はクスクス笑いながら、「なんて答えた、カモメさんは?」と聞いた。

女の子は、「ディズニーランドへ帰るんだって」と答えた。

そうしたやりとりをすぐ近くで聞いていた17才のカナタは、吐き気がした。

そして、目に涙が浮かんできた。口に含んだスルメのしょっぱさが痛いような気がした。

彼女は、「だからわたしは逃げてるんだな」と漏らし、大急ぎで自転車に再び乗ってその場所を離れた。

 ※※※

それからまた1時間自転車を漕ぐと、巨大な橋がカナタの目の前に現れた。カナタは自転車を停め、遅めのランチをとった。母のアキラが修学旅行のバスの中でとつくってくれた弁当だった。

先ほどの気分の落ち込みも、その弁当の味と目の前の巨大な橋の光景によって救われていた。

白い鳥と少女と若い母のやりとりのどこに吐き気がしてどこに泣きそうな気がしたのか、カナタにはわからなかった。だが、あの時あの場所をすぐに離れたのは正解だった。

ああした光景は今のわたしには毒だとすると、当然のことながら学校はもっと猛毒なので、じゃあわたしはどこに行ったらいいんだろう? とカナタは思った。一般的な居場所はわたしにとっては毒や猛毒だったりする。じゃあわたしはこの先、どこに安住することができるんだろう?

カナタはその場所で、考えたりコーヒーを飲んだり残りのスルメをかじったりしながら(携帯にも文字を打ち込んだりしながら)夕方近くまで過ごした。結局、帰る場所は家しかなく、再び2時間自転車を漕いで帰ると、もう暗くなっていた。家に近づくと、いつもより人が集まっており、カナタを発見したとたん歓声が沸き起こった。母にはずいぶん叱られ、父は泣いていた。

それから3日間、カナタはいつものように高校に通い、図書館でひとり自習をした。その自習した長い長い時間よりも、カモメと少女と若い母親から一生懸命逃げた1時間のほうが何十倍も長く感じた、と19才のカナタは、いま思う。本当に変な1日だったな。

明日、その変な1日について、先輩にがんばって話してみよう。人に話すのは初めてだけど。