tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

涙を流すその人の深い感情を溜めている湖

少し前の当ブログで、僕は、人と人が接近する場所と瞬間に「涙」が不意に現れ、それはきっとリモートではなく直接のコミュニケーションの場所から現れるのでは、と書いてみた。

tanakatosihide.hatenablog.com

 

この記事で最後に触れたのがレイモンド・カーヴァーの「大聖堂」だった。詳しくは上記事のラストあたりを流し読みしていただきたいが、人と人がわかりあうとても不思議な場所と瞬間について、カーヴァーは文学を通して語っている。

 

この「わかりあい」は、なにも互いが家族や親友である必要もなく、まったくの他人で、しかも互いのパーソナルな物語を知らなくてもやってくるものだと思う。

 

カーヴァーの場合は2人が描く大聖堂のスケッチだった。

 

僕の場合は、面談支援中に突然訪れるクライエントの方の「涙」を通してそのコミュニケーションがやってくる。

 

僕も時に涙ぐむこともあるその突然の感情の露出により、我々はわかりあえた気になる。

 

それはどうしてなのだろう?

 

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もちろん、嘘泣きもある。あるいは勢いで表出される涙もある。僕は、いずれも否定はできない。嘘泣きの中にも重層的な感情の重なりがある。勢いの中にも、深い場所からの感情の吐露が混合している。

 

涙や、そこに至るまでの会話や手の重なりは、とても特別なものだ。

 

僕がこの頃思うのは、ことばでは表せない複雑な感情が現れた時、別の記号で人はその感情をもうひとつのことばで表現しようとするのではないか、ということだ。

 

ことばは同時に意味だが、涙にも意味がある。その液体が現れる深い場所には、涙を流すその人の深い感情を溜めている湖のようなものがある。

 

その湖はふだんは心の鍾乳洞のような場所の奥で薄暗いきらめきとともにひっそりと存在しているが、何かのトリガーにより湖面がゆらぎ、そのゆらいだ湖面から水のようなものが外部に送られる。

 

僕が関心があるのは、そのトリガーと、湖に長い時間をかけて蓄えられる目に見えないが重たい液体のようなものだ。

 

僕は勝手に、その重たい液体をエメラルドのような色をもった液体だと解釈している。人の短い歴史の中に沈殿していき、そのエメラルド色の液体が、何かのきっかけでそこにいる2人(さまざまな「2人」というあり方)の距離を一気に縮める。

 

その短くなった距離をきっかけに、我々はある日、なにか「救われた」ような気分になる。