tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

「起源の善意」が腐敗していった〜「劣化する支援」の系譜学

11/25東京・中野の至誠館大学にて、「オカネはNPOを変えるのか〜NPOのイメージの変遷」というテーマで議論しました。

 

その議論内容は、ここ5年ほど続けてきた「劣化する支援/NPO」の本格的まとめになったので以下に記します。

 

◾️「共通体験」が「支援の専門性」を凌駕した

 

まず、NPOという仕組みについて、制度的な初期のポイントは、「2つの共通体験」だと指摘しました。

 

一つは、「震災(阪神と東日本)」という共通体験。

 

もう一つは、「究極の就職氷河期」という共通体験。

 

この二つの共通体験が、支援の「専門性」を凌駕したのでした。

 

世紀の変わり目頃の、大自然災害と経済災害(あの過酷さは「災害」でした)という二つの「災害」が、専門的支援を凌駕してしまいした。

 

順番的には、阪神大震災就職氷河期東日本大震災と続きました。

 

社会現象とそれらは連動し、①阪神大震災後にNPO法ができ、②就職氷河期に同時に「起業ブーム」と「社会貢献ブーム」が起き、③東日本大震災時に②が強化されました。

 

理論上の専門的支援よりも、あの過酷な共通体験に基づいた「素人性による共感」のほうが説得力を持ったのでした。それと、法律ができたばかりのNPOという仕組みが重なった。

 

我が国の場合、この2つの共通体験こそが、ソーシャルセクター/NPOの基盤になったのでした。

 

◾️素人的サービスが善である

 

それをもとにして、「素人的サービスが善である」という認識が共有されました。その一つがボランティアによる支援です。

 

ボランティア的な学生主体のサービス(不登校予備軍学生へのかかわりスタッフ等)が受け入れられた背景には、「専門性への疑問」のような雰囲気があり、学生の持つ素人性のようなものが歓迎されされました。

 

これがNPO法成立直後〜ゼロ年代初期だと思います。

 

だから、初期の子ども支援系NPOには学生ノリが多く、「起業ブーム」とも重なって、これがむしろ歓迎されました。

 

若者への就労支援も、多少の専門性は必要なものの、どちらかというと「頼れる大人」要素のほうにニーズがありました。

 

いずれも、その基盤には、2つの震災と超就職氷河期という決定的な共通体験があったと思います。

 

◾️発達障害児童虐待の登場

 

ところが実は、おそらく発達障害が問題化したゼロ年代半ば頃から、そうした共通体験に基づいた素人性はむしろ邪魔になってきてもいました。

 

楽しい居場所づくりだけでは、発達障害当事者が傷ついてしまうからです。

 

これに加えて10年代から児童虐待の問題が表面化し、愛着障害PTSD 等の知識なしでは関わりが難しくなってきた。

 

つまりは、NPO業界にも一定の専門性が必要になってきました。たとえばドーナツトークは7人程度の小規模団体ですが、PSW2名と看護師2名が含まれます。

 

◾️「公金サービス」には専門性が欠かせない

 

加えてそこに「公金」が絡むようになりました。

 

これは先日の住吉区フォーラムでも出た話題ですが、「公金サービス」は、サービス利用者を選別することができない、つまりは「オープンサービス」でなければいけないということを意味します。

 

あらゆる子どもをまず受け入れる(アウトリーチする)には、子どもの問題について専門的知見が欠かせないんですね。

 

その専門性があって初めて、オープンサービスは成り立ちます(情報とアセスメントと目標設定を可能とする←これが戦略的ソーシャルワーク)。その支援施設で受け入れ可能かどうかの見極めにも、専門性は必要です。

 

ところが現在は、①未だに素人性の功罪を分析できず、②アセスメントや目標設定にも慣れておらず、③「公金」がなくなったらさっさと退場する、等の事態が横行している。

 

◾️「素人性と専門性の交代劇」にNPO側が適応できていない

 

「お金がNPOを変えた」というよりは、「NPOがお金のレベルについていってない」というのが現実でしょう。

 

NPOとしては、「今まで散々奉仕してきたのだから、これからはその分を取り返す」的な、怨恨要素で開き直っているのでしょうが、発達障害PTSDのシリアスさと完全に離反しています。

 

子ども若者支援NPOの「系譜学」は、このような「素人性と専門性の交代劇」にNPO側が適応できていない、という点を含むのでは? と思います。

 

子ども若者のシリアスな状況が、そもそもの支援のあり方(一定の専門性が必要)を浮かび上がらせてきましたが、初期のボランティア的関わりの印象が未だに強烈で、NPO側が専門化することを阻んでいる。

 

素人性が当事者の困難さを隠蔽するという逆転現象が起きていると思うんですね。

 

フーコー的権力の転覆(キリスト教信者の当事者性を、一見弱者ぶった権力者である神父が隠蔽する)が、現代の子ども若者問題にも起こっているのではないか。

 

「劣化する支援」とはつまり、「事後的」に生じた表現であり、そもそもの起源としてはその素人性は歓迎されたイメージでした。

 

その歓迎されたイメージも20年経ち、いつのまにか隠蔽装置として機能しています。素人性は現在、発達障害PTSD等の当事者の苦しみを「隠蔽する力」になってしまいました。

 

以上はいわば、「起源の善意」が腐敗していったと言い換えてもいいでしょう(^o^)

 

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