tanakatosihide’s blog

一般社団法人officeドーナツトーク代表、田中俊英のブログです。8年間Yahoo!ニュース個人で連載したものから「サルベージ」した記事も含まれます😀

グラドル保育士の、園児への破壊的暴力

タイトル: グラドル保育士の、園児への破壊的暴力

公開日時: 2019-06-09 12:59:01

   概要文: 性的イメージを子どもの世界に持ち込む時、以上のような激しい危険性を伴なう。子どもは自らの生存戦略のため身近な大人を守る。大人がどれほど倫理観を欠如した行ないをしたとしても、子どもは大人を擁護する。

  本文:

 

 

■アルバイトで「グラドル 」

 

自分が通う保育園の保育士さんがアルバイトで「グラドル 」をやっており、しかもその写真やビデオはグラビアというよりはほぼポルノな表象だった時、子どもたちにとってその作品群はどんな意味合いがあるだろう。

 

大人にとっては当然、好奇の目だったり批判の対象だったりする。

大人ではなく、「ポルノ」の意味がわからない子にとって、これはどういう意味になっているのだろうか。

 

これは、幼児への性的虐待にも通じる話だと思う。

性的虐待を行なう側にとっては、そこでは倫理的規制はまったく働いておらず、自分の欲望に忠実なのであろう。加害者が10代だろうが(きょうだいやいとこ)成人だろうが、幼児や子どもへの性的暴力という衝動を素直に受け入れ、欲望そのもので動く。

 

一般の倫理観からすれば醜悪極まりない行ないである。

が、性的暴力・虐待の加害者は、その暴力の最中には倫理観が吹っ飛んでいる。児童虐待の種別割合では、性的虐待は2%程度を占め、厚労省発表では1540件にのぼる(http://www.orangeribbon.jp/info/npo/2018/09/29-3.php 厚生労働省 平成29年度の児童虐待対応件数等を公表)。

 

冷たく数字で示され突き放され、それが2%程度の少なさであるものの、あらためてその冷たい数字を凝視してみると、年に1540人もの性的虐待の被害を受けた子どもたちがいる。

 

性的虐待は、虐待の中でも倫理観の著しい欠如という側面を帯び、暴力そのものがもつ暗さに加え、人間は2%程度はそうした徹底的な「暗さ」を抱えているという意味で、二重の暗黒さを帯びる。

 

■子どもは大人に合わせる

 

また、1540人の被害者全員がどうかはもちろんわからないものの、性的虐待も他の虐待と同じように、「親しい人々(父親・義父・兄・いとこ等)にそうした行ないをさせてしまった自分が悪い」という徹底した子ども自身の自己否定を呼び起こすともいわれる。

 

その行ないそのものは、被害者の子どもにとっては意味不明だろう。が、その意味不明であるものの多くは身体的痛みを伴う行為が生じてしまったのは、悲しいことに、被害者である子ども自身が誘発したと子どもは考えてしまうようだ。

 

大人はいつも忘れているのだが、基本的に、子どもは大人に合わせる。

それは、大人の行為や発言に合わせることが、子どもにとっての「生存戦略」だからだ。自らが生き残る=サバイブするためには、弱い自分の力だけではどうしようもなく、強い大人たちや年上の人間たちに「合わせて」いくことを無意識的に選択する。

 

だから、大人に求められれば、子どもは基本的にはその求めに従う。

従った結果、行為者の大人が社会から責められることになった場合、その「合わせ方」のやり方がまずかったんじゃないかと、子どもは自分自身を責める。

 

私が信頼する◯◯さん/ちゃん(多くは身近な大人)が捕まったのは、私の「合わせ方」が下手だったからだ、というような絶望的思考回路がそこでは働いている。

 

■「妖艶」で「エロい」姿態

 

そのような思考を取りがちの幼児の心理状態を考えた時、身近な保育士の「せんせい」が、一般的価値からすると「妖艶」で「エロい」姿態でくねくねし、その妖艶なくねくねを何らかのかたち(たとえば親がうっかり閉じていなかったスマホの画面から)で接した時、どういう気持ちになるだろう。

 

また、そうした姿態がなぜか社会から咎められ、その「せんせい」が自分たちの通う保育園からいなくなった場合、子どもたちはどんなふうに感じるだろう。

 

想像に過ぎないものの、自分たちのせいで「せんせい」は保育園に来れなくなったと思うかもしれない。あの、小さな小さな水着を着て、よくわからず変わったポーズをとり、それがなぜかまわりの大人たちから批判されいつのまにかこの保育園に来なくなったあの「せんせい」を、守ることができなかったのは自分たちだ、と思うのかもしれない。

 

また、あんな寒そうな姿でこっちを見て笑っている「せんせい」がなぜいじめられるかわからない、と思うかもしれない。

 

その姿を「性的イメージ」としてまとめることができるのは、大人たちだ。それにまつわるさまざまな議論も大人たちが行なっている。

子どもにはその女性の姿態は、強烈なインパクトはあるものの意味不明なポーズとして訴えるだろう。そして子どもたちは、そのポーズをとっているのが自分たちの「せんせい」で、その「せんせい」が好きな場合、なんとかしてその「せんせい」を守ろうとする。

 

性的イメージを子どもの世界に持ち込む時、以上のような激しい危険性を伴なう。子どもは自らの生存戦略のため身近な大人を守る。大人がどれほど倫理観を欠如した行ないをしたとしても、子どもは大人を擁護する。

 

だから大人は、子どもに甘えてはいけない。それがたとえ諸事情で「水着」にならなければいけなかったとしても、この場合も、「最も弱い存在」は子どもだからだ。

 

最も弱い存在の利益を優先することがソーシャルワークの第1原則であるとともに、まあ「ヒトの倫理」でもあるでしょう。

保育士が際どいグラドルのアルバイトをすることは、以上のような意味で破壊的な暴力であり、園児への混乱と、園児の大人への依存の利用と、その依存に乗った犯罪者たち(性的虐待の加害者)の欲望への手助け、という側面をもつ。

 

 

※なお、当欄は個別の法人や個人を批判する場ではなく、「出来事」をできるだけ一般化して問題提起することが使命だと思うので、以上の問題の固有名(グラドル保育士の雇用先NPO名)は避けている。