tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

本質主義か構築主義か

社会構築主義をベースにしたフェミニズムがここ40年ほど世界を席巻したことから、ここで述べられるような本質主義が極端に排除されてきた。「染色体」ベースの議論はもちろん、「性ホルモン」の違いによる両性の差異と両性ホルモンのバランスから来る個性のあり方などは、構築主義下ではある意味タブー化されてきた。

 

構築主義の視点に立つと、両性ホルモンの区別は「性の二項対立」として捉えられ、女性差別の根拠にもなる。

 

二項対立とは別のオーダーで、性ホルモンが織りなす個性の異なりは、「性の多様化」「性のグラデーション」として議論されている(「セクシュアリティ」の視点)。そしてそのグラデーション下にある人々は、自らの性を「決定」するため長い苦悩の年月を過ごし、ホルモン投与やオペ等でその決定を実行している(グラデーション下にありながら両性のいずれかを決定する矛盾)。

 

性の二項対立かグラデーションか。本質主義か構築主義か。このリジッドな議論にそろそろ別れを告げ、ここで指摘されている「生物学的」視点にも冷静に立つことが重要だ。

 

社会が長い年月の中で構築した性のあり方(いわゆる「ジェンダー」の視点)も重要でもあり、人々が巻き込まれた「構築主義の40年」も完全には否定せずに、それこそ両議論を「脱構築」する時が来ている😀

 

 

「自由な風」〜中学校内サードプレイスの理念

義務教育内において、現在いくつかの「支援」リソースが用意されています。特に「校内サードプレイス」と「校内サポートルーム」との区別はわかりにくいのですが、校内サードプレイスは「サードプレイス効果をもとにした予防」的な雰囲気と効果の醸成、校内サポートルームはまさに「不登校支援」という差異があります。

 

サードプレイスという視点で見ると、校内サードプレイスはよりその意味が純粋であり、校内サポートルームには「セカンドプレイス(学校)の補完機能」という意味も強いと考えられます。

 

ただし、この2つを明確に区別する必要はないと僕は考えます。この2つが「予防」と「支援」として区別され、利用者も、生徒全般と不登校生徒に区別されてもいいでしょう。

 

けれども、中学によっては、運営主体は教員だけであったり、外部ボランティア(あるいは専門家)と教員との連携であったりする中学もあるようです。高校内居場所カフェのようにNPOという組織がフォーマルに関わるだけではなく、より柔軟なあり方が許されるのが「校内サードプレイス/中学生サードプレイス」の利点だと僕は思います。

 

中学によっては、支援と予防が混在するケースもあるということです。

 

 *

 

だからこそ、中学生サードプレイス/校内サードプレイスを考える時、

 

①理念
②具体的資源

 

この2つの意味を明確化することは重要だと思います。中学生サードプレイスにおいて、

 

①セカンドプレイス内にあるサードプレイスの効果を理念的に明確化し、

②それは高校内居場所カフェのようにNPO的組織関与は優先されず、具体的リソースのあり方としては比較的自由な形式(教育や専門家やボランティアの自由な関与)を持つ、

という2つの意味を明確化することです。


特に①理念の意味が校内で共有できれば、その②具体的あり方においては自由度が増します。

 

言い換えると、サードプレイスという理念がそのリソースにおいて明確であれば、そこでの「予防的効果」と「支援的効果」の意味が区別できるということです。

 

つまり、支援的効果(サポートルーム)の中に予防的効果(サードプレイス)を含ませたとしても、サードプレイスの理念をしっかり明確化していれば、サポートルームとサードプレイスの合体は可能です。

 

 *

 

逆に、「サードプレイスの理念」が不明瞭であれば、校内にある支援機関(サポートルーム・カウンセリング・ソーシャルワーク)のセカンドプレイス的補完機能が際立ち、どちらかと言うと窮屈な雰囲気が醸成されるでしょう。

 

その意味で「中学生サードプレイス」とは、その理念と具体的資源を通して、校内に一つの「風」を吹かせるものなんでしょうね。

 

この風を言い換えると、ある種の「自由な風」です。サードプレイスという自由な風がフォーマルに存在する学校では、それこそ生徒と教師の笑顔も増えるんだろうと僕は思います😀

イマージュと理念の奴隷

ひきこもることでリアルな人間関係が抽象化され、あらゆるコミュニケーションがイマージュ化と理念化されていくようになります。

 

そうなることである意味「若さ」を維持する(ひきこもりはみな見た目が若い)のですが、一方で、イマージュ化と理念化により、現実に目の前にいる人が「遠い」存在になるんですね。箇条書きしてみます。

 

1.イマージュは「欲望」が産み出すもの(フロイト)ですが、同時にそれはリアルな人間関係を遠ざけます。思春期と熟年期に人間はリアルがなくてもイマージュに助けられ(流行語でいうと「推し活」)、そこに幸福を見いだすとともに、独特な「諦め」も生まれる。

 

2.理念は言い換えると「理想」になり、理想の人間(恋人・友人・指導者等)を追い求めることで目の前のリアルな人間に不満を抱きます。そして、そのリアルな人々への幻滅が心の中で変化していき、やがて「人間は元々たいしたことない」と置き換えられ、厭世気分に囚われます。

 

この置き換えが、ニーチェのいう「ルサンチマン」ですね(頭上にあるジャンプしても届かないブドウは、元々マズイものだったと置き換えるキツネ)。

 

 *

 

これらイマージュ化と理念化を追い続ける生活が長期ひきこもり生活を支えるものだと僕は考えますが、別にひきこもりにならなくても、こうした傾向を抱きつつそれなりに静かに過ごしているのが現代の思春期青年期だと思います。

 

僕の実感では、ここにある性差が徐々に縮まってきたと思われるものの、イマージュと理念の奴隷に男性ジェンダーのほうがまだ陥りやすいように感じます(「ジェンダー」概念の古さについても今回は割愛しますね)。

 

女性ジェンダーが抱く「推し」には、イマージュ化と理念化がなんとなく薄く、そこにはイマージュと理念というメタなレベル(分析的視点)ではない、もう少し直接の感情/エモーションのようなものを感じます(もちろんメタレベル中心の方もいます)。そのエモーションは「身体」とつながり、たとえばダンスのようなかたちで発露されていきます。

 

分析ではなくエモーションは、それがポジティブなものであれば、「幸福」につながるっぽいんですね(両「性ホルモン」のバランスの議論はここでは詳述を避けます。ただ現代のフェミニズム/セクシュアリティ議論は「社会構築主義」的視点を基準にしており、性ホルモン等の「本質主義」的視点を避けていることは指摘しておきますね)。

 

 *

 

ここ(メタではなくエモーション)の差異と、なかなかエモーションのレベルにたどり着けない動きの遅さが、男性ジェンダーの「生きづらさ」にもつながるように僕には思えます。

 

そこを突破するには、それら生きづらさを知った上で、日々の瞬間をどう肯定するかということに行き着き、その肯定のメカニズムを知ることで「つらさ」から抜け出すことができるんじゃないか、ということですね。

 

ここで話は、デリダが解読する、ジョイス『ユリシーズ』最終章で反復される「ウィ、ウィ」の議論にたどり着くわけです(『ユリシーズグラモフォン』)。

 

このウィを 大島弓子『バナナブレッドのプディング』的に言うと、「ミルクの差し出し」になるんですね(下記に添付)。

 

最初から他者を肯定し続けることで、いつのまにか「生きづらさ」が軽くなるんじゃないかという提言です。そしてここに「やさしさ」はどう関係するのか、というのが僕の最新の「問い」です🙏

 

 

 

※※※

 

 

 

 

ミルクを差し出す(adresser)

 

ライナスの毛布」は結局「ミルク」だった。正確に言うと、添付画面にある「さあミルクを飲んで」という言葉なのだろう。

高2の頃初めてこの作品(『バナナブレッドのプディング大島弓子)を読んだ時は、主人公三浦衣良が終盤、髪で顔を隠すこの行為は、自意識過剰が主たる動機だとてっきり思っていた。

今回『バナナブレッド』を再読してわかったのは、自意識過剰は過剰でも、より自己否定的な側面が大きいということ。

自分/主体を持て余すことからくる顔の隠蔽というよりは、自分のような主体はいなくなったほうが世のためになるという思い込みを主人公は抱えている。

自分は「自分」を放棄できないという諦めは受け入れるが、ただ、今のままでは生きていくのが難しい。死の手前にいる主人公が選んだ行為が、だから前髪で顔を隠すことだった。

 ※

顔を隠した主人公に救いの手を差し伸べるのは、『ライ麦畑』での妹のような近親者ではなく、主人公が淡い恋心を抱く先輩。

その先輩はミルクを差し出しadresser 、これを飲めば「心がなごむよ」と、ありきたりの言葉を投げかける。

そんな陳腐なシーンが『バナナブレッド』の山場なのだが、主人公は髪で顔を隠したまま先輩を見上げ、差し出されたミルクカップを握りしめる。

それまでの錯綜したコミュニケーションは、先輩のシンプルな言葉とミルクの差し出しという行為ににたどり着く。

 ※

よく考えると、主人公の周りにいる親友も両親も友人たちも誰もそうしたシンプルな行為(ミルクの差し出し)に至らず、全員「複雑でcomplexe」反復する諸行為で主人公を支えようとした。

その中で先輩だけがミルクを差し出す(adresser 他者へと向かう)。そのadresserは一方的コミュニケーションではなく、差し出すというその行為には、「受け取ってくれる」という先輩の確信が混入している。

先輩は、主人公が顔(自分)を隠すというその行為に責任をどこかで感じているが、その責任には、「このミルクカップを受け取ってくれる」という確信が同居する。

またミルクを差し出された主人公は、他者(幼少期の薔薇の木がメタファー)からまさか礼以上の言葉(存在の肯定の言葉)「好き」を言ってもらえるとは思いもよらず、思わずミルクを受け取る(現実のコミュニケーションとなる)。

その責任と確信、ミルクという偶然の他者の「現れ」が、大島弓子がたどり着いた、

「他者を支える」「他者に支えられる」

ということなのだと思う(以上はデリダの議論でもあります)。

これらは、僕が日々の支援で目指していることです😀

 

大島弓子『バナナブレッドのプディング』より



 

ミルクを差し出す(adresser)

 

ライナスの毛布」は結局「ミルク」だった。正確に言うと、添付画面にある「さあミルクを飲んで」という言葉なのだろう。

 

高2の頃初めてこの作品(『バナナブレッドのプディング大島弓子)を読んだ時は、主人公三浦衣良が終盤、髪で顔を隠すこの行為は、自意識過剰が主たる動機だとてっきり思っていた。

 

今回『バナナブレッド』を再読してわかったのは、自意識過剰は過剰でも、より自己否定的な側面が大きいということ。

 

自分/主体を持て余すことからくる顔の隠蔽というよりは、自分のような主体はいなくなったほうが世のためになるという思い込みを主人公は抱えている。

 

自分は「自分」を放棄できないという諦めは受け入れるが、ただ、今のままでは生きていくのが難しい。死の手前にいる主人公が選んだ行為が、だから前髪で顔を隠すことだった。

 

 ※

 

顔を隠した主人公に救いの手を差し伸べるのは、『ライ麦畑』での妹のような近親者ではなく、主人公が淡い恋心を抱く先輩。

 

その先輩はミルクを差し出しadresser 、これを飲めば「心がなごむよ」と、ありきたりの言葉を投げかける。

 

そんな陳腐なシーンが『バナナブレッド』の山場なのだが、主人公は髪で顔を隠したまま先輩を見上げ、差し出されたミルクカップを握りしめる。

 

それまでの錯綜したコミュニケーションは、先輩のシンプルな言葉とミルクの差し出しという行為ににたどり着く。

 

 ※

 

 

よく考えると、主人公の周りにいる親友も両親も友人たちも誰もそうしたシンプルな行為(ミルクの差し出し)に至らず、全員「複雑でcomplexe」反復する諸行為で主人公を支えようとした。

 

その中で先輩だけがミルクを差し出す(adresser 他者へと向かう)。そのadresserは一方的コミュニケーションではなく、差し出すというその行為には、「受け取ってくれる」という先輩の確信が混入している。

 

先輩は、主人公が顔(自分)を隠すというその行為に責任をどこかで感じているが、その責任には、「このミルクカップを受け取ってくれる」という確信が同居する。

 

またミルクを差し出された主人公は、他者(幼少期の薔薇の木がメタファー)からまさか礼以上の言葉(存在の肯定の言葉)「好き」を言ってもらえるとは思いもよらず、思わずミルクを受け取る(現実のコミュニケーションとなる)。

 

その責任と確信、ミルクという偶然の他者の「現れ」が、大島弓子がたどり着いた、

 

「他者を支える」「他者に支えられる」

 

ということなのだと思う(以上はデリダの議論でもあります)。

 

これらは、僕が日々の支援で目指していることです😀

 

※この記事(2024年1月28日)は再掲記事です。

 

 

大島弓子『バナナブレッドのプディング』より

 

チェンソーマンとイーロンにとっての孤独と概念

たぶん、大多数の人々には友だちが必要なんだろうが、イーロン的別次元の人にとって、価値・直感・知識・時間概念・思考対象の範囲等がなんとなく合う人に出会う可能性が極端に低いことを、少なくとも成人後以降は知っている。

 

加えて、大多数の「それ以外」に合わせるコミュニケーションの不毛さもよく知っているが、社会の中で生きていく以上またその社会を牽引する立場にいる以上、その孤独はポジティブに引き受けるものということもよく知っている。

 

才能の顕在化は、基本的に孤独が前提になる。

 

 *

 

この孤独こそが彼が異次元で生きている証拠かもしれない。おそらく大多数の人間を「現実」には彼は必要としていないのではないだろうか。

 

彼にとって、一般市民やシチズンという「概念」だけで十分なのでは? 幸福も同じく概念で、この「一般市民/人間の幸福」という概念を守るために、彼は日々生きているように僕は想像する。

 

チェンソーマンが悪の概念を食い続けるように、イーロンは人間の幸福という概念を守る👍

 

https://x.com/tanakatosihide/status/2020297935234437379?s=61&t=-kpPtx0lguzmY9L7mYCdww

https://x.com/tanakatosihide/status/2020290160353820898?s=61&t=-kpPtx0lguzmY9L7mYCdww

 

 *

 

そんな、「概念を食う」チェンソーマンの能力をマキマが解説した代表的な一コマがこれだ。

 

概念とある意味「闘う」哲学ではなく、倫理的に悪だと大多数が共有する概念については、ごちゃごちゃ言わず食う。

 

チェンソーマンは史上初めて哲学を哲学的に超えたマンガだと思う😀(『チェンソーマン』藤本タツキ作 10巻84話より)

 

チェンソーマン』藤本タツキ作 10巻84話より

 

LGBTQにしろSOGIにしろ、それらは人間が表象する「性」の現象であって、その現象を生む源泉の分析とは次元が異なる

男女二項対立をベースとするジェンダー議論は、多様な性を検討するセクシュアリティ議論が出てきたことで古くなっています。

 

けれども、そのセクシュアリティ議論も、LGBT議論として紋切り化し、またオートガイネフィリア(女装する性暴力男性)のような犯罪者の登場により混迷化の中にあります。

 

だからこそ、久しぶりに男女二項対立/ジェンダー議論に身を委ねようと思います。ジェンダーセクシュアリティに関するラディカルな問題は未だ解けてはいないなかで、あえていま「自分の中の男らしさ」を見つめることにどのような意義があるのでしょうか。まずは僕の専門分野でもある、「ひきこもる男たち」を題材に話し始めると思います。

 

そういえば、自分の前立腺癌体験をくぐり抜けてきて感じる、「性ホルモン」の問題にも触れると思います。すべての個体における、男性ホルモン/女性ホルモンの「含有率」と「分配率」に関して、ですね。

 

  *

 

セクシュアリティジェンダーをめぐる問題には、LGBT議論が熟することなくそこにQ(クイア)まで早急に入ってしまった是非も含まれると思います。

 

クィアとはそもそも、性革命や社会運動としての運動装置として、J.バトラーが『ジェンダートラブル』において唱えたラディカルな用語だったと記憶します。それを、ある程度コンセンサスを得ているLGBT(Tは若干Q寄り)に加えたこと自体、コンサーバティブな人々にとっては早急すぎたかもしれません。

 

こうした動きに見られる通り、ジェンダーセクシュアリティ議論は、社会運動におけるAgency的意味合いが大きく、その議論を行い実践することで、既存社会を「揺さぶる」という運動装置としての役割が大きいんですね。

 

 *

 

ここに、SOGI、つまり「性的指向(Sexual Orientation)」と「性自認(Gender Identity)」議論も加わっています。

 

SOGI は、LGBTQの急進性と現象的側面を補足するために導入された議論だと僕は理解しており、セクシュアルマイノリティ当事者や(活動家ではない)良心的フェミニストには受け入れやすいようです。

 

けれども、そのSOGI にしても、ある種の「内的現象」の分析が基準になっており、その基準のうつろいやすさがどうしても気になります。

 

つまり、LGBTQにしろSOGIにしろ、それらは人間が表象する「性」の現象であって、その現象を生む源泉の分析とは次元が異なるんですね。

 

 *

 

その次元/オーダーに入るためには、おそらく医学的生物学分析が欠かせないと思うんですが、この「生物にとって『性』とは何か」という本質主義的議論は、フェミニズム議論の初期の段階で否定されたと記憶します。

 

性を生物学として科学的に分析することは本質主義という「性の決めつけ」につながる(そもそも生物は雌雄二項対立から成る)ことから、セクシュアルマイノリティ的「グレーゾーン」が隠蔽される。

 

だから、本質主義を前提とする生物学は遠ざけ、文系科学である社会学を基盤にして単独的個人のあり方を尊重しようという、ここ30年の学問や行政のあり方も問われていると思うんですね。

 

今「ジェンダー」をあえて考えることは、それらも視界に入れることなんだと思います😀

 

 

 

 

 

ヤングケアラーが一見消滅した時代は過ぎ、「小さな労働者」は再び現れるのか

下の分析は主としてヨーロッパを対象にしており、近代化が遅れながらも寺子屋を中心に江戸時代半ば以降は高い識字率だった日本では、「小さな大人」+ヤングケアラー化は独自に発展したと推察されます。

 

いずれにせよ、「ヤングケアラーが一見消滅した高度成長期からの日本の40年程度」が過ぎ、近代以前から存在し資本主義黎明期にも見られた「小さな労働者が小さな労働者予備軍を育成するのが当たり前」の社会が現在、ではあるでしょうね。

 

 *

 

長く続く人間の歴史の中で、「子ども」が誕生したのは近代以降だとも言われ、それまで子どもは「小さな大人/人間」であり、稼働率の悪い労働者でした。

 

6才頃から働くのが大多数の人間の生き方であり、その労働は、まずは家事と、自分より年少の者たちの世話だったんですね。その頃までは、小さな労働者が小さな労働者予備軍を育成するのが当たり前でした。

 

言い換えると、子どもが子どもとして現代言われる子ども期を過ごせるようになったのは、この200年程度だということです(それは厳密には、近代国家を守るための「国民軍隊」創設と維持のためでしたが)。それまでは「ヤングケアラー」という小さな大人/プレ労働者として「人間」を開始することが普通でした。

 

 *

 

そう考えると、ヤングケアラーが一見消滅した高度成長期からの日本の40年程度が逆に異常で、現代はそもそもの資本主義社会がその荒々しさを剥き出しにしただけ、という覚めた見方もできますね。

 

またヤングケアラーという造語の使用は、上に書いたような社会構造の決定論をスルーできる便利さもあります。

 

今時「資本主義批判」は確かに古いものの、民主主義と同じように消去法的にしかそれを選べない資本主義にとって、そもそもの構造的欠陥を指摘しつつ、それの漸進的改革を行なうのが、資本主義のある種の宿命だと僕は思います(その意味で「革命」は不可能なのです)。

 

このミニフォーラムは、社会を支える児相等の行政機関の取り組みを愚直に聞くという点で、その漸進的改革の出発点になる試みです。まずは「ヤングケアラー」を行政がどう捉えているか、そこの確認がこの社会にとっては重要だと、僕は考えます😀

 

お申し込みはチラシQRコード(保存後タップ)か、以下からお願いします🙇‍♂️ https://docs.google.com/forms/d/1PjUUWm1DPSEC_tbv3o9K0i-rp7bs4pg2AZOEEw160K8/viewform?edit_requested=true

 

 ◼️◼️◼️

 

さあ、2026年の啓発活動の開始です♪ トラウマインフォームドケアやACEをここ数年考えてきたドーナツでは、あらためて「こどもの権利」について真正面から取り組んでいきます😀

ここではドーナツとしては初めて、「ヤングケアラー」問題を公式に考えます。

格差社会化した状況の中で、貧困問題の具体的課題であるヤングケアラーのような「新しい当事者」への支援は、どの時代も行政や公的機関が担うんですね。

ここでは、大阪市児童相談所や区の公的機関(住吉区CSW住吉区事業・平野区「青春」事業等)、府の教育機関(高校内居場所カフェ)などで出会う、ヤングケアラー的子どもたち若者たちの一般像を共有します。そして、それぞれの公的「現場」での賢明の取り組みに学びたいと思います。

お申し込みはチラシQRコード(保存後タップ)か、以下からお願いします🙇‍♂️ https://docs.google.com/forms/d/1PjUUWm1DPSEC_tbv3o9K0i-rp7bs4pg2AZOEEw160K8/viewform?edit_requested=true